31 「わたしは、蛍火に呪いをかけた」




「俺が睡蓮のことを好きになったのは、俺の勝手だ。睡蓮が判断することじゃない。……頼むから、そんなに自分を否定してくれるな」


 話している間中手が震えていて、後ろに隠していたけれど、いつの間にか体が震えていたことに、抱き締められて気がついた。

 震えを止めるように、強く抱き締められて。


「睡蓮は悩んで、死を選んだ形でも自分の衝動に勝ったんだろう。決して国を滅ぼさなかった。過去には色んな形で国を衰えさせて、恨まれ討たれた王がほとんどだ。でも、睡蓮はそうはならなかっただろう」

「……」

「睡蓮が胸を張りたいようには出来なかったとしても、千年、国を治めたんだ。それは偶然で出来ることじゃない」

「……」

「俺に知られるのが怖い、見る目が変わるのが怖いって言ったな。俺が今聞いて思うのは、──ただ、気がつけなかったことが悔しい。睡蓮が自害したと聞いたとき、理由が分からなかった。睡蓮がいなくなった事実だけがあった。俺は、睡蓮が悩んでいることも気がついていなかった」


 気がつかれないようにしていたから。


「睡蓮が言わなくても、気がつきたかった。せめて……俺に知られるのが怖いとか、知られないようにしようと思わなくていいようにしたかった」


 泣きそうになったから、唇を噛んで堪えようとした。

 どうして、すべてを肯定してくれるのだろう。わたしは、王として恥ずべき思考を持っていたのに。

 恐れていたことは、欠片も感じなかった。紫苑は離れるどころか、わたしを抱き締め続ける。


「……紫苑と会う時間は、嬉しかった。楽しくて、穏やかでいられて」


 つかの間、何もかもを考えずにいられたときもあった。

 現実逃避でもあっただろうけど、ずっとこうしていられたらと思ったこともある。けれど──。


「ごめんね、紫苑」


 ごめんね。


「わたしが死んだあとを見たって宗流に聞いた」


 死んだ姿は見られたくなかったけど、間に合わなかったのだろう。


「……正直、思い出すとぞっとする。今、ここに睡蓮はいるのに、触れているのに──」


 怖くなる、と紫苑が言った。

 宗流が言っていた。紫苑は、恐れているのだと。でも、紫苑が口にするのは初めてだ。


「なあ、睡蓮。俺は睡蓮を愛している。睡蓮が話してくれたことを聞いても、それが変わることはない。睡蓮が俺から逃げようとした理由がそれだと言うなら」


 わたしの話を聞き、全てを受け止め、受け入れ、変わらず愛を囁いた紫苑が、言うのだ。


「もう王じゃない。俺の国で、俺と暮らすことを考えてくれるか。俺は睡蓮と生きていきたい。前もそう思っていた。ただ以前は、俺も睡蓮も王だったから、その関係は変えられないにしろ、他の誰にもない関係で同じ時の流れを生きていけて、共に生きていけるだけで充分だと思おうとしていた。だが、もう甘いことは言っていられなくなった」


 わたしはかつて死んだ。

 わたしは、目を閉じていた。紫苑が言ったことに、驚き、そしてまた泣きそうになったから。──紫苑も、そう考えていたのか。

 前世ではあってはならず、あるはずもなかった状況と言葉が多くて、溺れそうになる。


「二度と失いたくない。どこかに行かれるのは怖い。何より、同じ道を共に歩んでいくことが可能なら、俺はそうありたいと思う。睡蓮、俺の側で俺と生きてくれないか」


 言葉の数々が胸に響き、心が震え、答えを述べようとする唇が勝手に動く。


「わたし──」


 ──わたしは。


 紫苑が、わたしのことを愛していると言った。伴侶に望むという意味で。

 抱き締められて、唇が触れたこともある。その一つ一つの行為と、言葉、視線と声、すべてに勝手に鼓動が高鳴った。


 結界で出られなくて、出たいなら嫌えばいいと言われた。そうすればさすがに諦められて、わたしを解放するだろう、と。

 受け入れたいなら受け入れればいい。受け入れたくないなら、拒絶すればいい。紫苑の言うとおり、行動を制限されているというのは、わたしの望むところではなかった。

 望まないことをする人間など嫌えば良くて、わたしは出たいと思っていた。だから、あそこから出ることだけを望み、紫苑の思いを欲さないなら、嫌えば良かった。

 けれど、嫌えるはずがなかった。紫苑の想いがあると知って、それをいらないと、払えるはずはなかった。

 だってわたしは──。


 怖れていたことはなくなった。わたしは何も怖れなくてよくなった。

 だから、きっと、一言言えば、わたしは以前得られなかった幸福を得られるだろう。




 ──わたしは、首を、横に振った。

 そうしてはいけないと、思った。

 あまくて、溺れてしまいそうな方へ身を委ねることは許されない。


「それは、できない」


 胸が痛んだ。自業自得だ。こう答えることも、自業自得なのだ。だから、撤回せずに、出てきかけた言葉をまた胸の奥に押し込められる。


 紫苑の、紫色の目が翳った。


「……嫌か」

「違う! ……そうじゃなくて」


 いや、違うと言ってしまうのも、駄目なのか。分からない。

 ただ、できない理由は、


「蛍火が、わたしを側にって言った。わたしは──蛍火がわたしをいらないって言うまでは、蛍火の側にいたい」

「蛍火、の」


 いきなりの蛍火の名前に、紫苑は呟く。


「蛍火のことが、好きなのか?」


 それが、異性に対しての『好き』を示すなら、違う。

 蛍火のことは、人として好き。それ以上ではない。

 そういう意味じゃないのだ。


「とにかく、蛍火の側に──」


 とにかく。

 わたしの様子に、紫苑はただならぬものを感じたらしい。


「蛍火の側に『いなければならない』。そういう風に聞こえる。──『とにかくそうする』、そこまでの理由は、何なんだ」


 問われて、わたしは、紫苑に言っていないことがあったと気がついた。

 故意に隠そうとしたつもりではないけれど、大きなことだ。

 でも、これで紫苑がわたしの見方が変わるなら、そこまでのことだ。さっきと同じ。ここまで来たなら。


「わたしが死んだのは、自害って言われたでしょ」

「……ああ」

「本当は、厳密には違うの」


 紫苑は怪訝そうにした。


「自害じゃないなら……?」

「自害は自害よ。わたしが死のうと思ったから」


 胸を貫いた短剣も、わたしの手が握り締めていたはずだ。


「でも、理由があって本当に自分だけじゃ命を断てなかったの」

「理由?」

「知らないと思うけど、王は自分で命を絶つことを許されない」


 王は、国のためにあるもの。称えたり、評価したりするのはいつだって民だ。 断罪の権利も他にのみあるように、自分では死ねないようになっていると、神が言った。


「だから、蛍火に殺してもらったの」


 王自身の代わりに王の時代の終わりをもたらすことを命じられたのは、神の代理人。

 神曰く、これまで民が王を糾弾したが臣下が匿い宮殿に入れず、王にその刃が届かなかった場合、神子にその役目を負わせることがあったという。

 誰に頼むかと聞かれた。誰でも良い。神子長でも、内界の神子でも、国付きの神子の誰でも。

 わたしの要望で蛍火に命が下った。わたし自身、頼んだ。


「蛍火は最初嫌だと言ったけど、わたしが頼んだ」


 それは、わたしが犯した決定的な罪となった。


 鏡越しに連絡を取っていたとき、わたしが本当そこにいるのか。本当にこの世にいるのかと、わたしに手を伸ばした蛍火。

 紫苑は、以前前触れもなくわたしが死んだことで、わたしと別れることを恐怖した。

 同じように、わたしを側にと言った蛍火に、かつてにないものを見なかっただろうか。


「わたしは、蛍火に呪いをかけた」


 蛍火にさせたことへの後悔は、今世に生まれてからがより強かった。死に際に、その表情を見たから。

 他の誰かに頼むことも考えられなくて頼んだけれど、いっそ何の関係もない神子に頼むべきだったのかもしれない。

 蛍火に頼んだことは、罪だ。


 ──ああ、そうだ。

 わたしは簡単に、わたしだけ幸せになってはいけない。






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