巨蟹宮アクベンス
服に着いた砂を払う。
それなりに離れているが声は届いたらしい。
「な、なんだ?」
ユースピリアが駆け寄ってくる。
————しかし。
どんっ!
彼女より早く引き返してきた『突風』に襲われてよろめく。
何とか踏み止まったが危うく砂のベッドに逆戻りするところだった……。
「ああん! あんな規格外な存在も従えちゃうなんてさすが私のカケル!」
首に腕が回される。
足が地面に届いていない相手を咄嗟に支えると腕に体重が乗った。
擦り寄ってくるツロモアに翔は溜めに溜めて……。
呑み下し切れなかった嘆息を口からこぼす。
はあ。
黙ってくっ付いてるだけなら可愛いんだけどな。
キスだとか舌を這わせるだとか、そういう変なことをしない限りは好きにさせることにしている翔は彼女を片腕で支えたままレグルスの石盤をホルダーに戻す。
ついでに別の石盤を取り出した。
「……
真上に放った石盤は青く輝く。
レグルスの時と同じように風を起こし光の収縮と共に封じられた存在を顕現させる。
——蟹の魔獣アクベンスはゆったり鋏を構えると頭上で打ち鳴らした。
『今日はどう案内すれば良いのかしら?』
不思議と反響して聞こえる声に翔は「すまない」と返した。
「頼みたいのは案内じゃないんだ」
『あら、あらあら?』
アクベンスは首を傾げる。
——巨蟹宮を司る彼女の能力は主に召喚者の先導に使われる。
戦闘中でもなければ道案内以外に何をすれば良いのか分からなかったのだ。
「水で彼女を包んでやってくれないか?」
彼女、と翔が指した先にはイリアスの姿がある。
2体目の魔獣を前に硬直している彼女の顔色が悪いのは畏怖だけが理由ではないだろう。
そちらを確認したアクベンスは「ああ」と頷いた。
すす、と近付く。
突然の接近に驚いたイリアスが肩を跳ねさせ1歩後ろに退ると間にナハトが立った。
硬い表情からはアクベンスを畏れていることが見て取れる。
けれど、それでも、イリアスを庇うために動いたらしい。
微笑みを湛えたアクベンスはそんな彼に優しく鋏の腹を当てて大丈夫だと道を譲るよう促す。
『バリエナに砂漠はつらいものね』
こぷり、こぷり……。
地面から水が湧き出す。
反射的に跳び退るも量を増したそれはイリアスを追って全身を包み込んだ。
——砂と熱気にあてられて乾き切っていた肌に水気が戻る。
生き返るようだった。
僅かにあった息苦しさが取り除かれる。
しかし、いや、それだけ……?
困惑するイリアスを他所に召喚者である翔はユースピリアに向き直っていた。
今後の予定についてを話し合っているらしい。
「どうする? 王都に戻ることもできなくはないが……」
「いや、いいよ。カーニバルって気分にはなれないしな」
「そうか? ……まあ、そうだな。それなら次に移る前にちょっとダンジョンに寄ってもいいか?」
「ダンジョンに?」
「あら、それなら私も連れて行ってちょうだい」
ツロモアが話に混ざる。
翔は嫌そうな顔で返した。
「ダンジョンにお前の仕事はないだろう」
「あなたにだってないでしょう」
「似たようなもんだ。今回の目的はレグルスを遊ばせることだからな」
「何それ、とっても面白そう」
ああ言えばこういう。
是が非でも付いてくるつもりらしいツロモアはニコリと笑う。
……それじゃあ主人公組のお守りをいったい誰がするんだ。
『どうかしら?』
アクベンスに尋ねられたイリアスはおずおずと頷く。
「……楽に、なりました」
『そう。それなら良かったわ』
蟹の魔獣はコロコロと笑う。
……翔としてはただ、ナハトとミューエの後ろでつらそうに顔を歪めていたイリアスが目に留まっただけで、アクベンスを呼んだ理由に他意はない。
ぱしゃん。
重力を思い出したかのように落ちていった水は砂に溶けて消える。
解放されたイリアスの服が濡れていないのは水を操る異形の配慮だろうか。
アクベンスは翔の元に戻って行く。
「あー……あー、それってどうしても行かなくちゃダメか?」
「なぁに、灰猫ちゃんったら怖いの?」
「そ、そういう訳じゃ……っ!」
「……悪い、ユリア」
『異端を求める子』
呼ばれて振り返る。
ユースピリアは反射的に翔の後ろに隠れた。
『終わったわ。だけど、レグルスの影響で【守り】の力が酷く消耗してる。遠回りは禁物ね』
「……そうか」
責められているようにも聞こえるのは翔の中に罪悪感があるからだろう。
——レグルスと違って雑用でも快諾してくれる彼女は比較的温厚な魔獣で友好的ではあるものの、その優しさはけして博愛主義と呼べるものではない。
「すまないアクベンス」
『いいえ。水を属するのは今のところ私だけでしょう? あなたのそういうところ私は好きだもの。いくらだって力を貸すわ』
だけど、と言葉を続けたアクベンスの藍眼が無機質に煌めく。
瞳孔が細まって、寒々と、彼女の魔力によって冷やされた空気が蠢く。
『逃げようとしたでしょう? 待ち受ける困難を知りながら。友を見捨て。ダメよ、ダメよ。勇のない召喚者に貸せる力を私は持たない』
アクベンスの言葉が胸に棘を刺す。
チラつく記憶に息が詰まるようだった。
何も言い返せない翔に感得の導師は幼子をあやすような声音で言う。
『ゆっくりでいいの。それでも立ち向かわなくてはダメよ』
空気に溶けるようにして消える。
手元に落ちてきた石盤と練り上げられた魔力の石を強く握り締める。
……分かってるさ。
誰よりも分かってる。
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