第172話 エピローグ
もう、ダメだ。
身体が言うことを聞かない。
視界が開けない。
あるのは、ただただどこまでも続く深淵の闇。
そして、自分という存在が一千年前の帝に上書きされていく実感だけ。
こうなると、わかっていた。
俺が使った呪術は、泰山府君祭の出来損ないだ。一千年前の過去を、鳥羽洛陽を知って。あの術式の本質を知った。
いくら殺生石を使おうが、玉藻の前は詠び出せないと心のどこかでわかっていた。
そして、明の事実によって、それは絶対にできない事柄になった。
走馬灯なんて嘘っぱちだ。そんなもの、一切浮かばないじゃないか。
後悔したことはたくさんあった。もっとこうしたら、ああしたらなんて想いを何度したことか。
人を恨むことなんてしょっちゅうだった。気に入らないことだらけだった。人も物事も、何もかもが気に食わない。
そんな呪詛を撒き散らしていたから。世界を憎んでいたから。俺の最期は呪詛に呑み込まれることだったんだろう。
ごめんなぁ、静香。俺たちじゃお前を救えなかった。
光陰には、何も残さない。今際の時にまで、思い出したくないことが多すぎる。
土御門・賀茂両家は関係者各位、地獄に落ちやがれ。
難波家にも随分と迷惑をかけた。償えないけど、この想いは持ったまま逝こう。
珠希ちゃんには、しっかり謝れてないなあ。許してくれないだろうけど、幸せを祈ってる。これは本心だ。
明も、悪かったなあ。でもこの四年くらい、すっごく楽しかった。ただの祐介でいられて、俺の裏を知りながらも最後まで止めようとしてくれて。それだけで俺は救われた。
薫ちゃん。ただ一人俺が愛した人。これからは、平穏な人生を歩んでほしい。
黄泉の世界で罪を償ったら、もう一度。
彼らと穏やかな日常を、願う。
────────
そこは裏・天海家が運営する市民病院。土御門・賀茂両家を襲撃して危篤状態だった患者や、脳や精神、身体に改造の痕が見られた人物はこの病院に運ばれた。
裏・天海家というだけあって、陰陽師としての防衛網はもちろん、科学的にもしっかりとした防衛網ができていた。その辺りは抜かりない。
そんな市民病院の入院棟の五階。そこの個室にはある女性が入院していた。栄養失調と意識混濁、健康状態の悪さから点滴を打って寝かされていた。
住吉亜利沙。
あの地獄から、様々な抵抗をして生き延びた運の良い女性だ。証拠隠滅のために殺された同じ立場の人間はいくらでもいる。彼女が救われたのは一人の女性使用人のおかげだ。たまたま盗み出した呪具が発動し、彼女の姿を隠せた。それにより、本家の人間が探す前に成敗されたわけだ。
その使用人が動くかは賭けだったが、とある少年がその呪具を隠していたことは偶然ではない。そしてその使用人は、すでにこの世にいなかった。
彼女の部屋も、もちろん様々な形で防衛されていた。土御門系列の人間が証拠を消すために彼女を排除しに来る可能性があったからだ。
そして。彼女の元へ訪れる白い鷺の式神が一体。もちろん仕掛けられていた方陣によって捕らえられたが。
「見逃せ。母への最後の届け物だ」
まだ病院を出ていなかった法師のその一言で、その鷺だけは方陣の中へ入れた。そしてちょっとした能力で窓を開けて、彼女の個室へ入り込む。その際に開けた窓をしっかりと閉じることまでしていた。
十月半ばの冷気が入り込んだからか、それまで安定した寝息を立てていた亜利沙が目を覚ます。数日ぶりの目覚めだ。瞼が重かったが、彼女の顔を覗き込む白い大きな鷺がいれば、そのまま寝込むわけにはいかない。
「式神……?」
陰陽術の才能はなくとも、それくらいの知識はあった。
勝手に病室に侵入し、おとなしくしたまま嘴に手紙を咥えていれば、それくらいのことは察せる。
その鷺は、嘴を使って丁寧に手紙を開封し、寝たままの亜利沙の視界に収まるように嘴で抱えていた。亜利沙は目線を動かすだけで手紙の内容を読むことができる。
その手紙の内容は、こういったものだった。
『拝啓 住吉亜利沙様
こうして、初めて自分の想いを手紙に
あなた様におかれましては、土御門家が多大な迷惑をお掛け致しました。その罪は、どうあっても償うことはできません。あなたの心身に与えたものを、他の何かで償うことなどできないでしょう。
あなた様にどれだけの苦痛を与えたか。自分では想像することも烏滸がましいでしょう。ですので、自分の言葉がどれほど空虚なものか、存じているつもりです。
ですが、言わせてください。
自分は、産まれて、生きられて。幸せだったと。
自分という存在があなた様を苦しめたことも、承知の上で言う自分は厚かましいのでしょう。あなた様を犠牲にして、生きてきたのですから。
自分は、苦しみも知りました。悲しみも、ずっと心の内に燻らせていたでしょう。
ですが、それと同時に、友を知りました。
恋を、知りました。
短い生き様だったでしょう。周りの人からしたら、不幸な歩みだったと思われるでしょう。
それでも、自分は。
あなた様のおかげで、自分という認識ができました。
この手紙を読んでいらっしゃる頃、自分はすでにこの世にいないことでしょう。
最後まで、バカなことをしてしまい、申し訳ありません。
あなた様をあの魔窟から助け出せず、申し訳ございません。
親よりも先に死ぬという親不孝をしてしまい、弁解の余地もございません。
ですが、自分から。我儘を一つだけできるのなら。
俺は、あなたと親子として過ごしたかった。
ただ普通の、温かな家で、そんな些細な生活を送りたかった。
それはもはや、叶わないでしょう。あなた様も、望んでおられないと思います。
自分のことなど、この先の人生で忘れてしまって、構いません。戸籍も存在しない、のっぺらぼうなのですから。
これまでの謝辞と、最大の愛を持って、これからのあなた様の幸せを祈っております。
名前もない子どもより』
「ぁ……っ!あぁっ……!」
亜利沙は手紙を握りしめていた。誰からの手紙だかわかってしまい、もう十年近く顔も見ていない相手からの物だと知り。
手紙は何度も書き直された痕があり。途中に涙の痕もあり。
亜利沙自身の雫が、その手紙に溢れる。
祐介の幼少期、あえて彼とは顔を合わせなかった。会うことを拒絶した。彼が自分の子どもだと、認めなかった。
人生最大の汚点である証拠として。そして同じく汚らしい自分を母親だなんて認めて欲しくなくて。
亜利沙は自分が真っ当な母親ではないと自覚があった。そもそも望んで産んだ子でもなく、教育も一切せず。身分も真っ当な、ただの子どもとして産んであげられなかったという罪悪感があった。
だから彼には、母親などいないと認識してほしかった。こんな汚らしい者が親ではなく、親など死んだのだと思われる方がマシだという、彼女のエゴだった。
当時も、今も。この手紙を読むまでそれでいいと思っていた。エゴだなんて自覚すらなかった。
彼は土御門のしきたりに従って一度も彼女に会いに来ず。亜利沙も度重なる精神疲労で祐介のことを思い出せなくなるほど磨耗していた。
だから彼は、もう自分のことなど忘れたのだろうと。土御門の一員として生きているのだろうと思い込んでいた。
亜利沙は反射的に、鷺を見る。彼が遣わしたものだとわかったから。
そして夜なのに、窓の外で怪しげな紫の光が見えたことに疑問を浮かべ、無理矢理に上半身を起こして、窓の外を眺める。
そこには、紫の光の線でできた五芒星。
それが、消える瞬間だった。
「あ……」
彼女にはまだ、降霊の才能がわずかながら残っていた。それが降霊の儀式が行われたことを察知し、その術者の魂と呼ぶべきものがこの世から離れていく気配も感じ取れてしまった。
それが、誰のものか。わかってしまったがために。
「待って!お願い、待って!私はあなたに、何もできていない‼︎お願いだから……祐介ぇ‼︎」
その叫びは。
あの世までは、届かない。
エピローグ・2
その場を、静寂が支配する。
唯一の音は、珠希の啜り泣く声だけ。他に音が出せる者がいなかった。
星斗とマユは瑞穂が行くというので付いてきた形だ。京都に仕掛けられた術式を使った者の顔を見ようとしたくらい。京都校に向かうと聞いて、そしてすぐに終息すると聞いて、あまり心配はしていなかった。
それはここに集まった生徒たちも同じ。寮にいたら何かの術式が発動しているとわかり、京都の街中に行こうと思ったら光陰や薫の姿を見付けて何かあると感じてやってきただけ。あとは感覚が鋭くて、たまたまやって来ただけだ。
そこで行われた過去の天皇の呼び出し。それに関わっていた土御門の名を持つ者。仲裁に入った道摩法師。儀式を終わらせるための強硬手段。
その終わりに、割って入った人物。この学校で今や知らない人物はいないだろう。
難波明。名実ともに、京都を代表する陰陽師。陰陽寮の後継に選ばれた、現代の稀人。
その人物が、些か容姿を変貌させていれば、目も丸くしよう。分家という血の繋がりがある星斗すら、見たことがない姿。
で、あるならば。その姿を知っている人間とは。
そもそもとして。狐の耳と尻尾を生やした彼は、悪霊憑きなのか。それとも。
「金蘭、吟。いるんだろう?」
「「はっ、ここに」」
声を揃えて、明の脇に立膝をついて現れる。気配など感じなかったのに、待っていたかのようにそこにいた。
頭は下げたまま、指令を待つように。そうすることが当然のように。
「金蘭はミクを部屋に戻してくれ。瑠姫とゴンを連れていっていい。……ミク。後で事情は話すけど、
「……」
「ミク」
「……はい」
金蘭が姫抱きにして、その場を離れる。その姿を確認できた者はいなかった。なにせ、明がここに来たように霊脈を使った瞬間移動だったために。転移術式と言った方が正しい。
残された瑠姫とゴンは溜息をつきながら、後を追う。運ばれた先は珠希の部屋だ。向かう分には問題ない。
指示を出されなかった吟は明の付き人のようにそこへいた。もし害を為そうとすれば、即座に腰にある刀で斬り伏せられるだろう。
星斗としては、安倍家の式神であるお二方に敬称をつけなかった明に怪訝な視線を向けていたが、明はそれがわかった上で無視していた。
「桑名先輩。帝を除霊していただけますか?」
「え。あ、僕かい?難波君がやった方が的確かと思うんだが」
「本家本元には敵いません。姫さん、手伝ってください」
「しゃあないわあ」
校舎の屋上で見守っていた瑞穂は、星斗とマユを置いてきぼりにして地上に降りてくる。浮遊感を抱かせるような軽い着地に、使える者がほぼいない空間闊歩の術式だ。正確にはそれよりも上位の空間改変術式だが、それがわかる者はこの場に少ない。
明に指名された二人が帝に近付く前に、明自身が帝に近付き、頭を垂れた。
「帝。急な詠び出しと、意図せぬ事故。申し訳ありませんでした」
『うむ。朕はそなたらの全てを赦そう。して、ハルと言ったか?あの娘に世話になったと伝えておけ。これは勅命である』
「御身の御心のままに。さすがは帝でございます」
『朕は朕故な。長き間、御苦労。日ノ本のこれからは、そなたらに一任しよう』
明が平伏すると、帝は一つ大きく頷く。それと同時にやって来た二人へ命令を下す。
『疾く黄泉へ還せ。ここはすでに、朕の居場所ではない』
「はい、陛下。申し訳ありませんが、ここは些か人目がありまする。場所を移しても構いませんか?」
『良い。赦す』
「マー君。手を」
「はい。姫様」
「……やっぱり知られてる。それでは、暫し目を閉じてください。オン」
単音で集団の転移をこなす瑞穂。これでこの場に残ったのは野次馬と光陰、屋上にいる星斗とマユ、それに護衛の吟と、法師に明だけになった。
「法師。今までご苦労」
「明、お帰り──と言うべきか?」
「それでいい。こっちのことをしばらくしてから、全てを終わらせる。陰陽寮はもらうぞ。もしやり残していることや、『婆や』、ミクに伝えたいことがあるなら数日中に頼む」
「アレは姫に任せてある。現代の組織運営など齧ってもいないから不可能だ。私は私でのらりくらりと余暇を楽しませてもらう」
「ああ。悔いのないように」
まるで同格のように、和やかに会話している明と法師。その様子を誰もが困惑していた。二人の関係性は表向き、襲撃者と襲撃された側。事情を知っている人間からしても、協力者が精々だろう。
難波分家の星斗としても、まるでわからなかった。法師は確実に一千年前の人物。いくら明が陰陽寮を任された人間で、難波の次期当主だとしても遠慮というものが感じられないことはおかしいと思っていた。
全てを知っている吟は何も語らない。
「……何なんだ、お前たちは?難波はどうして、そんな格好を……!そもそもどうやって現れたんだ⁉︎さっきまで、確実にそこにいなかった!」
「五月蝿い。土御門光陰。……殺生石を奪い、玉藻の前を復活させるこの計画。お前が主犯だろう。あくまで共謀罪ってところだが、立派な犯罪だ。俺の親友を巻き込んで、実家も、そこに住む人たちも傷付けて。……
明が指向性の霊気を光陰にぶつける。それだけで光陰は膝をついて、汗をかき始めた。能力の絶対的な差を感じて、身体の言うことを聞かなくなったのだ。この霊気に耐えるには法師クラスの実力が必要になる。
「祐介の胸にあった殺生石は確認済み。その祐介が土御門の人間だったと証言している。本家を調べれば祐介が土御門の一員だとわかるだろう。そしてこの術式を止めるには、いや本質には。術者以外にもう一人の協力者が必要だ。……この一年の総決算だ。これ以上陰陽師を無闇に消耗させられたら、日本の天秤が崩れる。一千年の綱渡りも終わりだ」
「星斗辺りなら、姫が纏めた資料に手を出せるだろう。ひとまずあいつに任せればいいだろう?」
「星斗。聞いてるんだろう?降りてきてくれ」
渋々と、星斗は地上に降りてくる。一緒にいたマユも、簡易式神に乗って降りてきた。
「明。呪術犯罪者として、土御門光陰を捕らえろってことか?」
「ああ。それならプロとして、権限があるだろう?」
「証拠は……いや、あの術式の現行犯で良いのか。住吉は……」
「自壊術式だ。術式の発動の代償、言わなくても良いな?」
「わかった。殺生石を用いていたなら、そうなるのも頷ける」
星斗が束縛術式を使って、光陰の自由を奪っていく。マユはただ呆然と、増えた霊気も合わせて明のことを見ていると、腕の中の玄武が飛び出して明の手に収まった。
『明。いつから?』
「五月すぎの大天狗様の辺りで片鱗はあって、八月の事件ではっきりと。待たせた」
『別に。後で、あの人に挨拶、するから』
「頼む。……マユさん、玄武お返しいたします」
「あ、はい。……その。随分と様変わり、しましたね?」
「あなたの眼はさすがですね。もうしばらく、星斗と一緒に陰陽寮をお願いします」
「もう、継ぐのですか?」
「そうしないと、膿を一掃する機会を失うので。土御門と賀茂は氷山の一角に過ぎませんし」
丁寧に玄武をマユの手の中に戻す。
そう決意した明は深く深く、溜息をついた。
「学校と陰陽寮の二重生活かあ。学校を辞めたら長としての箔がなくなる。面倒だなぁ……」
ただの箔で、全てをこなす明の言葉に。
法師と吟だけが、苦笑していた。
一千年前の全てに終止符が打たれるまで、あと数日。
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