小袖の手

第1話 連絡先を交換してください!

 週明け月曜の放課後、二年三組の教室。

 帰り支度をしている私、千月見夜ちづきみやのもとに忍び寄り、耳元でささやく者がいた。


非遺伝子ひいでんし組み換え、完全有機飼料ゆうきしりょうで育った幸福なにわとり。そんな鶏が生んだ卵には自然の恵みがぎゅっと詰まっておる」

「……梨沙りさ

自然循環型農法しぜんじゅんかんがたのうほう放牧卵ほうぼくらんバームクーヘン、きっとカマ様もお気に召すはず」

 非遺伝子……、えっと……なに農法だって?

 彼女が特別な卵で作られたバームクーヘンの話をしていることは伝わった。私は若干ヒキ気味にその顔を眺める。


 彼女は最近、農業高校のアニメにハマっている。カマ様は登場人物の一人で梨沙のし。ここ最近の彼女の言動は、その影響を色濃く受けている。

「今日の茶会ちゃかいはこれで決まりだ。いざゆかん、イラスト同好会へ」

 三ケ田みかた梨沙はそう言って、私の腕を取った。


「い、いや。今日は米が二割引き――」

「これが目に入らぬか」

 ぐいっと目の前に突き出されたケーキ箱は、ナチュラルさを前面に押し出したベージュだ。そこに印刷された『sirofuji farm』の文字を読み取ると、思わず口からこぼれ出した。

「白富士農場……」

 梨沙は勝ち誇ったようにぐっとあごを上げ、ふんっと鼻を鳴らす。

「白富士農場のバームクーヘン。大変な美味だ」


 そんなこと! 言われなくたって知っている! 私の趣味はスイーツ作りだ。

 素材のよさがわかるしっとりとしたバームクーヘン。生き生きとした卵の味を思い出し、ごくりと喉が鳴った。

「茶会に参加するだけでいい。な?」

 梨沙は顔の横にケーキ箱を掲げながら、こびを含んだ声をだす。

 その手できたか……。


 梨沙はイラスト同好会に所属している。現在の会員は三名だ。あと二名入会すれば、学校公認の部活動に昇格できるのだが、その二名を確保するのは、この西甲斐せいかい高校では難しい。なぜならこの高校は部活動が非常に活発で、ほとんどの生徒が、すでになんらかの部に所属しているからだ。兼部けんぶしている生徒さえいるなかで、帰宅部の私は貴重な存在らしく、以前からあの手この手でしつこく誘われている。だけど、私は見学すらかたくなに拒んでいた。


 変わり者――いや、個性的なイラスト同好会のメンバーを思うと、いっぺんでも足を踏み入れたら最後、なし崩し的に入会させられそうな気がするからだ。

 高校でただ一人の友人である梨沙の願いだ。できるものなら私だって力になりたい。しかし私には、イラスト同好会に入会できない明確な理由があった。

 私は絵がヘタなのだ。壊滅かいめつ的に。

 でも、でもでもでも、今回は気持ちが揺らいでいる。だって白富士農場のバームクーヘンなんだもの。茶会だけだったら、こっちからお願いしてでも参加したいぐらいだ。


 私の葛藤かっとうを見抜いた梨沙は、もう一度ささやいた。

「ほんとーに茶会だけだ。ささ、ゆくぞ」

 彼女は返事をしない私を引っ張って、教室の後ろのドアに向かった。


「トヨサト、先輩……?」

 教室から一歩出た梨沙が、唐突につぶやいて立ち止まった。ひょいと目を上げると、廊下に並んだロッカーの脇にトヨサト先輩の姿があるではないか。

千月ちづき!」

 彼がよく通る声を発した。思わず教室に引き返そうとしたけどできない。梨沙が、私の腕をつかむ手にぐっと力を込めたからだ。

「千月……って、見夜のことだよね?」

 振り向いた梨沙は、真ん丸な目をして私の顔をのぞき込む。

「部活に行くところか?」

 トヨサト先輩が問いかけてきた。

 つい「はい」と答える。イラスト同好会に強制連行されるところだったからウソではない。ところが、すかさず梨沙が否定した。

「見夜、帰宅部じゃん」

 こいつぅ!!  


 ウソがばれた気まずさに目をそらす。すると、賑やかなはずの放課後の廊下が静まり返っているのに気が付いた。ロッカーの扉に手をかけたままの者、明らかに部活に向かう途中の者。みんな動きを止め、こちらに注目している。

 目立つ存在のトヨサト先輩のせいだ。逃げ出したくて足がむずむずする。


「なに? どういうこと?」

 梨沙の声が響いた。彼女はいぶかし気な顔をして、私とトヨサト先輩を交互に見比べる。

「あー、と、悪い」

 トヨサト先輩が、今度は梨沙に話しかけた。

「ちょっと千月と話がしたいんだ。借りてもいいか?」

 すると彼女は、すんなりと手を離し、代わりに私の背中のリュックをつかむ。

「はい、どうぞ」

 梨沙のやつ、そう言いながら、私を先輩の前に押し出したではないか。

「え? バームクーヘンは?」

「それどころではない」

 私に顔を寄せて言う梨沙の目はきらきら――いや、ぎらぎらしていた。身体中から好奇心があふれ出している。

「そんなぁ……」

 会話する私たちにかまうことなく、トヨサト先輩はむんずと私の腕をつかむと、すたすたと歩き出した。一昨日の別れぎわ、彼に対してとった態度を思うと、とてつもなく気まずい。


「私をイラ研に連れてって!」

 引きずられながらお願いしたのに、梨沙はニヤニヤ笑いで手を振った。

「またの機会にな~」

 彼女の後方、教室のドアからいくつもの顔がのぞいているのが目に入り、ぞっとする。

 トヨサト先輩って、マジ目立ちすぎでヤダ~!


 廊下の端、来客用エレベーター前で、トヨサト先輩が立ち止まった。原則、生徒は使用禁止なので誰もいない。ちょっとほっとする。

「千月、もしかして俺が笑ったこと怒ってるのか?」

「……」

 美人でもないくせに、汚れた顔を笑われたぐらいで逃げ帰ってしまった。自意識過剰の自分が恥ずかしくてうつむいてしまう。


「悪い!」

 先輩がガバリと頭を下げたので、びっくりした。

「俺が笑ったのは、その……千月が猫みたいで、可愛いくて、つい」

 可愛い……だなんて。男子から初めて言われた。

 言い訳、もしくはお世辞せじだとわかっていても、頬がちょっと熱くなる。トヨサト先輩にここまでさせている状況が申し訳なくて、私も慌てて謝罪した。

「ごめんなさい! 私、自分が鈍いし、そのせいで砂まみれになっちゃって、恥ずかしかったんです。先輩は悪くありません」

「じゃあ、俺のことを怒ってないのか?」

 トヨサト先輩がおずおずとたずねてくる。

「はい」と大きくうなずくと、彼の顔に、ぱあっと笑みが咲いた。


 凛々りりしいイケメンの笑顔。うぅ、まぶしい……。

「よかったぁ。おまえ、待て、って言っても聞かないし。女子から、ついてこないで! なんて言われたのも初めてだったし、どうしていいかわからなくて困ったよ」

 そりゃあそうでしょうよ。この人に「待て」なんて言われたら、普通、女子ならしつけのいいワンコよろしく、永遠に待っちゃいそうだ。


「よし。それじゃあ、千月の連絡先を教えてくれ」

「は?」

 ポカンと彼を見上げる。先輩はポケットからスマートフォンを取り出すと、微笑みながら私にうなずいてみせた。

「妖怪退治するのに、連絡先を知らないと不便だろ?」

 連絡先を教えることによって、彼に振り回されている未来の自分がくっきりと見える。

「ええーっとぉ、個人情報は大切にしたいと考えております……のでムリ、かな?」

 恐る恐る告げて、上目遣いで先輩の顔色をうかがった。


 整った顔面がみるみる険しくなり、右目がぴくっと引きつった。

 お、怒った?

 続いて先輩は、ふっと息をついて眉を下げた。

 お、落ち込んだ?

「こういう気持ちなのか。自分から女子に連絡先きいたのは初めてだったんだがな。断られるとけっこうこたえるもんなんだな」

 ちょっとかわいそうかな……。

 そう思いかけたとき、トヨサト先輩がククッと笑った。

「おまえ、いいキャラだな」

 それからちょっと思案顔をしたあと彼は言い出した。


「まあ確かに、むやみに個人情報を垂れ流すのは感心できることじゃない。しかたがないな。千月に用があるときは、今日みたいに二年三組まで訪ねて行くよ」

「うっ……そ、それは……」

 私にとっては脅迫だ。これから先も、今日みたいな出来事が起こったら、穏やかな私の高校生活は、きっと一変してしまう。

「お願いします。連絡先を交換してください!」

 私は慌てて、自分のスマホをポケットから引っ張り出したのだった。 

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