第65話 3ー0

 ずれているとは思っていた。

 知っている言葉は少なかったが、それでも小さな頃から思っていたことがある。

 おれには、周りに見えているものが見えていないらしい。

 そんなこと言われてもわからなかった。なにせ、おれに見えているものが全てで、他人に見えているものなんてわからないんだから。


 感覚が鈍いと言われて、今ならわかる。判別がつく者と、判別がつかない者であればどちらが様々な物に敏感か。少し教養があればわかる。

 おれが認識する世界とは、白だ。全てが白い。何もかもが白くて、物体と物体を輪郭がわけているだけ。

 綺麗、と聞かれたってわかるわけがない。模様なら答えられるが、色なんて知らなかった。


 今日は良いお空だね、と言われても雲が多いか少ないかしかわからない。毎回曖昧にうなずき、つまらないと言われる。

 綺麗な物と汚いもの、その境目は色らしい。汚れも一種の色だ。その色が見分けつかないのに、何を綺麗と言えるのか。

 それから都に来て。生活が苦しくなって。おれは不気味だと捨てられた。


 都に行けばおれの髪や瞳の色もおかしくはないだろうと父親は言った。だから、おれにはその色がわからないというのに。おれと周りで何が違うのか、水を覗き込んでもわからない。

 なんだったか。おれは結局人間ではないとか。ああ、そうだ。鬼だと言われた。お前は、鬼だったと。私たちの生活を台無しにして、全てを貪る鬼だと。


 今では鬼という存在を知っているし、あの頃に比べて言葉を学んだから意味はわかる。姉にも負けないくらいに学問は修めた。そう考えると親だった者はなんと滑稽か。

 鬼でもないただの人間に、何もかもを奪われたと思い込んでいるのだから。

 まあ、晴明様曰くおれの身体は海向こうの妖が弄ったらしく、普通の人間の身体には戻れないのだとか。別段不便とは思わないので構わないが。晴明様の一番弟子を自称する姉でもどうにもできないらしい。姉は姉で独自の術式をたくさん使うのだが、それでもできないとか。


 今の生活に、何も不満はない。あるべき秩序のためにひたすら刀を振るい、友と切磋琢磨し、家族と穏やかに過ごす。十分ではないか。あのごみ溜めにいた時と比べて、なんと充足した毎日か。

 これ以上の幸せを願っては過分だろうと。そうは思うが、この幸せはもう少し増えるらしい。


 たとえ友と契りを交わそうと、姉ができようとこのような日記を書くようなことはしなかった。姉のように言葉を覚えるために書くということをおれはしなかったからだ。

 だが、今回に限ってはきちんとした紙を買い、筆を取ってみた。姉もおそらく書いているだろうし、今頃この様子は晴明様にも玉藻の前様にも見られていることだろう。だが、今回ばかりは何かしらの形で遺しておこうと思った。


 晴明様に、ご子息が産まれるのだ。

 おれたちからすれば弟ということになるが、その実、おれたちは晴明様と年齢が近い。どうしても、本当の子どもを見るような目線になってしまうだろう。だが、この宝を守るためにより一層精進していこう。

 陰陽の薄い膜を壊さぬよう、調整していく。その調停役に選ばれたのが晴明様だ。ならば、おれたちが手伝うのも当然の流れ。おれたちは晴明様に大恩がある。そのお返しとしてこの腕が貸せるのであれば、いくらでも貸せる。


 色を見ることができないおれが、輝きという色を知れた。名も与えてくれた。

 もしも、再びの人生があるのなら。これ以上の幸せは感じられないだろう。それほどまでに、おれの人生は満ち足りている。

 たとえ同じ責め苦に遭うとしても、この人生をまた歩めるのであれば同じ責め苦を味わうだろう。誰一人欠けることなく、この道を進めるのであれば、地獄と呼ぶには生温い課程をこなそう。


 他人の言う、本質的な色という物とは異なるのだろうが、おれは色を白以外にも知っている。自分の髪の色である銀も知っているが、おれの周りには確かに色があった。

 鮮やかな景色と、ここに居たいと思える人物と。変化をくれたその全てを。色と言わずに何と呼ぶのか。言葉の定義は、おれにとっての色と周りの存在が言う色と同じように、受け取り方次第だ。


 で、あるならば。おれの視界にはたとえ白色しか映らなくても。色鮮やかだと誇りを持って言えるだろう。

 こうまで思えたのはあの日、晴明様に拾われたこともある。

 だが、正直に言うのであれば。もう一つ、理由がある。


 私は──玉藻の前様に、恋をしたのだ。

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