第5話 俺たちの出会いは運命だ!

「ただいま。母さぁん! ちょっと!」

 家の奥に向かってトヨサト先輩が声を張り上げた。

「おかえり~、なによぉ」

 のんびりした声が返り、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。

「あらまぁ!」

 現れた先輩のお母さんは、私を見て目を丸くした。小柄ですごく可愛らしい人だ。


「こんばんは。突然すいません……」

 私はぺこりと頭を下げた。

 ここまできたからには着替えさせてもらおう。正直言ってすっごく寒いし、濡れた制服は気持ち悪いことこの上ない。

 お母さんはいかにも興味津々という顔をして、私と先輩を交互に眺めながら明るく言い放った。


「もしかして聡士さとしのカノジョ?」

 まさか!

「と、とんでもありません! 違います!」


 青くなって胸の前でブンブンと手を振る。

 トヨサト先輩のカノジョがこの私だなんて、ありえないでしょ、お母さん……。


 先輩は、私の肩をつかんでくるりとひっくり返すと、悲惨な後ろ姿をお母さんに見せつけた。

「そこの公園で転んだんだ。びしょ濡れだから連れてきた」

「まあ、そうだったの。かわいそうに……」

 彼女はぐっと眉をひそめると、「今、タオル持ってくるわ」と背を向けた。


 お母さんは、私のことをトヨサト先輩のカノジョだと勘違いした。つまり本当のカノジョである本田さんの顔を知らない。先輩は、まだ本田さんを家に連れてきてなかったの?

 カノジョより先におうちにお邪魔してごめんなさい。

 ものすごーく申し訳なくて小さくなった。


 十数分後、学校ジャージ姿の私は、恐縮しながらリビングのソファに座っていた。手には暖かなミルクティーのカップがあり、指先まですっかりポカポカだ。

 結局、着替えだけでは済まなかった。お母さんの強いすすめでシャワーを借りることになったのだ。その上、「サイズが合わないからあげる」と新品の下着までもらってしまった。シャワー後はリビングに引っ張っていかれ、こうしてもてなされている。


 汚れた格好で突然現れた客なんて迷惑でしかないのに、こんなに優しくしてくれるなんて、すごく親切な人だ。微笑むとふっくらした頬に現れるエクボも、温かい人柄を表すかのようだった。


 向かいに座ったお母さんに問いかけられ、私は、学年や氏名、この先にある美術館近くのマンションに住んでいることを話した。

「そっか、貢本町みつぐほんちょうに住んでるんだ。あそこからだったら、そこの公園を通ると通学に便利ね」

「はい」と、私はうなずく。するとお母さんが顔を曇らせて言い出した。

「そういえばそこの公園ね、最近なんだかおかしいって噂よ。けが人が多いんだって。特にほら、あの赤い土管」


 赤い土管――にドキリとする。


「あれ、撤去案てっきょあんが出されてるのよ。土管から落ちたり、あの辺で転んだりする子が多いんだって」

 隣に座るトヨサト先輩と思わず顔を見合わせた。川男かわおとこの悪行が、すでに噂になっていたなんて知らなかった。


「あなただって転んじゃったんでしょう? やっぱりあの土管の辺りなの?」

 川男を野放しにしていた自分を責められている気分になってくる。

「いえ、違います。私はちょっと急いでて、それで転んじゃっただけなんです」

「えっ? 急いでた? もしかして用事あったの? 大丈夫?」

「はい、たいした用じゃありませんから。オギノヤに行こうと思ってただけなんで」

 私の返事に、お母さんは、「ああ」と訳知り顔をする。

「夕市の卵ね」


 正解を口にした彼女は、すっくと立ち上がり、冷蔵庫から卵のパックを取り出した。

「今から行っても間違いなく売り切れね。これあげる。うちにはもう一パックあるから」

 せめて卵代を払うと言ったが、聞き入れてもらえず、困って先輩を見る。彼が笑ってうなずいたので、礼を言って卵をスクールバッグにしまった。


「本当にお世話になりました」

 玄関先で、私は深々と頭を下げた。するとトヨサト先輩がさらりと言う。

「俺、ちょっと送ってくる」

「は?」


 ぶったまげた。


「大丈夫です! ご心配なく」

 慌ててぶるぶると首を左右に振った。すでに迷惑かけすぎだ。

 しかも相手はトヨサト先輩。カノジョでもないのに、私ごときが送ってもらうなんて、厚かましいにも程がある。

「先輩、私、一人で帰ります!」

 けれど彼は、私の言葉なんて聞こえないふりで、家の陰から自転車を引っ張り出してきたではないか。


 お母さんが私の耳元に口を寄せた。

「聡士って言い出したらきかない子なの。しかも妙に正義感強いし」

 それからちょっと困ったような笑みを浮かべて続ける。

「お願い。送らせてやって。よかったらまた遊びにきてね」

 私は、「はい」とうなずくしかなかった。


 外は少し風が弱まっていた。雲が流されたせいか、夜空には真ん丸な月が輝いている。

 明るい夜道を、トヨサト先輩が自転車を押して歩いて行く。

 並ぶ私は、なんと! 彼の上着をはおっていた。先輩が自分の上着を貸してくれたのだ。

 これってまるで……少女漫画のワンシーン。


 ――彼の匂いのするダボダボの上着は、私をすっぽりと包んでくれる。まるで彼に抱きしめられているみたいに温かい――


 頭の中におかしな文章が浮かんできた。

 落ち着け! 脳みそ。

 慣れないイケメンとのツーショットに、どうやら私、柄にもなく舞い上がっているようだ。


 すぐに小さな川にたどり着いた。そこにかかる橋の上で、ふいにトヨサト先輩が立ち止まる。

 どうしたんだろう? 

 私も足を止め、先輩を振り向いた。


「お前のこと、千月ちづきって呼んでいいか?」

 真面目な顔で聞いてくる先輩に、律儀りちぎな人だな、と思いながら、「はい」と答える。

 彼はうつむき、独り言みたいにつぶやいた。


「俺は……千月のことを、ずっと待っていたのかもしれない」


 私はぽかんと口を開けて固まってしまう。

 空耳そらみみ? 

 そうとしか思えない。浮かれた脳みそが暴走し、本格的に妄想を始めたのか?


 先輩はすっと顔を上げ、真っ直ぐな視線をよこしたまま唇を動かす。

「俺たちの出会いは――」

 私の後ろにそびえる外灯がいとう白々しらじらと輝き、正面から先輩を照らして浮き上がらせている。

「運命だ」

 低いけどよく響く彼の声。それが力強く私の鼓膜こまくを震わせた。


 うんめい……って、運命? 

 運命のウンに運命のメイ。

 当たり前か。ええっと、他になにかあったっけ? 思いつかない。


 ジャジャジャジャーン。ジャジャジャジャーン。ジャジャジャジャ……


 運命という名の馴染なじみのメロディーが脳内に響き渡る。それをBGMに、まさかの恋の予感が勝手に暴走し始めてしまう。

 ドックン、ドックン――胸が強く鼓動している。

 私は息を止め、トヨサト先輩の真剣な眼差しを受け止めることしかできない。


 見つめ合う二人。橋の上の時間が止まった。

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