5章 文化祭と殺人鬼

第93話 殺人鬼の目覚め

 橋の下というのはどういう場所をイメージするだろうか。

 橋を支える大事な柱がある場所。日陰になりやすい場所。草が生い茂っている場所。隠れるのにちょうどいい場所。ちょっと見せられないような本が置いてある、捨てられている場所。身を寄せる場所がない者が身を寄せる場所。

 様々なシチュエーションが思い浮かぶだろうが、総ずると何か後ろめたいイメージがつきものかもしれない。橋の下の子、という言葉もあるくらいだ。


 西暦が2000年に差し掛かる頃。奈良県にあるとある橋の下には、幼き少年がいた。その小さな腕の中には、果物バスケットのような物に入れられた、赤子がいる。その赤子だけは離さないようにと、必死にその場所へしがみついているようだった。

 今は陽も最も高く上った昼下がり。魑魅魍魎も現れず、大人も子どもも基本的には職場や学校に行っているこの時間帯は、少年の貴重な休憩時間だった。朝すでに調達する物は調達してきて、赤子のためにすることは全てしてきたので、今は眠ることが優先だった。とはいえ陽の光が強くて、すぐには眠れなかったが。


 その少年は何でもした。生きるためなら盗みもしたし、残飯や泥水もすすって生きていた。近くの家の、腕の中にいる赤子と同い年くらいの子どもがいる家の中を覗き込み、どのように飲み物を与えるか、身体を拭くのか。そういったことを学習していた。

 もっともこの少年は、それが盗みだとか、覗きだとか、学習だというような言葉だと知らず、悪いことをしているという自覚すらなかった。孤児みなしごは、今を生きるのに必死だったからだ。


 日本でこういった孤児は珍しいというわけではない。なにせ魑魅魍魎が夜になれば闊歩している世の中だ。一般人では魑魅魍魎に殺されるということもあり、そういった事情で親が死に子どもが放浪するという事態に陥る。

 もちろんこういった子が出ないように政府でもかなり気を遣っているのだが、0にはできないのが現状だ。特に陰陽師大家が積極的に介入しているが、孤児院の数も足りないし、子どもが脱走するケースもある。

 この少年と赤子はどういった経緯で橋の下の子になったのか定かではない。だが、いつになっても救いの手は差し伸べられなかった。

 この時までは。


「やあ、こんにちは。君たちはここで暮らしているのかな?」


 少年の目に映ったのは鮮やかな赤髪をした長身の男。年の頃は三十半ばといったところか。隣には同じように赤髪の、年頃も同じくらいの女性がいた。

 その男性の言葉に少年は答えない。目には二人を映しているが、言葉は一向に返って来なかった。


「あれ?言葉が難しかったかな?ずっとここにいるのかい?」


 その言葉にも反応がない。男性は隣にいる女性に目を向けると、女性は嘆息をして説明していた。


「生きるのに必死で言葉を覚える余裕がなかったのでしょう。物を盗むのも、ふらふらと目撃情報があったのも生きるため。この子は服もボロボロで肌も最低限しか洗われていませんが、赤子はとても綺麗な布に包まれていて健康状態も良さそうです。こんな状態なのに他の赤子と大差ありません。少年が頑張った結果でしょう」


 少年の服はところどころが破け、黒ずんでいる。髪の毛や爪の状態も悪いのに、赤子の身に着けているものは全て清潔だ。この少年は一人で生きていくならきっと平気だったのに、赤子のことを優先した。

 本能的に、自分より弱者の赤子を守らなければならないと言ったように。


「ただなあ。悪いことはしてほしくない。たとえ生きるためとはいえ」

「ならどうすればいいか。あなたはわかっているでしょう?」


 女性の言葉に頷き、男性は少年の前で膝をつくと赤子ごと少年のことを抱き留めた。

 少年は人肌というものを赤子の分しか知らない。しかもその赤子が悪くならないようにと、最低限しか触れてこなかった。だから全身を包むような暖かさは、初めて感じるものだった。


「よく頑張ってきた。もう大丈夫だ。君は偉い。その子のことを守るために、ずっと一人で頑張ってきたんだろう。よく耐えてきてくれた。もしかしたら酷い言葉も浴びせられてきただろう。でも、君がいたからこの子は今も健康に生きている。死んでもおかしくはなかった状況で、病気になってもおかしくはなかった状況で、とても安らかに眠っている。君はずっと、その子を守る勇敢な者だった」


 その言葉の意味を、少年は全く理解できなかった。言葉の意味なんて誰も教えてくれなかったし、彼が聞く言葉は、基本的に悪意に満ちていた。盗みを働いて怒る者、叩いてくる者、石を投げてくる者、様々だった。

 そんな中で、こうも悪意のない言葉をかけられ、あまつさえ抱きしめられるというのはこの短い人生でも初めてのことだった。

 だからだろうか。何故かはわからずに、瞳から涙がこぼれてきた。年齢的に泣いてもおかしくはない年頃なのに、彼は一切泣いてこなかった。その涙は液体なのに、暖かくて不思議な気がしていた。


「まずはお風呂ですね。早く連れていきましょう。赤子は大丈夫でも、この少年は何か病気を発症しているかもしれません。住民票なども必要ですね」


 少年は泣いた衝動か、瞼が一気に閉じて眠ってしまった。女性が赤子の入ったバスケットを持ち、男性が少年を抱きかかえて家まで連れ帰った。

 少年と赤子は、間違いなくここが幸せへの転換期だった。



 連れられた家で、少年と赤子は一般の子として育てられた。住民票も作られたし、学校へ通う年になれば学校にも通わせてくれた。名前もなかったが、それもきちんとつけてもらえた。

 連れてこられた家は神社の司祭の家だった。男性と女性は夫婦で、そこの司祭の子として二人は育てられた。二人に実の子はいなかったが、事実実の子のように育てられた。その恩返しをするかのように、二人は家のことも手伝えることは手伝っていた。祭事なども執り行っていた。


 夫婦のちょっとした秘密も二人は教えられていたが、そんなことは関係なく、夫婦のことを実の両親のように慕っていた二人にとっては些細なことだった。ただ、髪が赤いのはそういう理由かぁ、と思った程度。

 二人とも髪も瞳も黒色で、霊気など一切ない一般人だった。陰陽術という不思議な力があっても、それは遠い世界のことのように感じていた。才能がなければ全く関わることのない世界。魑魅魍魎というおかしな存在がいるのが不便だなと感じるだけだった。


 そんな折、夫婦は少年のことを呼び出す。赤子だった少女のことは呼ばず、三人だけの秘密の話だった。


飛鳥あすか真智まちの特異体質について話さなければならない」

「特異体質?え、父さん。だって真智には霊気も陰陽術の才能もないんでしょ?それなのに何かマズイことでもあるの?」

「ある。彼女は、御魂持みたまもちだ」

「御魂持ち?」


 初めて聞く単語だった。そも飛鳥と名付けられた少年は陰陽師としての才能が全くなかったため、学校で教わる一般知識しかない。陰陽師大家の跡取りなどに比べればその知識量は雲泥の差だろう。

 そんな飛鳥は、初めて聞く単語からもう少し勉強しておけば良かったかなと反省した。この少年、歳を重ねてもあくまで妹である真智のことを最優先にする男だった。


「彼女の血か、もしくは魂を喰らえば陰陽師としての才能が飛躍的に上昇すると言われる特異体質。そして陰陽師と子を為せば、その子は確実に天賦の才能を得るだろう。そういう、誰かのための力だ」

「……ナニソレ?じゃあ、何さ?そんな真智の体質を知ったら、頭の悪い陰陽師が真智を狙ってくるって?真智の子か、自分の力を強くするために?陰陽師って魑魅魍魎から守ってくれる公僕じゃないの?」

「人間に良い人と悪い人がいるように、陰陽師だって悪い人はいるのよ。それに今の呪術省を見ると、上層部はダメそうね」


 そんな真実知りたくなかった。陰陽師は正義の味方、というのが一般の常識だ。戦えない国民のために命を賭して戦う公僕。そのイメージが一気に崩れ落ちた。

 飛鳥は自分たちを救ってくれた両親こそ、真の正義の味方だと思っているので、そこまで絶対視はしていなかったが。それでも代わりに戦ってくれている陰陽師には感謝の念を抱いていたが、それも薄れていきそうだ。


「真智の特異体質は、陰陽師なら誰でも気付くものなの?」

「全員がそうじゃない。ただ、気付く人は気付くものだ。……私たちは、見ただけでわかった」

「そりゃあ、父さんたちは特別だからね。で?そんな父さんたちの目と同一の目を持った陰陽師がいるの?」

「未来視や千里眼のように、目に特殊な力を持った人は結構いるのよ。だから気を付けなさい。あの子を守れるのは、あなたしかいないから」

「……母さんたちは?」

「私たちも狙われる理由があるから。もし何かあったらここに電話しなさい。その時は保護してもらえると思うわ。……御魂持ちというのはかなり希少な特異体質だし、知られれば一生追い回されることになる。それを覚えておいて」

「…………わかったよ」


 不承不承で渡された紙を大切に仕舞う。そんな時なんて来なければいいのに。そう思いながらこの日から、日ごろ続けていた鍛錬の時間を伸ばし始めた。



 明たちが中学に進学する年。それは起こった。起きてほしくはないのに、起こってしまった。真智が御魂持ちだと陰陽師に知られてしまったのだ。

 真智の特異体質はただ生活を続けるだけなら何も影響は出ない。一般人と何ら変わらない。魑魅魍魎を引き寄せたりとか、そういう不思議な力は一切ないのだ。

 ただ、その優れた目を持つ陰陽師がたまたま街を訪れて、たまたま真智を目に留めただけ。それが、今回の悲劇を産み出した。


「御魂持ちを差し出せ!この悪魔どもめ!」

「悪魔で結構。私たちの娘に手を出すならなあ‼」


 神社の境内で戦う両親と陰陽師たち。陰陽師たちの数は十八人。対する両親はたったの二人で対抗していた。だが、その姿は人の姿ではなかった。歌舞伎などに出てくる、獅子の顔をした姿だけは人間の異形。それが両親の本当の姿だった。

 そんな中、飛鳥と真智は境内から遠く離れ、林の中を走っていた。しっかりと手を繋ぎ、昔のように絶対に離さないように力強く引っ張って、泣きじゃくる妹を必死に急かしていた。

 後ろで起こっている事実から、必死に目を背けるように。


「お兄ちゃん、戻って!お父さんたちが殺されちゃう!」

「バカヤロウ!俺たちが戻っても何にもならない。足手纏いになるだけだ!頼れる人にはもう連絡した。俺たちは父さんたちが必死に稼いでる時間で、少しでも遠くに逃げるしかないんだよ!」

「だって、狙われてるのはわたしなんでしょ⁉わたしがあの人たちにお願いすれば──」

「お前が殺される!そんなの、誰も望んでないんだよ!」


 もう口答えさせないように、飛鳥は真智をおぶった。足を動かさなければ追いつかれて血を引き抜かれる。おそらく子どもも無理矢理孕まされる。利用価値がなくなったら最後は魂を食われる。そんな道具として、妹を引き渡すわけにはいかない。

 たとえ、そのことで他の三人の命が救われるとしても。


「お前は何か悪いことしたか⁉何もしてないんだよ!俺は散々悪いことして、それこそ誰も彼もに恨まれてたさ!けどな、お前はただ生きてるだけなんだよ!俺も父さんも母さんも、お前にはただ生きていてほしいだけだ!お前を渡して手に入れる幸せなんて、幸せでも何でもないんだよ‼」

「わたしだって!お父さんもお母さんもいないなんて、受け入れられないよ!」

「泣きたきゃ泣け!この判断を出した俺を恨みたきゃ恨め!俺はな、妹を悪い奴の食い物にされるのを指くわえて見てられるほど、頭の湧いてる奴じゃねえぞ!」


 口論をしながら駆ける。一歩でも先へ。駆けた先に助けがあると信じて。後ろの惨状に歯を食いしばりながらも、今だけは前を向いた。

 そうしてずっと走った頃、ポケットに入れておいた携帯電話が振動した。すぐに携帯電話を取り出してそこに映る光景を見る。そして画面を見たのはほぼ一瞬。その画面を真智に見せないためだった。

 そして見た瞬間、たまたま近くにあった岩に向かって携帯電話を叩きつけた。画面を岩にぶつかるように投げたので、バキャという音と共に携帯電話はもう直せない程に壊れた。


「お兄ちゃん⁉」

「真智、携帯電話は持ってきたか?」

「あるけど……」

「出せ」


 一度真智を降ろしておずおずと出した真智の携帯電話を、同じように岩に叩きつけた。そうされるのは予想していたとはいえ、そうする理由はわからなかった。


「これじゃまだGPSとか壊れてないか……?クソ、携帯についてもっと勉強しておけば良かった。……メモリーデータだけは持っておくか。真智、これは持っとけ」


 薄い四角のメモリーカードだけ渡された真智は、それをポケットにしまう。本体の方は飛鳥が石で粉々になるように潰していた。


「これで大丈夫だろ。真智、走れるか?できたら走ってくれると助かるんだが」

「……うん。走るよ」


 それから二人は走り出す。一時間以上走って森から抜けた頃、そこには一台の黒い車が止まっていた。それを警戒して二人は林から様子を伺ったが、車の前に立っていた一人の老人は飛鳥たちを見据えていた。


「御魂持ちの少女とその兄だな?連絡を受けてやってきた。天竜会の者だ。安心して出てきてほしい」

「……合言葉は?」

「忘れていなかったな。よろしい。──」

「……はい。大丈夫です。よろしくお願いします」


 合言葉が合っていたため、二人は茂みから出る。合言葉の内容を、陰陽師が知るわけがないからだ。そのまま二人は、車の後部座席に乗って移動した。


「すまないが、君たちはもうあそこには戻れない。私の経営する施設で暮らしてもらうぞ」

「父から話は聞いていますが、本当に呪術省から守ってくださるのですか?もう俺は、真智が危険な目に遭うことを許容できません」

「大丈夫だ。天竜会は表舞台にも影響力のある組織だ。君たちも聞いたことがないか?慈善事業などで有名な自負があったのだが」

「……父や母と、あなたは同族ですか?」

「そうなるな。それが一番信用なるか?」

「……はい。それなら安心です」


 もう戻れないと聞いた真智は、両親がどうなったのか理解したのだろう。また泣き始めたが、それを飛鳥が胸を貸して背中をさすっていた。老人はその様子を目を細めながら見て、神社があった方角を見ながらまた目を細めた。

 運転手に急がせるように指示をする。ここから三年間、真智はまた学校に通えるようになるが陰陽師に狙われるようなことはなかった。

 一方の飛鳥だが、真智が安全だとわかってから施設を飛び出していた。たまに真智に顔を出すが、基本的にはどこかへ行ってしまった。

 目覚めるはずのなかった鬼の才覚が、解き放たれてしまった。

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