ふるもの
杏野丞
夜の猫
知っているかね、お嬢さん。
三日月は二種類あるのだよ。
夜空の中程に浮かぶ月を見上げていた私に、彼はそう話しかけてきたのでした。
それはまだ夏の終わり、といった頃合いで、私は薄いシャンパンゴールドのワンピースを着て公園のベンチに座っていました。手にクラッチバッグとハンカチだけを握り締めて。
三年付き合った恋人とのデートの後でした。私は泣くために公園に行ったのです。
誰にも会いたくはありませんでしたし、誰にも見られたくはありませんでした。かと言って独りきりで自分の部屋に居るのも辛かったのです。
面倒ですが、そういう心境になるのが女というものなのです。
適当な場所を考えた時、思いついたのがその公園でした。
夜に近所の若者がたむろするわけではなく、しかし悪い噂も聞かない場所。人の残り香が在るくせに、妙に侘しい場所との印象がありました。
静かな、誰からも忘れ去られたような公園。
そこが良い。
私は三日月を追いかけるようにして、その公園に辿り着きました。
緩やかな夜風がほどいた髪を優しく撫ででゆきます。
夜の闇はどんな表情も穏やかに飲み込んで隠してくれました。涙が出そうで、けれど私は泣けないまま、じっと黙って浮かんだ月を見ていました。
彼が現れたのはその時です。
音もなく静かに歩み寄っていたためか、私は彼が隣に居る事に全く気が付きませんでした。
それが少し、気に召さなかったのでしょう。彼は自分の存在を誇示するように私の傍らにヒラリと腰掛けると、そっと言葉をかけてきたのです。
二種類だ。磨り減るように消えてゆく三日月と、段々と膨らみを増してゆく三日月。
今夜の三日月は膨らみかけの蕾にも似ている。そうは思わないかね、お嬢さん。
彼はそう言いながら、紳士のような口調に相応しい丁寧な手付きで、その張りの良い髭を撫で付けていました。
いえ、手付きと言うには語弊があるかも知れません。彼に手はなく、あったのは前足でしたから。
彼は、月夜の晩に出会った彼は、猫でした。
月光に淡く輪郭を残す、真っ白な猫がそこに居ました。私を見入る目はいかにも猫らしくキラキラと金緑の光を反しています。
ですから、私は一瞬自分の耳を疑ったのです。もちろん、相手が猫でしたから。彼はそんな事はお構いなしにまた口を開きました。実際、ぱくりと口を開けたのです。
「なんだいお嬢さん、そんな怪訝な顔をして。僕は月が綺麗だろうと、そう言ったのだ。別に軟派をしているわけではないのだから、返事くらいしたって良かろうに」
「え……ええ、そうね。綺麗だわ、とても」
私が咄嗟に言葉を返すと、彼は満足げにゴロゴロと喉を鳴らしました。
そうだろう、そう言わんばかりの表情でした。
それに私が思ったのは、ああ、今のは本当にこの猫の言葉だったのだ、という事です。開かれたその口の中に言葉と共に動く滑らかな舌を見てしまったものだから、疑いようもありませんでしたが。
ともかく、彼は少しの不自然さも感じてはいないようでした。人間の私と猫の彼が会話している事に関しては、それこそ微塵も。
ですから思わず私も納得してしまったのです。
話せるものは話せるのだ、実際今そうしているではないか、と。
ところで、と彼は言いました。
「何故、独りで月を見ていたのかね。お嬢さん」
これは猫に話したところで分かってくれるのだろうか――と私は思いました。けれど考えてみれば、猫には毎年恋の季節があるのです。それはきっと人間と然したる違いはない筈。
そう意を決して、私は彼に向き直りました。
キラキラした瞳は興味深げに私を見ていました。
「恋人にふられたんです」
「ほう」
「他に、好きな人が出来たって……」
「それで」
「……それで?」
私は少しガッカリしてしまいました。猫とはいえ、少しくらい同情の言葉があるものと期待していたからです。
ですが、彼にそんなつもりは更々ないようでした。
「僕は独りで月を見ていた理由を聞いたのだ。君がふられたというのは理由ではないだろう? お嬢さん、どうしてここで独りで月を見ていたんだい。僕はその本当の理由が知りたい」
丁寧な話し方の癖に、なんて自分勝手な猫だろう!
私は驚きと怒りを通り越して、少々呆れ返ってしまいました。しかし、よくよく考えればそれも仕方のない事です。元来猫は自分勝手と決まっています。
答えるのが当たり前だろう、という目で彼は私を見ています。私はため息を吐きながら、渋々答えました。
「家に独りで居るより、ここの方が泣きやすいと思ったのよ……でも泣けなくて、それで月を見ていたの」
「ほう、泣くためにここへ」
「ええ。誰も居ない場所が良かったの。それで思い付いたのがここで……でも貴方が居る事は予想外だったわ」
彼はほくそえむように目を細めました。
「猫とはそういう生き物なのだよ、お嬢さん。誰も居ないような場所にこそ、そっと潜んでいる」
艶々した髭が月明かりに濡れたように光っていました。柔らかい月の色です。私のワンピースも同じ色に光っていました。
夜風に木立がざわめきました。小さく動いた彼の耳はその先まで真っ白です。
「しかし独りになりたかったと言うならば僕はお邪魔だったかね」
「いいえ。泣くのはもう止めにしたから構わないわ。お気遣いなく」
ちょっと嫌味を込めたつもりでしたが、彼はまたゴロゴロと喉を鳴らしました。今度は笑っているようでした。
「気紛れだね、実に気紛れだ。まるで猫のようだ。女性が猫に例えられるのが良く分かるというものだよ」
彼は暫く喉を鳴らして笑い続けました。あまりにも楽しそうなその様子に、私もつられて一緒に笑っていました。
猫の彼と、猫のような私。
夜のベンチには月明かり以外、私達の存在をあらわにするようなものはありません。
悲しい夜は優しい夜に変わりました。
ただ誰にも知られないように密かに涙を流すよりも、癒えてゆくこの温かな何かに、私はそっと感謝したのです。
その夜、空が白むまで私達は穏やかに語らいながら過ごしました。
過ぎ去った恋の事。面白い友人の事。好きな映画の事。おいしいレストランの事。楽しい話を尽きる事なく語らい続けました。
三日月はいつしか沈んでいました。
そうしてふと目を覚ますと、木立ちの向こう、朝日が目線と同じ高さにありました。
いつの間にやら私は眠ってしまっていたのです。
いけない、いくらなんでももう帰らなければ。
そう思いながら慌てて立ち上がった時、ふと私は、昨晩一緒に居てくれた彼の事を思い出しました。紳士的な口調の身勝手でかわいい猫の事を。
しかし猫とお喋りとは、突拍子もない話です。
けれどそれが夢ではなかった事を示すかのように、ベンチには白い猫が眠っていました。どうやら彼もまた、会話をしながら眠ってしまったようでした。
「貴方も疲れたの?」
私は眠っているのを良い事に、彼の耳の後ろを撫でてみました。紳士を気取っていた彼の事。きっと起きていれば気安く撫でさせてはくれないでしょうから。
白い艶やかな毛並みは予想通りふわふわと柔らかく、温かでした。
不意に彼はパッと目を見開きました。
そうして驚いて手を離した私に向かってたった一言、ニャア、と言ったのです。
「どうしたの」
――ニャア。
「なんで……」
そこまで言って私は気付きました。それはきっと、短い夜の夢だったのです。
どこからが夢だったのかは定かではありませんが、冷静に考えて猫が話すわけがありません。あるわけがないのです。
少し残念に思いながら、私はその事実を受け入れました。
ああ、それでも。
私は確かに癒されたのです。慰めてくれるでもなく、ただ自分の好きなようにしているだけの、この小さな彼に。
恋に敗れてその隙間を涙で埋めようとした私に、彼は隣に居てくれるという、ただそれだけの、しかし一番飢えていた温もりをくれたのです。
独りで泣いていては得られなかった筈の、次への希望が心の片隅に生まれている事が不思議と分かります。
例え夢だったとしても、朝まで隣で眠ってくれた彼に対して私は感謝の言葉を呟きました。
「ありがとうね、猫さん……お名前、聞かなかったけど」
顎の下をくすぐると、彼はゴロゴロと喉を鳴らしました。
もっと触って欲しそうでしたが、私は頃合いを見て立ち上がりました。
澄んだ朝の空気は清々しく、肺を隅々まで満たしてゆきます。歩める力が自分の手足にあるのが何か心強い思いでした。
「さようなら」
バイバイをするようにもう一度小さく声をかけると、彼はもう一声、ニャアと鳴きました。それを別れと受け取って、私は公園の出口に向かって歩き出しました。
ピンヒールの踵が地面を貫く感触が心地よくて、私はいつもより背筋を伸ばして歩きます。
街はもう、目覚め始めていました。
「お元気で、お嬢さん。そういえば僕も、君の名を聞きそびれたな」
ハッとして私は振り返りました。
白い猫はもう、ベンチの上にいませんでした。どこにもいませんでした。
ただ、沈んだ筈の三日月が猫の爪のように白く、青い空に浮かんでいたのでした。
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