生哉に宛行われた階段を上がって直ぐにある。六畳ばかりの板間には書き物机と四つ足の椅子、部屋の隅には寝具が一揃え纏められている。彼の物と言えるのはこれくらいである。チェスト、化粧台、クロゼット、いずれも日和の母の物である。日和の亡母の部屋を間借りしているのである。

 居間には居難い。かと言って炎天下に留まれば直ぐに倒れる。普段から居座っている図書館は六時には閉まる。せめて小本の家の居心地を良くせんと、自らの食い扶持と家賃のためにバイトをしようとしもしたが「そのような理由ではバイトの許可はしたくないな」と、家長であり、伯父である小本嘉和がいい顔をしなかった。自分の居場所を散々に悩んだ挙げ句持ち主のない部屋を一時得るに落ち着いた。

 身は落ち着きはしたが、心は今も小波(さざなみ)立っている。この部屋には未だ、日和の母の痕跡が色濃く残っている。クロゼットの位置やチェストの高さ。彼女の母の具合の良いように誂えられており、あたかも部屋そのものから拒絶されているかのような心境に陥って了う。家具ばかりでなく床も壁も皆一様に生哉に用いられるのを拒んでいるように感じられた。

 自然と生哉の物は机に収まる程度に留まり軒先を借りるが如しと成って了った。日和や彼女の父である嘉和に「遠慮せず使って貰わないと」と心配されるくらいである。

 生哉は椅子に浅く腰をかけると机の上から万年筆と手製のメモ帳を取った。メモ帳なぞと言っても随分と粗末なもので引き札や書き損じを切り揃え、二重クリップで留めたものである。万年筆は日和が呉れたもので、海の藻屑に成らずに済んだ、今は数少なき生哉の私品である。貰った当初は何とも思っていやしなかったが、今となっては死地を同じくし、愛おしささえ覚える。どうやら頼り甲斐さえ覚えているらしかった。メモ帳を捲ってやると、図書館の燕について「燕、巣、作っている」「巣、完成か」「赤首、短か尾、夫婦か。性別わからず」と数々記してある。

 二羽の翼は長さの割りにはいたく細い。よくもあんなに細い翼で海を越えられたものだと感心した。或いは波間に漂う木片を頼りにするのかも知れない。今年は海面に大きな木屑が多くあったろう。なんとも皮肉めいた考えであるが、こうして悪態吐けるのも一種の回復であるのかも知れなかった。

 メモ帳には「雛、三羽見える」と記した。「赤首、短か尾、自由自在に空を往く」とも付記した。不図、「自在と」という言葉に意識が割かれた。さも自らの肉體(からだ)一つを根拠に自分を認めているような字面に思われ、大層羨ましくなった。自らを由とし、自ら在る燕等と生哉自身を比較して惨めな思いさえ覚えた。在居を失い間借りする自らは実に自然の有り様に反していると思えて成らなかった。

 小本の家は大変に好くしてくれている。他家に学費を任せないとて固辞する生哉を半ば無理矢理に九月の頭からは地元の公立校へ通えるよう、編入まで手引きして呉れており、何の不自由もさせまいとして呉れた。しかし、道理に適わぬと生哉は却って居心地が悪くなってしまう。

――何よりもまず自立せねば成るまい。

 生哉の思いは今日の燕の栖を(すみか)見て増々強まった。自分が飽くまで小本に守られている存在に過ぎないことを恥じ、早く彼の燕等の如く自らの居場所を設えて見せる必要を感じていた。

 不図、気がつくと階下より日和の生哉を呼ぶ声が聞こえていた。

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