玄関の方から隠れるように戸を開く音が聞こえた。日和の寂しさの大因が帰ってきたようだ。

「おかえりなさい」

 日和が声をかけるが返事はない。代わりにのろのろと不満げに足音を立てつつ彼はこちらへ向かってくる。

 直ぐに一人の男が二人の前に現れた。髪は短く切り揃えられ、学ランは確りと着用している。が、反抗期というには些か明確に過ぎる敵愾心を発する少年である。確か今年高校二年だったかと生哉は記憶している。彼は自分の一個下の日和の弟である。

「何か用でも」

 生哉の前に盾になるようにして立っている日和に短く吐き捨て「夕飯、外で食ってきたから。夕飯いらない。水だけ飲む」と続けた。

 日和が消沈していくのが彼女の背中からも分かって了った。生哉は男が羨ましかった。彼の弟は家族であるというたった一点にのみ頼ってこれほどまでの無法を通しているのである。日和と家族である、というこの一点に依って、彼の無法は悉皆許されている。

 日和は「あ、うん」と言い、慌てて台所に移った。足取りは重く、なんぼうにも哀れであった。

 弟は生哉に一瞥呉れてやるなり小さく溜息を吐いた。その表情は不機嫌そうであった。また一方で助けを求めているようでもあった。彼はすぐに視線を反らし、姉の後を追った。

 どうしてあんなにちぐはぐな態度を取れるのかと腹立たしく思った。日和の心労、分からぬはずがない。正面から日和を見据え、労苦強いる彼に分からぬ道理はない。何度指弾したいと思ったことか数知れぬ。しかし男は日和の家族だ。彼女が受け入れる者を他人が排斥し得る筋合いがあろうはずもない。

 廊下の電灯は点いておらず暗いままである。この暗がりの向こうに二人の声が聞こえる。あの日、生哉の家族を飲み込み奪っていった墨黒とは違い、大人しく頼りない暗がりである。たった一点さえあれば思い煩うことなく口出しできるのにと歯噛みしたことも数知れぬ。

 生哉は灯りを点けぬまま、攻めてはと思い二人の後を静かに追った。足を踏み出す度に軋む床の鳴き声も今は全く気になりはしなかった。

 二人は卓袱台の近くで言い合いしていた。男は大分面倒臭そうな顔をしている。日和は努めて笑顔で――もう見飽きた。口角を持ち上げることばかり意識していて眉は八の字に眉間により、僅かに及び腰のなんとも哀れな笑顔で、「あのね、夕飯がいらない時は連絡だけでもして欲しいの」と懇願するように言っているところであった。

「気が付いたらするよ」

 弟は目一杯口を開いて言い放つ。

――あれは図体ばかり大きい子供なのだ。少しでも機があれば我が儘を言わずにはいられない子供なのだ。

「なに」

 生哉の現れたのを認めると途端に声の調子が小さくなった。聞こえるか聞こえないかの愚痴をこぼしながら男は居間を辞して了った。

 生哉は思わず拳を作り、この幼き男の背中を睨みつけ、結局口出しも手出しも出来なかった。

 部屋の内が静かになると、本当に小さく日和が溜息を吐いた。この小さな溜息が微かに震えを帯びているのを生哉は聞き逃さなかった。悔しいのか悲しいのか、彼女の笑い顔からは判ずることができなかった。

「ごめんね。お茶飲もっか」と生哉に尋ねた。日和は答えを待たずに二人分のグラスを用意して麦茶を注いでいる。心なしか疲労の色が濃く見える。

 また一つ、形にできなかった言葉を生哉は皮下に押し込めた。

「自分自身でどうしようもないことを自分の責任と背負い込んで謝るのは止めてくれ。他人の行いにまで責任を持つことなんて傲慢だし、謝られる方の身にもなっておごらんよ」

 全く、自分自身に言い聞かせてやらねばならぬ言葉であった。代わりに「うん。風呂は後で頂戴するよ」とだけ答えて、卓袱台の脇に腰を降ろした。

 二人は向かい合って麦茶を啜った。口にしたい言葉はいくらでもあったが、双方何も口に出来ぬまま只時間が過ぎるのに身を任せていた。

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