第4話 ヒーローモード突入

 私はゆっくりと言い聞かせるみたいに、トヨサト先輩に問いかけた。これであきらめてくれるはず。

「私たち、園の中には入れませんよね? だから御札貼おふだはりなんかできませんよね?」

 だが、そうは問屋がおろさなかった。

「大丈夫だ。この柱を乗り越えればいい。ここに足をかけられる」

 門柱には、保育園名を彫った石板が埋め込まれている。そのわずかなでっぱりに触れながら、先輩はさも簡単そうに言ってのけた。


「ええっ? これ? これを乗り越えっ……て、私にはできません!」

 私の背丈ほどもある門柱を乗り越えるだなんて、軽く提案しないでもらいたい。


「ふむ……」

 トヨサト先輩は、今度は門柱に取りつけられている黄色いゲートのほうに手をかけた。

「こっちのほうが低いが……」

 そうつぶやきながら、鉄製のゲートを軽く押すと、ギィッときしむ。

「乗り越えるとなると、大きな音が鳴るな。砂かけババアが起きたらまずい」

「そっちだってムリです!」

 私は必死で首を左右に振った。


「だいたい勝手に園内に侵入したら、まさしく不審者、それか泥棒ですよね? 通報されたらどうすんですか!」

 つい興奮して声が高くなってしまう。

「しっ」と、人差し指を立てた先輩は、斜め上を見ながらちょっと考えたあと、すまし顔で述べた。

「逃げ出した猫を探していた、とでも言うさ」


 そうきたか。

 ため息が出た。このままじゃ先輩の言いなりになる。しかし、自分の能力をはるかに超える要求には応えられない。

 彼の提案を撤回させようと、私は説得を試みた。


「砂かけババアは人に砂をかけるから、砂かけババアって呼ばれてるんです。だからしょうがないんです。ええっと……風が吹けば砂が舞って目に入ることだってありますよね? 見えない人にとっては、砂かけババアも風も、どちらも自然現象なんです。どのみち中には入れないんだし、あきらめましょうよ? ね、先輩」

「じゃあ、子どもたちが痛い思いをするのがわかっていて放っておくのか? 俺にはそんなことはできん。俺は御札を貼り直す」


 落ち着き払った低い声は、がんとして譲らない。

 ダメだ。すっかりヒーローモードに突入している。

「俺と千月には見えているんだ。俺とお前がやれねばならぬ。これは俺たちの使命だ」

 立派なセリフだが、そう言われても、不可能は可能にはならない。


「でも私には門は越えられません」


 先輩は、ふうっ、と小さく息をはくと、再び砂場の方角を見やった。私もつられて目を向けると、前方から自転車が近づいてくる。後ろに子供を乗せた親子だ。不審者に間違えられないように、私たちは暗黙の了解で歩き始めた。のろのろと進む私たちの後方から、親子の会話が流れくる。


「……すれびだい」

「あはは……、す、べ、り、だ、い、だね。明日はお休みだから、また月曜日に滑り台で遊ぼうね」

「ほーくえん、いかない」

「ええ? ……滑り台で遊ぶの楽しいでしょう?」

「いや……ほーくえん、いや」

 舌足らずな声に追い越される。通り過ぎるとき、男の子の柔らかそうな髪がオレンジ色の日の光にきらきら輝いていた。


 ――ほーくえん、いや


 あの声が突き刺ささった。瞬時に罪悪感に襲われ、胸が痛くなった。

 あの子がここの園児かどうかわからないし、保育園を嫌がる理由が、砂かけババアのせいだとは限らないのに。

 自転車が行ってしまうと、私たちはすぐに保育園の出入り口に戻った。


「お前は中に入らなくていい」

 そう言った先輩の顔を見て、彼の意志は絶対に変えられないと悟る。

「あの木のところにいてくれ」

 ちょうど砂場の前に生えているこんもりと茂った低木を、彼は指差した。

「見えなくなったらお前のところに行くから、フェンスの網目から手を出してくれ。お前の仕事はそれだけだ。あとは俺がやる」

 強い光を放つ瞳に見つめられた私は、もうイヤとは言わなかった。

 こくりとうなずき、砂かけババアの御札貼り直しに同意したのだ。


 トヨサト先輩は、周囲の様子を注意深くうかがったあと、門柱の上部に手をかけた。ぐっと身体を持ち上げ、難なく門柱を乗り超え、ざっと園庭に降り立つ。そして素早く砂場の方角を確認した。一連の身のこなしは見惚みほれるほどスムーズだった。


 この人、ほんとにカッコいい。あんな動きは私には不可能だ。人種が違う。


 いまさらながら思い知って、きゅっと唇をかむ。

 先輩が、「御札」とささやいてゲートの向こう側から手を出した。

「どうするつもりですか?」

 御札を取り出しながらたずねると、張り詰めた声が返ってくる。

臨機応変りんきおうへんだ」

 臨機応変……。私にできることは手を出すことだけだから、作戦の立てようもないってことか。

 御札を受け取った彼は、「行くぞ」と言ってあごを砂場に向けた。


 フェンスの内と外を、二人並んで静かに進む。

 人や車が近づく気配はない。それはありがたいのだけれど、夕暮れの気配が漂い始めた人気のない保育園は不気味で、首筋が薄すら寒い。胸がざわつくし足も重いけど、同意したからには逃げ出すわけにはいかない。


 目当ての木に着いて周囲を確認すると、ここは園庭の中ほどなので全体が見渡せた。砂かけババアがいる小屋はすぐ左にある。しかも、しゃがみさえすれば、私は茂った木の陰にすっぽりと隠れられる。いいポジション選択だった。


 トヨサト先輩がうなずいたのを合図に、私は目の前のメッシュフェンスの四角い穴に腕を通した。先輩が私の手を力強く握る。ビリッと刺激を感じた次の瞬間、彼は小屋に向かって走り出していた。

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