第62話 紅蓮戦神

 海が見える道での思い出。

 父は、とある英雄について話してくれた。


「ぐれんせんじん?」

「そうだ。それがこの世で一番強い者だ」

「いまは何をしているの?」

「わからない。何処かで静かにしているのかもしれない」

「どうして、みんな、その人が嫌いなの? えいゆうなんでしょ?」

「憧れる様な強さじゃないからだ」

「あこがれる?」

「戦争で負けた国は無くなるだろう? 国を壊す事はとても恐ろしい事なんだ。紅蓮戦神は、一人で国を壊せるから,皆は怯えているんだ」

「やっつけないの?」

「やっつけられないんだ。何故なら奴は――神だから」


 まるで、おとぎ話の様だった。

 一人で国を壊せるなど、幾ら英雄でも無理がある気がした。

 だけど、それは本当だったのかもしれない。

 今、男が目の前で立っている。

 背中がとても広く、山の様な存在感だ。

 会った事ないのに、その男の正体がすぐにわかった。


「ま、まさか……」


 男の元に、何処からか四つ足の獣が走って来た。

 これまた大きい黒い馬だ。

 男が山なら、この馬は山脈の様である。

 男は振り向き、ダージリンの首回りを掴む。

 子猫の様に持ち上げると、愛馬の背に乗せた。


「危ない!」


 ドラゴンが迫って来る。

 思わずダージリンは叫んだが、男は何も起こさない。

 そして、ドラゴンが口を大きく開けた。

 影が男を被る。

 所が、ドラゴンは口を開けたまま、動かなくなってしまった。


 僅かに口元が震える程度で、それ以上の事はして来ない。

 まるで男の周りが全て、静止している様であった。

 ダージリンも同様、目を丸くして固まっている。

 唯一、男の愛馬が鼻息を出して興奮している。

 男が振り向いた。

 するとドラゴンは引っ込む様に下がった。


 男が一歩ずつ進めば、ドラゴンもまた一歩ずつ後退する。

 時々、ドラゴンが吼えて威嚇するが男は意に介していない。

 そして、遂に気が狂ったのか、ドラゴンが再び咬み付いた。

 閉ざされる牙。

 しかし、そこに男は挟まっていない。


 男はドラゴンの顔、すぐ横で立っていた。

 ドラゴンが咬み付きを続ける。

 変わらず、男には当たらない。

 まるで、男の横を咬み続けている様だ。

 馬の上で寝そべるダージリンには、意味がわからない行動だった。


 微かに残った力で男の様子を凝視する。

 それは霧の如く、脚が滑らかに地面を流れていた。

 幽霊がからかう様に、男はドラゴンを翻弄した。

 吼えるドラゴン。

 今度は豪快に前足を上げ、男を潰しに掛かる。


 だが、それも上手く行かず、前足が何故か震えだした。

 男の頭が、ドラゴンの固い皮膚の下を支えている。

 ドラゴンの瞳は揺れていた。

 兜すら凹まない中、男の左手がドラゴンの足に触れる。

 ドラゴンの足が持ち上げられていく。


 震えるドラゴンに対して、男は微動だにしていない。

 そして、左手の力が解放された。

 青空を見上げる様に、倒れていくドラゴン。

 地面が砕かれ、岩石が舞う。

 ドラゴンは再び体を持ち上げるが、その時には男がドラゴンの横まで移動していた。


 左手の指が一本ずつ折り畳まれ、そこから放たれる衝撃。

 ドラゴンは嘔吐するが、今度は強靭な尻尾で男を叩き潰した。

 だが、男はそれすらも避けてドラゴンの背に乗ると、また左手を拳に変えて打ち込んだ。

 もう一発、杭を打つ様な動きで拳が叩き込まれる。

 またも、ドラゴンから悲痛な叫びが出るが男はお構いなしに拳を入れ続けた。


 その光景をダージリンは見入る。

 全く歯が立たなかったあのドラゴンを、得物を使わず素手で圧倒しているのだ。

 圧巻しないわけがない。

 すると、ドラゴンは両翼を羽ばたき始めた。

 森林を越えるくらいに高く飛び上がると、男を空中へ放り投げた。


 そして、思い切り急降下して牙を剥き出しにした。

 しかし、男は慌てる様子も無く、空間を思い切り蹴った。

 落ちていた炎刃刀も自ずと飛んでいき、男の左手に収まる。

 陸地と変わらない動きで再びドラゴンの背に乗ると、今度は左手に持った炎刃刀を軽く振った。


 ドラゴンが何故か真下へ向かって回転する。


 腕や脚をジタバタ振りながら、地面に激突。

 同時にドラゴンの翼だったものが一枚、落ちてきた。

 男は何事も無く着地すると、炎刃刀を懐に入れ、ドラゴンの前に立つ。

 気が付いたドラゴンは、豪快に口から炎を吐いた。

 これでもかというくらいに、男を灼熱の中へ引きずり込む。


 力を使い果たし、息切れをするドラゴン。

 だがそこに、布一つも燃えていない男が歩いてくる。

 ドラゴンは再び口を開くが、火の粉が間抜けな音と共に出て来た。

 往生際が悪く、何度も口を開いたり閉じたりを繰り返すが、その間にも男が歩んで来る。

 男は溜息を一つ吐いて、左拳を握る。


 次の瞬間、ドラゴンの体が中心から全体にかけて振動が走った。

 空間が響き、森林から山にかけて揺れた。

 ドラゴンの瞳が白く光り、その巨体が今、地面に倒れた。

 静寂。

 鳥が飛ぶのを止め、狐が固まり、追われる兎も小さな足を止めた。


「す、凄い……」


 独り言が漏れる。

 ダージリンは高揚していた。

 そして、あの男の正体も確信していた。

 彼こそが、この世で一番強い英雄。


「紅蓮……戦神……」


 男が振り向くと同時に、ドラゴンの体が発火し、業火の中で崩れ出した。

 ダージリンを背負った馬が歩み出す。

 体はまだ不安定で、重い疲れが残っていた。

 男、いや、紅蓮戦神が目前まで迫る。

 滾る様な気迫。

 それが体に染み込む中で、ダージリンの視界が暗くなった。

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