第209話 エピローグ1

 明たちは、キャロルとの戦いが終わった後、陰陽寮の屋上へ戻っていた。

 決闘を見せてくれたお礼だと、神々がそこまで神の御座から道を繋いでくれた。神々が相手を称賛して送るなんて珍しい行為をしたことに明は本気で驚いていた。いくら珠希がいるからといって、そこまで親切な存在ではない。


 「婆や」が待っていた屋上に着いた時には本当に何も悪戯することなく送ったことへもう一度驚いていた。

 だが、問題が一つ。敢闘賞を与えてもいいキャロルは治療されることも体力の回復を待つこともなく放り出されたために、屋上の床にしゃがみ込んでいる。

 時刻は既に夕方を過ぎて陽はもうほんの僅かな時間で沈みきる。しかも天気が悪いようで分厚い雲が辺りを埋め尽くしていた。


『お帰りなさいなのじゃ。うむ?そこの少女、大丈夫かの?』

「治療したくても俺たちの治癒術は霊気を介したものだから治せなくてな。ミクや『婆や』ならできるんだろうけど、頼んでいいか?」


 珠希に任せても良いのだが、珠希は帰る前に神々にたくさんの祝福をもらってしまっていた。そのせいで今は気質がとても神に近付いており、下手をするとキャロルが神気を得てしまう可能性もあったのであちらでの治療を諦めていた。

 「婆や」は明の言葉に了承。キャロルに近付いて治療をしようとしたが、キャロルが手で制す。


「良いわ、治さなくテ。傷も深いものじゃないし、体力なんて休んでいたら戻るもノ」

「……だからって屋上で休むことはないと思いますよ?なんだか雨も降りそうだし」

「アキラは乙女心がわかってないわネ〜。勝負に負けた上に振られた女の子をそっとしておくこともできないわケ?」


 キャロルが茶化すように言ったことで、明は苦笑するしかなかった。キャロルが気にしていないような口振りで安心したこともあったが、どうやら彼女は一歩進めたらしい。

 神々の診断で呪いの進行もピタッと止まっている。彼女が男に置換されることはないと断言してもらえて一番心配だった事柄が解消されたことが大きいのだろう。


 それに明の眼からしてもイブの過干渉は止まっているように見えた。これからくる困難も彼女が手にしたものを存分に使えば苦労はしても苦戦はしないとわかったことは大きい。


「じゃあ俺たちは帰りますけど、簡易式神は置いていきますね」

「それも要らないワ。この建物、二十四時間開いているんでショ?ゆっくり休んでから建物の中を通って帰ル。何か聞かれたらアキラたちの友達ですって言えば良いんでショ?」

「そうですね。キャロルさんがそうしたいならそれで良いですが」

「そうしたいのヨ」


 キャロルの真剣な目を見て、明は頷く。キャロルを除く人数分の簡易式神を用意して彼らはこのまま下へ降りるようだ。建物の中を通って帰るとしたら階段やエレベーターを使わなければならない。それと比べたらこのまま外から帰る方が断然早い。


「キャロルさん。組織に話を持ち帰って、また何か相談があれば連絡を陰陽寮にください。クリーチャー討伐じゃなければ手を貸しますよ」

「そウ。その時はお願いネ」


 明たちが降りていく。キャロルと一日中戦っていたというのに、それでも簡易式神を詠び出す余裕があることにキャロルは悪態も出ない。力の差を思い知ったほどだ。


 キャロルは掛け値無しに限界だ。体力的にも精神的にも魔術的な意味でも。もう数日は魔術を一つも使えないだろうし、身体を動かすことも辛いだろう。

 その上、初恋は惨敗。気付いたその日に振られて、原初の女と大それた約束までしてしまって。

 キャロルは左手で両目を塞いで大の字で寝っ転がっていた。


「冷たイ。いいえ、寒いわネ。……気付かなければ良かったのニ。アキラがタマキと好き合ってるなんて八月の時点でわかってたでショ……。この、節操無シ」


 溜息も出ないほど消沈していた。彼女がいる人を好きになるほど自分が腑抜けているなどと思わなかったのだろう。

 それでもキャロルは明に惹かれてしまった。

 明の実力があったからか。日本の中心人物だったからか。自分の境遇と似ていると錯覚してしまったからか。


 好きになった理由なんてわからない。

 離れて、しっかりと振られた後でも。明の顔を、声を、姿を思い出すだけで胸が高鳴る。体温が上がってしまう。色が、付いてしまう。

 そんな自分が、嫌いになりそうだった。


「……雨……」


 天気が悪くなっていき、陽も沈むのと同じくらいに雨が降り始めた。風はないが雨粒は大きく、全身に降り注ぐ水滴がまるで犯してはならない罪をしでかしたキャロルを責めるように痛く、冷たいものに感じられた。

 初めて恋なんて気持ちを知ったからこそだろう。

 その痛みを、キャロルは呆然と受け入れていた。


「もっともっと降りなさいヨ。痛いぐらいに、降り注いデ……。この痛みを、覆い隠しなさいヨ。恵みの雨、浄化の雨、でしょウ?」


 そんな心にもないことをキャロルは呟いていた。だがその祈りが届いたのか、雨は更に激しくなる。風も出てきて、屋上には早くも水溜まりができ始めていた。そのせいで全身がずぶ濡れになり、服に水分が染み込んで気持ち悪くなっていた。


 雨をかなり浴びているはずなのに、キャロルの心は晴れない。

 どこも楽にはならなかった。

 雨は優しくなんてなく、厳しい自然そのものを訴えかけているようだった。

 ──その雨を防ぐ者がいた。


 誰もいなくなったはずの屋上で、キャロルに青い傘を差し出す人物。

 明だったら良いのにと思いながらも、キャロルは違うのだろうと予測していた。誰だかはわからなかったが、自分の妄想通りにはこの世界が進まないことを知っている。


 キャロルは自分で塞いだ左手の指の間から、その人物を確認する。

 金髪碧眼の、身長の高い男性だった。年の頃は十代半ばでキャロルよりは年下に見える男性。顔の作りは日本人の、女性のように整った顔をしているが男だとすぐにわかった。おそらく日本人と外国人のハーフなのだろうと察する。


 その覗き込む心配そうな顔が、キャロルに既視感を訴えかけてくる。どこかで見たことのある顔だった。どこか輪郭というか、見知った顔だと認識した。

 キャロルはその記憶を掘り返して。何故か見た目が若いが、その人物の名前を言い当てる。


「ピアニストの……夏目、宗谷そうや?どうしてこんなところニ?」


 世界的に有名なピアニストの男性だった。日本人とイギリス人のハーフで、二十代前半ながら数々のコンサートとCDで世界を魅了する音楽の天才。

 キャロルはコンサートなどに聞きに行ったことはなかったが、ニュースなどでどこの国でも取り上げられているので名前と顔を知っていた。旋律もとても優しく、何故か耳に残っている。「方舟の騎士団」でも人気のある人物だ。


 それにしては顔付きが若くて、困惑したが。

 まだ子どもがいる歳ではないので子どもということはない。それなら兄弟かとも思ったが、兄弟がいたという話も聞かない。

 だから目の前の人物はそのピアニスト本人か、そっくりさんだと思うことにした。

 答えは、目の前の人物から言われる。


「俺はあいつじゃない。俺の名前は夏目美也みや。宗谷の残り滓だ」

「ハ……?」

「正確には今のあいつの残り滓でもないんだが。前のテクスチャで、宗谷と二重人格だったイブの被害者だよ。元、器だ」

「ハァ……⁉︎」


 その答えは、キャロルのキャパを超えた。手を顔の上からどかして美也と名乗った人物のことをマジマジと観察する。

 歳の頃は十代の中頃で間違いない。確実に二十歳を越えていない。そして顔はやはり夏目宗谷そっくりだった。歳の離れた弟だと言われれば納得するほど瓜二つ。


 イブの名前が出てくるのはいい。だが、テクスチャと器という単語が出てくるのはあり得なかった。それは明のような超級の星見という例外とケンタウロスのような神代から生きている規格外を除いて「方舟の騎士団」以外で知っているはずのない単語だからだ。


 彼は見せつけるように、右手の甲を見せる。そこには赤い線で描かれていたが、キャロルの右手にもある五芒星が円で納められているイブの刻印そのものだった。

 そこからイブの魔力を感じたために、キャロルは彼の言葉を否定できなくなった。


 先ほどイブに会い、身体を支配されたからこそイブの魔力を間違えるはずがない。赤い線で描かれている理由はわからなかったが、それは確かにアダムに至るための呪いだった。


「前のテクスチャって、どういうことヨ?」

「そのままだ。イブが巻き戻す前の世界。宗教と魔術を掛け合わせた世界で俺たちは、最後の器になった。イブの心を宗谷がへし折ったためにイブは活動を休止して、再起動と同時に巻き戻しをした。俺たちのせいでこの世界の器たちが傷付き、苦しんだ。──最後の器になるだろうお前には、俺に恨みをぶつける資格がある」

「……そこは俺たち、じゃないのネ」

「それはそうだ。宗谷は楽園エデン原初の男アダムを送り届けた。アダムとイブの願いを叶えたんだ。宗谷がそう進まざるを得ない状況に、俺が追い込んだ。だから恨むのは俺だけにしてくれ。前の宗谷も、この世界の宗谷も悪くない」


 宗教と魔術を掛け合わせた世界。それもイブと明の言葉で証明されている。それを知っているのは先ほどまで神の御座にいた者たちのみ。「方舟の騎士団」ですら知らない事実なのだから、目の前の男が前のテクスチャを熟知していることについては把握した。


 そうすると、元器で前のテクスチャの残り滓という言葉も信じていいかもしれないとキャロルは考える。

 楽園エデンかどうかはわからなくても、前のテクスチャでアダムとイブが再会していることも明が認めていた。キャロルは明のことを絶対的に信じているので、明の言葉こそが星の真実だと思っている。

 それと相違なかったので、美也の言葉も信じた。


「……アダムを送り届けちゃったとしてモ。そのことで怒ったり恨みをぶつけたりしないわヨ。身体をアダムに明け渡すってことは、自分が死ぬのと同義じゃなイ。そうなることを知っていて選ばなくちゃいけなかったってことなら、文句なんてないわヨ。ワタシだって今は侵食が止まってるみたいだけど、楽園エデンに行ったら作り替えられる可能性はあるもノ」

「……君は、強いな」

「強くなんてないわヨ。さっき歳下の男の子にこっぴどく振られた上に、戦ってきてボコボコにされてきたところだシ?」

「知ってる。──だからこそ、君の選択を尊重し、謝辞を伝えたかった。アダムじゃ、イブを変えられない。君の提案のように、アダム以外の人物や関係性が彼女には必要なんだ」


 美也の声は、見てきた真実を伝えるように酷く真剣さを帯びたものだった。表情もどことなく暗く、不本意だったと告げるようなもの。

 何故そのような表情をしているのか、キャロルが問う前に一つの魔術が使われる。なんて事のない風の魔術。風を操作して物体を手元に引き寄せる程度の簡単な魔術だった。

 美也の手に握られていたのは、元の姿に戻った道標。小さな木の欠片だった。


「開け」


 その言葉と共に、鍵は木刀のように大きくなる。その変化を見てキャロルは目の前の人間が元器なのだと確信した。

 鍵の解放の言葉はありきたりなため、知っている者も多い。だが、実際にその言葉を唱えて鍵を展開できる者は器に選ばれた者だけだ。

 美也は刀を抜くと、その刃先をキャロルの右手の甲に向けた。


「何ヲ……?」

「君はああ言ってくれたが。その重荷を背負わなくてもいい。君は器に選ばれてしまっただけの女の子だ。イブはしばらく眠っているだろう。君が楽園エデンへ行かなければ目覚めないかもしれない。約束なんて破って君はただの人として生きていくことだってできる」

「何?まさかそれでワタシの右手を斬り落とすノ?」

「いいや。この鍵には魔術の系譜である異能を身体から断ち切る力がある。きちんと魔力の源に突き立てれば、君は魔術を使えない只人になることもできる」

「そんな能力ガ……?」

「さあ、どうする?」


 美也は刀を向けたまま、選択を迫る。

 キャロルからすれば、喉から手が出るほどに甘い誘惑だろう。魔術を身体に宿してしまったがために両親を失った。戦いを続けてきた。異能者と戦うために身体を鍛えてきた。紛争地帯へ赴いたこともあった。


 器だからこそ、陰口を言われたこともあった。本当は凄い魔術が使えるのに、「方舟の騎士団」の上層部の命令で魔術の使用制限がかかっていたために救えなかった命もあった。助けられなかった同胞の命もある。命だけではなく、生活に支障が出るような怪我を負った者もいる。


 もうそんな、非日常と関わらなくて済むような生活が待っている。

 イブの元へ行って、彼女の元で拘束されることもなくなるだろう。

 待っているのは、ただの少女としての日々。


 年頃の少女のようにお洒落をして、知らない街を歩いて。疲れたら喫茶店に入ってお茶を飲みながらゆっくりとして。見たことのない景色を求めてバッグを片手に進んで、美味しい物を食べて、フカフカのベッドで休んで。

 女友達に会ってなんてことのない話題で盛り上がって。恋愛話もしちゃったりして、流行りの物を確認して、雑誌を眺めて買い物リストを纏めて。運命の男性に会っちゃったりして。


 そんな幸せもあるのだとわかって、考えてしまって。

 キャロルは──。


「ありがとう、優しい人。次元も時空も超えた、ワタシの先達。でも、良いのヨ。ワタシはイブをもう放っておけなイ。彼女が孤独を味わっているのなら、せめて話し相手にはなってあげたいノ」

「茨の道だぞ。彼女は君を一生離さないかもしれない」

「それでも、いいノ。ひとりぼっちが二人いるけど、その二人が友達になるだけなんだかラ。たとえこの孤独を作り出したのがイブだとしても、同じだからこそ見捨てられないのヨ」

「──やっぱり君は強いな」


 美也は刀を納めて小さくしてからキャロルに風の魔術で返す。元々の場所である腰のポーチに戻して、傘も彼女の顔が濡れないように地面へ立て掛ける。


「キャロル。恋心を大切にするといい。そうすればアダムへ置換されない。イブよりも大切な誰かがいれば、彼女の考えるアダムにはならないからな」

「あなたは、好きな人がいなかったノ?」

「いたよ。その彼女がとても大事で。だからこそ、俺が全てを終わらせるつもりだった。……失敗したけどね」

「その後悔の念で、こうして化けて出てきてるト。その想いは受け取ったワ。だから、あなたはゆっくり休んデ。イブのことは任せなさイ」

「ああ、任せるよ。俺は元の場所へ戻るよ」


 美也はキャロルに向けて初めて笑みを零すと、そのまま背を向けて屋上からいなくなった。転移の魔術のように一瞬でその場から消えていった。

 キャロルは幻だったかなとも思ったが、残った傘が彼の存在を証明してくれていた。


「激励ももらっちゃったし、また一から頑張りますカ。友達の作り方とか、面白い物語でも調べるために本を買おうカシラ?経費で落ちないかナ……」


────


(これで良かったんだな?アダム・・・

「ああ。名前と姿を借りて悪かったね、美也。……キャロルは、君を止めようとしていた魔術師に似ていたね。世界最強の魔術師、そしてその恋を知ったがために対話を望む少女」

(止めようとしたのは俺じゃなくて、宗谷のことだろ?)

「でも、彼女が好きだったのは君のことだろう?」

(さてな。……これからはキャロルのことを見守るのか?)

「そうだね。イブの視線も感じないし、世界を巡ってもいいだろう。宗谷のライブでも行くかい?」

(……絶対あいつと、仲間連中にバレないようにしろよ。この世界に美也なんていないんだからな)

「わかってるよ。じゃあ行こうか」


 そうして美也を名乗っていた人物──前のテクスチャで身体を得たアダムは心の中の同居人と、もう一人の自分に会いに行く旅に出る。

 たとえ世界は違ったとしても。

 彼らにとっては、夏目宗谷とは家族であるために。

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