第177話 2ー2
京都校の女子寮。高校としてはあり得ないほど広大な敷地を持つ中で、男子寮とは対極に位置するそこは、男女で夜更かしや密会などをさせないための配慮だろう。思春期の男女で何か問題があっても困るだろう。
特別な事情がない限りは全員入寮するために大きなマンションのような建物だ。学校内のカップルとしたら不満かもしれないが、あくまで学校の敷地内。イチャつくなら校外か、常識的な時間帯でお願いしている程度。
寮生以外が侵入するには中々に厳しいセキュリティ。特に女子寮は女の子の秘密を守るために、男子寮よりも警備が過剰だ。そこの三階のとある部屋。
ここ一週間近く、開かずの部屋になっている那須珠希の部屋だ。
この部屋の中に現在、家主である珠希の他に式神であるゴンと瑠姫、そして明の命により金蘭が控えていたが。
珠希は身体的な意味なら元気だ。今もベッドの上で体育座りをしているが、身体に悪い部分などありはしない。だから式神二体と一人も、特に口出しをせずに側にいるだけ。
珠希はここ最近全くご飯を食べていなかった。お腹が空かないのだ。人間の機能として常軌を逸していたが、その理由については誰も口にしない。だが、一応健康のためにご飯を食べるように進言はしている。すげなく断られているが。
今は、金蘭が台所を使って簡単なご飯を作っている。これが男子寮と大きな部屋の差異だろう。男子寮の部屋には台所たる部分がなく、階層ごとに調理室があるので自炊をするならそこを使うことになる。料理が趣味の男は、案外少ない。
それと打って変わって、女子の中にはお菓子作りだったり料理が好きだったりする生徒が多い。いくらこんなエリート校に通っているとはいえ、自分の家系より格上の家に嫁ぐことになったら料理をする可能性もあった。
そのため昔の生徒が申請をして、どの部屋にも台所がつくようにリフォームされた。実際、結婚相手を見付けるためにこの学校へ進学してくる女子生徒は多い。そういう生徒のほとんどは他に家を継ぐ上の子どもがいる場合が多い。
そんな台所を使って、金蘭はゴンのためにご飯を作っている。金蘭も実のところご飯は必要としない。珠希も要らないとなると、食事が必要なのは生きているゴンだけになる。
「珠希様。本当にお食事、要らないんですか?」
「……はい。大丈夫です」
「わかりました。クゥ、はいどうぞ」
ゴンの前に置かれたのは木製の桶に入れられた色鮮やかなちらし寿司。いくらや玉子、人参やレンコン、海老にサーモン、海苔などバランス良く散りばめられていた。お酢のご飯の香りが部屋に広がる。
ゴン一人分にしてはだいぶ多いが、瑠姫と金蘭も味見なのか少量食べるようだ。少しだけ取り分けられた後、ゴンは小さく「いただきます」と言って顔を桶に突っ込んではぐはぐはぐー!と掻き入れていった。
「相変わらず、食べ方に品がないわね」
『それは言ったって治らないのニャ。クゥちゃん、お外だろうがこれニャンだから』
「ああ、確かに。前もそんな感じだったわ。人型でもないし、そんなものかもしれないけど」
金蘭がゴンの食べ方に嘆き、瑠姫が諦める。ゴンが難波家に拾われてからずっと注意してきたがこのままだ。明ももう何も言わないので、ずっとこのままだろう。
『金蘭様。これどれだけお金かけてるのニャ?毎日こんな感じだったら家計簿がやばいのニャ』
「え、そう?康平にお金もらったから大したことないと思うけど。一千年前なんて、これ以上の贅沢をしていたわけだし」
「……それは
「ああ、そうでした。あの頃は紛れもなく日本でも最高の家。今は収入という意味ではそうではありませんからね。康平にせっつかないように節約します」
珠希が一千年前との差異について指摘すると、金蘭は納得した。時代はかなり異なる上に、食べているものは質からしてかなり落ちる。
今は流通も盛んになり、生産も目処が出て大量生産ができるようになった。その結果格安品も高級品もあるが、そんな高級品は、神の食す品としてはかなり格が落ちる。神の御座で産み出されるものからしたら質はだいぶ下なのだ。
だから金蘭からしたらそこまでのものを買ってきた覚えがなかった。珠希に食べさせるものとしてふさわしいものを妥協して揃えたために、完全に納得していない。そんなもので家計簿が危ないと言われてしまっては首を傾げるのも仕方がないだろう。
貨幣の価値もだいぶ変わっている。金蘭は吟よりは現代に順応していたが、それでもまだ現代に馴染んでいない。
そして、人間にとっての物の価値も金蘭からすれば割と曖昧だ。本当の逸品を知っているからこそ今の最高級品については逸品だという感覚がない。神への供物と、人間が消費する物の差とも言える。
金蘭も吟も、ゴン同様今の日本の状況全てに合致していなかった。海外の言葉や文化などはてんでダメであり、呪術省などの大切なことにだけ注視していたため、料理が得意な金蘭でも海外の料理は全くできない。
その辺りは瑠姫どころか、珠希にも負けるだろう。
『ごっそさん。金蘭の飯は久しぶりだったな』
「それはあなた、わたしとまるで会わずに全国をフラフラしていたからでしょう?なんでお互い日本を回っていたのに、こうもすれ違うのよ」
『狐と会うために巡っていたオレと、日本の霊脈や神の様子を確認するお前。会うわけないだろ。しかも日本の転換期には毎度その場所に行ってたんだって?人里を離れていたオレと交わるわけもねえぞ』
「それもそうね。あなた、特に難波と京都からは離れていたせいで会う機会が激減していたわ」
『そうだ!オレにかけた監視用の術式外せよ⁉︎』
「もう要らないか。じゃあ外すわ」
金蘭がゴンに何かあった時にすぐ助けられるように仕掛けていた監視用の術式を、軽く触って撫でただけで外した。外した術式はそのまま金蘭が握り潰す。
ゴンとしては何も感じなかったが、金蘭が実際に潰したことを一つの証拠として納得することにした。金蘭の術式は誰にも理解できない。
陰陽術とはまた体系の異なる力であったために。
「珠希様。ちょっとお話ししませんか?」
「何です?」
「いえ、いつまで明様に顔を合わせないつもりかなと。別に学校なんて行かなくてもいいと思いますけど、明様の隣には居て欲しいんですよ。顔を合わせづらいのは、わかりますけど」
話が始まった時点でゴンは口出しするつもりはなく丸まる。瑠姫は食器の片付けを始める。
この話は、二人がするべきだと思ったために。
「それは……もう法師の時間がないから、ですか?」
「一番の理由はそれですね。法師と術比べをしたら、明様は忙しくなるでしょう。一千年前の状態に戻した。それはつまり、一千年前にも残した負債も背負わなければなりません。現代の問題は数年でなんとかできそうでしょうけど」
「……だからこそ、ですかね。明くんにやらせてしまうのが、情けなくて……。踏ん切りがつきません」
珠希は膝と身体の間に顔を埋めてしまう。
こんなことになっているのは、狐の尻尾が九本になったからではない。それで変わったことは、身体の構成と考え方であり、心自体は珠希のままだ。いや、この場合はだからこそだろう。
今までなんとなく自覚があったが、心は人間のままだった。どこか他人事だった。ただ明の隣にいて笑い合っていれば良かった。
それが、神に近付いたことで苦しくなった。
神の力と認識と考え方を手にしてしまって。歯車がズレた。
そのズレから生じた諸々に折り合いがつけられなくて、ここ数日グズグズしていた。
「うーん……。一千年前ならやりたくてもやれないとか、立場の問題とかあったでしょうが……。悩みについてはわかりました。ですが、大丈夫だと思いますよ?珠希様は少し敏感になりつつ、鈍感になっているだけですから」
「矛盾していませんか?」
「かもしれませんね。でもそういう生き物ではありませんか?
『お前が気付いてるのに、何でオレが言わなきゃならねえ?』
「あなたの弟子でしょう?」
『数回教えただけだ。ちゃんと見てやったバカはそのまま立ち止まらなかった』
ゴンの答えに一つ息を吐いた金蘭は、珠希に目線を向ける。
その五拍ほど後に、珠希の部屋をノックする音が聞こえた。
「……珠希ちゃん?今いいかな」
声の主は天海薫。学校が終わってやって来たのだろう。
天海はこの数日間、悩んでいた。
それなりに親しく、告白もしてくれた住吉祐介が悪事に加担していたこと。そして今どうなってしまったかということ。
自分の父親を呪術で洗脳して蠱毒という禁術を使わせた犯人がわかったのと同時に逮捕されたこと。順調に自白しているようで、父の冤罪は晴らされるということ。
学校の中庭を最後の起点とした京都丸ごと巻き込んだ大呪術。
それを行なった者と阻止した者。
阻止した人物たちの、おかしな言動。そして変わってしまった風貌。
事件の後に自室で行なった風水で感じ取ったもの。それの確認のために珠希の部屋を訪れたと言ってもいい。
事件の際隠そうとしていたが、それなりに近い距離にいた天海はその変化を見てしまったし、風水が使える感受性からわかってしまった。
珠希の、在り方に。
ノックをして数秒ほど、部屋の中から返事があった。
「……どうぞ」
珠希の声はだいぶ沈んでいた。宿泊学習の後から体調を崩していたが、そういう身体の不調によるものではなく精神的な不具合だと気付く。
許可をもらったことで扉をくぐる。
中は天海の自室とさして変わりがない。三年間過ごす部屋だからと模様替えをする生徒もいるが、天海も珠希も、部屋の中をそこまで弄っていなかった。そのためパッと見だけは変化が見られない。
ただ、天海の部屋と大きく変わることは同居人の存在だ。天海は常時展開している式神がいないので部屋では一人だが、この部屋には主人以外にも三人の存在が同居していた。それが一時的とはいえ、異様なことだ。
この部屋は一人暮らしする分には中々に広いが、数人で暮らすには狭い。その内の一体が子狐であるために、そこまで手狭でもなさそうだが。
狐であるゴンに、珠希の式神である猫の瑠姫。先日の事件で初めて見た、明に忠誠を誓っている絶世の美女。
そしてベッドに座っている──。
「……珠希ちゃん。その姿……」
「もう、隠す意味もないかと思って。
ベッドに腰掛けているのに、珠希の背中側には長く太い黄金色の尻尾が九本、存在した。ゴンの尻尾よりも優雅で可憐で。神秘的な様相すらある偉大な尾。
その尾と同じく、珠希の上頭部にはこれまた黄金色のイヌ科の耳が天を向いていた。人間の耳も別にあり、人間の珠希とはまるで別なもののようにも見えた。
難波家の人間と、極少数しか知らない、珠希の本当の姿。
事件の際一瞬見ただけだったので確信が持てたわけではなかったその姿。風水でもなんとなくわかっていても、ここまでの神々しさは把握していなかった。
「狐憑き……?いや、難波君と同じ先祖返り……?」
「どうでしょうね。前例がないとは思いますけど。……それで、お話って何ですか?」
「様子を見たかったってことが一つ。学校にも来られないほど悪いのかなって。もう一つは、難波君がこの後やろうとしていることが聞きたくて」
「……ハルくんには聞けないから、わたしの方に来たんですね。学校なんて、どうでもいいじゃないですか。どうせハルくんは滅多に顔を出さないんですし。学ぶことも、ありませんし」
珠希は大きく溜息をつく。天海の言葉はどちらも真実だとわかったが、大きな目的は後半だとわかった。
彼女が懸念している理由は明と珠希の力が更に増したこと。そして吟と金蘭という強者が一味に加わったこと。法師と和やかに会話していたこと。この辺りから法師のように何かやらかすのではないかと不安に思っているのだろう。
「ハルくんのことは心配しなくていいです。これからは真っ当に陰陽寮を率いていくだけですよ。むしろ今までのことが、たったそれだけのための布石です。法師や瑞穂さんが状況を整えてくれましたし、邪魔はなくなりました。後ろ暗いことなんてする予定はないですよ」
「……本当に?……犠牲を容認するようなことをしない?」
その言葉で金蘭が天海を睨むが、他の面々は呆れたような表情を浮かべるだけ。
珠希は眉が少し上がったが、天海がどうしてそんな思考に至ったのか理解してそれを咎めなかった。
「ハルくんを信用していないというより、法師への悪い意味での信用ですね。そういう意味では、多少の犠牲は容認すると思いますよ」
「それを!止めようと思わないの⁉︎」
「無理です。ハルくんも法師も、神ではありません。……むしろ神だと制限が多くて、自由に物事を決められませんね。言い方を変えましょう。ハルくんも法師も、そこまで万能ではありません」
天海の悲鳴に、珠希の冷静な返し。
それを第三者の立場で聞いていたゴンが口を出す。
『珠希、言葉が足りないぞ。……天海。今後明は、法師のような人類を試すために攻撃を仕掛けたり、邪魔をされたからといってよほどじゃなければ殺したりしない。そんな法師の行動も、世界に対する不理解だったり実力不足だったりするんだが……。犠牲というのは、止められないだろう』
「どうしてですか?」
『必要悪ではなく、それが自然の摂理であり、明が人間だからだ。明が陰陽寮のトップになることで、プロも学生も含めて、全ての陰陽師の責任を取る立場になるわけだが。妖や魑魅魍魎との戦いで死者が出ないなんてことは
実際は、今の明ならすぐさま日本どこにでも跳べるだろう。そして百鬼夜行程度ならすぐに鎮圧できる。大抵の妖相手でも、問題なく対処できるだろう。
だが、そこまではしない。それは人間が明に全てを任せかねないために。いつでもどこでも、明に縋ってしまうために。
それでは平安の世と同じだ。だから崩壊した。
同じ過ちを繰り返さないために。人間の自立を促すために。
誰もを救う偶像の救世主──神になるつもりはなかった。
「じゃあ、何で……友達の住吉君は助けなかったんですか?」
『明は止めたぞ?祐介と一対一で戦って、明が負けただけだ。法師が祐介を救う理由はないし、金蘭もそういう命令があったわけでもない。あれは、祐介が選んだ道だ』
「本当に、あなたでも助けられなかったんですか?」
天海は知らん顔をしている金蘭へ目線を向ける。
その美貌と、豊満かつ絶対的なバランスが取れている黄金比を保った女性が陰陽師として頭抜けていることは天海も把握していた。ともすれば、日本で最高の陰陽師ということも。
そんな金蘭からの答えは、否定だった。
「助けられたでしょうね。五芒星の術式が発動する前なら、彼を捕らえて牢屋に入れておけばいいだけだもの」
「……何で、動かなかったんですか?」
「動く理由がなかったからだけど?」
金蘭からすればそれだけだ。
たとえ難波が管理する殺生石を盗んだ犯人だとしても。明を裏切っていたとしても。土御門と繋がっていたとしても。
明にも法師にも、頼まれなかった。それだけで終わってしまう議論だった。
「明様を害する人物であったとしても、ご友人であらせられても。明様が私に助けを求めたかしら?法師がそうしろと命じたかしら?珠希様が何をしてでも救えと仰ったかしら?法師のような陰謀論はないわ。主人たる方の人間関係に、全て口を出すのが正しき従者の姿と言えるのかしら?」
「だって、難波君の友達ですよ⁉︎」
「私も、神ではないから。大人だからと、従者だからと。全てのことに手を出し、因果を変えて都合のいい世界を作るなんてことはできないの。あの結果を選んだのは明様と住吉祐介本人よ。彼らの心を否定するのは、彼らの存在そのものを否定することなのだから」
覚悟を決めた人間の生き様を、友達は仲良く。これから統べる明には必要だからと捻じ曲げることが正しいのか。それは道理として正しくはないと彼女たちは考えた。
そして明だけに優しい世界を創ってしまえば、そのしわ寄せが必ず来る。明に剥くのか、世界に剥くのかわからないが、それでは彼女たちが掲げる天秤が崩れることを指す。
祐介を救うには土御門と縁を切らせるか、最悪殺生石を盗まずにいられればまだ手の差し伸べようもあっただろう。だが、殺生石を盗んだ者が祐介だとわかっていても明は改心することを願った。法師はその状況を利用した。
それが先日の事件の行く末だ。
そもそも、明と珠希という存在が既に例外中の例外なのだ。その周辺を動かすことは神と法師以外がすれば世界の位相がズレ、どうなるかわからない。
そういう世界の真実を知っているからこその対応でもあった。
「あの二人はお互い、納得して戦った。それでおしまいの話よ。……いくら力を持っていても、守るべき秩序はあるのよ。むしろ力があるこそ、守らなくてはならないことが多いわ。後からこうすれば良かった、ああできたと言うことはできても過去は変えられないわ。後悔を胸に、前に進みなさい。そんなに悔やんでいるなら、彼を降霊して式神にすればいい」
『それが解決になるかはまた別の話だな。……天海。明に聞けなかったのは怖かったからだとしてもだ。本題は祐介を助けられなかったことじゃないだろ。明が変わったことに対する恐怖の確認と、何だ?』
ゴンが真意を問い質す。
天海は明の変化から、法師と手を組んでしまったことから精神構造が悪に偏ってしまったのではないかと危惧した。その変化から珠希は引き篭もってしまったのではないかと。
そうではないらしいことがわかって。天海がやるべきことは後一つ。
珠希に対する、宣戦布告だ。
「珠希ちゃん。……私、明君のことが好きだよ。もし彼が地獄へ歩むなら、付いて行くくらいに」
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