びばのんの

「にゃうー……。いいきもちにゃあ」


 幼女姿の魔王は、とろんと目を細めながら、ひとりでホワイトピンクの湯につかっています。


「ふろというのが、こんなにいいものだったにゃんて」


 生まれてこのかた、魔王はほとんど風呂と無縁で過ごしてきました。たまにひどくべたついて汚れたときに、いやいや水浴びをする程度です。


 魔界という所はたいてい衛生面にさほどうるさくないですし、魔物は(種族差や個体差はあれ)綺麗好きではないものの方が多いのです。

 

 ですが、人間界ではちがいます。


「たまにはカラスもいいこというにゃ」


 魔王のごじまんの黒い毛皮から、コクのあるぞうきんのような、濡れた家畜のような、ゴマとへそのゴマを混ぜたような臭いが漂い始めたことで、カラスはさらなる悩みを抱えることとなりました。


「陛下、おそれながら……。最後にお体を洗われてから、かなり経っているのではないでしょうか。今日あたり、ご入浴をあそばしてみてはいかがでしょうか?」


 神妙な顔でそう告げるカラスに、魔王はあっさり返しました。


「いやにゃ」


 魔王は濡れるのがきらいでした。それに、どんなに洗っていなくても、自分のことが汚いなどと、思ったことはありません。


 魔王の機嫌を損ねる覚悟で、カラスは進言をつづけます。

 今回だけはどうしても、魔王に風呂に入ってもらわねば。悪臭ぷんぷんでは困る理由がありました。


「実は、この近くに住んでいるブレーメ・グリム博士という方と連絡がとれました。かつては魔王城で研究者たちの指導的立場にあったお方ですが、ふいに姿をくらませてしまわれたのです。それがどうも、この地においでになっていたようなのです」


「ほう」


 そう相づちを打ちましたが、魔王の顔には、よくわからんと書いてあります。


「陛下の人間界征服の相談に参ろうと思います。わたくしとグレネマイアー様だけでは困難なことも、知恵ある博士ならなにか方法をみつけてくださるやもしれません」


「ふむ。やるではにゃいか」


 魔王は満足げに鼻を鳴らしました。


「それでなのですが、人間界では他人の家を訪問するときには、前日には入浴を済ませ、清潔にし、身だしなみを整えなければならないという決まりがあるようなのです。グリム博士は人間界での生活が長いため、その習慣に染まっていると想像されます」


 カラスは悪臭のもとをどうにか風呂に入れるために、少し大げさに話します。


「めんどくさいにゃ。わしはまおうにゃ」


「しかし、博士の機嫌を損ねては、陛下の征服の野望が遠くなってしまいます。それに……風呂に入ると美しくなるようですよ」


 最後の言葉は、魔王の好奇心をくすぐりました。


 かくして、アデルが言うところの高価な入浴剤入りのお湯に、ぞうきん臭い魔王様がお入りになることになりました。



 

 ちゃぷん。


「あったかいにゃあ。ねちゃいそうにゃ……」


 ほかほかの白桃色のお湯からは、いちごとミルクのまざったような、甘いよい香りがします。

 

(あまいのかにゃ?)


 もしかして、いちごみるくのような味がするのかも? 

 魔王は湯に沈めた口をかぱっと開けてほおばって、むぐむぐしてから、ぺっと吐き出しました。


「へんなあじにゃ! だまされたにゃ!」


 ぺっぺっと吐きながら、魔王はぷんぷん怒りました。


 そして声をはりあげました。


「カラス! こいにゃ! つかるのはもういいにゃ」


「はい、ただいま」


 すぐに出入口のドアが開かれて、スーツの腕をまくりあげたカラスが現れました。


「お背中をお流しします」


「うむ」


 幼女をちいさな椅子に座らせると、カラスはスポンジを泡立てて、背中からやさしく丁寧に洗ってゆきました。


「おそれいりますが、お立ちになっていただけますか」


「うむ」


 太ももから脚もゴシゴシ。


 女の子を青年と一緒にお風呂に入れるなんてどうなのか。幼い姿とはいえ、世の中にはそういう趣味の男もいるのに。


 ……というご心配は無用です。

 カラスは幼女魔王の裸などなんとも思っていません。


 こんなに幼いから……ではないのです。カラスの本性は鳥の魔物。人間の女の裸になど、一ミリも興味がないのです。


 仕事のために器用で便利な人型の姿をとっていますが、人間の見た目など毛のない猿と大差ない感覚でいます。

 美しい羽毛をまとった鳥類の見た目が、やはり一番好ましく思えるのです。


 彼にとってはまだ、公園の水たまりで水浴びをするすずめや鳩の方が、よほどセクシーで魅力的なのです。


 そんなカラスは石鹸でちいさな体を洗ったあと、つづけて髪の毛を洗おうとして、そういえばシャンプーとトリートメントという専用のものがあったなと思い出しました。


「陛下、おそれいりますが、頭を洗い終えるまでは、しっかり目をつぶっておいてください。泡が入るといけませんので」


「わかったにゃ」


 魔王はきげんよく従いました。

 お風呂が意外と気持ちよかった上に、自分は堂々と立ち、カラスに全身を洗わせる姿を、鏡で見ているのも悪くありません。

 さすがに王らしい威厳に満ちていてかっこいいなと、得意な気持ちでした。


 魔王がぎゅっと目をつぶったのを鏡ごしに見て、カラスは黒い髪をシャンプーで洗い始めました。

 洗い方は、アデルに聞いて習いました。指の腹で、頭皮もやさしくゴシゴシしました。


(もうそろそろかにゃあ)


 最初の十秒くらいは魔王もしっかり目をつぶっていましたが、だんだんと気が散ってきました。


(そういえば……)


 そして、いきなり目をぱっちりと開きました。


 理由などありません。

「ゆうごはんはなにかにゃあ」と思った瞬間、目をつぶっているという約束を忘れたのです。


 とたんに両目に激痛が走りました。泡がたれてきたのです。


「ぎゃああああああああああ!!」


 叫ぶなり子猫の姿に戻って暴れまわります。


「め、めが……めがあ……」


「へ、陛下……」


 せまい浴室内を駆け回って大暴れしたあとで、魔王は目をこすりながら床をごろんごろんしました。


 ちいさな黒猫は、朝の雄鶏のようにけたたましく叫びました。


「むほんにゃああ! むほんにゃああ!」


 すっかり混乱しています。


 カラスは慌てました。


「ち、ちがいます……」


「カラスがむほんにゃああ!」


「謀反ではありません。お目を洗いますのでどうぞ落ち着かれてください」


「いたいにゃあ。いたいにゃあ」


 魔王は涙を流しながら目をぐりぐりこすりつづけています。目玉をほじくらんばかりの勢いです。


「そんなにこすらずに。いま、シャワーを……」


 のたうちまわる子猫を、自分の方に向かせようと伸ばしたカラスの手を、魔王は無我夢中でがぶりと噛みました。


「いたっ! 陛下、陛下。おやめください」


「カラスがひどいにゃあ。ゆるさんにゃあ。しけいにゃあああ」


「すっ、すみま……。ですが、わたしはちゃんと……。いでっ!」


 噛みつく、ひっかく、走り回る。


 人慣れしていない野良猫を風呂に放りこんだかのような惨状は、その後もしばらくつづきました。

 魔王の金切り声と、カラスの弱々しい悲鳴をBGMにして。




 傷だらけになったカラスが、両手を目に当ててしくしく泣いている子猫を抱えてリビングに戻ってきたとき。


 スモークチーズとアーモンドをつまみに赤ワインを飲んでいたアデルは、


「ずいぶんにぎやかでいらしたのですわね。ほほえましいですわあ」


 と、満面の笑顔で出迎えたとか。

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