谷中の家は享徳の頃より伊勢原の土地にある豪農の家である。明治期になると伊勢原一帯の測量と地図の作成、戸籍の管理に尽力したという記録も残っている、近隣の誰しもが一目置く大家であった。が、こと、現代に至ると牛舎二棟と三反の畑を残すのみとなって了った。というのも明治の頃の家長が人が好い、というよりは文字通りの田分者であったためである。噂によると谷中の家は田畑を手放すや手放さんやの際に立っているくらいらしい。

 小本の家は谷中の分家筋であったが、土地を分けて貰ったぎり付き合いは余りなく、建てた家の間取りが矢鱈にゆったりしてしている他は平凡なものである。

 この家の娘である小本日和は生哉を伴って仕事より帰ってきた。自宅より徒歩二十分ばかりの道程で、大分汗をかいて了っている。すっかり夏めいてきた具合である。

「ただいま」

 錆のために随分と重く、また耳障りな高い音で鳴く引き戸を開けながら日和が言う。家の中は真っ暗である。日和の尻でも追いかけるようにして「どうも」と小さな声で、なんとも中途半端な挨拶しつつ生哉が続いた。自分の家でもない所に「只今帰りました」と言うのはなんとも不釣り合いに思われた。「お邪魔しますよ」というのも自然には思われず、結句「どうも」という言葉の他を得られなかった。そもそも、生哉からすれば小本の家に世話になっていることそのものが不自然極まりないことのように思えてならなかった。

 生哉は玄関に入ってすぐに足が止まった。奥へ往くほど輪郭の得られぬ暗々とした屋内にあの日の海を思って足が動かなかったのである。生哉の背に俄に汗が滲んだのは、日が傾いて猶下がらぬ気温のためばかりではなかった。薄ぼんやりと靄がかる黒色の向こうの白壁に、努めて目に入れぬようにした軽トラックの窓の内の、弾性のある、ぬらぬらした白い塊を想像して汗をかくのである。

 やがて灯りが点くと、白壁は電灯の光を映して微かに黄色になっていた。漸く履き物を脱ぎ、家の奥へと上がることができた。情けないことにあの海に近い色を認めると落ち着き得ぬ身となって了ったらしい。居間へ入ると一段と濃い湿気が顔を撫ぜた。

「今、エアコン入れたから」

 六畳の部屋を二つ繋げたような奥に長い造りの居間には冷房が一台あるきりで、いつも部屋を涼しくさせるのに時間がかかった。居間の畳は最後に換えたのはいつのことなのか分からぬくらい古臭く、また、毛羽だている畳が敷かれている。

 生哉はいつもこの藺草(いぐさ)の上に寝転びたいと思っている。俯せになり、畳に鼻先を擦り付けて、青みのすっかり失せた使い古しの香を肺いっぱいに満たしたかった。小本の家に世話になりだしてから一度たり絶えた試しのない欲求であった。しかし、一遍たりともそうはしなかった。自分がそうしても許される、或いはしても構わない畳は皆、乱暴な潮の香を帯び、決して生哉の求めるものは得られぬと分かっていた。

「暫く部屋の方へ往っています」

 日和は、身を翻して居間を去る生哉の背を見つめつつ、眉を八の字に寄せて、困ったように微笑んだ。


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