第78話 2ー3

 後の世に、その神様が現世へと降り立ったということは伝わっていない。というより、その存在はたしかに語り継がれているが、正確ではないというのが正しい。その神様は悪魔として語り継がれているのが後の世の在り方だ。

 だがしかし。神の恩恵にも敏感で神という存在をよく知っていて、神に畏敬の念を抱いている者からすれば、その神を息子があばら家と言っていい程の家に連れ込んでいたと知れば。

 その神に向かって綺麗な土下座を表していてもおかしくはないだろう。


『本当に申し訳ありません。あなた様のような方をこのようなみすぼらしい場所に置いておくなど……。いますぐ、相応しい屋敷を手に入れてきます』

「いいのですよ。わたしが晴明くんについてきただけですから。それに、人間の暮らしというものには興味があります」


 絶世の美女などという陳腐な表現では全く足りない、見た者が必ず振り返り息を呑む、人によっては見ただけで失神してしまったりそれこそ心臓を止めてしまうような、女性の完成形がそこに居た。

 誰もがひれ伏すような、歩いているだけで胸にせり上がってくる想いを隠しきれなくなるような、そんな完全な存在のはずなのに。そんな美の頂点が、まだ年端のいかぬ少女にこうして頭を下げている。

 ちなみに。この女性が土下座をするのは生涯初めてのことだった。


『……私たちの暮らしというものは、あなた様が思うような人間の暮らしとはかけ離れているかと』

「そうなのですか?人々の生活を覗くのは久しぶりですし、それにあなたは人間ではありませんでしたね。集落をきちんと整備し始めたので、新鮮な気持ちで眺めさせていただいています。それに、たまにはこういう暮らしも良いとは思いませんか?」

『…………私が、申し訳なさで潰れそうなので勘弁していただけませんか?』


 晴明の母は国すらも簡単に動かすことができたためにできないことはないと豪語していたのだが、さすがに神の説得はできなかったらしい。土地神ならまだしも、もっと位の高く神の御座にいらっしゃる方々にはひれ伏すしかない。

 晴明はそんな母の脇でにこにこと笑っているだけ。母の姿を笑っているのではなく、藻女がここにいることが純粋に嬉しいのだろう。そういう意味では子どもらしいと言えた。


「何を遠慮されているのです?わたしはあなたの思うような存在ではありませんよ?ほら、藻女なんて名前の神が、八百万の神々の中にいましたか?」

『……名が違うから、別の存在だと?』

「事実わたしは今、この身体を藻女として定義しています。神としての権能ももちろんありますが、色々元のわたしとは異なりますよ?」


 自称神ではなくなった神様の力を持つ存在。それは神様と何がどう違うというのか。彼女の気まぐれで日ノ本はなくなることだってあるのに、下手に出ることの何が間違っていようか。

 彼女は人間や妖と比べても大きな力を持っているが、それは神と比べたら栓無き力だ。特に目の前にいる存在は日ノ本の神の中でも指折りの、主神。妖としては最上位に位置する晴明の母でも、藻女と比べたら塵芥だ。


 百歩譲って目の前の少女が主神ではないとしても。それでも神の権能を持っているし、見る人が見れば神だとわかってしまう。そんな少女を息子が連れて来たというのは頭が痛くなる案件だった。

 この家を知っている存在は多い。この前の土竜もそうだが、妖はほとんどが知っている。彼女に会いに来たり、晴明と遊ぶためだ。そこに神が居たら、神をこんなあばら家に住まわせていると知られれば。


 不敬で殺されかねないと背筋を凍らせる。何故ここに降り立ったのか、息子の近くにいたのかそれも聞いていないが、それは後だ。


『わかりました、藻女様。ですが私たちはそろそろこの地を離れようと思っておりました。都の近くで色々と探るのも良いかと思っておりましたが、この場所は知られ過ぎました。私は平穏に過ごしたいのです。それがここでは叶いません』

「そうなのですか?……嘘はないようですね。わたしは日ノ本を巡るというのも構いませんよ?晴明くんと一緒にいられればですが」

『息子の、何を気に入ったのでしょうか?』


 藻女は彼女の息子をいたく気に入っている。まだ会ったばかりだが、藻女であれば日ノ本にいる限り全てのことを見られていただろう。だから藻女からすれば初対面ではない。

 だが、晴明の何を気に入ったのか。普通の人間とはかなり異なるし、妖とも交流があるが神様に毎日祈りを捧げるような子どもではない。何が琴線に触れたのか、まるでわからなかった。


「その在り方、ですかね。晴明くんは純粋な人間ではありません。あなたの子どもですから。そしてあなたも、視方によっては様々な存在の調停役と思えるでしょう。……晴明くんは今、神々の中でも注目を浴びています。いわゆる特異点ですから。日ノ本を変える存在ですよ」

『晴明が、ですか……?人間から妖になった者や、それこそ神になった者、この子のように妖と人間の混ざり者は他にもたくさんいると思うのですが……?』

「血が全てではありません。そして全ての存在を知っているだけでもダメです。公正公平であり、中立中庸な思考と行動ができる存在。それは晴明くんしかいません。神も妖も人間も。過不足なく差配ができるのは現状晴明くんしかいません。この後は、混ざり者も増えそうですし」


 顎に指を当てながらそう告げる藻女。つまりは日ノ本の現在全域と未来を視たからこその発言だ。

 そしてそこまで視て、彼女は清明に期待している。晴明は妖にも土地神にも愛されているが、人間はわからない。人間は欲が深すぎてすぐ二人に危害を加えようとする。望んでもいないのに保護しようとしてくる。それが嫌で今は関わらないようにしているのに。


「俺、人間と関わったことないのにそんなこともわかるの?」

「はい。あなたは皆に祝福されて産まれてきました。なのに晴明くんは一人でいるのが好きみたいなのでどうしてかと思って様子見に来ちゃいました。まさか外の世界を見ているなんて思わなくて」

「ああ……。母上の居た国や他の場所のことも知りたくて。近場の日ノ本より、海向こうが知りたくて」


 友達が来たら遊ぶが、一人の時はもっぱら外の世界を眺めている。そんな少年だった。そんな晴明は藻女の言葉を疑っていない。彼女が神だとわかっていることもあるが、彼女の姿を見た時から晴明は藻女のことを全肯定していた。

 友達はいても、母もいても、結局は閉じられた世界だった。だから外の世界を望んだ。母は晴明と同じ視点を持っていない。海向こうのことを視られる才能はなかった。


 だからこそ、同じ視点を持ってくれる彼女のことは初めての相手だった。世界が繋がったとも言える。そして隣にいるだけで居心地が良い。その感情の色がどのようなものかわからなかったが、これを大事にしたいと思っていた。

 存在としては異なるが。初めて同胞と出会えたことが単純に嬉しかったのだろう。


『晴明。これからは藻女様と一緒に日ノ本を旅することになるけど、いいのね?』

「もちろんです、母上。きっと藻女と一緒なら、今まで視てきた風景も違って見えるかもしれない。それが楽しみで仕方がないんです」

『……そう。じゃあ、早速行きましょうか。先ほどの光は目立ち過ぎました。土地神はもちろん、妖も気付いたことでしょう。群がられるのは嫌です』

「わかりました。ではこれからお願いしますね?葛の葉、晴明くん」


 そうして家族同然の三人の旅が始まる。妖と、人間と妖の混じり者、そして神の生まれ変わりという三者三様な三人組は、十年に近い時間をかけてゆっくりと日ノ本を巡り様々な存在に出会った。

 都に移住する前のこの時間は、三人にとって一番穏やかな時間となっただろう。

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