そしてまた朝を待つ
どうやらもう、どうにもならないらしいです。
それでも構わないんですよ。ええ、ホントホント……ホントですって。
でも、そうだねえ。
できるなら。そう、できるなら――
アラームの電子音が明け方の浅い夢を切り裂いた。
うっすらと瞼を明けて、彼はカーテンのかかった窓に目をくれる。窓辺から覗く空はまだ濃紺色の影に沈んでいる。けれど日の出は近いだろう。
五時五十分の針を示す目覚まし時計を止めて、彼はベッドから身体を起こした。膝が隠れる丈もない薄い寝巻きは、厚い掛け布団を抜け出た瞬間からぬくもりを失っていく。
一人暮らしのワンルームに満ちているのは冬の空気だった。
日比野は六時十五分前に部屋を出た。
男の身支度だ。そうそう時間はかからない。もっとも彼は自分の身なりに無頓着だったし、朝食を取るという習慣がなかったから、いつも朝の支度はおそろしく早いのだ。
赤茶色をした古いアパートの壁の上で、蜘蛛の巣がきらきらと朝日を浴びて金色に輝いている。日比野が朝のしたくをすませるうちに、空も朝の姿へと様変わりしていた。
吹く風がごうごうと耳に残る。空に光る黄金色の温かな輝きとは裏腹に、風は肌を切るような冷たさで街を駆け抜けていく。
着古したジャージを首元までしっかりと閉じて風の進入にささやかな抵抗をするが、どれだけの効果があるだろう。寒がりではないから彼自身気付いていないかもしれないが、日比野の姿はこの季節随分と寒々しい。
今はしかし、それを目にするものなど誰一人もいなかった。
静かだ。ひとけのない朝の住宅街を日比野は歩いた。
背中を強く風が押す。追い風だ。走り出したらそれなりに爽快かもしれない。そうは思ったが、彼はそうしなかった。
ただとぼとぼと何の表情も浮かべずに、日比野は朝の中を歩く。とぼとぼと、とぼとぼと。
そして目指す場所が視界に入った時。
彼の顔にその日初めて、表情らしいものが浮かんだ。
落胆だった。
「……まだ、ダメか」
ぽつりと呟いて、はああ、と大きなため息を日比野は吐いた。
白く尾を引いたため息はすぐに吹きすさぶ風に掻き消える。
耳元で風がごうごうと鳴っている。朝の光はさえざえと、ひとりきりの彼の背中を照らし出している。
バス停は無人だった。
日比野の待ち人は、今朝もまた、現れなかった。
□ □ □
「おはようございます」
「……ざっす」
それはもはや習慣となりつつあった。
朝の六時二十五分、動き始めたバスを待つ、名も知らない男。
それはふたりの共通項だ。
日比野の方はコンビニの夜勤明けでいまから帰るところであり、相手の方はどうやらこれから出勤という真逆の生活リズムではあったのだが。
ともかく、ふたりは奇妙な顔なじみとなっていた。
当然と言えばそうだろう。同じ時間、同じバス停、同じ顔ぶれ。
このバス停で朝の六時二十五分からバスを待っているのは、日比野とその男以外いなかったのだ。
白髪交じりの整った髪はいつもきれいに七三でセットされていた。髭はない。柔和な顔立ちのその男は、おそらく日比野の父親とそう変わらない年なのだろう。
この人もおそらくは客商売だな。そんなにおいがする――日比野はこっそりそう思っていた。
聞いてみた事は一度もない。
あくまでも日比野と男は、バス停での朝の数分間を共有するだけの関係だったからだ。
「今朝は随分冷えますねえ」
「そっすね」
「今日も夜勤で?」
「ハイ」
「イヤ、毎度ながら大変だ」
「や、平気っすよ。慣れたんで。もう二年はしてますから」
「でも、えらいよ。僕にはできないからねえ。お疲れ様」
「……ども」
身体は多少重く感じられたが、慣れたという言葉に嘘はない。事実、日比野はもうこの昼夜の逆転した生活に慣れていた。
それでもねぎらいの言葉は嬉しいものだ。
あまり愛想のない若者は、珍しくはにかんだようにぺこりと頭を下げた。
始めは挨拶すら無視していた日比野も、慣れで小さく挨拶を返すようになり、たあいもない会話を交わすようになり。
だからそれはもはや、習慣のようなものだった。
意味のない会話、といってもいい。ただなんとなく、バスの待ち時間の間にぽつぽつと言葉を交わす事が彼らの間では当たり前になっていた。
名前も知らない小奇麗なおじさん。
どこにでも居る少しくたびれた大学生の自分。
それでもふたりは顔見知りだ。バス停という共有の地を離れればどこで何をしている人かも知れない。それでも、たしかにふたりはお互いの存在を、顔を知っている。
いちにちが終わる、その最後に言葉を交わす人。
名前も知らないその男は、日比野にとってそういう人間だった。家族でも彼女でもないのに、だ。
それに気が付いたのは最近だ。
この男はどうなのだろう。自分と同じように――いや、逆に――いちにちの始まりに、その一番初めに言葉を交わす人間が、自分なのだろうか。
結婚してたらそうじゃないよな、と考えつつ、しかし日比野は何故かその考えをぼんやりした事実として認識していた。
理由は彼にもよく分からなかったが。
ひゅうるるる、と風が電線に絡んで鳴いた。
青白い空に千切れた雲が流れていく。
日比野はぼんやりと空を眺めた。
ああ、まぶしい。やっと今日が終わる。
「……コーヒー」
「へ?」
唐突な言葉だった。
いつも天気と気温とニュースの話しかしない男のふいうちのような言葉に、思わず日比野は素っ頓狂な声を返していた。
「いります? ホット。おごりますよ」
「……え」
「あ、そうか夜勤明けだからこれから寝るんだよね。コーヒーはまずいか」
「あ、や……いります」
言った後でほんの少し、日比野は恥ずかしくなった。
なんだよ、いりますって。おごって貰うならありがとうございますだろ、頭足りてねえヤツみたいな返事して、なにやってんだ。
そうは思っても今更タイミングは掴めない。
結局日比野は自販機から二本の缶コーヒーを持って戻ってきた男に対して、どうも、というありふれた言葉しか返す事ができなかった。
幸い相手はそれで察してくれたようだ。どういたしましてと言って、男は笑い皺のある目元をやわらかく細めた。
「あと何分かな? バス」
「あー、二・三分っすね。たぶん」
「なら飲みきれるか」
男はプルタブにかけた指に力を込めた。かしゅっと軽やかな音がしてコーヒーの香りが漂う。缶の口からは淡い湯気が立っている。
日比野はしばらく缶を手の中で転がしていた。
あたたかい。つるりとしたスチール缶の感触が冷えた指先に心地よい。
「猫舌?」
「え? ああ、そういうわけじゃないんすけど」
「ヤケドはこわいからねえ。まあゆっくり飲むといいよ」
うちまで持っていくつもりならあたためなおさなきゃいけないと思うけどね。
そう言って男は少しだけ声を上げて笑った。日比野はそんな風に笑う彼の姿を初めて見た、ような気がした。
いままで、この人はこんな風に振舞った事があっただろうか?
分からない。
――なんだろう。
日比野は微かな違和感を感じていた。
――なんだろう。
不安げだ。わけもなく、そう思った。
「おじさん……なんか、あったんすか」
「え?」
素っ頓狂な声を上げたのは、今度は白髪交じりの男の方だった。
振り返った彼の見開かれた目を見て、日比野は自分が口走った言葉に今更驚いた。こんな、聞くつもりなんてなかったのに。
「あっ、いやあの、なんていうか……スンマセン、急に」
「いや、いいんだよ。気にしないで」
「……スンマセン」
困ったようにほほえみを浮かべながら、男はひらひらと手を振った。
そして缶コーヒーの残りを一気にあおると、ふうとため息を吐いて、また困ったように笑ったのだ。
「いやあ。やっぱり、自分じゃあ気にしてないつもりでも、実はショック受けてたのかな。自分じゃ分からないものだね、こういう事は」
「ハイ?」
きょとんとした面持ちで日比野は聞き返した。
話の内容がまったく掴めない。独り言のようなものだったのだろうが、気にしていないつもりだったとかショックを受けたとか、聞き流しにくい単語がそこには混ざっていたから、聞き返さずにはいられなかったのだ。
「何が、あったんですか? ……聞かない方がいいっすかね」
「いや、いいよ。聞かれて困るものでもないからねえ」
念のため添えておいた逃げ道に、男は走ったりはしなかった。
にこりといつも挨拶の時のようにほほえんで、彼は答える。
風が吹いていた。電線が悲しげに鳴いている。
「ガン、なっちゃってね。ステージ4だって」
日比野は産まれて初めてかける言葉がない、という事態に直面した。
男は笑っていた。
少し困ったように眉をひそめて、笑っていた。
□ □ □
バスがゆっくりとドアを開く。聞き取りにくい運転手のアナウンスが、日比野の降りるバス停の名前を告げた。
閑散とした住宅街の片隅にあるそのバス停で降りたのは、日比野ひとりだけだった。乗り込んでいった客の方が倍以上も多い。制服姿の学生達、似たようなスーツにやコートに身を包んだサラリーマン。
ぷしゅう、と空気を震わせてドアが閉じる。車内の暖房の残り香と日比野を残して、バスは走り出した。
ぼんやりと、日比野はそれを見送った。
バスにはあの男も乗っている。あの学生やサラリーマン達と同じように、彼の新たないちにちもまた、これから始まるのだ。
何も不思議な事はない。朝が始まりなのは世界の普遍だ。
日比野のように朝にいちにちの終わりを迎える者は少ない。街の夜も眠りすらも曖昧になっている現代でも、そういうものである。
それでも今はその普遍性すらなにか遠い出来事のように思われて、日比野はただただ、バスの去り行くさまを見つめていた。
ちょっと、見付けるの遅かったみたいでしてね。
うん。進行って言うのかな。結構、してたみたいでねえ。
どうやらもう、どうにもならないらしいです。
いや、ゴメンね。急にこんな話しちゃって。
あ、バス来たよ。
……ゴメンね、びっくりさせて――。
男はいつも通り笑っていた。笑ってバスに乗り込んで、そして仕事に出掛けていった。
もうどうにもならないらしいですと、そう言ったのに。
淡々と受け入れているのが病なのか死なのか諦めなのか、若い日比野には分からない。理解ができない。
だがその悲しさだけが、冬の窓に付く霜のように、冷えびえとした温度をもって心の底に貼り付いていた。
朝の光は金色で、あたたかく、それでも冬の空気は肌を刺しながらささやく。
生きる事に痛みは付き物であるのだと。
一人暮らしの雑然としたワンルームに戻って軽くシャワーを浴び、そして午後の講義までの時間一眠りするために布団に潜り込んでからも、日比野はしばらく考えていた。
明日またあのバス停で彼に会ったら。
なんと言うべきだろう。
なんと、言葉をかければいいのだろう。
「おはようございます」
「……ざっす」
次の日交わした最初の言葉は、いつも通りの挨拶だった。
バス停には日比野より先に彼がいて、そして朝日を右斜め前から浴びて、白髪がそれにきらきらと輝いていた。
今日もきっちりと頭は七三に分けられている。コートは少し着古した感が否めないが、丁寧に使っているのだろう。清潔感がある。
何も変わりはない、いつも通りの男の姿だ。
一晩、コンビニのレジを前に悩みぬいたというのに、結局日比野はまだ彼に何を言っていいのか分からないままだった。
大変ですね?
病を抱えて仕事に赴く人間に、なんて白々しい。
お大事に?
もうどうにもならないと言ったその人に向かって、それはあまりに酷薄だ。
朝の空気は今日も冷たかった。ふたりの待つバス停にも風は容赦なく吹き抜ける。
冬の香りだ。
鼻の奥がきんとするような匂いの中に、微かな花の香りがする。金木犀の甘い匂い。
「……昨日はゴメンねえ。びっくりしたでしょう?」
「えっ!?」
唐突にかけられた言葉に、文字通り日比野は飛び上がるほど驚いた。
心でも読まれたのかと思ったのだ。
対する男は苦笑いだった。男のこんなに困ったような顔を見るのは、初めてだ。
「僕もね、もうちょっとオブラートに包んだ言い方ができたらよかったんだけど。あのあとバスの中で、しまったなあって考えてたんですよ。直球過ぎました」
「そんな! えっと、その、自分も何にも考えずにストレートに聞いちゃってたんすから……スンマセンした」
「いいよ、謝るのはこっちの方だから。君が頭を下げる事はないよ」
「……スンマセン」
謝る事はないと言われても、謝る言葉しかない、と言うのが現状だ。
日比野はうなだれたように頭を下げた。
あんな無作法なものの聞き方をするべきではなかったのだ。昨日の自分がこの場にいたら、迷わず横っ面に一撃喰らわせてやるだろう。
自己嫌悪で身体より重たくなった頭を下げて、もう一度日比野はスンマセンと呟いた。
「聞いた事なかったけど、おにいさんは大学生?」
「え。あ、ハイ……」
「そうかあ。じゃあまだハタチくらいだ」
「二十一です」
「へえ! そうか、じゃあ平成生まれだ。午年?」
「ハイ……なんですぐ分かるんすか?」
「易者をやってるもんだから、すぐに計算してしまって。職業病ですかねえ」
「エキシャ?」
「うん。そうか若い男の子は分からないかなあ。占い師ですよ」
「占い師」
「そう。手相も見たりするから占い師ですって名乗る方が、まあ正しいのかな」
珍しく男は饒舌だった。天気や最近話題のニュース以外で、彼がこんなに話す事は今までなかったというのに。
しかも、自分の事をこんなにも。
男の仕事が易者だと言う事すら、日比野はいままで知らずにいた。
客商売という彼の予想は、あながち間違いではなかったのだ。
どちらかと言えば無愛想な日比野が曲がりなりにも言葉を交わすようになったのも、彼の身に付いた姿勢のためだったのかも知れない。
占い師というのは基本的に聞き上手で、次いで口が上手いものだ。
客の言葉から不安と期待と欲求を読み取り、それに見合った指針を返す。それが出来ねばそう何年も商売を続けてはいけない。
「ここ数年は駅ビルの方で場所を借りてましてね」
「占い師って……そんな朝早くから仕事なんすね」
「うん。人によっては出勤前に視てもらいに来たりもするからねえ。逆に、仕事終わりに来る人も多いんですよ」
「へえ……」
「まあ、こう言っちゃなんだけど、自営業だからね。早くに出て遅くに終わる、そういう仕事だね」
「キツくないんすか。その……そんな、今、病気してるのに」
すんでのところで”ガンなのに”という言葉は飲み込まれた。
日比野の顔をちらりと見て、男はふっと静かにほほえんだ。
風が吹く。冬の香りを乗せた、風が。
「今は、そうだね……ちょっとキツいかな。でもまあ座り仕事だし、サラリーマンと違って休みは自分の都合で選べるから」
「……」
「それに、こうなっても僕はやっぱり、こうやって生きていくのが道理だよなあと思ってましてね」
「こうやって、すか」
「うん。こうやって、いろんな人を視ながら。病気で死ぬにしても長生きするにしても、死ぬまでそうやって生きていこう、とね」
「……仕事好きなんすね」
「そうかな。そうかもしれませんねえ。ああでも、どっちかって言うと『構わないから』かも知れないなあ」
「構わない?」
おうむ返しに聞いた日比野に男は頷いて見せた。
「構わないんです。死ぬのが十年後でも一年後でも、あといちにちでも。後悔はないですからね。自分の納得のいく生き方をしてきました。だから、それでも構わないんですよ。ええ、ホントホント」
「……」
「……ホントですって」
また言葉を無くしてしまった日比野に向かって、男は苦笑を投げかけた。
風が緩む。空気の冷たさを除けば、今日はわりと暖かいのかも知れない。肌に当たる光はいつもより確かなぬくもりを伝えてくる。
いい天気だ。
遠くにバスが見える。六時三十二分発のバスは、定刻どおりやってきた。
「だから、病持ちにはなりましたけどね、同じように生きられます。明日もあさっても、きっと、死ぬ日もね。だけど……でも、そうだねえ。できるなら。そう、できるなら、もう少しだけでも、いろいろな人の生きる道を視ていたいかなあ。そのために、こうやって今日も働きに出るわけですから」
柔和な笑みは、今は苦笑ではなかった。
笑い皺を深くして男はバスに目を移す。釣られて日比野も近付いて来るバスを見た。
バスが走ってくる。朝の光を浴びて、真っ直ぐに。
日比野のいちにちの終わりと、男のいちにちの始まりを運ぶために、バスがやってきた。
「寒いからあったかくして帰れよ。マフラー持ってきたか?」
「や…」
「お前、本当に薄着だなあ。風邪引かないように気を付けた方がいいぞ? 俺のマフラー借りてくか?」
「や、ダイジョブっす」
「そうか? まあ、帰ったらうがいでもしとけよ。お疲れ様」
「あざっす。お疲れ様です」
早朝番で入った店長に頭を下げて、日比野はコンビニのバックルームを後にした。
裏手のドアを開けると、群青色の空に沈む灰色のビルの群れが目に入る。
店長の言葉のとおり、外は酷く寒かった。風がないのが幸いだ。マフラーなどと言う気の利いたものなど持ってきていなかった日比野は、首をすくめてモッズコートの前を掻き合わせた。
溶けていくように空は明るさを増していく。彼方に浮かぶいくつかの明るい星も、徐々に青の中に消えていく。
ひとけのない裏道を、明けていく空を見ながら彼は歩いた。
程なくバス停に辿り着き、そして日比野は首を傾げた。
バス停は無人だった。
「……今日、土曜だっけ」
知らずに口から零れた疑問は、白い塊になってそこに残った。
バス停に、いつもの男の姿がなかった。むろん彼が毎日この時間、ここにいるわけではないと日比野も知っている。休みくらい誰だって取るものだ。
しかし日比野は男の休みが毎週土曜日だと言う事を知っていた。今日は、彼の記憶が正しいのなら、水曜だ。
わずかばかりの不安が日比野の胸に広がる。
「……」
街には風の音もない。車の走る音も。時折、遠くでカラスの鳴き声がするだけだ。
静かだった。
無言のまま、日比野はバスを待った。定刻どおりに着いた六時三十二分発のバスに乗り込んだのは、その朝、日比野ひとりだけだった。
坂道を転がるように、日増しに寒さは深まっていく。
白い息が出るのも当たり前になったのは一週間前だ。元々薄着で通している日比野も、モッズコートをダウンに変えた。
夜勤明けの時間帯は特に寒い。ただでさえ外でバスを待つのは辛い季節だ。特にそう、ひとりきりでじっとバス停に佇むには。
気が付けばふた月が過ぎていた。
男がバス停に現れなくなってから、ふた月。
秋と冬を行きかうような日々は、確実に冬のそれへと変わっていた。
□ □ □
六時二十五分。朝の光を浴びて、日比野はバス停に立っている。
風の音がやけに耳につく。静かだからだ。朝のバス停に、今日もまた日比野はひとりだった。
どうしたのだろう。
なにがあったのだろう。
――まさか。
そう考えた事はこのふた月何度もあった。けれどその度にその考えを叱咤したのは、ほかの誰でもなく日比野自身だ。
不安になるのは仕方がないけれど、具体的にそんな想像にふけるのは不謹慎だ。
なによりそう考えてしまうのは”できるなら、もう少しだけでも、いろいろな人の生きる道を視ていたい”と言った彼に対して悪いような気がした。それは彼の願いだった。それを否定するような妄想に取り憑かれるのはよくない。
彼を知っているものとして。
友人でも家族でもなかったが、日比野はそう思っていた。
あの人は諦めたのではないのだ。ただただ、希望と覚悟を持って前を見ていた。それだけだ。
だから否定をしたくなかったのだ。
彼が生きている、という事を。
ひゅううるる、と風が電線に絡まって鳴く。木枯らしだ。街路樹の葉はもうすでに全て落ちてなくなっている。
なんとはなしに日比野はバスの来る方とは逆の通りに目を向けた。
それは本当に偶然だった。
信仰心のあるものならば、それを運命だと言っただろうか。
朝焼けの中に見とめたその姿に、思わず日比野は体ごと振り返っていた。
「……おじさん!」
「ああ、おはようございます。今日も夜勤明け?」
まるでこのふた月の空白などなかったかのような口ぶりで、男は笑って手を振っていた。
日比野は走り出していた。ゆっくりとこちらに向かって歩んでくる男へ。
けれどその姿がはっきりとしてきた時、日比野の足はアスファルトの道路に縫いとめられたかのように鈍ってしまった。
呆然と、言葉もなく、日比野は近付いて来る男を見ていた。
「ゴメンねえ。びっくりしたでしょう?」
言葉だけは、いつか聞いたそれとよく似ていた。
けれど日比野は、今度は飛び上がるほど驚いたりはしなかった。呆然としていたからだ。
男の姿はふた月前とはあきらかに変わっていた。変わり果てていた、と言ってもいい。
柔和な顔立ちは細く痩せこけ、厚いコートを着ていても分かるくらい肩の肉がなくなっていた。背すら縮んで見えるほどだ。
いつもきれいに七三に整えていた頭には、今はやわらかそうなニットの帽子が覆いかぶさっている。しかしそれでも日比野は気付いた。気付いてしまった。
男の頭には、もう一本の毛も残っていない。
ニット帽のふちに隠れてしまっているが、きっと眉もない。笑い皺を刻む目元にあった睫毛も、ない。
その意味は。
「抗がん剤って本当にハゲるんですねえ。このとおりですよ」
困ったように男は笑う。その表情は痩せこけてはいても、あの日となにも変わらない穏やかなものだった。
「……入院、してたんですか」
「ひと月くらいね。あとはずっと自宅。最近はねえ、あまり長く入院させないんだよね、病院も」
テレビで見るのとは随分違うんだねえ、と男は声を上げて笑う。
笑い声には張りがなかった。
「しかしおにいさん、髪、伸びたね。僕がこういうのもなんですがね、切りに行った方がいいと思うよ。うん、絶対そう」
「……おじさん、自分が大変だったのに……久しぶりの知り合いにかける言葉がそれすか」
「だっておじさん、占い師ですから。気になるところはどうしてもアドバイスしたくなっちゃうんですよ」
「……そうすか」
「ああよかった、やっと笑った」
言われて日比野は、自分の眉間に固く皺が寄っていた事にやっと気が付いた。
思わず額に手を伸ばすと、面白そうに男はくすくすと忍び笑いを漏らした。
「しかし今朝も冷えますねえ」
「ここ最近はもう、バス停立ってるのも辛いっすから」
「そうですか。いやあ、夏が終わるのは遅いのに冬になるのは早いですねえ、ホント」
「そっすね」
「……何か聞きたそうだね」
ちらりと視線を傾けて男は微笑む。
日比野は少しだけばつの悪そうな顔をしたが、しかしおずおずと口を開いた。
「仕事。どうしたんすか、あれから」
「うん、さすがにねえ。出来なくなってしまったよ。情けない話です」
「――そんな……事は」
「病に倒れる、というのはそういう事でもありますからね。仕方ないよ。ああでもね、病院で占い師だって言ったら、同じ病室の人や看護婦さんが視てくれってたまにお願いしてきましてね。病室でも手相視るくらいならやってましたよ。もしかしたら暇な時期よりたくさん視たかもしれないなあ」
「よかった」
「うん?」
「思ったより、元気そうで……いや、元気っつったら違うかもしれないんですけど……でも、よかったです。話せて」
「ありがとう。おじさんも久しぶりに話が出来て嬉しいよ。おにいさんとはここでしか繋がりがなかったですからねえ。もしかしたら今日、ここにはいないかもと思ってたんだけど、でもいたね」
「……ハイ」
「うん、ホント、よかった」
男はよく喋った。本当に、日比野に会えて嬉しいと思ってくれているようだ。
日比野もまたそうだったけれど、あいにく彼は口が回る方ではなかったから、その事を上手く口にする事が出来なかった。
よかったです。本当に、よかった。
生きてて。
そう言いたかったが、言えそうにない。伝えるタイミングが掴めなかったのだ。
日比野はふた月前と変わらず、少しばかり愛想がなく口下手で、それでもこの知り合いのために祈る事ができる若者だった。
きらきらと、朝の光が差している。
光の差す方を見てほんの少し目を細め、男はまた日比野に向き直った。
「これから帰り?」
「ハイ」
「そうか、まだちゃんとバイトは続いてるんですね。お疲れ様」
「ありがとう、ございます……そういや、おじさん今日はなんでここに」
「ああ、仕事場のねえ、片付けが実はまだ済んでませんで。置きっぱなしの荷物をこれから取りに行くところです」
「こんな早くにっすか」
「うん。もしかしたら、おにいさんに会えるかもと思いましてね」
「俺、ですか?」
意外な言葉に驚いた日比野に、うんそうです、と男はうなづいて見せた。
「おにいさん、占いに興味ないでしょう」
「へ?」
「きっと今まで、占い師に視て貰った事なんかないだろうなあとね。ずっと、実は気になってまして。これも職業病でしょうかねえ」
「……や、確かに一回も、いままで占いとか、行った事ないっすけど……」
「ああやっぱり! 当たりましたね。まあ今のは占いじゃなくて勘ですけどね」
読めない会話にぽかんとしている日比野に、男はいたずらっ子のような笑みを向けた。
「折角なので、視てみたいなあとね。そう思ったわけです。おにいさんの生きていく道をね」
……でも、そうだねえ。
できるなら。
そう、できるなら、もう少しだけでも、いろいろな人の生きる道を視ていたいかなあ。
そのために、こうやって今日も働きに出るわけですから。それで、誰かのささやかな手助けになれたらな、とね。
人様の人生を大きく変えられるなんて、そんな事は思いません。
占いはあくまで占いですからねえ。
……それでも、ね。
ただ、ほんの少しでも誰かのなぐさめになったり、追い風になれたりするのなら、それは嬉しいですねえ。
嬉しいじゃあないですか。
こんなおじさんでも、役に立てたら嬉しいですよ。きっとみんな、本当はそうだと思うんですよ。
そうやって生きていたいと、底の方ではそう思ってるんじゃないかなあ。
僕はね、おにいさん。
この生き方なら、明日終わったとしても、納得して逝ける。
ですから、これからもそうやって生きていこうと思いましてね――。
あの日の言葉が蘇る。
そうだ、そうだった、彼は。
そう願って日々を生きていたに違いないのだ。
それが後悔しない生き方だと、そう心に刻みながら。
生きていくのだ。今日も、明日も。終わる日まで。
「視ていいですか? ああ、おせっかいだったらすみません。断っていいですよ」
「や……お願いします」
日比野は手を差し出した。
手相を視るにはどちらの手を差し出すべきなのか。日比野は知らなかったから、両手を開いて、男にそっと差し出した。
開いた手の平を朝日が照らす。冬の空気は凍るほど冷たく、けれど日差しは確かにあたたかい。
男は少しだけ驚いたように目を見開いて、すぐにその目を優しく細めた。
「おにいさん、やっぱりいい人だねえ。すこーしばかり口下手ですけどね。でも、うん、真っ直ぐな、いい人ですよ」
冬の風からかばうように、そっと男の手が日比野の手に触れた。
いままで何年もそうやって人の行く末を見てきたのであろう彼の手は、細く筋張っていて、けれど朝の光と同じくらいあたたかだった。
□ □ □
風が吹いている。ごうごうと耳元に風の音が響いている。
追い風だ。
日比野の背中を支えるように、冬の風が吹いていた。
バス停の前で日比野は空を見上げていた。朝は、いつもうつくしい。どんなに疲れている日でも、不思議とバス停で待つあの時間は苦痛ではなかった。
濃紺から、群青へ。群青から、水色へ。水色から、白へ。そして白は金色になって、光は太陽から真っ直ぐに空へと伸びている。
春も夏も、秋も冬も。
朝焼けは、うつくしかった。
バス停に日比野はひとり、立っていた。バスを待っているわけではない。夜勤のコンビニのアルバイトは四回生に進級した時に辞めたのだ。
今はもう、あのバス停で、六時三十二分発のバスを待つ事もない。
あの日、バス停で男に手相を見てもらった日以来、日比野はとうとう彼と顔を合わせる事はなかった。
彼の仕事も終わったのだ。
易者は、あの優しげな占い師は、いまどうしているだろう。
それすら日比野は知らない。
当然だ。彼と男のつながりは、あのバス停にしかなかったのだから。
――でも、うん、真っ直ぐな、いい人ですよ。
それでも寒い朝の日、こうやってバス停に立っていると、日比野は男の言葉を思い出す。
日比野の手相を見て、あの朝、男は満足そうに微笑んでいた。
――そうだねえ。昔は病気がちだったみたいだけど、成人してからは落ち着いているね。うん、大丈夫。これからも大病はせずに過ごせそうですよ。
でも少しお酒には気を付けた方がいいねえ。
おにいさん、肝臓弱そうだから。ああ、今のは占いじゃなくて勘だけどね。
うん、ゴメンゴメン。
ああ、アルバイトね、今の夜勤のもの、もう半年は続けた方がよさそうですねえ。そちらの方で出会いがあるよ。多分女の子だ。
彼女、今いる?
そうかあ。じゃあ、期待していいと思うよ。きっといい娘さんが現れますから。
あとね、ちょっと、敬語は直しておいた方がいいね。真面目なのに損を見るかも知れないからね……今のも勘だけどね。というより、おじさんからのアドバイスです。
君ならきっと、大丈夫だ。これからも。うん、おじさんが保障します。
がんばってね。
応援していますよ――。
強く強く、風が吹いた。
決して小柄ではない日比野の身体をふらつかせるくらいの風が。
遠く、朝の町を駆け抜けてやってくるバスの姿が、その時見えた。
日比野はじっとそれを待つ。
見慣れたバスだ。何年も、日比野はこれに乗ってアパートへと帰っていた。そして彼は、何年もこれに乗って仕事へと出掛けていたのだ。
バスが止まった。ぷしゅう、と空気を震わせてドアが開いた。
バスの中に乗客の姿はない。だから、そのドアからは誰も降りてはこなかった。
「乗りませんか」
「……ハイ」
「発車します」
日比野の答えを聞くと運転手はドアを閉じた。ゆっくりと、バスが走り出す。
朝の光を浴びて窓のガラスが鏡のようにきらめいた。
バスは走り去った。大きなマンションの角を曲がり、そして見えなくなった。
あとにはただひとり、日比野だけが残された。
しばらくその名残を見つめていた日比野も、踵を返して歩き出す。六時四十八分の光を浴びて、彼の住む部屋へと、ひとり。
帰ったら部屋を片付けなければいけない。今日は久しぶりに彼女が来るのだ。
少し潔癖気味な彼女のOKがなければ、今日のデートは部屋掃除になってしまう。今日は映画を見に行きたい。長らく公開を待っていたハリウッド映画。
映画の話が元で仲良くなったふたりだから趣味はあう。きっと彼女も喜んで付いてきてくれるはずだ。
風に吹かれながら日比野は歩いた。帰りの道は向かい風だ。それでも特につらくはない。
朝の空を見ながら歩くのが、日比野は好きだったから。
「それじゃあ、おにいさん、元気でね」
「ハイ。あの……おじさんも、元気で」
「――ありがとう。元気で、かあ。言われたの久しぶりだなあ。いい言葉ですねえ。最近はお大事に、くらいしか聞かなかったものだから。嬉しいねえ」
「あの」
「うん? なんでしょう」
「また、その……どこかで会えたら、占ってください。いいですか?」
「……ありがとう。ええ、覚えておきましょう。おにいさん、その頃には彼女、できているといいですねえ」
「……ハイ」
「そうだ。占いも、当たってたら教えてくださいね」
「ハイ」
「あ、そうだおにいさん今使ってるバス停、中央団地前でしたっけ?」
「え、ハイ。なんで分かるんすか」
「なんでって! ははっ、僕らどれだけおんなじバスに乗ってたか忘れたんですか?」
「あ……ああ、そっか」
「覚えておくよ。そしたらホラ、このバス使った時に、偶然また会えるかも知れないですからねえ」
日比野は歩く。朝の道を、とぼとぼと。けれど彼は前を見ていた。真っ直ぐに、空を。朝の光を見つめていた。
おじさん。
占い、当たりましたよ。バイトであとから入ってきた子が彼女になりました。
敬語も前より少しはマシになってると思います。店長から”お前の敬語はクソだったけど、今はまあわりと普通だな”ってお墨付き貰いましたから。
ああ、でもあっちの勘は外れてました。俺、以外にザルだったみたいで。今じゃ学部一酒が強いとか言われてます。肝臓弱くなかったです。
おじさん。まだ、教えてないですよ。
占いの結果がどうだったか。
また会えたら占ってくれるって、約束も、まだです。
真っ直ぐに生きるって難しいんですね。希望を持ったまま、真っ直ぐに生きるのは。
でも、出来るモンでしょうかね。
――あなたはそう、できたんだろうか。
日比野は深く息を吐いた。ため息ではなく、深呼吸。朝のさえざえとした空気で肺を満たして、彼は唐突に、走り出した。
向かい風だ。少し走りにくい。それでも彼は、走り出した。
冬の朝、真っ直ぐに光が差している。
風は冷たく吹き付けていたけれど、彼の行く手をさえぎる壁にはならなかった。
まだ、ダメか。
もう無理だと思うのは、あの人に対して失礼だ。終わりまで歩んでいく人の行く末を、あきらめの言葉で締めくくるのは。
まだ、ダメなだけだ。
たとえあの人がもう、この世のどこにもいないのだとして、それでも必ずそうと決まったわけではないのだから。伝える機会はまだあるのかも知れない。
そう思う事も、また希望だろうか。
若い日比野には分からなかった。それでもそうしたいと彼は願う。
風が吹いている。切り裂くような冬の風だ。
どこまでも空は遠く広がっている。
金色の光が導きのように、彼方から伸びていた。
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