第2話 嫁のもらい手

「ところで千月ちづき、おまえ、芸術科目はなにを選択した?」

 連絡先を交換し終えると、トヨサト先輩が唐突に聞いてきた。

「え? ……習字ですけど?」

 意図のわからない質問に戸惑いつつも、私は正直に答えた。


「なぜ習字を選択したんだ?」

「なぜって、私、絵がヘタだし……」

「じゃあ、なぜ音楽を選ばなかった?」

 尋問でもするかのように真面目な顔で迫る先輩。その態度に引っかかりを感じる。

「習字が楽ちんかなって思ったんです。さっと書いて一枚提出すればいいから……」

 整った顔面にじっと見降ろされ息苦しくなる。と同時に、心当たりと後ろめたさが一緒くたになってわき上がってきた。


 もしや……。

 私はおずおずと彼に問いかけてみた。

「先輩は何を選択したんですか?」

「音楽だ」

 やっぱり。

「お前、わ、ざ、と、音楽を外したんじゃないのか?」

 そう言われたときには、すでに背中にイヤな汗がにじんでいた。先輩の言う通り、私はわざと選択肢から音楽を外したのだ。


 一年時の芸術科目は、美術、音楽、習字の中から一つを選択して履修りしゅうする。絵心がまったくないので、はなから美術は選ばない。そして音楽は、この高校の見学会に参加した中学三年生の時点で選択肢から外された。なぜなら見学会で、音楽室の黒板から飛び出し、ゆるゆると動き回る青白い腕を見たからだ。

 しかしここでそうと認めるわけにはいかない。


「な、なにを根拠に?」

「千月と出会ってバケモノが存在していることがわかった。それで思ったんだが、音楽室で起こるおかしな出来事は、あそこになにかいると仮定すると合点がてんがいく」

 この地域のバケモノの御札おふだの状態は総じてよくない。そこから推測するに、あの腕のバケモノも例外ではなく、悪さを働いている可能性が高い。つまり、ヘタすりゃ今日も妖怪退治だ。

 こんなに立て続けに御札の貼り直しをしていたらこっちの身が持たない。砂かけババア退治のときに作った右腕のアザなんて、カラフルな青や黄色になっちゃって醜いことこの上ない。これ以上あちこち傷ついて嫁のもらい手がなくなったって、トヨサト先輩が責任取ってくれる訳じゃないし。


「気のせいですよぉ」

 私は薄ら笑いを浮かべてごまかしにはいった。が、トヨサト先輩は私の腕をガシッとつかんで言う。

「行ってこの目で見ればわかることだ」

 そして彼は、抵抗する私にかまうことなく、エレベーター脇の階段に向かった。


 ここ西甲斐せいかい高校の校舎は、南館と北館に分かれている。南館の一階は職員室や保健室などが並び、二階に三年生、三階は二年生、四階には一年生の教室がある。中庭を挟んだ北館は特別教室棟で音楽室はそこの四階だ。南館と北館は、東西にある廊下でつながり、そこに階段がある。

 

 私とトヨサト先輩は今、その階段で三階から四階に向かっているわけなんだけど……、階下から恐ろしい気配が昇ってくる。


 ファイ、ファイ――、ダッダッダッダッ――。


 この声と足音は……女子運動部の階段ランニング!

 私は焦り口調で訴えた。

「先輩、腕、離してください!」

「ダメだ」

 彼がこうなってしまったら、どうせ妖怪退治は止められない。

「私、逃げません! 知っていること全部話しますから」

「ほんとか?」

「はい!」

 体育会系ばりの立派な返事を返すと、ようやくトヨサト先輩は私の腕を離してくれた。


 豊田とよだ先輩! こんにちはっ! ちわっ! ちわっ、ちわっ……。

 トヨサト先輩の手が離れた直後に浴びせかけられる声。


 危ないところだった。先輩への挨拶がヤマビコのごとく続いているのを聞きながら、私は胸をなでおろした。よりによって女子バレー部軍団だ。

 彼女たちは通りすがりに、トヨサト先輩と一緒にいるチンチクリンな女子生徒、つまり私に不躾ぶしつけな視線を向けてくる。私は背中を丸めて明後日のほうを向き、懸命にトヨサト先輩と無関係を装った。


「よお、ガンバレよ!」

 能天気な返事を返す先輩が恨めしくなる。本田さんという超美人のカノジョがいるし、さえない私となにかあるなんて誰も勘違いしない。それでも先輩から距離を取って歩く。

 ところが、階段の先を行くトヨサト先輩は、くるりと振り向いて屈託なく声をかけてくるではないか。

「こら、ちゃんとついてこい」

「ちょっと離れたほうがいいですよ。先輩が私なんかと一緒にいるの、ヘンに思われますよ」

「そんなことあるか」

「みんな、すごく見てくるじゃないですか」

「え? 見てくる? 見られたっていいだろ」

 この人は注目されるのになれている。それに比べて、私は無視されるのになれている。彼にこんな卑屈な気持ちを理解してもらうのは無理か。

 私はうつむき、当てつけるように「はぁ~あっ」と声に出してため息をついた。


 四階の廊下に出ると、プップ~、とかパオ~、なんて楽器の音が大きくなった。奥の吹奏楽部の部室からもれてくるのだ。

 この階は手前から、演劇部の部室、演劇部の物置、音楽室、音楽準備室、吹奏楽部の部室と続いている。


 私は、一番手前ののプレートがついたドアから少し距離を取って立ち止まった。

「バケモノは演劇部と関係しているんだと思います」

「演劇部?」

 音楽室が怪しいと決めつけていたからだろう。先輩は意外そうに眉を上げたあと、すぐそこにある引き戸に顔を向けた。

「ここが部室だな。なにがいるか知ってるのか?」

「妖怪の小袖こそでの手じゃないかと」

「小袖の手?」

「はい、長いうでの妖怪です」


 先輩が私に向かってさっと手を出した。彼は私の手を握りしめると、スパイみたいに壁に背をつけてドアに忍び寄り、ドアの上半分にはめ込まれたガラスから注意深く中の様子をうかがった。人がいる気配はしない。

「なにもいないな」

 ささやきながら彼がドアに手をかけると、小さく隙間が開いた。

「入ってみるぞ」

「万が一いたら、そのときは見えないフリしてくださいよ」

 トヨサト先輩はかすかにうなずいて、私の持つスクールバッグを指差した。私はうなずき返すと、御札を取り出して彼に渡す。


 またバケモノとご対面かと思うと、足がすくんだ。私ひとりじゃ絶対にこの部屋には入れない。でも、先に立つ先輩が、かばう仕草を見せてくれる。大きな背中が本当に心強い。

 先輩に手を引かれ、私はついに演劇部の部室に足を踏み入れたのだった。

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