第168話 4ー1

 住吉祐介──正確には土御門祐介の産まれというものは現代日本でもなかなかに奇特なものであると言える。

 物心がついた三歳頃。一番身近だった歳相応の女性に投げかけたこの言葉が決定的だった。


「おかあさん」

「祐介さん。私はあなたの母ではありません。使用人でございます」


 三十代ほどの、着物を着た女性にそう返されて、物心がついて初めての衝撃だっただろう。自分の一番側にいる女性が、母親ではなかったなどと。

 大きなお屋敷、一般的な邸宅ではなく日本庭園もあるお屋敷である。そんな場所に住んでいたのであれば、外の人間が見れば使用人がいてもおかしくはないだろうが、小さな子どもにはショッキングな事実だろう。


 だが、それもそのはず。土御門の名前を名乗れる者は本家本元のみ。祐介の代だけであれば、土御門光陰のみだ。彼に他の兄弟がいないため、この世代の土御門は光陰ただ一人となる。

 祐介は間違いなく土御門の人間だった。分家筋とかではなく、土御門直系の人間である。


 だというのに世間に公表されない理由は、母親にあった。

 使用人が祐介を母親の元に連れていく。自分を母親と呼び始めたら、それは教育を間違えたことになる。

 そのため、どんな現実が待ち構えていようが、祐介を母親に会わせることにした。それは襖で遮られた一つの大きな部屋。和室があるのだろうと察せられる部屋だ。

 しかしそこは、祐介が住む屋敷から渡り廊下を通らなければならないほど隔離された場所だった。平屋建ての大きな建物の一室で、祐介の住む屋敷にいる使用人が、ここでは少なかった。


亜利沙ありさ様、祐介さんをお連れしました」

「……帰って。顔も見たくない」


 襖が開くことなく返ってきた言葉は、声は。疲れているようだった。喉が枯れているのかガラガラで、とても生を感じない、低い声。

 女性の声だとはわかるが、祐介の母親だと思えるような、若さを感じない声だった。


「そうはいきません。良い頃合いかと思われます。本家の子どもではない子どもたちには、三歳と六歳の時に母親に会わせることになっておりますので」

「私はその子の母親じゃないわよぉ。ホント、帰って。母親は死んだことにすれば良いじゃない……」

「……おかあさん?」


 ガタッと音がした。祐介の舌ったらずな声に、寄っかかっている何かから崩れ落ちたかのような音がした。

 そんな音がしたのは何故か。祐介はそこまで考えられない。三歳児にそんなことを考えろと言う方が無茶だ。

 今の祐介の頭には、会ったことがない母親に会いたいということしかない。


「開けますね」

「待って、ホント待って!」


 悲鳴のような静止を聞かず、使用人は襖を開ける。使用人の脇にいた祐介の目に映ったのは、畳が敷き詰められた大きな和室で、部屋の隅っこの布団に包まった女性。

 白い貫頭衣のようなものを着て、長い茶色の髪は手入れをしていないのかボサボサで。目も荒んでおり、目元は隈だらけで。部屋には様々な物が散乱しており、彼女の近くには物置台が横に倒れており、その上にあったのであろう化粧品の数々が床に散らばっていた。


 部屋は、上質だろう。高級旅館の一室と言ってもいい。掛け軸や飾られている花瓶、些細な物までお高いとわかる調度品なのだから。

 だが、そこにいる人物が。まるで部屋にふさわしくなかった。肌を掻きむしったのか赤切れしている、爪痕など残った日光を浴びていない白い肌。その肌がガサガサであり、赤い線がいくつもついていて、それだけで不気味だった。


 部屋はひとことで言って汚部屋だろう。ここには使用人がいないのか、いてもこうなってしまうのか。それだけ汚かった。

 この部屋の主人たる女性は。祐介の姿を見ると後ずさって布団を頭から被って、部屋の壁に背中をつけていた。

 まるで祐介を見たくないかのように。祐介に、見られたくないかのように。


「亜利沙様」

「やめてよ……!本当に、その子なの?あなたたちの勘違いじゃないの?」

「間違いありません。住吉祐介。あなたの子どもです」


 その名が紡がれた瞬間。もう一度彼女は身体を大きく揺らした。

 そんな反応をされる理由が、祐介にはわからなかった。どうして顔を合わせてくれないのか、わからなかった。どうして怯えているのか、わからなかった。

 祐介が十歳になる頃には母親の心情もわかったのだが、今この時点では理解することができなかった。


「……住吉なんて、名乗らせてるの?」

「誰が誰の子どもか把握するのに便利ですので」

「そんなものっ!名前じゃないじゃない!アンタらは、本当に……っ!」


 亜利沙は近くにあった枕を使用人の女性に投げようとしたが。

 枕を上に持ち上げて、使用人の顔を見て。そのまま枕をその場に下ろした。

 使用人の表情が、同類を見るようなものだったから。

 彼女も囚われた一人でしかないから。


 土御門の使用人とは、外部から雇った人間ではない。

 実験で何も成果を得られなかった、失敗作たちが雑用をしているに過ぎないのだ。

 彼らは戸籍なんて存在しない。幾人かは存在する者もいるが、全員ではない。祐介も、戸籍は存在しなかった。


 基本は土御門の領地で軟禁。買い物くらいならさせるが、京都市を出られないように呪術で行動を制限している。脳に直接術を仕込まれているので、まず脱走しようという考えが浮かばないようになっている。

 もし出てしまったら、変死体になるように条件付けされている。あと、土御門のことについて話した場合も同様に呪術が身体に巡る。


 それが使用人たちだ。その状況と、亜利沙もほぼ変わらない。

 彼女も与えられた一室からまともに出られず、風呂でさえ監視があり、自由などない。娯楽などもほぼなく、ただ子を為すだけの側室だ。

 それでも彼女は。祐介という子どもにしては霊気を多く持った子どもを産んだ親として少しは他の側室より扱いはマシだ。

 マシで、一部屋に軟禁である。他の成果を出せなかった側室などは、使用人になるだけ。


「……祐介さんと話さなくていいのですか?」

「話せないわよ。……私が母親なんて、思わない方が良いでしょ。ホント、何もかも嘘じゃない……!私、こんな道具になるために嫁いだわけじゃないのに……!」


 布団の中から、啜り哭く声が。それを聞いて、祐介は亜利沙に近付けなかった。

 子どもは、敏感だ。傷心中の母親に、子どもとして認められていないということ。今近付いたらダメなこと。

 それがわかってしまった。


「せめて、生活は安定させてください。寝る時は寝てください。ご主人様が困ります」

「はっ。徹底的に困らせてやるわよ。もう誰が、あんな悪魔の子どもなんて産むものか……!」


 それが亜利沙の最後の抵抗。

 今や彼女は、ただ子どもを産むだけの道具だ。祐介という結果が出たために、何度かまた身体を重ねているが、生活が崩れすぎてまともに生理が来ていなかった。

 生理が来たり来なかったり。そんな状態で妊娠もできず、もしかしたら遠くない未来に彼女は用無しになるかもしれなかった。


 それは、祐介の成果を以ってして相殺され、結果軟禁生活を強いられることになるが。

 結局。祐介の母親との初邂逅は最悪な形で終わった。まともに会話もせず、姿を見れたのも数秒だけ。

 そうして祐介は土御門という家が怖くなり。


 母親に会いたいがために、土御門へ貢献することになる。

 それが亜利沙の母体としての優秀さを裏付ける形になり彼女を苦しめ。彼女を救うために祐介は更に頑張り。

 そんな悪循環が出来上がってしまった。


────


 住吉亜利沙という少女は、いたって普通の女の子だった。

 霊気もなく、学校の成績も中の中。高校は適当に楽しんでいる、宮城に住んでいるいたって普通の十六歳。

 他人と違うところと言えば、霊媒体質があったこと、だろうか。


 小さい頃から幽霊が見えて、金縛りなどに遭い。霊に襲われることもあったが、なんとか十六年生きてきた。

 陰陽師が作った呪具で霊を避ける物を作ってもらい、そのおかげでそれをもらってからは平穏な生活を送っていた。親がかなりの金額を払ってもらった呪具だが、霊媒体質に悩む国民が多かったために、昔から呪具の開発はされていた。


 そのため呪具は金額さえ払えばなんとかなるものでもある。

 霊媒体質は天竜会で保護されるような異能とはまた別に認識されている。日本では霊媒体質の者が多く、本人たちが生活上困ることはあっても、他人に及ぼす危険が少ないからだ。


 日常生活を送ることすら厳しかったら天竜会で保護されるが、霊媒体質は症例が多かったために対処法も確立されており、一般的な対処ができたためにわざわざ天竜会が出てくる理由にはならない。

 二十一世紀になると、そんな霊媒体質も実は珍しい症状になっていたが。


 御魂持ちや霊気を用いない発火能力者に比べれば保護する理由もなく。

 結局は一応平凡な生活を送っていた時。

 高校から帰った夏の日。何故か家にリムジンがいた。それも数台。そんなものが一般的な家である住吉家の前に停まっていることが不思議だった。閑静な住宅街で、高級住宅街でもなんでもない。


 亜利沙は疑問に思いながらも、門を潜って家に入る。玄関には黒い革靴がいくつも。リムジンのお客さんだろうと、一言だけ挨拶して二階の自分の部屋に篭っていようと考えた。自分には関係ないと。

 リビングには両親──珍しく父親もいた。おそらく仕事を途中で抜けてきたのだろう──と和服の男の人が椅子に座り、部屋の中には他にもSPのような黒服を着た男の人が複数人いた。


「ただいま。それと、いらっしゃいませ」

「ああ、亜利沙!お前に関わる話だ。こちらに来なさい」


 おかえりという言葉もなく、亜利沙はリビングの唯一空いている椅子に座らされる。黒服の男たちはサングラスをかけていたのでそれが返って威圧的に感じて肩身が狭かった。実家なのに。

 椅子に座っている和服の男性は片方が三十代、もう片方は二十歳を過ぎたばかりに見えた。二人ともイケメンだなと、亜利沙は率直な意見を思い浮かべながらも警戒はしておく。

 いたって普通の家で、この異常事態。警戒するのが年頃の娘としての当たり前だった。


「初めまして、亜利沙さん。いきなりで申し訳ありません。私の名前は土御門晴道はれみち。陰陽大家土御門の当主です」


 超お偉いさんだ、と思った。陰陽師の才能がなくても、一般人としての常識がそう訴えかける。そして余計に何故我が家にと疑問が増える。


「私は八尾洸夜やおこうや。宮城に根を下ろした土御門の分家です」


 それが二十歳くらいの人の自己紹介。こちらは特に知らなかった。流れ的に亜利沙は自分の番だと思って、自己紹介をする。


「住吉亜利沙です。高校一年生です」


 それしか言えなかった。両親と話している時点で色々話をした後だろうと思い、何を言えばいいのかわからなかったのだ。

 亜利沙は未だに、この状況で混乱しているのだから。


「単刀直入にいこうか。この度洸夜が妻となるべき伴侶を探していてね。それでお見合い相手に亜利沙君が選ばれたわけだ」

「お見合い……?ええっ、私がですか⁉︎」


 晴道の言葉に、思わず大声を出してしまった亜利沙。

 それも仕方がないだろう。

 まだ十六歳の少女で、相手は分家とはいえ土御門の御曹司。こんな平凡な少女が見合いの相手に選ばれるなど想定もしていないだろう。


「ああ、君だ。君は幼少の頃から霊媒体質で苦しんでいたと聞く。その霊媒体質を持っている者が親の場合、優秀な呪術師が産まれやすいということが最近の研究でわかってきてね」

「そう、なんですか?」

「ああ。そして霊媒体質だが、呪術省で把握しているだけでもかなりの数を減らしている。君は日本でも希少な人物でね。そんな君と洸夜で、この地域を守ってほしい。日本を守るには、大きな力が必要なのだ」


 普通なら、このような怪しい言葉で簡単に頷くことはない。いくら名誉なことといえども、常識があれば疑う言葉ばかりだ。

 だが、彼女は。いいや、住吉という家族は、この言葉に頷いてしまう。悪魔の契約を結んでしまう。


 その理由は呪術の行使だ。

 陰陽師の適性がない一般人には呪術による暗示・洗脳は容易で、三人とも晴道の言葉に乗せられてしまう。

 それが地獄への片道切符だとわかっているのに、理性を失い、判断力が衰えた彼女たちは、彼の言葉が酷く残酷なものだと気付けない。


「両親も納得している。まずは彼と過ごしてみて、その気になったら婚約でどうかな?」

「……はい」

「そうかそうか。それは良かった。霊媒体質は子どもに降霊の才能を授けるようでね。これで東北は安泰だ」


 それからのおべんちゃらを、三人は覚えていない。

 だが即日で亜利沙は高校を中退することになり。すぐに引っ越して宮城ではなく京都へ連れていかれた。

 八尾洸夜との婚約など偽装で、正確には土御門晴道の側室として京都に軟禁されることになる。洸夜と会ったことなどこの時ばかり。本当に宮城に根ざす土御門の分家だったのかすら怪しい。


 彼女が選ばれた理由は霊媒体質はもちろん。純粋に晴道の好みだったからだ。

 そうして彼女は訳もわからぬまま、いきなり全てを奪われて。

 晴道に犯されて、祐介を身籠もることになる。

 まだ十七歳の誕生日を迎える前の話だった。


 そんなスキャンダルは世間に漏れ出ることはなく。亜利沙の両親には亜利沙が元気にやっていると呪術で思い込まされて。全てのことを身内でやってのけたために賀茂も呪術省も気付かず。

 住吉家には何度も呪術を仕込むことで亜利沙が元気にやっていると信じ込み。家に帰ってこないこともさして疑問に思わず。


 姫──天海瑞穂が本家を制圧するまでその闇はずっと、蔓延っていた。他の子女も騙され連れられ、ロクに成果を出せずに捨てられる。

 だから成果を出した亜利沙は再び子を産むように彼らなりに大事にされ。

 亜利沙の反抗も相まって他に産まれた闇の子はおらず。晴道もある程度納得がいったのか、ここ数年はそのような暴挙もなかった。


 姫に発見された時の亜利沙の状況はかなり身体が衰弱しており、精神も病んでいた。そのため緊急入院することになり、今は人工呼吸器をつけられ、目を覚まさない状況だ。

 彼女はたった一人の息子が何をしようとしているか、まだ知らない。

 盛大な自殺とも呼べる、大儀式まであと僅か。

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