小袖の手
第1話 連絡先を交換してください!
週明け月曜の放課後、二年三組の教室。
帰り支度をしている私、
「
「……
「
非遺伝子……、えっと……なに農法だって?
彼女が特別な卵で作られたバームクーヘンの話をしていることは伝わった。私は若干ヒキ気味にその顔を眺める。
彼女は最近、農業高校のアニメにハマっている。カマ様は登場人物の一人で梨沙の
「今日の
「い、いや。今日は米が二割引き――」
「これが目に入らぬか」
ぐいっと目の前に突き出されたケーキ箱は、ナチュラルさを前面に押し出したベージュだ。そこに印刷された『sirofuji farm』の文字を読み取ると、思わず口からこぼれ出した。
「白富士農場……」
梨沙は勝ち誇ったようにぐっとあごを上げ、ふんっと鼻を鳴らす。
「白富士農場のバームクーヘン。大変な美味だ」
そんなこと! 言われなくたって知っている! 私の趣味はスイーツ作りだ。
素材のよさがわかるしっとりとしたバームクーヘン。生き生きとした卵の味を思い出し、ごくりと喉が鳴った。
「茶会に参加するだけでいい。な?」
梨沙は顔の横にケーキ箱を掲げながら、
その手できたか……。
梨沙はイラスト同好会に所属している。現在の会員は三名だ。あと二名入会すれば、学校公認の部活動に昇格できるのだが、その二名を確保するのは、この
変わり者――いや、個性的なイラスト同好会のメンバーを思うと、いっぺんでも足を踏み入れたら最後、なし崩し的に入会させられそうな気がするからだ。
高校でただ一人の友人である梨沙の願いだ。できるものなら私だって力になりたい。しかし私には、イラスト同好会に入会できない明確な理由があった。
私は絵がヘタなのだ。
でも、でもでもでも、今回は気持ちが揺らいでいる。だって白富士農場のバームクーヘンなんだもの。茶会だけだったら、こっちからお願いしてでも参加したいぐらいだ。
私の
「ほんとーに茶会だけだ。ささ、ゆくぞ」
彼女は返事をしない私を引っ張って、教室の後ろのドアに向かった。
「トヨサト、先輩……?」
教室から一歩出た梨沙が、唐突につぶやいて立ち止まった。ひょいと目を上げると、廊下に並んだロッカーの脇にトヨサト先輩の姿があるではないか。
「
彼がよく通る声を発した。思わず教室に引き返そうとしたけどできない。梨沙が、私の腕をつかむ手にぐっと力を込めたからだ。
「千月……って、見夜のことだよね?」
振り向いた梨沙は、真ん丸な目をして私の顔をのぞき込む。
「部活に行くところか?」
トヨサト先輩が問いかけてきた。
つい「はい」と答える。イラスト同好会に強制連行されるところだったからウソではない。ところが、すかさず梨沙が否定した。
「見夜、帰宅部じゃん」
こいつぅ!!
ウソがばれた気まずさに目をそらす。すると、賑やかなはずの放課後の廊下が静まり返っているのに気が付いた。ロッカーの扉に手をかけたままの者、明らかに部活に向かう途中の者。みんな動きを止め、こちらに注目している。
目立つ存在のトヨサト先輩のせいだ。逃げ出したくて足がむずむずする。
「なに? どういうこと?」
梨沙の声が響いた。彼女はいぶかし気な顔をして、私とトヨサト先輩を交互に見比べる。
「あー、と、悪い」
トヨサト先輩が、今度は梨沙に話しかけた。
「ちょっと千月と話がしたいんだ。借りてもいいか?」
すると彼女は、すんなりと手を離し、代わりに私の背中のリュックをつかむ。
「はい、どうぞ」
梨沙のやつ、そう言いながら、私を先輩の前に押し出したではないか。
「え? バームクーヘンは?」
「それどころではない」
私に顔を寄せて言う梨沙の目はきらきら――いや、ぎらぎらしていた。身体中から好奇心があふれ出している。
「そんなぁ……」
会話する私たちにかまうことなく、トヨサト先輩はむんずと私の腕をつかむと、すたすたと歩き出した。一昨日の別れ
「私をイラ研に連れてって!」
引きずられながらお願いしたのに、梨沙はニヤニヤ笑いで手を振った。
「またの機会にな~」
彼女の後方、教室のドアからいくつもの顔がのぞいているのが目に入り、ぞっとする。
トヨサト先輩って、マジ目立ちすぎでヤダ~!
廊下の端、来客用エレベーター前で、トヨサト先輩が立ち止まった。原則、生徒は使用禁止なので誰もいない。ちょっとほっとする。
「千月、もしかして俺が笑ったこと怒ってるのか?」
「……」
美人でもないくせに、汚れた顔を笑われたぐらいで逃げ帰ってしまった。自意識過剰の自分が恥ずかしくてうつむいてしまう。
「悪い!」
先輩がガバリと頭を下げたので、びっくりした。
「俺が笑ったのは、その……千月が猫みたいで、可愛いくて、つい」
可愛い……だなんて。男子から初めて言われた。
言い訳、もしくはお
「ごめんなさい! 私、自分が鈍いし、そのせいで砂まみれになっちゃって、恥ずかしかったんです。先輩は悪くありません」
「じゃあ、俺のことを怒ってないのか?」
トヨサト先輩がおずおずとたずねてくる。
「はい」と大きくうなずくと、彼の顔に、ぱあっと笑みが咲いた。
「よかったぁ。おまえ、待て、って言っても聞かないし。女子から、ついてこないで! なんて言われたのも初めてだったし、どうしていいかわからなくて困ったよ」
そりゃあそうでしょうよ。この人に「待て」なんて言われたら、普通、女子ならしつけのいいワンコよろしく、永遠に待っちゃいそうだ。
「よし。それじゃあ、千月の連絡先を教えてくれ」
「は?」
ポカンと彼を見上げる。先輩はポケットからスマートフォンを取り出すと、微笑みながら私にうなずいてみせた。
「妖怪退治するのに、連絡先を知らないと不便だろ?」
連絡先を教えることによって、彼に振り回されている未来の自分がくっきりと見える。
「ええーっとぉ、個人情報は大切にしたいと考えております……のでムリ、かな?」
恐る恐る告げて、上目遣いで先輩の顔色をうかがった。
整った顔面がみるみる険しくなり、右目がぴくっと引きつった。
お、怒った?
続いて先輩は、ふっと息をついて眉を下げた。
お、落ち込んだ?
「こういう気持ちなのか。自分から女子に連絡先きいたのは初めてだったんだがな。断られるとけっこう
ちょっとかわいそうかな……。
そう思いかけたとき、トヨサト先輩がククッと笑った。
「おまえ、いいキャラだな」
それからちょっと思案顔をしたあと彼は言い出した。
「まあ確かに、むやみに個人情報を垂れ流すのは感心できることじゃない。しかたがないな。千月に用があるときは、今日みたいに二年三組まで訪ねて行くよ」
「うっ……そ、それは……」
私にとっては脅迫だ。これから先も、今日みたいな出来事が起こったら、穏やかな私の高校生活は、きっと一変してしまう。
「お願いします。連絡先を交換してください!」
私は慌てて、自分のスマホをポケットから引っ張り出したのだった。
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