22 「今の紫苑様には、その余裕がないかと」






 かつて、生き続けて、生き続けた途中、夢を見たことがある。

 平民としての人生だ。あれは、わたしが王とならなかった先の人生だったのだろうか。

 畑を耕し、誰かと結婚し、子どもを産んで。

 そんな、同じ暮らしをしている人間など何人でもいる人生。


 紫苑は、特別な意味を持つ指輪をつけ、わたしを伴侶に望む宣言をした反面、決して無理矢理寝所に連れ込もうとはしなかった。

 その代わり、毎日わたしがいる宮に来て、愛を囁く。

 これではまるで、周りの扱いの通り『寵姫』のようだ。

 けれどわたしは、紫苑の言葉に何も言えていない。「はい」とも「いいえ」とも、「嬉しい」とも、「困る」とも。

 どちらも言えなかった。


 受け入れたいなら受け入れればいい。受け入れたくないなら、拒絶すればいい。紫苑の言うとおり、宮一つに行動を制限されているというのは、わたしの望むところではない。長く続けば苦痛ともなり得る。

 望まないことをする人間など嫌い、「嫌い」だと言えばいい。

 紫苑はそうすれば諦めると言った。ここから出ることだけを望み、紫苑の思いを欲さないなら──。


「……我が儘、優柔不断、根性なし、自業自得」

「それ、誰かの悪口です?」

「──宗流そうりゅう


 下に向いていた顔を上げると、宗流がいた。

 宗流は、恒月国付き神子の筆頭だ。通称王付きと呼ばれる神子。

 ここに来てからは、紫苑の背後にちらりと姿を見た程度か。

 「こんにちは」と言う宗流は、にこやかながら、蛍火とは異なるにこやかな笑いかたをする。蛍火が「綺麗な笑いかた」だとすれば、宗流の笑いかたはどこかふにゃりとしている。


「お似合いですねぇ」


 わたしの姿を見て、宗流がのほほんと言ったので「ありがとう」と返しておく。本音は宗流までそういうのはいい、だ。


「宗流、一人?」


 周りには紫苑の姿はない。


「はい。睡蓮様もお一人ですか?」

「うん」

「何をなさっていたのですか?」

「散歩。それより、宗流はわたしに何か用?」


 この宮に来て、わたしに声をかけたのだ。


「用と言うほど明確なものはありませんが、予想外にもまたお会いすることのできた睡蓮様と少しお喋りしたいなぁ、と」

「仕事は? 暇?」

「休憩です」


 笑ってしまう。

 宗流は相変わらずみたいだ。

 じゃあお茶でも調達してお喋りしよう、と宗流を促して歩きはじめた。


「お茶どうぞ」

「睡蓮様が淹れてくださるとは」

「わたしだってお茶くらい淹れられる。お茶いれてたらお菓子もらった」

「この宮の主である方がお茶を作っていると、驚いたでしょうねぇ」


 宗流が「失礼」と、お菓子を口の中に放り込んだ。飾らない、自然体の神子だ。

 一週間前くらいに外廊下に出した机に茶器を置き、椅子に座ってお茶の時間とする。

 今日はそれなりに晴れていて、太陽の光が庭を満遍なく照らす。風はなく、葉が揺れたりという自然の音は聞こえない。


「今日は脱出しようとはなさらないのですか」

「……」


 わたしはお茶を飲んでいた。


「……紫苑が示す選択肢が極端すぎる」

「極端とは」

「外と連絡を取らせてくれないのは、あんまりだと思う。一回西燕国に戻らせてくれたっていいと思うし、蛍火に連絡させてくれたっていいと思う。伝えるべき人に何も伝えられないまま、わたしはここに来ることになった」

「そうですねぇ」


 納得の言葉を述べ、お茶をのんきにすする宗流だったが、茶杯を置くと「今の紫苑様には、その余裕がないかと」と独り言のように言った。


「その指輪を使うと決めたからには、紫苑様はさすがにお気持ちをお伝えになりましたか」


 これは、明確にわたしに向けられ、尋ねる言葉だった。

 今なおわたしの指にあり続ける指輪。これによって、わたしは紫苑の伴侶になると周りが信じ、ここに正当にいられることになり、そんな扱いを受けている。


「紫苑様はそれはそれは睡蓮様のことがお好きです。睡蓮様が以前王であらせられたときからですよ。ご存知なかったでしょうか」

「……知らない」

「ですねぇ。紫苑様も言葉にはしませんでしたから。私だって直接聞いたことはありません」

「……でも、宗流は知っていたの」

「はい」

「いつから」


 いつから、紫苑は。


「いつからでしょう。私がいつ気がついたのか、紫苑様が本当にいつからその想いを抱いておられたのか。細かな時期は覚えておらず、分かりません。しかし以前睡蓮様がお亡くなりになった後ではありません。そのずっと前からです」


 知らなかった。気がつかなかった。分からなかった。思いもよらなかった。


「別に、不思議なことではないですね。単に王の数が限られているからか、聞いたことのないくらい稀なことであって──だって、想いが生まれるには充分な時でしょう。互いに王であり、過ごされた時間は普通の人の一生より長かったのですから」


 さらっと、宗流は言ったけれど。

 そう、互いに王だった。


「……この指輪を使った理由は、わたしをここに留め置くには便利だからだと思ってた」


 指輪を嵌めたのは結界から外に出られないようにと、力を無効にするためだとしても、『この指輪』を使う理由がどうしても分からなかった。

 けれど、わたしをこの国に、そして宮殿に労働者としてではなく置くには確かに最適な方法だった。

 おそらく、わたしが何も言わずに死んだから何か思うことがあるのだろう。でもわたしはその理由を言わないと決めていたから、話し合いの解決は難しいと思った。

 わたしの言葉に、宗流はもちろん首を横に振った。


「言葉にはしなかった紫苑様も紫苑様ですが、そこまでになると我が主ながら少し可哀想です」

「……いや、ごめん」


 あまりに嘆く様子なので謝ると、「冗談です」と宗流は撤回した。ただし全然冗談にしたようには見えない様子だった。

 わざとらしさが混じっていた嘆く目が、ふっと落ち着き、お茶の水面を見るように軽く伏せられた。


「紫苑様の想いは軽く何百年分ですよ。かつて睡蓮様が西燕国王であらせられた折から、あなたのことがお好きでした。普段の様子から外れた姿を見せたのは──睡蓮様が以前いなくなられたときが初めてでしたが」


 宗流の手が、茶杯を弄ぶようにわずかに揺らしたから、お茶の水面が揺らぐ。


「二百年前、睡蓮様が突然お亡くなりになったとき、この国の政治が止まりかけました」

「恒月国の政治が?」


 どうして。


「紫苑様が、全く何も手がつかない状態に陥ったためです。……想像できないでしょう。あれこれと意欲的で行動的な方ですから」


 一切執務を行わなくなった時期があったと宗流は語った。

 わたしが知らない、二百年の断片だ。


「紫苑様は、あなたの死を酷く嘆かれました」

「……」

「今回、再びこの世に現れて、紫苑様にはお会いになろうと思ってくださらなかったのですか」


 この言葉には、隠しきれず責める響きが聞き取れた。


「……宗流、それは誰に限った話じゃない」


 わたしは、唐突に重くなっていた口を開いて言った。

 紫苑に限ったことじゃなかった。


「蛍火にだって、会おうとして会ったわけじゃない」

「蛍火様にも」

「前の人生で関わったもの全てに、わたしは関わるつもりはなかった。全部、わたしの勝手で置いていったから。関わりにいくべきじゃないと思った」

「……前触れなく置いていかれたからこその、紫苑様による今の状況ですよ」


 今、わたしが結界を張られてここに留められている状態だと、宗流は、庭の先の見えない結界を示すような動作をした。


「これも分かっておられませんか」


 宗流がまっすぐにわたしを見る。


「紫苑様があなたをこれほどまでに強制的に留めることは、かつての紫苑様ではあり得なかったことです。紫苑様は、決して人のことを思いやれない方ではありません」


 知っている。

 だからこそ、なぜここまでするのかと、様子がおかしいと感じた。


「ですが、今。二百年前にお亡くなりになり、もう二度と会う機会を得られることはないと思われたあなたと再会しました。──紫苑様には余裕がありません」

「余裕ってなに」

「この国から出す余裕、あなたを離す余裕です。二百年前以前のように会えば、必ず別れること。紫苑様があなたを失うことを、恐れているからです」


 おそれ。

 それは、紫苑に当てはめようと思ったことのない言葉だった。

 わたしは、紫苑を彼の即位当初から知っている。恒月国は荒れていて、初期には紫苑がとても苦労していたことを知り、その姿を知っている。

 でも、彼は恐れなかった。失敗さえ恐れず、気がつけば堂々と国を治めていた。

 再会してからの紫苑の姿にも、恐れなんて見えなかった──。


 また、わたしが気がついていなかっただけ?

 わたしは、どれほど、紫苑の『何か』を見逃してきたのだろう。


「以前、睡蓮様はいつも通りここにいらっしゃり、いつも通りお帰りになりました。──そして、お亡くなりになりました。紫苑様はあなたの遺体を見ました。私もですが」


 瞬間、心が乱れた。

 紫苑は、西燕国に来てしまったのか。遺体の片付けが終わらないうちに、来て、見たのか。

 ああ、どうしよう。知らなかった。気がつかなかった。分からなかった。

 けれど、紫苑に、ひどいものを見せてしまったのかもしれない。


「ご本人は、単に自分が離したくないからだけだと思っているかもしれませんが、違いますよ。だって、そうでしょう。そんなに相手のことが考えられない人ではありません。以前、決して何も伝えず、強引に引き留めることもしなかった人ですよ。──紫苑様は今、恐怖しておられる」


 主のことを語る神子は、いつものんびりとした雰囲気をして微笑んでいるのに、似合わない哀しそうな表情をした。


「次、睡蓮様を外に送り出せば、また突然いなくなってしまうのではないか。そんな風に考えることは、おかしいことでしょうか。やり方が間違っていたとしても、その考えが生まれることは自然で、仕方のないことでもあると私は思います」


 そうかもしれない。

 今のわたしが自分の立場で考えても、客観的に見ても結界まで張って閉じ込めることはやりすぎだ。

 でも、もしもわたしと紫苑の立場が反対だったらと考えると──わたしは紫苑の死に耐えられただろうか。悲しくて、悲しくて、胸に空く穴に耐えられただろうか。

 あの頃のわたしの思考はほとんど止まっていた。でも、何度あの場に戻ったとしても紫苑に言うことのほうが耐えられなかっただろう。


「……宗流は、紫苑のことが、よくわかるね」

「蛍火様も、睡蓮様のことをよく理解されていたでしょう。私は、紫苑様において、睡蓮様にとっての蛍火様なのですよ。もう六百年になります。分かりますよ。王と神子の関係は色々ありますが、不敬になり得ますが、紫苑様と私はおそらく兄弟のそれに近いです」

「……それ、どっちがお兄さんなの?」


 宗流は微笑んだ。そこではない、と暗に話を戻すことを要求したのだ。

 わたしは、問いを変える。


「……じゃあ、わたしは、どうすればいいと思う?」

「そうですねぇ。紫苑様を全面的に支持するのなら、このまま受け入れて下さいになるでしょうが、このままだと色々限界が来そうで私が怖いです。この状況下で関係性が良くなることなどあります? 良くなっていると見えても、それはきっと悪い良くなり方に違いありません」

「じゃあ」

「話し合って下さい、としか」

「わたしがここにいるかいないか?」

「それもありますが、もっと根本的な話です。紫苑様が恐れる理由は、以前なぜ睡蓮様が急に死んだか分からないからでもあります」


 いつものように遊びに来て、帰って、しばらくしたら死んだことが前科となる。


「その理由は、睡蓮様ならもちろんご存知でしょう。ご自分のことですから」

「……」

「まず、それを話すところからではないですかね。でなければ、どのような選択肢があったと仰いました? 単純に出られる選択肢はありましたか?」

「……完全に嫌えば、諦めて、そうしたら解放するだろうって」

「……あの人、馬鹿ですかね」


 宗流がしかめっ面になった。次いで、「ああそうですか。紫苑様そんなことを仰いますか」とぼやいた。


「それが単純に出られる唯一の方法で、その方法を取ろうとお考えになるなら、嫌えばよろしいと思いますよ。単にここから出たいのであれば。紫苑様が諦めると仰るなら諦めるでしょう」


 半ば投げやりに言った宗流だったが、「……ですが」と彼にしては鋭い目付きでわたしを見据える。


「睡蓮様は、どちらに振り切るのも躊躇っておられる」


 高位の神子になる者には、人の心の機微が分かるような能力が不可欠なのだろうか。








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