日和が生哉を呼ぶときは凡そ、風呂が空いたときか夕餉の支度を終えた時かのいずれかだ。どうにも男の傷心を慮って、数年前のように接することが出来なくなって了ったらしい。

 生哉が居間へ降りると卓袱台の上に夕餉が三人分並んでいた。白飯、白子と大根卸しに醤油をかけたもの、キャベツの千切りに申し訳程度に蟹蒲鉾が乗ったサラダ、とどうにも質素な具合の食事が三人分用意されている。

 温かな食事にありつける幸福と、不労の身に余る禍福に居罪悪感を覚えながら、やはり我が身は可愛かった。時折誰に向けるべきかも分からない謝罪の言葉が口を突いて出てきそうになる。しかし、この言葉は日和の気遣いに対する冒涜に成りかねないことは頭の足りぬ生哉にも理解は出来ていた。

 かつて一度のみ「こんなにも役に立たない人間に過分な施し、どうしたって申し訳ない」と口にしたことがあった。無論、日和に叱られて了った。「役に立つから貴方のことを助けたのではない。只貴方が困っている時に助けたいと思うのが人情でしょう」という具合である。

 日和と彼女の父の施しは有り難かった。彼等の情けに依ってこの命は長らえているのだと不断から憶えている。が、どうしても自分が彼等の厚意に甘えて了うのは許されべからざる行為であるという意識はついぞ絶えることはないままである。

「さ、食べましょう」

 日和が座り、促した。生哉は日和の座った向かいに腰を降ろした。丸い木製の卓袱台は古ぼけてくすんだ色をしている。

「嘉和伯父さんは」と尋ねると「今日は仕事で帰れないって。さっき連絡があった」と答えた。寂しそうに微笑んで。

 二人、座して飯を食いつつテレビを見るとなく眺めていた。二人切りで食事をする時分はいつも静かで物寂しい。互いに「何を話せば良いか」と考える余りに黙考ばかり先行しいつも居心地の悪い沈黙に満たされて了う。見るわけではなくともテレビでも点けていなければ双方まともに食事も出来そうにない。

 生哉の食事はとにかく早い。三分か、長くとも五分あれば何もかも平らげて了う。何も彼が生来の早食(はやじ)きだ、というのではない。彼は物を噛まずに飲み込んでおるのだ。肩身の狭い身の上、せめて咀嚼音で不快にさせまいとするうち、全く物を噛まぬようになって了ったのである。自分で自分の咀嚼音の大小は分からぬ。分からぬのならば無くせば良いというのが彼の得た解法であった。それは彼を心労から救いはしたが胃凭れか胸焼けか、四六時中の不快感を与えることとなった。皮下に渦巻く不快が気に掛かりはするが、人に自分の咀嚼音を聞かせるくらいならば余程堪え得るものであった。

 食事時、日和はいつも寂しそうである。顔は笑っているのに一挙手一投足から物寂しさが溢れ出ていた。生哉の早食きが彼女の寂寥の一因であるのに相違ない所であるが、大因は別にある。

 努めて笑顔する日和を見るに付け、どうにか彼女の心を寒からしむる主因を除きたいと生哉は考えるが、自らが原因であることもあってか只黙して、せめて彼女と目を合わせぬようにするばかりである。

 代わりに男の視線の先にあるのは食い手のない食事である。今晩は帰らぬ嘉和の物とは分けてもう一人前ひっそり佇む食事である。彼女の寂しき笑顔の主要因はここにこそある。

 突如、生哉の身の毛が総立ちになった。箸を取り落とし、白飯の未だ残る茶碗さえ乱暴に叩きつけ周囲の様子を伺いだした。心臓は拍動を早め、下手をすれば息継ぎの仕方さえ忘れかねない忘我に陥る。

 家の軋む音を生哉は確かに耳にした。小本の家は大分古い木造である。気温や湿気の影響に家鳴りなんぞするのは仕方のないことである。点けっぱなしのテレビには緊急地震速報の影もない。どうやら只の家鳴りに過ぎなかったらしい、というのは生哉にも直ぐに理解できた。それでも、脳裏には次々に像が浮かび、浮かんでは沈み、沈んでは浮かんでくる。やがてナメクジの群生したような弾性のある白い塊が軽トラックの窓越しに見えたとき、生哉は堪え得ず厠へと急いだ。

 慌てて日和も彼の後を追う。グラス一杯の水と手拭いとを持ち、開けっ放しの戸の前に立った。生哉は灯りを点けぬまま、便座に多い被さる具合でいる。

 日和は灯りを点けて彼の傍らに屈み、その背をさすった。「大丈夫」なぞとは尋ねられやしなかった。

 生哉は己の軟弱を呪った。微かな物音に心身驚かし、制し切れない自分が情けなかった。この体たらくでは日和の寂しさを除くことなぞ出来やしない。

 喉の焼ける感覚、身体中に及ぶ倦怠感、堪えつつ「すみません」と生哉は口にした。日和が「うん、うん」と応えつつ汗を拭って呉れる。

 日和の用意してくれた水で口を漱(すす)ぐと幾分の清涼を得た。

 便器の内を見ると、先程食ったものが殆ど形を崩さずそこにあった。――噛まずに飲み込んだからな――と、益もないことを思いながら、さっさと水に流した。吐瀉物は姿を消して、直ぐに元の通り透明の水が便器の内に満ちた。

「嫌な汗かいちゃったね」

 気遣いの言葉を口にしつつ日和が汗を拭って呉れた。

「度々心配させて了ってすみません」

 日和は小さく頭を振った。吐瀉物の饐(す)えた臭いと、日和の髪の古紙――いや、古書の香が混ざり合った。

――また寂しそうな顔をさせて了った。

「お風呂に入って来たらどうかしら。少ししたら汗が気持ち悪くなるわ。喉も辛いでしょう。冷蔵庫に杏仁豆腐があるから後で食べましょう」

 過分な深謝が日和を寂しくさせるのと同じに、彼女の過剰な気遣いが生哉を萎縮させてしまっているのに娘はまだ気付けぬままである。そうして生哉は「うん」とし返せず、また日和も言葉を失うのである。

 二人の喉元にはいつも形に成らぬ「言葉」が蟠っ(わだかま)ている。蟠りの正体は二人には未だ掴めないままである。皮膚の内側をぬらぬらと渦巻くばかりだ。一穴あれば忽ちの内に肉の薄膜を皆破り、吹き出して止まぬ思いがあるのに道理に適わぬという理屈が口に蓋して押し黙らせる。

 いつまでもこんな生活に徹していればいいんだ!

 また一つ、言葉を飲み込んだ。また一層、皮下の澱は圧力を得て頑強さを増して歪な形になって了った。

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