第179話 2ー4

 難波。そこは様々な自然や温泉などから観光名所として有名だった。それが表の有名な理由だろう。

 陰陽師からすれば、そこは近寄りたくない土地だったかもしれない。大妖狐たる玉藻の前が眠る土地とされてきた上に、難波家という安倍晴明の血筋の割に表舞台にあまり現れない不思議な家が統治していたのだから。


 とはいえ、今はそのようなことはない。次の陰陽師を引っ張っていく人物を輩出した土地として名前が上がり、玉藻の前が神の転生体だったのではないかと再評価される流れができていた。そういった諸々もあってこの土地を訪れる人間が増えている。

 だが、最近の日本は容易に旅行に行く余裕があるわけではなかった。呪術省の事実上の崩壊。陰陽大家土御門・賀茂両家の没落。龍と土蜘蛛の日本縦断。それらのせいでまともに旅行なんてするような時勢ではなかった。


 ようやくそれらのゴタゴタが収まり始めて、少し旅行者の姿を見かけるようになったくらいだ。

 この難波という街も今年はかなり苦労があった。

 年明けすぐにあった市役所の全壊。明らかな陰陽師の事件だったのに呪術省による隠蔽のせいでまともに修繕費も降りず、自費で取り壊しと建て直しを行った。これについては地元企業や資産家たちが憤りと共に修繕費の一部受け持ちと業者の手配などを率先して行ったために半年経たずに再建に成功。


 それで良かったと喜んでいたところに、八月にあった中国人脱獄犯グループによる爆破テロだ。こちらは人的被害がほぼなかったが、またいくつかの建物が傷付き、住民を恐怖に落とし込んだ。

 幸いにも市民の有志によってすぐに犯罪者グループは捕らえられたために、それ以降の被害はほぼなかった。街外れの森が若干禿げたくらいで、大きな被害は出なかった。


 京都のように百鬼夜行や有名な妖による襲撃があったわけではないが、都会でもない場所で起きた事件としては凄惨だろう。特に前者は呪術省に抗議の陳情書が提出されたが跳ね除けられた始末。

 住民は難波明が選出されて、一つ安堵していた。難波家は住民のために昔から尽力してくれた名家だ。そこの次期当主に選ばれた人間はいつだって幼い時から率先して魑魅魍魎を狩るために夜の見廻りをしてくれていることをある程度年齢を重ねた住民なら皆知っていることだった。


 そのため次期当主が昼間に簡易式神を使っているくらいでは注意したり、警察やプロの陰陽師に通報したりしない。癒着と思われるかもしれないが、それだけ難波という家が今まで尽くしてくれた証拠でもあった。

 事実一月のような大きな事件があったとしても、その際は難波家が陣頭指揮を執って事態の鎮圧に当たってきた。その際に見る難波の家紋が入った羽織は長く語り継がれているのだ。


 そんな難波の地も、街を丸々覆う方陣が組まれている。これは現代の街であれば当たり前の措置である。街や大きな国道、線路から外れれば建物ごとに方陣を組んである。そんな物好きは広大な土地を持った農家か物好きだけだ。

 難波の街中から車で二十分ほどかかる辺境。そんな人通りも怪しいような場所で一つの飲食店が暖簾を出していた。


 麺屋「羽原」。

 五十代の店主と看板娘である二十代の娘で切り盛りする小さなお店。小さいながらも評判は良く、リピーターも多い。場所の都合で学生はあまり見かけないが、車などの移動手段がある大人は結構訪れている。


 ラーメンサイトなどでも評価されており、ラーメン通も訪れるような繁盛店に名前を連ねていた。最初は辺境であること、店主がどこかの有名店で修行したわけでも暖簾分けされたわけでもなかったために閑古鳥が鳴いていたが、今では立派な有名ラーメン屋だ。

 夜になれば魑魅魍魎が出ることもあって営業のメインはお昼。夜も五時から六時半まで、七時には完全に閉める形で営業している。夜は営業時間的にも十人くれば良い方だ。


 六時を回り、すでに日が沈んだ頃。一組の男女が「羽原」を訪れていた。男は白いタキシードのような服を着た優男風の長身。女性の方は少女と言って差し支えない身長にラーメン屋に来るには不釣り合いな赤い着物。きちんとニュースを見ていればその人物の名前はすぐに出てきただろう。むしろ名前が出てこなかったら世の中に疎すぎるほど。

 その二人が来店して、看板娘が席に案内する。二人が席に座ったのを見て店主が看板娘に一言。


「露美。スープ切れだ。暖簾下げてくれ」

「はーい」


 お冷やを出した後に看板娘は外の暖簾をお店の中にしまった。それを見て他に店内にいた唯一の男性客が店主に声をかける。


「えー。大将、もしかして俺ギリギリだった?」

「こんな世の中だからなあ。夜分のスープはあんまり残しておかないんだよ。帰ってる途中で魑魅魍魎に襲われましたってなったらウチの責任になっちまう。それを避けるなら早めに店仕舞いするしかねえ」

「八時ってのも一つの目安でしかないからなー。今度からもうちょっと早く来るか。仕事早めに終わらせてくるわ」

「無理して夜に来なくても、休日とかお昼に来てくれれば良いんだけどな」

「昼は無理なんだよー。まあ、ちゃっちゃと食っちゃいますか」


 男性客は残りを綺麗に平らげて、看板娘に会計を頼む。この男性客はそこそこの頻度で来てくれるが、今日はいつもより遅かった。

 大将にも一言告げて帰っていく。彼は車なので魑魅魍魎に遭遇する前に家に帰れるだろう。


 あの男性客に告げたことも事実だが、実はスープはもう少しあった。十杯分くらいしか用意していなかったが、二人組が食べてももう二杯分くらいは出せた。だが、彼らが来てしまった時点で営業なんて続けられるはずがなかった。

 看板娘──露美も食器を水に浸けておくだけで、もう残りのことは後回しにするつもりなのかお冷やを用意して二人組の女性の方、瑞穂の隣に座っていた。


「巧。もうその偽装は要らないぞ」

「でしょうね」


 男の方、法師にそう言われて大将は隠蔽術式を解除する。五十代の男性が、唐突に二十代の若い男性に変化した。変化する前の状態では、誰であってもその偽装を見抜けなかっただろう。

 その証拠に、神たるゴンですら見破れなかった術式だ。


「ホント、腕を上げたわね。これで引退している身だなんて信じられないわ」

「これでも元麒麟ですから。それに明くんたちにはバレるわけにもいきませんでした。呪術省程度にはバレないとわかっていましたけど」


 瑞穂の言葉に返した声は年齢相応のものに戻っていた。瑞穂も同じような術式を使って桑名家と関わっていたからこそ、巧が使っていた術式の完成度に感嘆する。

 瑞穂のように自分ベースの変化ではなく、全く別人の姿で声も動作も何もかも違和感を覚えさせないように世界を偽っていたのだ。その証拠に彼の父親とは全く似つかない姿だった。


 実際にいる人物の姿と声を真似るだけなら瑞穂も法師もやったことがあるが、あれは霊気などでその人のガワで構成しているだけなので難しくない。そこから霊気をちょっと偽るだけだ。

 しかし、巧がやったことは陰陽師としての才能を完全に隠した上で陰陽術を用いた完全隠蔽という二律背反の術式。こんなことができるのは世界広しといえども巧くらいのものだろう。


「以前君を晴明に匹敵すると言ったが。本質は金蘭に近いのだろうな。正確には晴明と金蘭のハイブリッドか」

「御魂持ちの子という恩恵がありますから」

「その継承だって完璧ではない。血や魂を飲み込んだ元朱雀ですらあの程度だ。人魚の肉を食べた者が全員不老不死になったか?賢王の子は皆賢王か?それは確実に君そのものの才能だ」

「その才能があっても、母を助けられませんでした。……露美さんは助けられましたが」

「タクミくんは相変わらずだなー。このお店が成功してるのもタクミくんの才能じゃん」


 卑下のしすぎはダメだとわかっているが、それでも零してしまう。いや、力を持っているからこそかもしれない。今だったら母を救えただろう。

 星を詠むことができるからこその葛藤。そして同じような人物が目の前に二人もいるために零してしまったのだろう。

 だが、そんな彼を戒められるのが妻である露美だ。こうしてバランスが取れているからこそ、お似合いである。


「料理の基礎は父に叩き込まれましたから。ああ、法師。無茶振りが過ぎると父が嘆いていましたよ?」

「すまなかったな。だが、もうそれも終わりだ。今までのお詫びではないが、数日後にお店が繁盛するような催しをする。それで最後になるだろう」

「でしょうね。そうじゃなければ二人でわざわざここに来ないでしょう」


 巧の眼は明のそれに匹敵する。難波の地から京都を覗きこむこともできるし、未来だってある程度は視ている。

 法師と瑞穂が「羽原」に来たのはこれで三度目。最初は出来たばかりの頃。二度目は一月の事件の後。今回が三度目だ。

 法師だけ一月に単独でもう一度来ているが、なんにせよ来た回数は少ない上に、どれも大事な時に来ている。


「とりあえず、お二方。食べに来てくれたんでしょう?何になさいます?」

「そうだな……。この限定の味噌ラーメンにしようか。味噌は難しかったか?」

「はい。専用のスープ作らないとラーメンスープって感じがしなくて。よく二ヶ月で完成に漕ぎ着けたと思ってます」

「そうか。楽しみにしている」

「瑞穂さんは?」

「同じ物でいいわ。限定って言葉に弱い日本人だもの」


 その言葉に苦笑しながら巧はラーメンの支度に移る。いつもなら伝票を用意するが、彼らは恩人である。そのためお金なんてもらうつもりはなかった。

 茹で麺機の近くで丼ぶりを乗せて温め始める。味噌ラーメン用の中太麺を二玉用意してダマにならないように麺をほぐしてから、麺ざるの中に二玉投入する。

 その手際はすっかり手慣れた、ラーメン屋の鮮やかなものだった。


 巧は麺を入れた麺ざるの中を軽く菜箸で混ぜて、雪平に鶏のスープをレードルで二杯、豚のスープをまた別のレードルで二杯入れる。分量としては七対三だ。これを用意し終わったら丼ぶりにアイスクリームディッシャーを使って味噌を入れる。味噌を入れ終わったらまた茹で麺機の近くへ。

 あまり早く味噌を入れてしまったら熱で味噌が固まって味が濃くなってしまう。それを防ぐために少し置いてから入れていた。


 それにこの味噌ラーメンに使っている麺は他の麺よりも太いために茹で時間がかかる。

 麺も豚のスープも、味噌もディッシャーもこの味噌ラーメンのためだけに用意したものだ。普段のメニューでは必要のないものばかり。チャレンジ精神を失わないために日々勉強しながら試している。良かったらこうしてメニューとして出す。


 それが「羽原」の当たり前になっていた。

 今回味噌ラーメンをやろうとした理由は、お世話になっている卸業者から良い北海道味噌の入荷があったからだ。

 そうやって真剣にラーメンを作っている巧を見つつも、露美が二人に話を振る。


「お二人、どこか行ってたんですか?ウチに寄るってことは、ウチだけが目当てじゃないでしょう?」

「最初は瑞穂の実家にな。この娘、私の式神になってから十七年、一度たりとも帰郷しなかったわけだ」

「できないでしょう。世間的にも死んでいて、呪術犯罪者の仲間入り。呪術省に里の場所を知られるわけにもいかないですから。それに、現麒麟に正体を知られるわけにもいきませんでした」

「そんなわけであちらで一泊。あとはここに来てゆっくりと街を見て回っていたぞ。ここは明と珠希が過ごした街だからな」


 そういうわけで長野と難波を巡っていたらしい。二人は全国もそこそこ巡っていたが、そこの二箇所は特別すぎてあまり立ち寄っていなかった。

 法師だけであればお忍びで何度か来ていたが、二人セットとなるとあまり訪れない場所だった。長野は瑞穂が言ったように迷惑をかけたくないという理由で。ここには明たちの邪魔をしないため極力近寄らず。

 陰陽師としての役目ではなく、彼らの使命があるわけではなく。ただ観光のように訪れたのは初めてのことだった。


「今回も鬼二人を連れていないんですか?」

「適当に京都に放っておいた。暴れられるような霊気は与えていないから無害だろう」

「どうせ酒盛りしてるわ。これでお酒を飲むのも最後になるでしょうし。あんな鬼をわざわざ詠び出して契約するような物好き、いないでしょうから」


 鬼二人は知名度が抜群だ。鬼の知名度となれば悪行をし尽くした暴虐の象徴とも言える。

 簡単に詠び出すこともできないだろうが、契約したところであの二人が従うかどうか。それだけ扱いの難しい鬼だ。それに悪行の数々を知っていれば、狙って詠ぼうともしないだろう。鬼は危険な生き物なのだから。


 一方、巧は雪平に火をつけて温める。それと同時に空いている麺ざるにもやしをそれなりの量入れて、茹で麺機の中のお湯へ入れた。味噌ラーメンと言えば、もやしだろう。スープが沸騰した瞬間に火を止めて、即座に丼ぶりを調理台の上へ。

 この際左手だけ耐熱の術式を用いていた。左腕を取り戻したばかりで、三年もまともに使っていなかったのだ。熱への耐性ができていなかった。そのまま持っていたら熱に負けて火傷していただろう。


 スープは再びレードルを使って均等になるように振り分ける。雪平を置いた後、泡立て器で味噌をスープに溶かしていた。

 こちらの準備が終わった頃、麺ざるから菜箸を使って麺を一本摘んで口に含む。茹で加減を確認して、麺ざるを全てお湯から引き上げた。右手で二つ、左手で一つの麺ざるを持ち上げる。もやしが入っていた麺ざるだけ近くにあったボウルへ。ここで湯切りをしておく。


 麺が入った麺ざるの穴から出るお湯の自然落下に任せてある程度お湯を落としてから湯切りをする。両手で力一杯、無駄なお湯を落とした。

 左手が戻った際に一番苦労したのはこの感覚だ。練習していた時は力加減がわからず何回か麺を零してしまったこともある。


 完全に湯切りができたら、麺を丼ぶりに投入。すぐさま菜箸で麺のダマをほぐすように何回か麺を畳んだ。それが終わればあげておいたもやしをトングを使って小山になるように盛り付け。小山の前側に炙っておいた分厚いチャーシューを。その左側にネギを置く。チャーシューの右側には本来入っていない味玉を置く。トッピングで別料金だが、サービスだ。

 最後に小山の奥に正方形の大きな海苔を一枚。これで味噌ラーメンの完成。すぐに二人の前に置く。


「お待たせしました。味噌ラーメン二つです」

「良い香りだな。これは明たちも好きそうだ」

「今度出してみます。あとこちら、生姜です。お好みでどうぞ」


 小さな別皿に載せた生姜も出して、あとはお好きにという形になる。味噌ラーメン八百円なり。


「わたしたちも夜ご飯食べて良いですか?」

「好きにしたまえ。もう営業は終わったのだろう?」

「ありがとうございます。タクミくん、わたしチャーシュー丼」

「はい、すぐに」


 冷蔵庫にあったチャーシューの切れ端にだし醤油をかけて軽く炙る。ご飯をよそってチャーシューを載せてネギを適量。これだけである。ついでに色々なものの火を落とす。営業が終わりなのだからいつまでも火をつけておく意味はない。

 チャーシュー丼を二つ分。露美の前に一つ置いて、巧は自分の分を持ったまま法師の隣に座る。

 二人は先にラーメンを食べていた。麺が伸びるのを許す店主じゃないと知っているために。


「麺がモチモチで歯ごたえがあって良いな。スープも濃いが、味噌ラーメンとなればこれくらい濃い方が良い。それにこれから寒くなる。冬場には人気になると思うぞ」

「チャーシューがホロホロで美味しいわ。ただ、わたしには量が多いかも」

「そうですか?それ、味玉以外はウチの標準ですよ?」

「もやしの分が他のラーメンより多いのね。それ以外は確かにあまり変わらないかも」


 そう簡単に感想を述べて、全員が食事に集中する。瑞穂は食事の量や口の小ささから食べるのに一番時間がかかっていたが、なんだかんだで食べ終えていた。

 生姜を入れてみて味変になったために飽きない、身体が温まったなど客としての言葉も法師が残していた。

 法師は滅多にラーメンなど食べないが、昔から宮廷に勤めていたのだ。味覚はとても良い。食事などあまり必要としないために趣味と割り切っているため、余計に舌に肥えている。


「うん、御馳走様。これからもラーメン屋で生きていくのか?」

「そうなります。軌道にも乗ってきましたし、利益も随分と出てきましたからね。人件費がかからないのは楽ですよ。大まかな仕事は簡易式神にやらせればバイトを雇う必要もないですから」

「陰陽師としては完全に引退?」

「ですねえ。もし明くんや康平殿から要請があれば出撃しますけど、プロに戻るつもりも、五神に戻るつもりもありません。五神はほら、弟子に嫌われていますし」

「後任の子は仕方がないんじゃない?タクミくんが嫌われるように振る舞ったんでしょ?」


 大峰翔子には様々な仕掛けを施して麒麟を辞める際に利用した。その時の仕掛けももう数年すれば解けるようにしてある。だからと言って今更あの場所に戻るつもりはなかった。一新されるとしても、だ。

 相棒の麒麟には、やろうと思えばいつでも会える。


「彼女には頑張って明くんたちを支えて欲しいんですが。せめて麒麟を正式に式神にしてほしいです」

「それ、巧くんのせいじゃ?あなたの方が実力もあって理解もある麒麟からしたら、あの子に懐かないでしょ」

「……うーん。麒麟ってかなり素直なはずなんですけど。どうしてこうなりました?」

「わたしたちのせいって言えば満足?」

「半分肩代わりしてくれるのは嬉しいですね」


 今ここで麒麟に直接聞く方法もあるが、それはやめておいた。瑞穂たちの時間を割くのは巧としても本意ではなかった。

 だから、彼らが聞きに来た内容を語り出す。

 以前二人は他にもお客がいる時に来て、残るわけでもなく帰ってしまったのでこうしてしっかり話すのは初めてのことだ。


 過去視を使えばすぐわかることなのに、彼らはここに来ていた明たちの様子を聞きたがっていた。なのでそれをできるだけ事細かに話す。

 初めて来た時に気に入ってくれたこと。それから事あるごとに来てくれるようになったこと。ゴンを連れて来たらそのゴンも気に入ってくれたこと。限定メニューを出すようになったら真剣に品評を始めたこと。それが存外世間のニーズとズレていなかったこと。


 珠希がこちらに下宿するようになるとより頻繁に来るようになったこと。瑠姫には食事係を取られた腹いせからかかなり睨まれたこと。のくせに、しっかりアドバイスもくれたこと。

 金蘭も一度だけ来てくれたこと。その時は旧紙幣だったが何も言わずにお会計をしたこと。そのせいで後日、明に情けないところを晒す羽目になってしまったこと。


 何しろ三年分だ。結構な時間がかかってしまった。

 だがそれでも二人は、その話をせがんで聞いていた。その結果夜が更けていこうと気にせず、この街で過ごしていた明たちの日常を聞き続けた。

 それを聞く権利が自分たちにはあると、そう主張するように。


 彼らがこれまで、色々なものを賭けて活動して来たがために。

 その事実を知っているから、巧たちも話し続ける。明日には色々なことが変わってしまうから。

 終わってしまうから。





 結局三時間ほど話し込み、巧たちと別れて夜の街を散歩する。プロの陰陽師が巡回している以外は人気など全くない。街の中心部は方陣に守られているので、魑魅魍魎も基本入り込んでいない。

 法師と瑞穂は街へ戻らず、外縁部へ向かった。そちらは方陣の効果がないので一般人にとっては危険だが、この二人からすれば脅威でも何でもない。


 お店から北へ向かい、街の外れへ。何処と無く歩いていると、大きな駐車場が見えた。このような街外れに何故駐車場がと疑問に思いながら近付くと、そこは観光名所だった。

 乙女の滝。


 盲目の乙女がいたとか、流れる滝の様子が乙女の髪のようだとか、滝壺に若い人魚が現れたとされる場所。盲目の乙女の場合、盲目の蛇の化身だという説もある。

 と、案内板に書いてあった。


「へえ。本当にここは、色々ありますね」

「京都に比べれば全然だろう。どれだけ本当かわからないが、行ってみるか?」

「気になります。行きましょう」


 二人は灯りもない観光名所を歩く。流石に暗かったので法師が手に灯りとなる明るい火を出して順路へ向かう。観瀑台かんばくだいもあったが、この時間ではまともに見ることが出来なかった。そのため、滝に近付くことにする。

 滝へ向かうには階段を下るしかないようだ。石でできた階段は勾配が急な上に、段数も多かった。魑魅魍魎も湧いていたが、二人は無視して階段を下る。その際、瑞穂が下駄を引っ掛けないように法師が空いている手で瑞穂の手をしっかり握っていた。


 三十メートルほどある長い階段で、降りた先には滝から流れる小さな川ができていた。山に囲まれているためにこういう小さな川は街の中にもたくさん見られる。

 川は全く深くない。むしろ浅いくらいだ。沢に近い。


 滝に近付くためには舗装された道を歩くのが常識だが、そこは呪術犯罪者。瑞穂は法師の手を引っ張りながら沢の中にある大きな石を渡るように歩く。こういう、たまに式神のくせに主である法師を引っ張れるような女性でもあった。

 上流に向かっていけばすぐに乙女の滝が見えた。そこまで大きな滝ではない。でも美しいと言えるものだった。自然に愛されているのか、白い水流が鮮やかに見えた。遠目に見てみれば女性の髪とも言えなくはない。


「ひゃあ、冷たい」

「秋の夜だからな。水辺も十分寒かっただろう。……しかし、妖精はどこにでもいるな」

「妖精?精霊じゃなくて?」

「ああ、悪戯好きの妖精だ。吟を深く知っていなければ気付けなかった。精霊ほど下界こちらをうろついているわけではない」


 妖精は好き勝手に生きて、気に入った存在を自分たちの領分である妖精の国ティル・ナ・ノーグへ連れ去る。そこで連れ去った存在の大事なものを奪い取ったり、妖精の何かと取り替えたり。そういう傍迷惑な存在だ。

 妖精の国は一種の神の御座であるので、まともな手段では辿り着けない。吟が幼少期に変質させられたものは今でもそのままだ。それだけ妖精についてアプローチがないということもあるが、吟自身が身体のことよりも使命を優先したために法師もあまり調べていない。


 一方精霊はわかりやすい。自然が好きで、心が清らかな者には寛容だ。それこそ巧に力を貸したり、誘われるようにくっついてきたり。

 視認できる存在は多くないが、日本国内にもそれなりの数がいるのが精霊だ。自然が多い場所に居やすいため瑞穂もここに居たのは精霊ではないかと聞いたが、法師の眼からすればここに精霊はいなかった。


「妖精が悪戯で蛇を人間の姿にしたり、人魚を海から連れてきたそうだ。玉藻が引っ張ってきた呪詛に惹かれて訪れていたようだな」

「まだ妖精はいるんですか?」

「居てたまるか。居たらすでに追い返している。神よりもタチの悪いクソガキの集団だぞ?」

「それは確かに、会いたくないですね」


 せっかくの綺麗な場所なのに、そんな存在に邪魔されるのは不愉快だ。

 ただ水の流れる音だけが支配する静謐な場所を、そんな邪悪な存在に侵されるのは勘弁願いたい。事実過去にそんなことをしているのだから、心象も良くない。

 快楽のために存在を上書きしたり、本来の住処ではないこんな辺境に連れて来られるのだ。しかも人魚の場合は環境が変わればすぐに死んでしまう。元の場所になど戻さなかっただろう。かなり悪質だ。


「妖精と精霊についてはまだ話してなかったか。……だが、これでお前に話していないことはなくなったな。ちょうどいい」

「……区切りはいいでしょう。弟子として、式神として。あなたの元ではとてもお世話になりました。ありがとうございます」

「十七年か。長かったのか、短かったのか。どうも時間の流れについては曖昧だ」

「長かったですよ。わたしが人として生きてた年数より長いんですから」


 こればっかりは仕方がないだろう。法師は一千年生きている。その中の十七年だ。五十分の一の時間を共に過ごしたとなれば法師としても付き合いは長い方に入る。桁がおかしいだけで。

 人間からしたらだいぶ長い時間だ。赤ん坊が高校生まで大きくなる。実際、明たちが産まれて立派になるまでの時間だったのだから。


 その違いを、二人は共感できなかった。できる者など限られている。

 瑞穂はこの時代に生きる人間なのだから、仕方がない。

 ふと。法師は灯りをその辺に放り出した。そのせいで暗闇が辺りを支配し、滝をしっかりと視認できなくなってしまった。

 瑞穂もどうしたのだろうと法師の顔を見ようとしたら、だいぶ顔が近くにあった。


 そのまま、二人の距離が零になる。

 いきなりのことに瑞穂は眼を丸くしたが、返って心は落ち着いていく。

 こんなことをするのも、最後だと思ったために。

 玉藻の前太陽の隠れた夜空で、ひっそりと愛を囁く。今は月と星しか見ていないから。


 いつもより随分と長い口付けだったために、唇が離れた時に口が酸素を求めてしまいぷはっという音が漏れた。瑞穂は顔を赤らめながらも、一応真意を尋ねる。


「いきなり、どうしたんです?」

「いや、したくなっただけだ。嫌だったか?」

「嫌じゃ、ないですけど。珍しいなと思って」

「そうか?最後の日に愛おしいと思ったから、やり残しをしないために思い付いたことをしてるだけだが」


 普段は愛など囁かない男にいきなりそんなことを言われれば、照れる。そういうことはそれなりにしてきたが、愛おしいと思われているとは思いも寄らなかった。

 何かの代償行為か、ただの暇潰しか。それでもいいと瑞穂は溺れていたために、こんなにもストレートに言われるのは予想外。

 自分だけが愛していれば十分だと思っていたために、まさか愛を返されるとは思っていなかった。


「もう一日を切った。なら、お前に少しでも伝えておこうと思ってな。前はそれで失敗した。最後くらい夫として妻を労ってもいいだろう?」

「……結婚なんてしてませんし、この見た目でできるとでも?」

「別に内縁の妻でもいいだろう?法律破りまくりの、逸脱者だ。私たちがお互いを夫婦だと思っていれば十分だ」

「あなたがそんな風に思っていたなんて、知りませんでした」

「うん?あれだけ閨を共にしておいて……。ああ、こういうところがダメなんだろうな。私は自分が納得していれば相手も納得しているものだと思い込む。こういうところは晴明と変わらない」


 法師は自分のダメなところに嘆息しながら、瑞穂を姫抱きする。瑞穂の見た目は十二歳程度なのでこんなことをしても他人からは夫婦に見られないだろう。


「酒呑と茨木を置いてきたのも、邪魔をされたくなかったからだぞ?最後くらい、二人で過ごさせろ」

「そんなわがまま、初めて聞きました」

「そうか?割と好き勝手してきたつもりだが……」

「だってあなたの行動の根底には、どうあっても使命があるんですから。その使命を遂行するための道具なのかなーって思ってたんですよ?」

「最後の日にそんなすれ違いを自覚するなんてな。……紗姫さき。私はお前を愛しているとも」


 いきなり本名で呼ばれて、思わず瑞穂は笑ってしまった。その名前を呼ばれたのはいつぶりか。ずっと姫か瑞穂だったために、目の前の人物に呼ばれたのは初めてかもしれない。


「玉藻様よりも?」

「む。そこで玉藻が出てくるのは心外なんだが?」

「あんな呪術遺しておいて、よく言いますね?……長年のツケで素直に信じられないので、行動で示してくださいますか?」

「これは一本取られた。じゃあ今夜はとことん紗姫を愛そう」


 二人の姿が、この場から消える。彼らは日本の中であれば好きに移動できる。霊脈を伝えば、この程度造作もなかった。

 約束の時は、すぐそこに。

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