第147話 3ー3

 見付けましたわ!あの下半身が馬のような怪異と共に、ヴェルが!何故か上半身が黒い肌の人間のような怪異は左腕に那須を掴んでいて、足元には難波の狼がいましたが。まさか何もできず、連行されている?

 結局、引きこもりにはその程度のことしかできないのでしょう。命乞いで難波も助けてもらったに違いありません。そうでなければ、あの小憎たらしい女が無言で捕まっているはずもありませんわ。霊気がちょっと多くて髪と瞳が変色している程度で式神を預けてもらっている分家の娘。術式の制御もろくにできず、実践では役に立たない才能の持ち腐れ。


 あの狼も以前術比べで負けたので苦手意識はありますが。今戦えば負けるはずがありません。プロの資格も得ないような腰抜けが使役する式神なぞに負けるはずがないのですから。この世界は実力が全て。実力の指標はプロの階級のみ。何も段位を持っていない者たちが、ライセンス持ちに勝てるはずがありません。

 わたくしの他にも二十人ほどの人間がここに来ていたようですが、全員地面に伏しています。全く、プロだとしたら情けない。誰も死んではいないようですが、戦えそうにありませんね。


『なんじゃ、来たのか。やめておけば良いのにのう』


『貴様が殺しておかないからだぞ。何の矜持か知らぬが、邪魔なら殺せ。貴様の道楽で些末事が増えるのは苛立つ』


『矜持じゃなくて愉しみなのじゃが。まあ、ええわ。お嬢さん、戦ってやるのじゃ。さっきは優先事があったんでのう』


「賀茂さん、逃げてください!あなたじゃ敵いません!」


 はっ。捕まったお姫様はよく囀りますわ。わたくしでは敵わない?それが理由になりますか。こうやって人間に仇なす存在を目の前にして逃げるなど、賀茂家の長子として名折れもいいところ。

 たとえ敵わなくても倒すという気概でなくて、どうして京都を守護できましょうか。

 わたくしが周りの声を無視して呪符を取り出すと、難波の狼が近づいて来ましたわ。邪魔をしないで欲しいのだけれど。


『賀茂のお嬢さん。あの茨木童子を出すつもりか?絶対に負けるからよした方がいいですぜ。そんなにあの女を倒したいのなら、ウチの坊ちゃんを連れて来てください。万全な状態で。そうすればなんとかなるかもしれません』


「あの引き篭もりに頼れと⁉︎嫌ですわ!あんな土御門に反旗を翻した男に頼るつもりなど毛頭ありません!」


『……あー。ヴェル何某さん?もしかして何かやったんすか?』


『まあ、憎悪の増幅とか印象操作とか軽い暗示を少々じゃな。邪魔されたからムカついたんじゃ』


 何かゴチャゴチャ話していますが、狼が呆れた顔で帰っていくのを見てわたくしは呪符に霊気を込めます。頭の奥が痛み出しますが、この程度の霊気の消耗で限界が来るはずありませんわ。だからきっと、気のせい。


「来なさい!茨木童子!」


『いやー、二回目でも笑えるのう。茨木童子は法師の式神じゃろ。名前を偽られた可哀想な鬼さんや。本当の名はなんと言う?』


 現れた茨木童子に、無遠慮に触れるヴェル。それを振り払おうともしない茨木童子にさらに頭が沸騰します。あなたは賀茂に仕える鬼でしょう!戦えない式神は必要ない!何の為に呼び出したと思っているのか!

 この苛立ちを、そのまま包み隠さずぶつける。


「何をしているんですか、茨木童子!その女を倒しなさい!」


『倒すぅ?殺す気ないんじゃの。妖も殺した事ないんか。魑魅魍魎を倒していただけで調子に乗っている箱入り娘は困るのう。この鬼、梅華ばいかってゆうらしいぞ?真名がわかって良かったのう』


「何を言って……!」


『ん?本当に茨木童子と思い込んでた?まさか家でそういう認識を植え込まれたのかのう?』


 いつの間にか目の前に来ていたヴェル。そして彼女の左手から伸びる爪が、わたくしの頭に突き刺さっていた・・・・・・・・

 痛みはない。ただあるのは、感じたことのない浮遊感だけ。

 那須の、息を呑むような呆気に取られた顔が嫌に目に焼きつく。


『あー……?なんじゃこれ?幼少期からの洗脳教育による星見の開発?脳もかなり弄ってるのう。これ、純粋な人間とは呼べなくない?胎児の時点で弄ってるのう。霊気の取得のために母体にかなり負担をかけて……。胎盤の中から呪術漬けにして最強の陰陽師を産み出す?しかも母体にすら負荷かけて、疑問に思わないように母体も洗脳?うっぇ。ここまで人間がするぅ?正直ドン引きなんじゃけど』


 目の前の女が何か言っている。だけど、その音を正しくわたくしの耳が拾わない。


『産まれから弄るなど、できるのか?』


『陰陽術って、特に呪術は人体にかなり精通してないと意味ないからのう。んで、霊気を強制的に流し込むことで人体改造は可能じゃ。まあ、身体のどこかがイカれたり、まともな思考能力がなくなったり、そもそも死産したりするんじゃが。運良く成功した個体、ということじゃ。呪術師としての壁に行き詰まってここまでやるとは、悍ましいのう、人間は』


「それ、人間としてはまともになるんですか……?」


『一定期間ごとに誰かが調整をすれば、表面上は人間として生活できるじゃろう。ここ最近、昨日にも調整を受けておる。じゃが、もちろん不具合も出る。基本問題が出ないようにとある男の子に従順になるように思考誘導がされておるし、もし不具合で変な行動、思考をしたとしても調整でその記憶を消しているのじゃ。そのせいで記憶野はズタボロ。どの記憶が正しいかの判別もつかぬし、記憶も飛び放題、これ、もう人間とは呼べぬぞ?しかも調整とは別に、思い付く強化策を実験のようにとにかく組み込まれておる。身体に呪具まで埋め込まれておるのう。おなごにすることではあるまい』


「賀茂家はそこまでしていたんですか……」


 あの怪異も、引き篭もりの金魚の糞も口が動いている。なのに、頭に何も入ってこない。


『これ、星見の兆候が出るわけなかろう。あれは自然を知覚することが最重要なのに、そこを人為的な思考で埋め尽くされておる。自然を感じるどころか、風すらまともに感じられないんじゃなかろうか?霊気を感じ取っても、それは陰陽師としてちょっと感覚が鋭い程度じゃしのう。身体の中で複数の呪具が混ざり合って変な効果を出しておらんか?むしろマイナスの効果が出とるような……。今のこやつ、痛みも何も感じておらんぞ?』


『……人間としての五感すら、まともに機能していないってことですかい?』


『そうじゃ。こんなの、陰陽術が使えて外見を整えただけの、人間擬きじゃよ。ただ術式を稼働させるだけの、人形じゃ。脳も身体も弄られて、心すら弄られている生き物をまともな生物と呼べるのかのう?わっちはそうは思わん。こやつと土御門は増幅させやすい感情があったからちょっと弄ったのじゃが、ここまでとは』


「まさか、土御門も?」


『それはないとは思うんじゃが。あっちは人間じゃと思う、うん。……やめじゃやめじゃ。これを喰らうのは矜持に反する。こんな不味いもん喰いとうない』


 爪が引き抜かれる。それでもまだ頭の中に空白が漂ったまま。刺された所へ手を当てるが、出血はない。

 頭の中で何かが明滅する。わたしは、この身体は。何をすべきだ。最優先事項は?目の前に妖がいる。あれは人類の敵だ。あれを打ち倒せ。土御門に遅れを取らないように──。


 たとえこの身体が壊れようと。正義の味方であれ。魑魅魍魎も妖も難波も敵だ。敵は呪術師の敵だ。呪術省の敵だ。賀茂家の敵だ。土御門にも呪術師の頂点たる称号は与えない。そこに相応しいのは。

 本当の陰陽師の始祖は、賀茂だということを証明しなければならない──!

 そのために必要なことは、身体が覚えている。脳が働かなくても、それは実行できる。霊気を通して術を起こせばいい。それで倒せない敵などいないのだから、全てを捨ててでも、行動せよ──。


『あーあ。リミッター外れて霊気が増えた。でも、七段に届くかどうかってくらいじゃの。封印とかで霊気に阻害が起きとる。これじゃいくら弄っても強くなれんじゃろ』


「瞳に光がありません……!賀茂さんはどうなったんですか⁉︎」


『人格なんて無くして、ただの戦闘人形になっちまったんでしょうよ。珠希お嬢さん、目を閉じていてください。難波に仕える者として、あの存在を看過できません』


「銀郎様!」


『……私がやろうか?狼』


『いいえ。あなたじゃ彼女を苦しめるだけでしょう。あっしが、一瞬でやります』


 ここにいるのは全員敵だ。何をしてでも破壊する。賀茂の繁栄には、これが邪魔だ──!

 何かが、光ったように思える。それが何なのか理解できなかった。視覚で追えなかった。

 揺れる視線。崩れる視界。最期に映るのは、狼の泣きそうな顔。

 全ての、終焉。


────


 わたくしは物心が着くことが遅かったらしいです。一番幼い時の記憶は既に小学校に通っている頃。それ以前の記憶は曖昧で、ずっと呪術を習っていたということだけはわかりましたわ。だって身体が、嫌でも覚えているのですもの。どれもすんなりとはいかなくても、何となくわかって使えてしまうのだから。

 わたくしには弟がいます。三つ下の子。ですが、血は半分しか繋がっていません。わたくしとは母が異なるとのこと。わたくしの母は出産で無理をしたのか、その時に亡くなったと聞かされています。だから弟は後妻の子。正式にも結婚しているので、弟が将来的には家を継ぐのでしょう。


 陰陽師の家を継ぐのは昔からの風習で男児と決まっていますから。女として産まれた時点で、わたくしは賀茂家の長子であっても後継にはなれなかった。それが悔しいとは思いませんわ。弟もすこぶる優秀で、あの子に任せれば賀茂家は安泰だとわかっているから。とはいえわたくしも賀茂家の子。家の名に恥じぬよう研鑽を積み、賀茂家の者として呪術も勉学も作法も、全てにおいて邁進してまいりました。

 わたくしはいつか土御門家に嫁ぐ。それが幼少期から決定されておりましたから。


 相手は土御門家の長子、土御門光陰様。一番昔の記憶でもすでに知り合っていて、いつの間にやら周りに人がいなければコウ君と呼んでおりました。コウ君はいつでも真剣に、我が家にかけられた狐の呪いを解いてみせると呪術の研鑽を積んで参りました。寝る間も惜しんで、様々な研究書を読み込み、術式の良し悪しを学び。魑魅魍魎を幼い時から倒し、プロの陰陽師を師として学び取り。

 その努力と産まれ持った才能と彼の類まれなる執念が実を結んだのか。彼は実力をどんどんつけていき、同年代では誰も敵わないほどの実力者になっていきました。将来は五神か、呪術大臣か。将来有望と言われる方の伴侶になるべく、わたくしもできうる限りの修練を積んでまいりました。片方が劣っている場合産まれてくる子どもの才能にも影響が出ます。だからわたくしもと、特に父上に身を入れて習いましたわ。


 父の代では呪術大臣になっていないので手が空いていたのでしょう。それでもプロとして、娘を想ってくれたのか弟とは別枠で修行をつけてくださいました。主に呪具を用いた戦い方や霊気を増やす方法などを伝授してくださって、それの成果が出たのか幼少期からわたくしの霊気も多くなりました。元々髪も瞳も変色していたので、霊気は元から多かったのですが。

 そんなわたくしに父上は何を想ったのか。遥か昔に賀茂家が捕らえたという伝説の鬼──茨木童子を式神にするという認証を得ました。賀茂家でも土御門家でも認められた者がその家で管理する式神を譲渡され、その式神と契約し主となります。両家で一括管理している式神もいますが、わたくしに任されたのは賀茂家が管理している鬼。


 その鬼は暴威の化身。全てを破壊し尽くす災害そのもの。その制御と使うタイミングは細心の注意を払えと教わり、契約してからその意味を真の意味で理解しました。持っていかれる霊気の量の膨大さ、少しでも気を抜くと制御を抜けて暴れようとする気質の荒さ。その強すぎる力から使える場面がほぼほぼ存在しないために修行の時間のほとんどを制御に回しました。それほどに扱い難い式神だったのです。

 指示はあまり聞かず暴れて建物を壊し。人を襲いかけ。あまつさえ指示も聞かずにただ棒立ちをするだけの時もあり。でもわたくしはこの鬼を制御しなければならなかった。コウ君はまだきちんとした式神を受け取っておらず、もし同じような暴威が現れた時に身を挺して守るために。


 時には霊気を持っていかれすぎて失神し。時には共感覚の呪いを受けて同じような傷を負い。時にはこちらに牙を剥いたこともあったけど、様々な人の協力も得て十三歳の時には完璧な制御ができるようになっていましたわ。これで堂々とコウ君の隣に居られる。胸を張って言えるようになるまでだいぶかかりましたが、それでも彼を孤独にしなかったというのはわたくしの小さな誇りです。

 コウ君はその実力と家柄から孤立しがちでした。近寄ってくる相手は全員が土御門という大きすぎる名前を見て判断する俗物ばかり。誰も一千年前にかけられた狐の呪いを解くために奮闘している姿など認めず、大人は天才と煽てて胡麻擂りを。またはただの家柄に恵まれただけの子どもだとして早熟なのは当たり前だと見下し。


 子どもであってもどうしてもその立場が邪魔して、おべっかを使う取り巻きはできても友達はできず。彼に恋する女の子はやっぱり家柄を見てか、親に言われて玉の輿狙いか、時たま本当に恋していたか。

 でもコウ君は彼女を作らなかった。わたくしという婚約者がいるから、ではないでしょう。純粋に彼に見合う女の子がいなかっただけ。だって彼の隣には呪術師として優れていなければ立てない。彼の両肩には、日本の未来が掛かっているのだから。日本を守るべきは土御門──いや、違う。賀茂家は陰陽師の真の始祖。真に頂点に立つべきは賀茂家で、今代では弟であるべきなのだ。彼との婚約だって、その橋渡しのため。


 わたくしですら、彼には認めてもらえない。一度も好きだと言われたことがないのだから、きっと彼はわたくしのことを好きではないのでしょう。いつかあの人にとって本当に好きな人が現れて。婚約を解消されて。そうして両家の絆も終わって。

 この片想いに終止符を打って、賀茂としてまた歩き出せばいい。その後は弟を支えればいい。それが長子としてできること。できれば結婚相手もそれなりの家の誰かが好ましいのですが。


 そんなことを悟ってしまった折。休日のある日、弟が唐突にこんな申し出をしてきた。二人とも特に用事がなかったために、問題はないのだけど。


「出かけませんか?姉様。誰にも邪魔されず、二人で」


 わたくしがあまり出かけないことを気にしてか、そんな提案をされた。弟と二人で出かけるというのはその日が初めてだった。わたくしは基本的に外出を許されておらず、学校以外に外出をしたことは何かしらの修行に魑魅魍魎を狩りに行くか、茨木童子を暴れさせるために広い場所を求めてくらい。

 それ以外は家で呪術の勉学をしたり、様々な作法を学んだり。財力があったために、外に出る必要性があまりなかったと言えますわ。家で物事が完結いたしますし、あとは精々土御門家か呪術省へ行くぐらいしか用事がありませんもの。


 京都の街並みを、昔から綿々と続く古都らしさを残す通りを二人で歩く。わたくしも弟も、学校は家の者が送り迎えをするので、こうして街並みを当てもなく歩くというのは新鮮なことでした。

 これなら確かに、気分転換となるでしょう。弟は一人で歩くのが怖いのか、わたくしの手を硬く握る。まるではぐれるのが怖いかのように。そういうところは年相応なのだなと思いましたわ。可愛らしいとも。

 そんな弟は、街並みを見回しながら、いきなりこんなことを聞いてきました。わたくしの顔を覗き込むように、不安そうな表情で。


「姉様。最近嫌なことでもあったのですか?」


「あら、どうして?わたくしどこか変?」


「はい。いつにも増して、顔色がよろしくありません」


「……身内だから良いものの。そういうことは女性に言ってはいけませんよ」


 女性に向かって顔色が悪いなど。そういう時はきっと機嫌が悪いのだと思って流しなさい。足取りがしっかりしていれば体調不良ではないのですから、わざわざ首を突っ込むことではないというのに。


「女性の体調は常に気に掛けろと習いましたが」


「いつもにも増して、とか。顔色とか。もう少し言葉を選びなさい」


「これでも純粋な心配なのですが」


「ではなおさら悪いですわね。他の女性に言う際にはもっと柔らかい言葉を使いなさい」


 そう言われたのが不満なのか、弟は頬を膨らませながらわたくしから目を逸らします。あら、可愛くない。


「……姉様。女の人に身体を調べられているでしょう?どこか悪いのではありませんか?」


「ああ、そういうこと。あの方は主治医ですもの。わたくしに何かあったら困ると、父上のお節介ですわ」


「やはり父上の息の根がかかった者ですか……」


「なんですか、その物言いは。父上に何か文句でもあるの?」


「ええ。僕は父上のことを信用していませんから。姉様にしたことを考えれば、当然です」


 わたくしに仕出かしたこと?何を言っているのかしら、この子は。父上はいつだってわたくしに便宜を図ってくれましたわ。わたくしがワガママを言うような性格ではなかったためにそこまで苦労はかけさせていないはずですが、父上の方が何かをしたと?

 修行の時くらいしかまともに話したことはありませんが、厳格な良い父上だと思いますわ。忙しいから家族としての時間が取れないことは仕方がありませんし、叔父様が亡くなったことで引き継いだ賀茂家の財産などたくさんあるのでしょう。それらを纏めるのは一苦労だったはず。

 それ以外でわたくしが受けた仕打ちなど何かあったかしら?


「姉様、本当にわかりませんか?……僕はこうして・・・・・・あなたと出かけた・・・・・・・・ことはありません・・・・・・・。光陰様すら、あなたを外に呼び出せなかったのです。僕がこうして、誰にも邪魔されずに呼び出せるわけがないんです」


「……何を、言っているの?今、こうして屋敷の外に出ているじゃない」


 弟の顔が、歪む。それは悲しいという感情の現れでもあったのだろうけど、物理的にも、形を崩していく。


今とは・・・いつです・・・・?」


「今は……。いえ、これは過去の記憶のはず。たぶん、中学に入る前の……」


「はい。その頃を想定しています。ですが、僕と姉上は、接触禁止・・・・だったでしょう?」


「接触、禁止?」


 繋がれた手も、解けてしまう。そうだ、わたくしは食事の席でも孤独だった。父上とだけではない。誰も彼も、わたくしに会いに来るどころか避けていたではないか。手はおろか、その肌に触れたことすらなかった。

 わたくしは、血の繋がった弟の体温すら知りはしなかった。

 誰かの暖かさなど、微塵も知りはしなかった。

 誰かと、あの家で話をしたのはいつが最後だったか。


「姉様。僕はある人が間に合うまでの時間稼ぎです。……真の泰山府君祭はまだ解明できていないために、霊として現世に留めるのが関の山でしょう。だから、選んでください。式神として過ごすか、賀茂静香として終わりを迎えるか。……僕としては、これ以上姉様は苦しまなくて良いと思います」


「お、わり?苦しむ?」


「真実を知ることだけが全てではないんです。知らなくても良いこともある。……もう、賀茂に縛られなくて良いんですよ」


 泡沫の夢のように、周りの景色が崩れていく。上も下もわからぬように、身体が宙に投げ出される。弟だと思っていた存在すらも、陽炎のように揺らいでいく。

 それこそが、わたくしの世界だというように。


「ま、待って!この虚無感は何⁉︎わたくしは……!」


「姉様。僕の名前・・・・覚えていますか・・・・・・・?」


「あなたの、名前は──⁉︎」


 どうして?たった一人の弟なのに。半分しか血が繋がっていないとはいえ、三つ下の弟の名前を、どうしてわたくしは……?

 過去の姿も今の姿も、名前も趣味も好きなことも。何も思い浮かばない。

 気付いた時、わたくしの中には。コウ君以外との思い出が何も残っていないのだと打ち付けられて。それが心に空いた孔だとわかっても、失ったものは何一つこの手に掴めず。

 自意識は、常闇に飲み込まれていった。


────


 この二百年。賀茂家から星見は現れていない。土御門もそうだが、この表側二大巨頭たる陰陽大家で星見という破格の異能が顕現することはなかった。星見が現れるのは難波の血筋や野良の陰陽師ばかり。それに近しい風水は天海の家系と、適性があり真剣に学んだ者だけだった。

 年々星々や自然に見放されてきたこの二家では星見の片鱗など欠片も見られなくなっていた。


 関係者で唯一の「婆や」に子どもを見せにいったが、毎度同じことを言われるだけ。呪術省の前身たる陰陽寮で監禁している「婆や」はいつ見ても四十代くらいの綺麗な女性だった。九尾の狐憑きのようで、尻尾から九本の尻尾と頭にある狐耳を隠そうともしていない、いつから生きているのかも謎な女性。彼女は陰陽寮で唯一の星見であった時代もあった。

 見た目だけならお婆さんと呼ばれるようなことはないのだが、ゆったりとした話し方と語尾からそう言われていた。名前を名乗らないことからも、いつかの子どもが戯れで言った「婆や」という愛称が浸透してしまったせいだ。

 未来視しかできない代わりに、その未来を外したことのない破格の存在。そして星見には星見のことがわかる。そんな「婆や」は両家の子どもたちを見て必ずこう言った。


『星々に見放されておるのう。ここの地下でやっていることとか改めれば改善しそうですが。その調子だと星見の子どもは産まれませんよ?』


「地下のことが原因だと?」


『あれは星々の祝福ですから。その祝福だって不確かじゃが。九尾たるこの身でも星には愛される。風水とて自然に愛される。……そなたらは星を知るために何をしている?愛は一方通行では成立しないじゃろ?』


 そう助言したが、その助言は聞き入れられず。「婆や」としても親切心で言ったのだが、どちらの家も変えようとしなかった。日本を守るためにあの戦力は必要になるとしか言わず、「婆や」はそれ以上何も言わなかった。そのせいで敵を作り、のちに滅ぼされる未来を視ても告げることはしなかった。

 そうして滅びることが必定だと悟ったために。


 時は流れ今から三十年ほど前。ある計画が賀茂家内で持ち上がり、それを実行する流れになる。いくらか実証実験を行い、ある程度の目処が経った頃に本格的な実験をしようとして十年ほど。その計画の発案者たる時の呪術省大臣が天海瑞穂──当時の麒麟と同士討ちになってしまう。

 その影響で賀茂家の当主が空白になり、死んだ呪術大臣の弟がその座に就くことになる。呪術大臣の座は土御門に渡すことになり、彼は賀茂家の存続に奔走した。その一端で、兄と計画していた実験もそのまま継続した。実証実験はしていたので、ここで止める理由もなかったのだ。


 本人としても簡単な作業だっただろう。適当に女を囲い、子種を植え付けて孕ませ、その赤子に呪術的改造を施す。産まれてきた子どもには呪具や呪術によるさらなる改造を施す。その中で最高傑作とされる子どもを産んだ者を正妻として迎えればいいと思っていたし、偽装結婚だけしておいて妻の姿を公にしないということも、後から書類を偽装することもできた。

 そうして計画は、赤子改造実験は数々の失敗を経て一つの成果が出た。それが賀茂静香。産まれた時点で霊気は尋常ではないほど多く、髪も瞳も変色して、四歳程度の時までは心身問題なく成長してくれた。どの実験が良い効果を発揮したのか記録にとり、三歳下となる弟を産む時にも同様の処置を施し、この弟も髪と瞳の変色と多大な霊気を確認できた。


 静香を産む際には母体に負担をかけすぎたが、弟を産む際には母体も健康だった。だからもう一人仕込もうともしたが、二人目を仕込もうとした際にわかったことがあった。母体にも調整を施すと二人目を受け付けないということだ。つまり一人の母親に対して同じことができるのは一人のみ。だから賀茂の家には現在後継は二人しかいなかった。

 その二人も「婆や」に見せにいったが、青い顔をされてしまった。


『可能性の欠片もない。その子らは星見も風水も不可能じゃ。貴様ら、星見と風水の研究は進んでおるのか?』


「いえ……。後天的にも星見にはなれないと?」


『ほぼ不可能、と言っておこうかの。僅かな才能を伸ばすということができた場合が後天的と呼ばれる者のほとんど。……忠告を聞かなかった罰じゃのう。星が陰っておる』


 それ以降「婆や」はあまり未来を告げなくなる。視ることはあっても、それが呪術省の益にならないことだったり、関わらないことだったりしたので告げなくなっただけ。呪術省を見限ったとも言う。

 土御門も土御門で色々やっていたので助言をしなくなっていた。御魂持ちを探し始めた時点で自分たちの限界を決めたということだ。未来を視て御魂持ちを探せとも言われたが、二人確認をしても告げることはなかった。ここで告げれば土御門に利用されるだけ。片方は時の朱雀によって殺されるとわかっても、今ここで密告すればもっと寿命は縮む。


 それも見越して、今はいないと告げた。「婆や」にとっての最終地点も満足に視られたので、これ以降呪術省を動かす理由もなかった。ただその未来が早く来ることを望むだけ。

 賀茂家当主は「婆や」といえども全部を完璧に言い当てることなどできないとわかっていたために後天的でも星見を発現させようと静香へ呪具の埋め込みや呪術の重ねがけによる暗示などを施していく。どんなことをすれば星見を得るのか、霊気が上昇するのか。初の計画成功体だったために、やることは全て手探りだった。成功もあれば、もちろん失敗もある。


 そして人体改造をしている時点で、星見は絶対現れなかった。

 その実験も酷い。呪具を直接骨の代わりに差し込んだり、心臓や肺の動きを邪魔しないように呪符や神具を埋め込んだり。暗示の術式や催眠などのまさしく呪術をかけて自分たちに都合が良くなるように精神を変え。

 時にはそうと知らず、本人たちは妖だと信じていたが、殺して手に入れた土地神の血や肉体の一部も加工して食べさせて身体変化を促した。人魚の肉を食べることで不老不死になるという言い伝えもある。それのように、怪異を摂取することは身体に革新的な変化をもたらすのではないかとして妖を討伐した際は呪術省でその遺体を解剖して研究したり、実際に食したりしてきた。


 もしも。本当にもしもだが。土地神から与えられた血や、認められた者がその土地神の一部を食したとなれば陰陽師としての才能や異能者としての異能の発現、神気を得る、加護を得る、権能の劣化のような不思議な力が使える。そんな可能性もあっただろう。

 だが、そうとも知らずにただ摂取されれば、拒否反応が出る。神気ですら身体に馴染まなければ、人間では悪影響が出る。その神気の大元ともなる神の肉体や血を注射にしろ経口摂取にしろ、正しくない形で得てしまえば拒絶反応は余計に出やすい。それが人道的ではない、哀れな娘であればなおさらだ。たとえ死因になってしまった関係者の娘とはいえ、神とは基本的に慈悲深いのだ。


 実情を知ってしまった神は最後の力を振り絞って、嫌がらせをする。呪具に反発するようにしたり、彼女にかけられていた洗脳を解いておいたり。やれるお節介をしたことで幸いにも静香の寿命は伸びた。神気は多すぎれば毒にもなるが、そもそも毒に侵され、呪術によって呪われている少女には薬になっただけのこと。神気による中和がなければ、中学校に上がる前に身体機能を失っていただろう。

 それだけ強引な施術を続けてきた。その無理矢理な効果を神気が抑えてしまったために、中学時代から静香の霊気はあまり増えなくなる。それを見かねてまた無理な手術をして、神気によって無効化されて……といういたちごっこだった。


 どれが効くのかまるでわからなくなり、静香に対する無理な改造は十四歳を境に終了して、記憶関係を弄るだけになった。弟へ効率の良い強化策を探るための実験だったのに、それが難航してしまっては打つ手なしだ。血縁以外で実験しても、血が異なれば違う結果も出ると考え、他の子どもを攫って実験するようなことはしなかった。いくら賀茂とはいえ、妻を無理くり得ているのに、青少年たちもとなると隠蔽が効かない。

 しばらくは放置して自然に成長することを期待して放置されていた。


 だが、自然に見放された少女はまるで成長することはできず。霊気的な話でも陰陽師的な話でも、そして人間としての身体的な話でも彼女は十四歳から一切成長することはなかった。

 十四歳の頃は神童と呼ばれるような実力の持ち主でも。

 成長が止まった彼女はその時点から一歩も抜け出せず。


 家族の顔も思い出せず。どれだけの人間が自分を偽っていたのかも知らず。

 ただ、家の都合の良いように扱われた、救いの手が差し伸べられなかった。

 好いていた少年もあまりの闇に手を出せずじまいで。

 まずは自分の呪いを解くのと同時に力を得ようとして。

 ただ同情されたことで、恋は実らず。


 その恋心すら、大人によって思考誘導され。

 頼りにできる者は側に一人もおらず。

 人生は闇しかない歪な道を歩かされ。

 それでも、彼女が残したものはいくつかあったのだが。

 思考も記憶も奪われた賀茂静香という少女はこの日──十月十二日に、没することとなる。


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