第5話 ついてこないで!
ザザザザッ……。
トヨサト先輩の足音が大きく感じられる。静まり返った園庭に響き渡ってハラハラする。
オバアチャン起きないで!
私は強く願いながら、両手でフェンスをつかんで伸び上がった。先輩に与えられた時間は短い。
そのとき、ひゅん、となにかが動いた。灰色の塊が小屋から飛び出したのだ。
――しまった!
砂かけババアはすぐさま先輩の姿をとらえると、腰のあたりで両手をぐっと握って構える。
先輩も気づいた。
バケモノなんて見えていませんよ――。
そんな風を装い、大げさなほど顔をそらして小屋を通り越し、走っていく。
だが砂かけババアには通用しない。
彼女がバッと両手を上げた。
まずい!
あの腕を振ると、こぶしの中から砂が飛び出すはず。
「オバアチャン! 久しぶり!」
とっさに叫んでいた。
砂かけババアの顔が、ぎっとこちらを向く。
「私、
彼女は握ったこぶしを上げたまま、軽く首を傾しげた。目がいぶかしげに細くなる。すぐにその目が揺れ、しわだらけの口元が薄く開いた。
私は確信した。
オバアチャンは私のことを覚えている。
あの頃、私はいつも、彼女の隣で砂団子を並べていた。
オバアチャンの
砂かけババアが立つ位置とは反対、右のほうから、先輩が全力で戻って来るのを目の端でとらえた。彼にはもう、砂かけババアの姿は見えなくなっているはずだ。ここまで来て、私の手を握るしかない。
私はフェンスの穴に右腕を突っ込み、目いっぱい伸ばした。そうしておいて、砂かけババアの気を引くために、左手でフェンスをガンガンたたいて声を張り上げた。
「オバアチャン! いつも砂場で一緒に遊んだよね!」
私はオトリ。先輩が戦闘員なら、私にできるのなんてオトリぐらいのものだ。
トヨサト先輩に、さっと手を握られた。手のひらの痛みに安堵する。
私は、フェンスにしがみついて顔を押しつけ、砂かけババアに話しかけ続ける。
「見夜のこと思い出してくれた? ねえ、オバアチャン!」
返事の代わりに砂が飛んできた。
「ギャッ!」
砂をまともに頭からかぶり、思わず悲鳴を上げて顔を背ける。
「けけけ、けけけけ……」
かすかな声が聞こえてきた。砂がうっすらと煙るなか、息を止めて細く目を開ける。
砂かけババアが、灰色の小枝みたいな指で私を差し、顔をゆがめて笑っていた。
その背後には忍び寄るトヨサト先輩が見える。彼女を振り向かせてはならない。
私は大きく息を吸って必死に叫んだ。
「砂かけババアのバカ!」
再び私の全身を砂粒が打った。
パチパチパチッ。
メガネが鳴り、よろけて尻もちをついてしまう。
砂の味を感じて、ぺっぺっ、と口から吐き出した。行儀が悪いけど、口の中が気持ち悪くてどうしようもない。
あっ、先輩は? オバアチャンはどうなった?
ふらふらと起き上がって、園庭を見渡すと、地べたに力なく座る砂かけババアの姿があった。
ダダダッ――。
すでに園庭を抜け出したトヨサト先輩が、すごい勢いでこちらに向かって走って来る。軽く息を切らした彼は、私の腕を取るとサッとカーディガンを押し上げて手を握った。それからフェンスに近づいてガシリと片手でつかまると、園庭に目を凝らす。
くたっ、と座り込んでいた砂かけババアが立ち上がり、私たちに背を向けた。
「よかった~。ちゃんと
トヨサト先輩が、心底ほっとした声を出す。見れば、砂かけババアの首の後ろが明るい。真新しい御札がほんのりと光を放っている。
その瞬間を見損なってしまった。だけど先輩は妖怪退治、すなわち砂かけババアの浄化をちゃんとやり遂げていた。
「貼ったとたんに見えなくなっちまったんだ。危なかったなあ」
そっか。ぎりぎりだったんだ。
砂かけババアはよたよたと歩いて、小屋の中に入っていった。
彼女の姿が視界から消え、ようやく気持ちがゆるんだ私は、目を閉じて静かに息をはいた。
トヨサト先輩が園庭に降り立ってから、ここまで三分も経っていないだろう。でも、ひどく疲れを感じ、まだ身体がふらつくような気がする。
「
トヨサト先輩は、そう私に声をかけたあと、「うっ」とうめいた。
「お前、大丈夫か? 砂、目に入らなかったか?」
思わず自分を見下ろすと、砂まみれの悲惨な状態が目に飛び込んでくる。私はうつむいて、パンパンと身体をはたきながら返事をした。
「メガネかけてるんで平気です」
宣言通り、
「メガネ、傷ついてないか?」
トヨサト先輩は身をかがめ、心配そうに私の顔をのぞき込んでくる。
「これ、
「伊達? なんで? ……ああ目を隠してるんだっけ」
勝手に納得した彼は、手を伸ばして、私のニット帽をパパっとはたいた。砂が舞い散り、思わず目を閉じケホケホとせき込んでしまう。すると先輩は、「あ、悪い」と言って、私の頭からすぽっと帽子を外し、バンバンたたいて砂を払ってくれた。
続けて彼は、私の鼻の頭にすっと手を伸ばして指先で
「あ~あ、顔、砂だらけだ」
小さくもらしながら、彼の指は私の頬に移る。
「ほっぺも……」
びっくりして固まっていた私が身を反らしたのと、彼が「ぷっ」と吹き出したのは、同時だった。
「わるい。砂が……。くくっ」
笑いながら再び手を伸ばしてくるので、私は慌てて一歩下がり、自分の手で両頬を包むと、ぐいっと
「おい! そんなことしたら、よけいに汚れが……」
トヨサト先輩は一瞬絶句したものの、すぐに愉快そうに笑い声を上げる。
「あははは……なんだろう? そうそう! 毛の長い猫みたいだ」
頬がかあっと熱くなった。
私は、天然パーマの猫っ毛。今、絶対に髪はボサボサだ。そのうえ自らの手で顔の砂汚れを広げてしまった。さぞやみっともない顔をしていることだろう。
これ以上、見られたくない!
私は先輩の手からニット帽をひったくるようにして取り戻すと、すっぽりと頭からかぶった。
「わ、私、もう帰ります」
ぺこっ、と頭を下げると、急いで
「あ、おい。待てよ! 送ってくよ!」
「結構です。一人で帰れますから」
「おい、
「ついてこないで!」
私はそう叫ぶと、全速力で駆け出した。
足音は聞こえない。先輩が追ってこないことにほっとする。
数分走ったところで、コンビニが目に入って立ち止まった。ハアハアと肩で息をしながら、ハンカチを出して口元を覆う。自動ドアをくぐって店内に入ると、そのままトイレに直行した。
鏡を見て泣けてきた。両頬にはヒゲみたいな線、鼻の頭にも丸い汚れが……。
怖いもの見たさで、すぽっと帽子を引っ張って脱いでみる。
静電気で広がった髪に、薄汚れた顔。本当に長毛種の猫みたいだ。もちろん優雅な飼い猫ではなく、汚い野良猫だ。
この顔を見て、トヨサト先輩は笑った。でも彼の笑顔はステキで……。
鏡の中の
胸がズキズキする。
目の前が涙でぼやけて見えなくなった。私は唇をぐっと噛むと、顔をじゃぶじゃぶと洗い、砂汚れと涙を一緒に洗い流した。
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