第5話 器の大きい男

 翌火曜日の朝は、穏やかに晴れ上がっていた。

 昨日の小袖こそでの手の浄化失敗を引きずったまま、私は登校した。さんさんと太陽が降り注ぐ校門を、どんよりとした気分でくぐり抜け、とぼとぼ歩いて昇降口に入る。と、なんだか気配がおかしい。自分に向けられているいくつかの視線とひそひそ声に気付いて顔が強張こわばった。

 気のせい気のせい――無理やり思い込み、いつも以上に背を丸め、こそこそと上履うわばきを取り出す。そこへ無駄にいい声が響き渡った。


「お~い! 千月ちづき!」


 まって、ウソでしょ……。

 ここは朝の混み合う昇降口だよ!


 顔を上げなくても誰だかわかるけど、目の前に立った男子生徒を、恐る恐る見上げる。前髪の隙間から、朝っぱらから爽やかに微笑むトヨサト先輩が見えた。

「待ってたんだよ。あのな、昨日あの後――」

 勢い込んで話しかけてくる彼のブレザーの袖を引っ張った。南館に向かう生徒の波に逆らって、人気のない北館に向かう。


 あの連絡先の交換はなんだったのだ! 

 電話番号もアドレスも、メッセージアプリのIDだって教えたんだよ?


 イライラしながら歩を進め、明るい窓際を避けて、廊下の隅の薄暗がりで先輩と対峙する。そんな私のイライラは、彼の話を聞いた瞬間に吹っ飛んでしまった。

「……え、一人で御札おふだを貼った!?」

 あんぐりと口を開けた私に、「んっふっふ」と得意げに笑って見せたあと、トヨサト先輩は説明してくれた。


 昨日、私を保健室に預けたあと、トヨサト先輩は音楽室から荷物を回収してきて届けてくれた。それから彼は、再び演劇部の部室に忍び込んだのだと言う。

「十年前の劇に、小袖の手退治のヒントが隠されているんじゃないかと思ったんだ」

 そして先輩は書棚に並ぶシナリオを発見し、その中から十年前のものを抜き出し目を通した。

「劇中に、御札を使って小袖の手を弱体化するシーンがあって、それを読んで御札を貼るべき場所が分かったんだ。いや~、見つけたときは興奮したなあ。千月に教えたらびっくりするだろうなあってな、えへへ……っ、思ったんだよ」

 いたずらが成功した小学生男子みたいに嬉しそうな顔をする。そんな彼に、私は答えを急かす。


「どこ? どこだったんです? 御札の貼り場所!」

「着物の表地と裏地のあいだに作られた隠しポケットだよ」

「隠し……ポケット?」

「ああ、裏地のすそによく似た生地できれいに縫い付けられてた」

 そんな方法だったなんて。

「ちょっと調べただけじゃ気付かないはずだよ。のぞいたら御札の切れ端が残っていたから間違いないと思う。上から新しいのを貼っておいたからな」


 あの二本の腕に見つからないように、誰か――あの顧問か、それとももっと以前に対処した人物かが考案した苦肉の策なのだろう。十年前の劇は、小袖の手の対処の仕方を、見える者に伝える目的で演じられたのかもしれない。それにしても……

 頭の中に、妖気を放つ小袖や暗くほこりっぽい物置の様子が浮かんでくる。あんな場所に、たった一人で、しかも見えない状態なのに先輩は忍び込んだ。さぞ怖かっただろう。自分が引っかかれた瞬間までよみがえって、膝が小さく震えた。


「大丈夫だったんですか?」

「なにが?」

「小袖の手になにかされませんでした?」

「大丈夫だよ。昨日だって千月がピアノを弾くまで、ヤツは出てこなかっただろ?」

「あ、……そっか」

 ようやく安堵して、私は大きく息をはき出した。

「あいつ、ピアノのストッパーを外せただろ? 音楽の時間にまた悪さをしないうちに、どうにかしたいと思ったんだ」

 その言葉がずんと胸を重くした。私は、これっぽっちもそんなことを思わなかった。


「ケガ人の千月には無理させられないし、俺一人でどうにかできるヤツでよかったよ。なあ、ケガは大丈夫か?」

 彼の器の大きさを思い知る。

「なんともありません」

 絆創膏を貼った指先を見せてそう答えると、先輩はほっとした顔をした。

「これで当分の間、小袖の手は音楽に合わせてウネウネ踊るただの陽気な妖怪、ってことだよな?」

 自分の腕をくねらせながらトヨサト先輩は笑顔になる。私は引きつった笑みを返しながら、自分の小ささを噛みしめた。

 先輩はすごい。御札貼りに失敗した昨日からこっち、私はただ落ち込んでいただけなのに。


 解決は嬉しいのだけれど、気持ちは晴れない。合唱部や演劇部のことを考えると、息苦しくなる。先輩は、私のせいじゃないって言ってくれたけど、やっぱり自己嫌悪に陥ってしまう。自分がなにもしなかったせいで起こってしまった出来事は、あまりにも重過ぎた。


 授業開始五分前の予鈴が鳴り、私たちは普通教室がある南館に足早に向かった。

「そうそう、母さんから伝言を頼まれてたんだ。シフォンケーキ、教えに来てくれってさ」

「あぁ、そうでした」

「見夜ちゃん見夜ちゃんってうるさいんだよ」

 笑いながら顔をしかめるトヨサト先輩。

「早速だけど、今日でもいいか?」

「はい」

「悪いな。伝えておくからよろしく。じゃ」

 カッコよく片手を上げて去っていく長い脚を見送りながら、ほわわ~んと五月さんの笑顔が浮かんできた。


 今日、五月さんに会える! こんな私に会いたがってくれるなんて……。

 早口で交わしたたったこれだけの会話にかなり救われた気分だった。

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