一部
◆
伊勢原市立図書館を自らの居場所と定めたのは夏の口のことである。明け透けに言えば空調が利いており快適な上に入館料が取られず、体にも財布にも心地よいというだけのことである。
館内の奥の畳敷きの一角に帳面を広げ、万年筆を紙面に滑らせている彼の男は島中生哉である。卓(つくえ)の上には野鳥図鑑、日本の歳時記、故事成語辞典と積まれ、今卓上に広げられているのは日本の染め物ビジュアル百科である。内容の統一が全く考えられていないように見えるが、この中心に座しているのは割り方身近なものである。それは最近この図書館の玄関のその脇の影、壁を這う雨樋のさらに奥まった所に居を構えている。
彼等について特別の興味がある訳ではない。只、持て余した時間を呆けて過ごすのも気に食わず、徒に気に掛かったことを調べて遊んでいるのに過ぎない。
図書館というところは蔵書を守るために室温を商業施設の如く矢鱈に利かせたりせず、また湿度の管理も行っており書物ばかりでなく人にも優しい。夏場になると図書館に避暑する人も多くある。さりとて、生哉が図書館を居場所に選んだのは先の理由ばかりではない。
日本の染め物ビジュアル辞典を閉じると、本の厚み分、俄に大きな音が立った。一息吐(つ)いて生哉は畳に寝転がろうとして――館内での昼寝、寝そべるなどの行為はご遠慮ください――という注意書きを見つけて止めた。
気が付くと、外は未だ明るいが時刻は閉館時間に迫っていた。仕方のないことである。炎暑に出るのは気が滅入るが、職員でもない自分が閉館後もここに居座るのは道理ではない。
図書館の外は簡単な広場になっている。煉瓦のプランターに沿うようにいくつものベンチが軒を連ねており、その果てには三台の自販機が並んでいる。自販機の更に向こうが駐車場兼、駐輪場である。生哉は図書館を出ると、いくつかあるベンチの内図書館を正面に眺めることの出来る物を選び腰を降ろした。未だ十歩も歩いていやしないのに見る見る汗が滲んできた。
彼は入館口の脇の更に奥に居を構える一家(いっか)を眺めていた。
緑色の艶のある紺の背中に、色づいた紅葉のような首、横に広く開けば菱形になる嘴、すい、と伸びる尾は長くしなやかである。随分とこぢんまりとした巣であるが、燕の一家がここに生活を営んでいた。巣の淵に雛の顔が三つ見えた。まだまだ産毛ばかりで毛玉のようだ。成鳥が二羽、巣を往き来し、餌を与えている。親らしき二羽の見分けは最近つくようになった。片方は首元が鮮やかな赤色をしており、もう片方は尾が幾分短かった。生哉はそれぞれ赤首(あかくび)と短か尾(みじかび)、と名付けて見分けていた。
赤首と短か尾が営巣をしたのは生哉が伊勢原に来た頃のことである。同時期に寒きを避けて住まいを変えた彼等に共感とも親近感とも言えぬ思いを抱き、以来彼等の生活を眺めるのが日課になって了った。
赤首が五度、短か尾が六度の往復をし終えた頃、図書館の職員通用口から一人の女性が現れた。肩胛骨まで伸びる黒髪は、就業中一つ結びにしていたために変に波打っている。白のブラウスに丈の長いベージュのスカートを合わせている。彼女は生哉の近くまで来ると、「お待たせ、それじゃ帰ろうか」と言って微笑んだ。彼女の微笑みは、どうしてか笑顔なのに全く嬉しそうでないのが生哉には面白くなかった。
生哉は黙して立ち上がると、先を歩く彼女の後を着いて歩いた。暫くすると後方に、小燕の餌を強請って鳴く声が小さに聞こえた。
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