第38話 2ー0
その日は、嵐の前触れかと思うほどの曇天だった。男は宮中の役人を連れてその村へ来ていた。
牛に荷車をつけて徒歩で半月。海に出たところで船で三日。それからさらに徒歩で十日ほど。そうして着いた村は、もはや村とも呼べない程廃れていた。家もほとんどが壊れていたり、燃えていた。木々も何者かに叩き折られたのか、それとも雷でも落ちたのか、自然的な成長では見られない経過だった。
歩くこと数分。それぐらいで村全体を見て取れるくらいに大きくない村。役人と弟子たちがくまなく村を見て回るが、生存者がいない。というより、すでに腐臭を放っている様々な死体を検分し始める。
「見た限り、生存者は……」
「間抜けだな。お前たちの探索能力はその程度か。いくら魑魅魍魎の残滓が残っているからといって、あれほどの霊気を見逃すとはな……」
男は弟子の言葉に失望する。そこまでの高弟は連れて来ていなかったとはいえ、丸わかりの霊気に誰一人気付かない。役人は仕方がないとして、仮にも陰陽師だというのに気付かないのはどうなのか。
男は一つの若干形を残している小屋へ行く。他に脅威はいないので悠然と歩む。
この村というより、この一帯は土蜘蛛という妖によって蹂躙された土地。土蜘蛛は神とは違って純粋に暴力の具現という、妖だった。その暴力が暴れるだけ暴れて、陰陽師か力のある武士ではなくては太刀打ちできない存在。
そういった力を持つ妖は陰陽師と武士が一緒になって討伐することが多い。今回は討伐ではなく調査ではあるが。
どういった被害があるのか、土蜘蛛はどうしているか、そのためにまずは調査をして生き残りがいないかを確認して、京に被害が出ないか。それが一番重要視されているが、男としては京なんてある程度残っていればいいと思っている。
今回の目的としては、土蜘蛛の調査。土蜘蛛が脅威になり得るかが男としては最重要。その土蜘蛛はすでにいないようなので少々気落ちしたのだが、それ以上の収穫がありそうで口角が上がっていた。
崩れかけている小屋の扉をこじ開けて、男と高弟の二人が中に入る。その中を見ても、高弟は生き物の存在を把握できなかった。だが、男は一点を見つめていた。
「……ふむ、独学の術式が多いな。だからこそ、か?まあ、土蜘蛛から逃れるために必要な措置だったのだろう」
「あの、どこに話しかけて……?」
「私が介入しているのにまだダメなのか?……師の高弟でも無理か。師でも厳しいな。専門外にすぎる。法師でないと無理だな」
「法師でないと、ですか……?」
高弟はその言葉に訝しむ。男の師というのは天文学を専攻する学者であり、武士をサポートするような存在ではなかった。そも、陰陽師というのはそういう学者が本分であり、陰陽師として様々な術を産み出したのは男であり、その男の派閥が色々と産み出した結果万能とはいえずとも用途は増えた。
少しでも生活を良くしたいと、それだけのために本来あった陰陽術を歪めて本質を変えた。師はその変化に対応できず、その結果男と法師と呼ばれる二人がトップに君臨した。
それはおいておいて。
「では、少女。君の姿を他の者に見せてくれ。私は君へ危害を加えるつもりはない」
「──」
「うん?言葉が話せないのか?……違うな。私のことを理解したくないという感じか。その目に何を映している?」
高弟は未だに少女の姿が見えていない。口も開いていないし、音も発していない。だが男には全て見えている。ボロボロの布で出来た衣服に、泥が付いた肌。少し煤のついた金色の髪に、一切濁りのない琥珀の瞳。
そして少し、人間とは異なる異形。頭の上に虎柄の耳と、手には肉球もついた、鋭い爪もある黄色い獣特有の特徴。さらにお尻の方にはかなり長い黄色と黒の尻尾。
悪霊憑きの、虎に浸食されている少女。
「……あなた、は……」
「うんうん。いいな、君。特にその髪が良い」
少女の瞳に映るもの。それを見ただけで男は少女が何を言おうとしたのか理解した。だからこそ、その言葉を封殺する。口に出していることもまた事実ではあるが。
「君には辛いかもしれないが、土蜘蛛のことも話してもらおう。生き証人は必要だ。時に、家族は?」
「──喰われた」
「それは済まなかった。一人では生きていくのも困難だろう。私が君を引き取ろう。君が唯一生き残ってしまった原因であるその力も、制御できるように私が指南しよう」
男は少女を抱き上げる。そのことでようやく高弟は少女の姿を認識していた。少女独自の術式だったために、男が教えた解呪の仕方では見つけられなかったのだ。
「──ウッ」
「うん?」
男は抱き上げた少女によって、首筋を噛まれていた。犬歯が鋭く刺さり、上物の衣装にも血が溢れて白磁と紺の色彩を染めていった。
溢れ出る唾液も服を汚し、零れなく落ちる血を一滴も逃すかと内側から執拗に吸い出す少女。吸われている血の量も、溢れる量も致死率に相当する。だというのに男は麻酔にかかったかのように表情も変えずにその行為を受けていた。
異形に侵された少女が美丈夫の首に歯を立て、淫靡な音を立てて全てを貪りつくそうとしている光景は、一種の官能を引き立てる、脳漿を刺激する有り得ない行為だった。
「師よ、無事ですか⁉そのような怪奇擬き、今すぐにでも処分を!」
「良い。腹が減っているだけだ。類い稀なる霊気でどうにか誤魔化していたところに、私というとびきり上等な
「ッ!」
高弟には男の弟子を数年務めた実績と自負があった。師弟関係は良好だと思っていた。
だが、突然拾った異形の娘を優先する意味が分からなかった。異形とは魑魅魍魎や妖という人間に害為す存在の総称だ。そんな異形に類する少女のために命を張る師が分からなかった。
異形は人類の敵。それを守るために殺気じみた霊気を向けられる。こんなこと初めてだった。
この高弟は一方的に良い関係だと思い込んでいただけ。師である男の本質を一切理解できていない愚か者だった。
「京へ帰るぞ。この少女を保護できた時点でかなりの収穫だ。土蜘蛛は我々だけではなく源家に要請しなければ倒せやしない」
「師よ、せめて傷の治療を!」
「同時進行でやっている。この程度で死ぬか。──また、星を詠み違えたか。まだまだ未熟だな」
「師が未熟であれば、今を生きる陰陽師皆が赤子です」
「我が師の教えの大元は星読みだ。これでは師に笑われてしまうな。今回も土蜘蛛の動きを察することはできなかったのに」
少女を抱きかかえたまま戻ると、役人にも他の高弟たちにも怪しまれる。少女は人目も気にせずに周りの声にも傾かずにひたすらに血を貪っている。
「海向こうの吸血鬼のようだな……。いや、少女に鬼というのは失礼か」
「は……?」
「気にするな。私とて独り言くらい呟く。研究熱心なことは認めるが、全てのものに意味などない。霊気を込めた言霊ならまだしも、空が綺麗だのといった感想まで拾われたら身体が休まらん」
そのまま男は簾で中を隠した荷台へ乗っていく。土蜘蛛調査隊は一つの成果を持って、そのまま帰還した。
・
「んっ……?」
少女が目を覚ました時に目に映り込んだのは誰かの膝。身体全体が誰かの膝の上に収まっていたようだ。頭は誰かに撫でられている。
「ようやくお目覚めかな?お嬢さん」
荷台の中にいたのは先程の男だけ。簾の外を見てみれば荷台を引く牛を牽引している高弟たちや、ほかの牛と荷台があるばかり。外は日が沈みかけて、茜の空を夜の闇が浸食し始めていた。
「簡単に説明すると都へ帰る途中だ。生きていくために必要な物は都で揃えればいい。私の家で過ごせば困ることはないだろう」
「……」
「あの村で一人で生きていくのは無理だ。都に行けば私の妻もいる。それとその力は都でも珍しい変わり種だ。どこかでひっそりと暮らすというのも難儀だろう。人の輪からはつまはじきにされるのが目に見えている。処世術をいくつか覚えないとな。君の心は人のままのはずだ。……人のまま生きていたいだろう?」
「──あなたは、誰ですか?」
「名前の紹介がまだだったな。私の名前は安倍晴明。宮仕えをしている陰陽師だ」
・
京の都は、華やかとは言えなかった。建物は村と比べればもちろん煌びやかで華のあるものだろう。だが、それも一側面。豪勢な住まいは一区画だけ。区画整理されている中で、しっかりとした建物と崩れかけている建物も多い。
人々の表情もそうだ。楽しそうな表情を浮かべている人々もいれば、沈んでいる人々もいる。服装も顕著だ。この差は何なのかと少女は考えるが、田舎者にはわからない。
「ここが私の家だ」
荷台が動きを止めて、二人して降りる。荷台を見直してみると、荷台を引いていたのは牛ではなく人型の真っ白な存在だった。その珍妙な存在が傍にいて気付かないとは。ずっと牛が引いていると思っていた。
家もかなり裕福なようで、周りの家にも負けないくらい端正な家だった。そこをくぐる時に変な感覚を覚えたが、そのまま中に入る。
入ってすぐ、音もなく首元に刀が突きつけられていた。隣にかの陰陽師がいるために寸前で止めたようだったが、刃先にははっきりとわかる殺意が込められていた。
「吟、この子は客人だ。刀を向けるな。君のように拾ってきた」
「……晴明様がそう言うなら」
「お父さんで構わないんだがな」
「いいえ。俺はあなたの刃です。あなたのためなら何もかもを斬り裂きましょう。そこに、人としての立場は要りませぬ」
「それを辞めてほしいんだがな……。私も法師も妻も、君を家族だと思っている。名目上は小間使いの式神だが」
晴明が吟と呼ばれた少年の澄んだ銀色の髪を撫でると、少女に向けられていた刀を鞘に戻してくれた。そのまま睨んできたが、晴明の三歩後をついて回った。少女は晴明の隣にいたが。
家の奥へ向かうと、一人の女性が部屋の中央に座していた。耳には柔らかそうな狐の耳、お尻の方には九本の、肉感のある太めの尻尾が生えていた。身体は存外小さかったが、目にしただけで少女は圧倒された。
神々しい。その言葉がこれ以上似合う方はいないと。頭を下げようとしていたようだが、隣の晴明に優しく微笑まれてその動作は止められていた。
「ただいま、玉藻。土蜘蛛はいなかったが、この子を見つけた。彼女を私の弟子にしようと思うのだが、構わないかな?」
「もちろんです。それよりも首元の治療を。応急処置程度では血が足りないでしょう?」
「私とて人間ほどやわになった覚えはないのだが……」
「いけません。あなたはわたしよりもずっとか弱い存在なのです。血がなくなれば死んでしまう。その当たり前を忘れないでください」
玉藻と呼ばれた女性は晴明の首元、つまりは少女が噛みついた場所へ手を当てて光を当て始める。それによって少しは痕が残ったが、見た限り傷は塞がりきっていた。
その光景を見て少女は玉藻という女性がこうも神秘的な女性だから、神様のような傷をすぐに治療できる、不思議な力を持っているのだと思った。それと同時に、傷をつけて血を吸ってしまったことに対して罪悪感──という言葉を知らなかったが、まさしくそう言い表すのが正しい感情──を抱いていた。
「これで大丈夫でしょう。この傷はどうして?」
「そこの少女にちょっとな。死にかけだったから仕方がないだろう」
その言葉にまた吟が刀を抜きそうになるが、玉藻が目だけで制した。吟という少年は晴明と玉藻には逆らえないらしい。
「わかりました。そのことについては咎めません。それで、その子の名前は?」
「聞いてなかったな。君、名前は?」
「──覚えていません。だから、つけてほしいです」
「では、金蘭と。金は君のその髪の色だ。蘭というのは他の生き物と一緒でないと綺麗に咲けない花の名でね。たとえそのような凶暴な爪と牙を持っていても、君は誰かがいないと生きていない。異形であっても人間であることに変わりはないのだから。それにきちんと着飾れば玉藻に匹敵する美女になるだろう。名は体を表すという。見たままだが、いかがかな?」
即答、の割には考えられていた。晴明は言霊を扱う関係で花や生き物など、様々な文化に触れていた。宮仕えをする以上文化人であらねばならない。晴明は千里眼を持っているために船を用いて別大陸に行くという危険を冒す必要がないというのは大きな利点だ。
少女はその言葉を自分の内へ反芻していく。数秒だったか、それとも数分だったか。少女は小さく首を縦に振る。
「はい。私は言葉をあまり知りませんが、とても良い響きだと思います」
「それは良かった。玉藻、金蘭を浴場へ。後天的な憑依は私にも専門外だ」
「じゃあ金蘭ちゃん。まずは身体を洗いましょう?それから少しずつ、わたしたちのことを知っていってほしいかな」
「わかりました。玉藻サマ」
「あ、わたしのことは秘密ね?この家は晴明と吟以外、住んでいないことになってるの」
金蘭はその言葉の意味を知るのはもう少し先になってから。
そもそもとして、辺境の村娘にそこまでの語彙がなく正直何を言われているのかわからなかったほどだ。
それでも彼女は、この時のことを今でも鮮明に思い出す──。
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