第2話


 花屋という職業には魚屋や八百屋同様、ある種のパブリックイメージが存在する。その一つが、花屋の朝は早い、というものだ。パン屋ほどではないにしても。

 つい先日まで、私もそう思いこんでいた。OL時代、朝日は就寝前に拝む存在だった私にとって、それは気がかりの一つだった。

 しかし現実には、当然だが、市場での仕入れ担当者以外、勤務時間は他の小売店と大差がなかった。

「おはようございます」

 朝九時。前日指示された時刻に私が裏口から店に入ると、彼、三玲はすでに水差しを手にアレンジのメンテナンスを始めていた。

「おはようございます。……今日からですね。よろしくお願いします」

 私の声に顔をあげ、ふり向く。改めてよく見ると、確かに女顔だが、性別を勘違いするほどではない。悔しいほど整ってはいるけれど、それだけだ。

「こちらこそお世話になります、店長」

「やめてください、店長は。なんか偉そうじゃないですか」

「でも事実、店長なんだし」

「それを言うなら、自分も今後、オーナーと呼びますよ、芹沢さんのことを」

「そんな。店内での私の立場は、あくまで新米アルバイトだから」

 三玲がこの店の店長を続けることになり、

 行きがかり上、仕事を辞めて無職になっていた私は、自分もこの店で働くことにした。

 もっとも、当分収入のあてはないのだから、仕事と呼べるかは微妙だけれど。失業手当はきっちりともらうつもりだし。

「花屋、というより小売り関係の仕事自体が初めてなので。ビシバシと指導していただく覚悟はできています」

「アルバイトの経験もないんですか?」

「接客業は縁がなかったから」

 結果、私は店のオーナーかつ無給の見習いという、いささか複雑な立場となった。敬語とため口と、問いかける口調がどうにも不安定なのもそれが理由である。

「なので、本当によろしくお願いします。あと、瞳子でいいですから。私が三玲って呼んでいるのに、名字を呼ばせるのって変でしょ」

「しかしそれは……承知しました」

 返事には、明らかにため息が含まれていた。気がつかないフリをしてにこやかに訊ねる。

「それじゃ、何から始めればいいですか?」

「まず、裏でエプロンを。それと、明日からはもう少し動きやすい服装で来てください」

 三玲に指摘されて、私は自分の服を見下ろした。ベージュのブラウスに紺のカーディガン、膝丈のプリントスカート。花屋の店員としてはこれでもまだ失格らしい。

「スカートがダメとは言いませんが、基本は肉体労働なので。それに慣れるまではどうしても服を汚しやすいですから」

「わかりました。今後気をつけます」

 私は素直に頭を下げると、用意されていたエプロンを身につけた。細身の黒いそれは明らかに女物だった。初対面で三玲を女性と誤解したのは、ユニセックスな服装に加えて、胸元まで覆うこのエプロンも理由だった。

「花屋の仕事は比較的シンプルです。植物のメンテと水替え、掃除が基本になります」

 身支度を調え、店に戻った私に、三玲は淡々と説明した。

「今日は裏日なので水揚げは必要ありません。まず水替えから覚えてください」

 それから私は、指示どおりに水の入れ替えを開始した。

 こ、これって……

 私は作業に取りかかってすぐに、自分の安易な決断を後悔し始めていた。

 確かに仕事内容は簡単で容易だっだ。ガラスシリンダーから花材を抜き、古い水を捨て、シリンダーの内側をスポンジで洗ったあと、すすいでから新たな水で満たし、栄養剤を添加し植物たちを戻す。ただそれだけだ。

 どれほど丁寧に作業をしても一つにつき五分もかければ確実に終わる内容である。

 だが、それは花の入ったガラスシリンダーが三〇個あった場合、二時間半近く同じ作業を延々と繰り返す、という意味でもあった。

 そして、水の入ったガラスシリンダーは重い。割れないかと気も遣う。

「……終わった」

 そうして、壁一面に並んだ切り花たちの水を全て入れ替え終わった頃には、壁の時計はもう昼前を指していた。

「お疲れ様。少し休んでいてください。自分のきりがいいところで、お昼にしましょう」

 三玲の指示を待つまでもなく、私はぐったりと椅子に座りこんでいた。

「この作業って、もしかして毎日?」

「ええ。切り花保持剤を使えば、数日おきでも大丈夫かもしれません。ですが、ガラスシリンダーは見た目も大切ですから」

 三玲は横目でチラッと私の様子をうかがって、微かに笑う。

 最近、そんなに運動不足だったかなぁ。

 たった半日の作業で、腕の筋肉はパンパンになっていた。太股と脹ら脛も痛い。

 確かに肉体労働だわ、これは。少し身体を鍛えないと。

 そして一般の花屋が、なぜ愛想のないプラバケツを愛用しているのかが理解できた。

 私が水を替えている間中、三玲は切り花のメンテナンスをしていた。枯れたり痛んだ葉を丁寧に取り除き、咲き終わった花を処分し、ステムの根本を切り直す。

 それまでも決して見苦しい状態ではなかったが、三玲が手を入れると、植物たちは確かに以前よりずっと鮮やかに蘇った。

「お待たせしました。それじゃ、お昼でも食べに行きましょうか」

 やがて一通りの作業を終えた三玲が振り返る。今日は就職祝いに奢りますよ、などと呑気に言うので、私は首を横に振った。

「ダメです」「はい?」

「店を閉めている間に、お客さんが来るかもしれないじゃない」

 私は椅子の背もたれに寄りかかったまま、それでも毅然と指摘した。ここは、店のオーナーとして絶対に譲れないポイントだ。

「一人きりなら仕方がないけど、それでも急いでお弁当を買ってくるとか……今後は従業員が二人になるんだから、店を閉めず交代で食べに出ればいいだけのことでしょ」

「でも、昼時に人なんて滅多に来ませんよ」

「滅多に来ない客だからこそ、逃がすわけにはいかない、って言ってるの!」

 私が声に力を込めると、はぁ、と三玲は戸惑ったように頷いた。

 どうして客商売は素人の私が、こんな基本を説教しなきゃならないのよ。

 それとも、この呑気さが花屋の特徴なのかしら。そんな筈はないと思うけど。

「もしその人が、三玲のアレンジを気に入って遠方からわざわざ訊ねてくださったとしたらどうするの? いいわけ、お昼が優先で」

「すみません、自分が間違っていました」

 たとえ話をすると、すぐに三玲は納得した。

 結局、今日のお昼はお祝いだといって三玲が買ってきてくれることになった。まぁ、私を見かねたんだろうけど。

 その後ろ姿が店を出ていくなり、私はテーブルに上半身を倒し、店内を見回した。

 なるほど、こういう事なのね。

 朝が早いという誤解同様に、花屋は何かと偏った印象を抱かれがちだ。

 小学生女子のなりたい職業ランキングでは、ベスト3は無理でもトップ10にはまず入るだろう。将来は、可愛らしくて優しいお花屋さん。少女らしい、微笑ましい夢だ。

 だが、現実に花屋に就職する女性は多くない。続く人はもっと少ない、らしい。市場などは完全にガテン系の男社会だという。

 三玲からそう説明された時には、今ひとつ納得できなかったが、実際に働くと半日でその理由が実感できた。

 私はテーブルに伏せたまま、内心で呟いた。

 ……これは、ちょっと根性据えてかからないと、ヤバそう。



 生花店の見習いを始めて、あっという間に十日が過ぎた。

「それじゃ、先生は一切の予告なしに、このお店の権利だけを残されたんですか」

 初日の夜は、簡単な歓迎会を開いてくれた。といっても、店に残って二人、差し向かいで軽く飲んだだけだが。

 その席で、三玲からそれとなく父との関係を聞かれた。私も少しだけ、三玲の身の上について訊ねた。たとえば既婚か、などを。結果的に、互いを探り合うような飲み会になってしまったが、これから一緒の店で働くのだから、最低限の相互理解は必要だろう。

 そして肝心の仕事だが、お店は私が当初予想していたよりは繁盛していて、しかし想像どおりまったく儲かっていなかった。

 意外と客入りの悪くない理由は、思いがけず三玲の人当たりが良いことだった。常連からの『注文の多い花屋』なんて渾名も、単なる揶揄ではないらしい。霞ちゃんの証言どおり、その花はどう飾った方が良いとか、お勧めはこっちだとか、三玲はお客様に対しても終始口うるさかったが、態度は一貫して穏やかで礼儀正しかったし、年長者からの度重なる問いにも厭うことなく答え、結果的に多くの信頼を得ていた。多少の行きすぎた言動も、花に対する愛が溢れすぎて故、と微笑ましく見守られていた。どうやら、時に皮肉屋と化すのは私に対してだけらしい。

 にも拘わらず利益が皆無なのは、三玲と話すだけで満足してしまう常連客が少なくないのがまず一因だった。そもそも、外見は悪くない。数百円の花を買うだけで許される三玲との逢瀬を毎日楽しんでいるご婦人もいた。

 しかしそれ以上に問題なのは、店内に飾られた三玲渾身のアレンジがさっぱり売れない現実だった。客はみな、簡単な束ねた花、もしくは花そのものを少しだけ買って帰った。はっきりいって、売上げは微々たるものだ。

「ねぇ。もう少しなんとかならないわけ?」

「なんとかって、なにがですか?」

「そんなの決まっているじゃない」

 アレンジの売れない理由は明白だった。値段が高いのだ。

 三玲の生み出す作品はどれも、確かにお洒落で格好いい。細い二股に分かれた野茨の枝で囲まれた真っ赤なイングリッシュローズのフレーム。朽ちた流木を覆い尽くす蔦と、それに縛られた一輪のピンクッション。針槐の棘が内側に敷き詰められたハイヒール。

 だがその分、原価もかかっている。太田市場から取り寄せた華やかな花材をふんだんに用いたかと思えば、花こそ少数でも地味だが高価な副資材を惜しげもなく使用していたりする。空き地で刈り取る雑草だって海岸で拾う流木だって、手間を時給に換算すれば決して安くはない。

 更にデザインにも時間をかけている。同一パターンのやっつけ仕事など決してしない。たった一本の花を挿すのに、一時間以上悩んだりする。

 だから材料費やデザイン料、製作時間を考えれば、つけられた値段は妥当なのかもしれない。理屈は、私もよく理解できる。

 しかし、やはりこの田舎町で、長くて二週間しか飾れないアレンジに、五万、十万という大金を払う客など滅多に存在しない。

「いいじゃないですか、どうせ売れませんよ。なら気分よく生けられる金額をつけたって」

 なにより、肝心の三玲にその気がなかった。

「勝手に諦めないで。せめて窓辺だけでも、安い、もっと俗な作品を飾りなさいよ。そんなの生けられないとは言わせないわよ」

 本気で作品を売るつもりなら、もっと需要を意識すべきだ。洗練されていて前衛的な三玲のアレンジは、一般家庭に飾るにはあまりにもモダンすぎる。家賃数十万のデザイナーズマンションなど庄内には存在しない。

 初めて、その才気溢れる花々を目にした瞬間は正直、感動した。だが、それら全てがまったく売れる気配もなく枯れていく現実を知ってから後は、どれほど美しい作品もアレンジオタクの自己満足に見えてくる。

「いかにも素人受けしそうな、パステル調のミニバスケットとか。それなら多少値が張っても、三玲ファンの誰かが買ってくれるかもしれないじゃない」

「無理ですよ。そういうデザインにはまた別の能力が必要で」

「妙な謙遜でごまかさないで。バスケットのアレンジくらい作れない訳がないでしょ。スポンジに刺すだけの、小じゃれた花屋に並んでいそうな平凡な花でいいから」

「いや、本当に生けたこと、ないんです」

 疑惑の眼差しをむけると、三玲は真顔で首を横に振った。

「もちろん、雑誌に載っているアレンジの完コピなら簡単ですけど。さすがにそれは」

 だが、困ったように身をすくめるその姿は、凡庸なアレンジを生けたくない一心で嘘をついているようには見えなかった。

 それに、可愛らしいけれど月並みな花を飾れば売れる保証などないのもまた事実だ。

 まったく、もう……私も甘いわね。

 私は結局、それ以上三玲を追求せず、ただオーナーとして、できるだけ無駄のないアレンジにしてね、と頼むにとどめた。

 三玲は喜んだ。だがそれ以上に、私が大人しく引き下がったのが意外だったようだ。

「いいんですか? これからも自分の作品を生けて?」

「仕方がないでしょ。それすらなくなったら、ただのつまらない花屋になっちゃうもの」

 私が並んだ花々を指さしながら軽い気持ちでそう告げると、一瞬、三玲は驚いたように目を見開き、それから大きく頭を下げた。

「ありがとうございます」

 そんなふうに、経営上の問題は山積していたけれど、

 次第に毎日の筋肉痛にも慣れ、初めての花屋勤めはそこそこ順調だった。



 一方、私生活の方は、といえば、まず東京の部屋は業者に頼んで荷物を全て搬出してから解約した。一人暮らしを始めてからも、週末はいつも実家に戻っていたから、家財は僅かでこれは簡単だった。

 だが酒田でのアパート捜しは難航した。そもそも独身者向けの物件が少ない。車がないと対象が更に限られる。加えて、東京在住の母親が保証人となる若い女性、と知るなり不動産屋は大家に紹介するのを露骨に渋った。

「店がもっと商店街に受け入れられたら、適当な部屋を誰かが紹介してくれますよ」

 店の奥にある作業台で楽しそうに花を手入れしながら、三玲は気楽に真上を指さした。

「それまでは、とりあえず店の二階を使って頂いていいですから」

 風呂どころか洗面台もない倉庫同然の部屋に住めとは、まったく女と思われていない。憤慨しかけたが、いや変に女性扱いされるより安全か、と思い直す。

「自分もしばらく暮らしましたけどね。結構快適ですよ」

「でもお風呂とか、どうしていたの?」

「たまに温泉に行って、あとは店の洗い場でシャワーだけ……ああ、瞳子さんはそういう訳にもいかないですね」

 まったくもっていかない。だが、他に居場所がないのも事実だったし、儲からない店を続けるなら手元資金は貴重だ。期待していた退職金はなぜか振り込まれる気配がない。結局、部屋を見つけるのは三日で諦めて、早々にホテルを引き払い店の二階に転がり込んだ。不本意だが、毎日の風呂は店から歩いて十分の三玲の部屋で借りることにする。

 週末、いったん東京に戻り、実家で最低限の着替えや生活用品、それにこれだけは手放せない撮影機材一式と暗室用品を荷造りしていると、母に問われた。

「せっかく苦労して良い会社に入ったのに、あっさり辞めてよかったの?」

「成りゆきだもん。今更そんな事をいってもしょうがないでしょ。それにどうせあの会社に長くは勤められなかったから。女子の半分は寿退社させる腹づもりだよ、あそこ」

「つまり、そういう理由でもないわけね?」

 探るような視線で、母は私を見た。

「半年前の、もしかしたら身を固めるかもしれないような話があるかも、ってのは?」

「いつの、なんの話。それ?」

 私はすっとぼけた。たしかに一度は、そんな曖昧な打診をした。でも、私にとってそれはもうとっくに終わった話である。

「ちょっとした気の迷いだから、あれは」

「女の子は父親に似る、ってよく言うけど」

 母は私の積み上げた段ボール箱を眺めながら、露骨にため息をついた。

「おまえ、社会人になるなり、いきなりあの人そっくりになったわね」

 私はガタッと膝から崩れ落ちそうになるのを、どうにかしてこらえた。

 その評価が本意とか不本意とか以前に、まさかここでその話題を切り出してくるとは。

 母が、父について私に直接語ることは離婚して以降、殆どなかった。

「あの人は、常に自分の興味のある事柄に関わっていないと気が済まない人だったから。そのまま平凡に職場結婚するようなら、本当にあの人とは違うのかしら、と思ったけど。やっぱり蛙の子は蛙ね」

「だから、ただの成りゆきだってば。そういうのじゃないから」

 私は強く言い切ると、そこで話を終わりにした。だって事実、今でも花屋に格段の興味があるわけではない。全ては成りゆきだ。

「でも、あの人のところに行くんでしょ?」

「あの人の遺した店の後始末に行くだけ」

「……もしかして、男ね?」

 母が短く断定する。

 私は一瞬脳裏に浮かんだ、男にとっては欠点でしかない整いすぎた三玲の容姿を、大きく頭を振って追い払った。

「今度はお父さんに似ているタイプ? だったら止めておいた方がいいわよ。二つ上の同僚とは結局その後どうなったわけ?」

「だから、そういうのとは違うの!」

 父と親しかったらしい、正体不明の花屋店員。違う、断じて違う。あの男は関係ない。

 もっとも、三玲に触れなければ、その経緯を全て説明するのは難しい。幸い、母はそれ以上は問いつめてこなかった。かわりに引っ越し先を訊ねられ、しばらく店の二階に居候するという事実を誤魔化すのに苦労した。

 届いた荷物を使われていないロッカーに片っ端から押し込み、段ボールで作った棚に着替えを詰め、古びたソファーにシーツをかけるととりあえずの住み処はできあがった。

 骨壺は部屋の隅の台に安置し、問題の鉢は、非常階段を登って屋上の物陰に置いた。松についてはとりあえず、三玲には告げないつもりだった。手元に届いた理由がはっきりするまでは、その存在を誰にも知られたくなかったのだ。水やりを忘れないこと、と入念に自分に言い聞かせる。


 そうして、酒田での新生活ははじまった。



 店に入って二週間が経つが、昼食時は哀しいほどお客さんが寄りつかなかった。茶飲み話の相手すら現れない。

 つまり昼食くらい外でゆっくり、という三玲の言い分が正しかったことは、私も否応なしに思い知らされていたが、今更撤回はできない。今日は三玲がお弁当を買ってくる番だった。外食より、少しだけ安くつくし。

 今朝仕入れた花の水揚げはすでに終わり、在庫のメンテナンスも済んでいた。アレンジを並べ直し、床を念入りに掃き清める。この店の内装は少し妙で、アレンジを飾るには中途半端な細い棚がなぜか幾つも作りつけられていた。しかも結構目立つ場所に。それらはどうしても空きスペースになりがちなので、汚れが目立たないよう念入りに拭く。

 窓辺には午前中に三玲が生けた、相変わらず売る意思が感じられない尖ったデザインのアレンジが三点、新たに並んでいた。もっとも先日の私の小言が少しは効いたのか、使われているのは道端で摘んできた花ばかりだ。にもかかわらず、それらは見事な出来だった。雑誌のグラビアくらいなら余裕で飾れる。

 お弁当を待ちながら、素朴な、だが木目の美しい重厚な作業台を雑巾で拭いていると、背後で扉の開く気配がした。

「ずいぶん早いじゃない。もしかして近くの」

 ふり向いた私は、慌てて口をつぐんだ。店に入ってきたのは三玲ではなかった。

 とっさに右手の雑巾を背後に隠し、左手で前髪を整えてから、改めて声をかける。

「いらっしゃいませ」

 我ながら、先程とは随分と違う声音だ。声がうわずってひっくり返りそうだ。

 そうして、私は心の準備をする余裕もないまま、花屋になって以来初めて、自分一人でお客さんと相まみえることとなった。



「では、このお店にいらっしゃるのは初めてですか?」

 もしかしたら常連さん、という淡い期待はあっさりと消え失せた。高校生の男子だった時点で、かなり無理のある願望だったが。

 彼は、私が二週間勤務していて最初の、まったくの新規のお客さんだった。

「はい……ここ、お花屋さんですよね?」

「ええ、もちろん」

 私はにっこりと微笑んだ。客商売は初心者だが、若い男の子のあしらい方くらいは年頃の女子として一応心得ている。もっとも、深夜の六本木でのナンパではないのだから、問答無用で袖にするわけにはいかないが。

「ギャラリーのような、中途半端な店構えでご免なさい」

「いえ、店の雰囲気は別に……ただ、お姉さんはあまり、お花屋さんっぽくないから」

 所在なげに視線を左右させる男子高校生に、私は訊ねた。

「今日はどのような花をお探しですか? 生憎と、店長が不在なので難しい注文は」

 慣れない営業トークを口にしているうちに、私はハタと気づいた。

 いや、難しい注文とか、それ以前の段階で、

 一体、幾らで売ったらいいのだろうか。切り花には、値段が記されていなかった。

 もちろん伝票を確認すれば原価は判る。だが、そこへどの程度利益を加えればいいのかを、私はまだ教わっていなかった。

 三玲いわく、生花は鑑賞物であり、その可能な期間に応じて値付けをすべきなのだそうだ。ざっくりと言えば、同じ花でも、二週間飾って楽しめるものが二百円なら、一週間だと百円が妥当ということだ。しかも、デザイン料はまた別計算である。

 つまりこの店の商品はどれも、毎日値段が微妙に変動する、いわば時価なのである。極めて合理的だが、お客様に、そして従業員にも値段の判りづらい不親切なシステムだ。

 オーナーとして改善の必要があると感じてはいたが、今この場ではどうにもできない。

「もしご希望の花がありましたら、仰っていただければ……少々お待ちいただければアレンジにでも花束にでも、ええ、なんでも」

 それに問題は値段だけではなかった。私はこの二週間、三玲の指導のもと、寿命が尽きかけた花材で初歩的な花束やアレンジの練習を始めていた。けれど、まだ一度も合格点を貰ったことはない。自分でも、これはどうなんだろう、という作品ばかりだ。

「特別に、これといった希望はないんです。だからお任せでお願いします」

 私は動揺が隠しきれず、かなりしどろもどろだった。幸い、男子高校生も花屋に慣れていないのか緊張気味で、私の態度を不審がる様子はなかったが。

「ただ、昔から花が好きだって人に渡すので、花束にはせず、そのまま包むだけで……たぶん、自分で生けるだろうから」

 よかった……お任せで、包んで渡すだけなら、私でも大丈夫かも。

 予想以上に簡単な注文に、私は内心安堵した。

 この際だから、値段は少し安めに計算してあげればいい。もし三玲に文句を言われたら、オーナー権限を発動するだけのことだ。

 滅多にない新規のお客さんである。できれば追い返したくはなかった。でないといつまでたっても『注文の多い花屋』と呼ばれ続けてしまう。

「お渡しする相手はご家族ですか? ご予算は? お花の希望は?」

「いえ、同級生です。予算は三千円くらいでお願いします」

「判りました。三千円ですね。……それじゃ、もしかして彼女へのプレゼントとか?」

「彼女ってわけじゃ……なんていうか、その、まだ友達なんですけど」

 私が訊ねると、照れくさそうに頬を染めながら、男子高校生は否定した。

 可愛いなぁ。

 その初々しい態度に、私はつい冷やかしの口笛を吹きたくなかったが、

「つまり……そういう関係になるための、気持ちを伝えられる花が欲しいんです」

 えっ?

 私は、若い子が好きそう、という単純な理由で、サーモンピンクのトルコやSPバラを掴もうとしていた手をピタッと止めた。

 楽な注文で助かった、と浮かれていた気分が一瞬で消散する。

「もちろん、最後は自分で告げるつもりですけど。その雰囲気作りっていうか、事前に察してもらえるような……外から眺めただけで、このお店は花選びのセンスがよさそうってわかるし。綺麗な女性の店員さんに選んでいただけるのも心強いし」

 私の内心など気づかぬまま、彼は店内をキョロキョロと見回す。

「そういうわけで、お任せでお願いします」

 男子高校生はそう注文を締めくくった後、私にむかって深々と頭を下げた。

 私はこっそりと茎を掴んでいた手を戻した。空気が重かった。

 ちょっと待ってよ。彼氏彼女になりたい、って気持ちが、今はまだ単なる友達の娘に伝えられる花、って。

 そんなの……ダメ、無理、ぜったい。

 すでにつきあっている彼女へのプレゼントならともかく、告白のための花なんて、素人店員には荷が勝るわ。

「そういう事情なら、少し待って貰えるかしら。大切な花は、店長が戻ってきてから」

 けれど、

「講習会の昼休みを抜けだしてきたんで、すぐ予備校に戻らないといけないんです。学校が違うので、今日を逃すと、当分会う機会がなくて……LINEで連絡はできるんですけど、こういう事は面と向かって言いたいし」

 そうか、忘れていたけど今日は日曜日か。

「でも、恋の告白なら、私は男の子からきっぱり言って貰っただけで嬉しいけど。なにも花束まで用意しなくても」

「ずっと友達だったからか、上手くそういう話をする感じにならないんですよ。かといって、突然脈絡もなく切り出すのも変だし」

 逃げ腰の私にむかって、男子高校生は、まるで拝まんばかりの勢いで懇願してくる。

「お花屋さんって、植物に詳しいんですよね。花言葉とか、それとなく女子に気持ちを察してもらえるような、告白する雰囲気になる花を選んでください。お願いします!」

 花言葉、かぁ。

 たしかにそれは、女子の心を揺さぶるキーワードだ。小学校に上がる直前、私も父に訊ねた気がする。まだ子供扱いされていたからか、ちゃんと教えてはくれなかったけれど。

 そして、花屋ならば花言葉に詳しいに違いない、というのも、納得がいくパブリックイメージの一つだ。無論、素人花屋の私にはそんな知識などない。しかし幸い、今はスマホという魔法の小道具がある。

 それなら、私にもなんとか選べるかしら。

「そんなに言うならわかったわ。じゃ、少しだけ時間を……せっかくなら、今年のトレンドカラーも押さえておきたいし」

 私は答えると、店の奥へと籠もった。

 花言葉は知らないが、流行りの色についてなら広告代理店勤めだったから良く承知している。生花でも雰囲気を似せることは可能だ。お洒落に敏感な子なら気づくかもしれない。

 流行色のガーベラやバラなど、選んだ花の花言葉をこっそり確認する。簡単な検索でもすぐに複数の単語が出てきて戸惑ったが、どれも悪い意味ではなかった。

 包んでくれるだけでいい、と言われても、今日、意中の彼女に渡すと知った以上、ただでは渡せない。結局、三玲に習った技術を総動員してどうにか束ねた。正直、これまでで一番の出来だと思う。ラッピングは英字新聞とセロファンだけで簡単に済ませた。

「どうかしら。今年トレンドの色あわせだし、恋に関する花言葉の花ばかりだから、女の子には喜んでもらえるんじゃないかしら」

「……あの、これお代は?」

「もちろん三千円です。ウチは内税だから」

 私が告げると、強ばっていた彼の表情が明るくなった。出来が不満だったわけではなく、予算オーバーを心配していたらしい。

 確かにそれは少し、いや三千円の花束にしてはかなり豪華だった。

 でも、バラもガーベラも少し前から店にあったし。このままならどうせ売れないんだし。

 私はこっそり自分に言い訳をした。

 彼の差しだした三千円を受け取り、その手に花束を持たせる。

「ありがとうございました!」

「こちらこそ、お買い上げありがとうございました。また、ぜひお立ち寄りください」

 嬉しそうに駆けだす男子高校生にむかって、私は深々と頭を下げた。

 人間、追いつめられると出来るものね。

 そう嘯きながらも、頬が緩むのはこらえられなかった。悪くない気分だった。



「あの子、告白、成功したのかなぁ」

「お客さんの事情に、必要以上に関わるのはマナー違反ですよ」

「わかってるわよ、そんな事!」

 店で働き始めて、四週間。初のお客さんをどうにかさばいて、二週間。

 つい先日、GWが終わり、私は花屋になって初めての物日ものびを経験した。この店でもあれほど忙しくなるのだから、母の日は本当に偉大だ。おかげさまで、経営的にも少し潤った。日々の仕事も、少しだけ慣れてきた。

 今日の昼食は、にぎり寿司だった。

 再び閑古鳥の鳴きだした花屋には贅沢じゃ、とも思うが、三玲が担当だと寿司を買ってくることが多い。酒田のお勧めはやはり新鮮な魚貝類だかららしい。

「でも気になるんだもの。精一杯の花束を作ったんだし、上手くいってほしいじゃない。それとも、ビジネスライクに対応した方が良かったっていうの? 意中の女の子へのプレゼントを買いに来た男子高校生に対して」

「そういう意味じゃありません。というか、彼の弱みにつけこんでどっさり花を売りつけるかと思っていました、オーナーなら」

「人を悪徳商人みたいに言うのはやめて。それにオーナーもなし」

 確かに、お寿司はいつも美味しかった。ランチの値段でこれなら悪くはない。

「けど、昼も店をあけて正解だったでしょ」

 新鮮な魚に舌鼓をうちながら、私はあの日の男子高校生について、改めて三玲に語った。

「日曜には、平日と少し客層が変わるのよ、この商店街。うまくいったら、あの子はまた花を買いに来てくれるかもしれないし」

「そうですね。今日はこの状況ですけど」

 小憎らしい言い方も、今は気にならない。

「でも、あの花束は初心者にしては悪くなかったと思いますよ」

「え、まさか見ていたの!?」

 おもわぬ三玲の指摘に、私は驚いて口にしていた寿司を吹き出しそうになった。

「戻っていたなら、どうしてなにも」「店に帰ってくる途中に見かけただけです」

 抗議しようと腰を浮かせた私の剣幕に、三玲は慌てて首を横に振った。

「前から歩いてきた男子高校生が花束を抱えていた。ウチの花なのは見ればわかります」

「それじゃあ、ど、どうだった?」

「だから、悪くなかったですよ。練習よりずっと綺麗にまとまっていた。本番に勝る経験はありませんね。正直、見直しました」

 な、なによそれ。おだてたってなにも出ないんだから。

 思いもかけない三玲のストレートな褒め言葉に、私は狼狽えた。

「二週間前は客前であれが作れたのに、更に練習をした結果がどうしてこうなのか。やる気がないのか私を舐めているのか、判断に迷っていたところです」

 三玲はそれから、午前中に私が廃棄予定の花材で作った花束たちを指さした。

 ……これが、持ち上げて落とすって奴ね。

 私はがっくりとうなだれた。腹立たしいが、事実だから反論できない。どうしてあの時に限って手際よく束ねられたのか、自分でも不思議だった。

「いずれにしても本番に強いのは良いことです。そろそろ、手ごろな花束の注文は瞳子さんに任せますから、頑張ってください」

「……正気?」

「せめて、本気と問うてください」

 三玲は苦笑した。どうやら、落ち込んだ私を慰めるためではないらしい。

「仕上がりはまだまだですけど、スパイラルに束ねる基本的な技術は身についたようですから。あとは実践あるのみですよ」

 それから三玲は微笑んだ。まったく、この男はズルイと思う。

 私は話題を変えようと、三玲に訊ねた。

「そういえば、つい場繋ぎに使っちゃったけど、生花でもトレンドカラーってあるの?」

 ファッションやインテリアの世界的な流行色であるトレンドカラーは、広告代理店時代には極めて身近な存在だった。

「もちろん関係していますよ。ヨーロッパでは農家が流行にあわせて作付け品種を調整したりしているみたいです。ただ、日本ではさほど存在感がないですね」

 人為的な流行であるトレンドカラーは、専門の委員会で約二年前にその基本が決定される。各種商品のデザイン・生産に反映するには相応の期間が必要だからだ。

「輸入資材も多いハロウィンやクリスマスなどは、多少影響を受けますけど。切り花を売っている限りではまず意識する機会はないんじゃないかなぁ」

 三玲は答えると、ふと不安そうに私を見た。

「まさか、トレンドカラーだから女の子にウケが良いだろう、とか考えているわけじゃ」

「それはないけど。花言葉だけじゃ安易かなって。それで」

 私は、今一度彼の注文について説明した。

「だって、告白しやすい雰囲気作りを花言葉で、って頼まれても……そもそも、花言葉って大概その手の意味を含んでいるよね」

「花言葉、ですか」

 事情の詳細を知り、三玲は何故か妙に憂いを含んだ表情を浮かべた。

「なんというか、それは……」

「それは、なに?」

「いえ、自分の考えすぎかもしれませんから」

 私が問いただすと、三玲は軽く首を小さく横に振った。それから明るく笑う。

「その彼がまたお店にいらしてくださって、良い知らせが聞けるといいですね」

 だがその三玲の笑顔は、いつもの、男なのに見惚れそうになる表情では決してなかった。



「この際ですのではっきりと申し上げますが、他に深尾様の財産は残っておりません」

 小さな弁護士事務所だった。それは鶴岡の、酒田同様寂れた街並みのただ中にあった。

「分配方法、内訳の詳細については、すでに先日ご自宅にお送りしてありますが」

「申し訳ありません。ここ最近、実家には戻っていないので」

 私は古びたソファーに腰掛け、対面に座った中年男性へと頭を下げた。

「ですので、もしこちらに書類が残っていたら拝見させていただけないでしょうか」

「ご本人様に関する分でしたら結構ですよ」

 久しぶりの休日に、私が父の遺産管理を請け負った弁護士事務所を訪れた理由は、その内容を確認するためだった。弁護士と揉めるつもりはない。

 そうと判ると、中年弁護士はすぐに書類を用意してくれた。

「財産分与について、父からは生前に頼まれたんですか?」

 差しだされた書類は、さほど多くなかった。

「ええ、そうです。深尾様の資産規模で弁護士を頼まれる方は多くありませんが、事情が事情だからでしょうね」

 軽く言葉を交わしながら、私は書類を広げ、その内容を精査した。

 決してゴネるつもりはない。だが本音をいえば、多少不審に感じているのも事実だった。

 遺産は、本当にあの儲からない生花店、そして古びた松の盆栽一鉢きりなのだろうか。

 大学教授は決して薄給ではない。かつ、プラントハンターとして世界を飛び回る旅費が高額な分、当たると実入りも大きかったと聞いている。研究以外無趣味な人だったし、相応の蓄えは残っている方が自然だ。

 それとも、あの店は見かけこそ地味だけど、実は大金をつぎ込んで開いたっていうの?

「再婚なさっていながら、別れた前妻に遺産を、と要望された方は私は初めてです」

 えっ? ……再婚!?

 何気ない会話の中で、予想だにしていなかった単語に出くわし、私は手にした書類をおもわず放りだしそうになった。

「もっとも、現在の奥様も納得されていましたから、問題はとくに」

「再婚してたんですか!? あのクソオヤジ!」

 つい、説明を遮って声を張り上げてしまい、私は慌てて言い添えた。

「いえ、ちょっと意外で。失礼しました」

「……まさか、ご存じなかったんですか?」

 中年の弁護士は、驚いたように瞬きした。

 そしてすぐ、何故私が事務所を訪ねてきたのか、その理由に思い至ったのだろう。

「深尾様は五年ほど前に再婚なさっています。実子は不在ですが再婚相手の連れ子がいらっしゃいまして、養子縁組も済ませておられです。ただし、このお子様は遺産の相続を法定相続分も含め放棄なさっており、親権者であるお母様も承諾しています。結果的に、遺産を相続されたのは奥様と貴女、それに遺言状で指示のあった前妻である貴女のお母様、そしてご友人の有賀様になります」

 有賀、というのはずっと私の様子を父に伝え続けていたおじさんの名前だ。

「もっとも、有賀様に託されたのは何点かの思い出の品物だけですので、実質的な相続人は貴女を含めた三名です。酒田の店舗はそれほど評価額が高くありませんから、法定相続人として、貴女には預貯金を含むより多くの遺産を受けとる権利が、確かに存在します」

 その説明に、私は一瞬だけ期待した。我ながら浅ましいけれど、それは事実だ。

 どれほど大手広告代理店の給与が良くとも、働き始めて数年の女子社員が貯められる額などたかがしれている。仮にこのまま店の二階に住み続けたとしても、私の貯蓄額では、店を続けるのはあと一年が限度だろう。

 あの店を維持するためなら、父の遺産に頼っても許されるんじゃないかしら。

「しかし、深尾様は鶴岡の自宅を奥様に遺しただけで、預貯金の大半は前妻の、貴女のお母様にと希望していらっしゃいました。奥様も同意なされていまして、現在はお母様の承諾を待っている状態です」

「母は、受けとりたくないと?」

「当初は放棄を希望なさっていました。奥様が説得して、今はどうにか受けとっていただけそうな雰囲気です。世の中、皆様のような方ばかりでしたら、私も楽なのですが。……いや、仕事にあぶれて困るかな」

 弁護士は苦笑いをうかべると、書類の中から一枚の紙を取りだした。

「これがそれらの詳しい内訳になります。鶴岡の家屋はやはり評価額が低いので、結果的に最大の遺産相続者は貴女のお母様です。……貴女はこのすべてをご破算にして、法定分の相続を要求する権利をお持ちです。が、その場合はお母様の受け取り分が減るだけ、という結果になるかと予想されます」

 ここまで説明すれば判りますよね、と言わんばかりに、中年弁護士は私の顔を見た。

 もちろん、よく事情は理解できた。

 私は時間を割いてくださった礼を丁重に告げると、そそくさと立ちあがった。

 最後に、ついでのようにさりげなく訊ねる。

「ちなみに、なぜ父があの店を、三玲と花屋を始めたのか。その経緯などはご存じでいらっしゃいますか?」

「いえ、相続なさった生花店については、なにも。私どもは、遺産整理のお手伝いをさせていただいただけですので、それ以前の事情は何も承知していません」

 困ったように、弁護士は首を横に振った。それからふと、言い添える。

「そういえば、お店の存続に関して、残されたスタッフと新たなオーナーである貴女様が上手くやっていけるか、少し心配だ、とこぼさるのを伺ったことがあります」

「まさか、私があの店を続けると本気で?」

「お父様のお気持ちまでは、私どもには。ただ、随分とスタッフを信頼なさっておられるようでした」

 顧問弁護士じゃないんだから、店を開いた詳しい事情なんて知らなくて、当然か。

 それ以上、話を聞きだすのは断念せざるをえなかった。丁重に礼を告げると、私は弁護士事務所を後にした。


 人知れず再婚までしておきながら、どうして、ずっと以前に別れた妻に財産を残そうなどと考えたのだろう。

 あの人は何故、植物学者を引退後に、花屋なんて始めたのか。しかも、よりによってあの三玲と。その手がかりを捜してみれば、増えたのは謎だけだった。

 ちなみに、松の盆栽については、書類のどこにも一切の記載がなかった。



 私が事情を三玲に説明してから、更に一週間後。男子高校生が再び店に現れた。

「なんか、結局うまく話ができなくて」

 その口から語られた結末は、どうにも煮え切らないものだった。

 あの日、意を決して花束をプレゼントした。にも関わらず、その後これまで同様なんとなく話が逸れてしまい、結局、肝心の告白は出来ずじまいだった、というのだ。

「GWの集中講習は、別クラスで会えなかったんです。なので、どうしたらいいか相談に……花言葉、気づいてもらえなかったんでしょうか」

「うーん、そうね。雰囲気作りくらいは」

「残念ですが、効果はなかったのでしょうね」

 そりゃそうでしょうけど……物には言い様ってものがあるでしょ。

 告白しそこなった彼の気持ちを慮り、私が曖昧に首を捻る横で、三玲の反応は結構バッサリだった。

「確かに、花言葉はロマンチックでその存在はよく知られています。けれど、実際に意味を知っている人は意外と少数ですから」

 顔だけは良い男はまったく、と憤る私の横で、三玲はふと妙なことを言い始める。

「なにより、花言葉で気持ちを伝えるのは、大きな問題点があります。……それより、どうです、今度はご自分で作ってみませんか?」

「自分で、ですか? 花束を?」

「はい。花言葉などに頼らず、もっとシンプルな作戦はいかがでしょう。君の好きな、その子のイメージにもっとも相応しい花を選んで、自らの手で束ねて、直接手渡す。そして、抱いている気持ちも、一緒に告げる」

 思いもかけない提案に戸惑う男子高校生に、三玲は微笑んだ。

「差し出がましいかもしれませんが、あまり回りくどく考えず、素直に行動した方がよい時もあります。こういう場合は特にね」

「それって、お姉さんの経験則ですか?」

「……お姉さん、ではないんですが」

 プッ。

 私はつい吹き出し、もの凄い眼差しで睨まれる。三玲の返答に、彼は口を開いてかたまっていた。

「とにかく、好きな相手に渡すなら自分で選んで束ねた花が一番です。多少不格好でもいいんです。誰かに作ってもらった花束で、本当の気持ちなんて伝わりませんよ」

 口調も態度も穏やかだが、三玲の押しはやけに強い。私は否応なしに納得した。

 なるほど、これが『注文の多い花屋』と呼ばれる所以なんだ。

「確かに、変に花言葉を意識するよりは、その方がずっといいかも」

 しかし三玲の意見は一理ある。内心、男子高校生相手に無茶振りするなぁ、と呆れながらも、私は頷いて言い添えた。

「私も、男性から手作りのプレゼントをもらったら、それだけでときめきそう」

「でも、ぼくは花束なんて、一度も作った経験がないんですけど」

「大丈夫です。もちろん束ね方は自分が指導します。心配はいりません。……まず、君が彼女に渡したい花はどれですか?」

 三玲は店の奥を指さし、うむを言わさず花を選ぶよう促す。いつのまにか、彼が自身で花を束ねることに決まっていた。

「えーと……たとえばこのお花とか、素朴で可愛いなぁと思いますけど。でも、センスの良い取り合わせ、とかそういうのは」

「ありませんよ、そんな公式は。第一、センスが良いと一般受けはしない花になります。……ええ、いいんじゃないですか。その調子でもう少し選んでください。サイズにもよりますが、ある程度花の種類は多い方が初心者には束ねやすいです」

 最初、恐る恐る花を眺めていた男子高校生も、次第に三玲の言葉に乗せられて、次々と花材を選んだ。

 かすみ草、オキシペタルム、キャンディータフト、スカビオサ、サンダーソニア。

 よく言えばカントリー調の、比較的、渋めのチョイスだ。恋にあこがれる男の子らしい花選び、とも言えるかも知れない。

 でも、これを束ねるって……結構、というかかなり難しいような……

 彼の選んだ花を躊躇無く抜きとる三玲を背後から眺めながら、私は内心で独りごちた。スカビ以外はみな、分散して咲くフォームの花材ばかりだ。それに、どれも比較的ステムが柔らかい。

 これを彼に束ねさせるなんて。本当に大丈夫なのだろうか。少なくとも、今の私には綺麗な花束を作る自信はない。

「それじゃ、ここで始めてみましょうか」

 だが、三玲は彼の選んだ花材に一切の注文を加えることなく、平然とそれを丸テーブルの上に並べた。シュガーポットはいつの間にか脇に片づけられている。

 私はその時初めて、店頭の丸テーブルが何のために用意されていたのかに気づいた。本来は、お客さんに簡単なアレンジや花束の講習をするスペースとして、だったのだろう。

 可愛らしい花材の前に、彼が恐る恐る立つ。

「綺麗な花束を作るには、下準備が大切です」

 三玲はそういうと、優しく、花材の処理から教えていった。

「まず最初に、余計な葉や枝を落としましょう。花束の中で潰れて、痛み、植物をより早く痛めてしまいますからね」

 束ねた花束のサイズをイメージして、握るポイントの少し上から下部分の葉や脇枝を丁寧に取り除くのだと、三玲は説明した。

「こんな感じですか?」

「もう少し上まで綺麗にした方がいいですね。サンダーソニアの下の花や、かすみの根本の脇枝は可哀想ですけど諦めてください」

 もっとも、捨てる必要はありませんけど、と三玲はかすみ草の脇枝を瞬く間に束ねて、ごく小さな花束を作った。

「下処理が終わったら、いよいよ束ねてみましょう。基本的に、花束はスパイラルに、ステムが螺旋を描くよう斜めに束ねて作ります。……と口で説明しても、上手くイメージできないでしょうから、まずは見本を」

 三玲はそう告げると、彼の処理し終えた花材をまず一本左手にとった。

 次にもう一本を右手でとり、最初の一本に手前から斜めに添え、まとめて左手で持つ。

「こうして、斜めに花を加えます。あとはこれを繰り返していくだけで、花束ができあがります。慣れるまでは、各種の花材をランダムに束ねるのがお勧めですね」

「……えっ? それだけですか?」

「ええ、そうです。見ていてください」

 三玲は頷くと、日頃より随分ゆっくりと、でも充分に手早く、花たちを束ねていった。

「はい。完成です。とっても簡単でしょう?」

 数分後、三玲の手元には、小さく丸くて可愛らしい、カントリー調の花束があった。

 ごく普通に作っていたけど、花たちのバランスが絶妙で本当に綺麗だ。

「確かにそう見えましたけど……なんか、騙されているような気が」

「種も仕掛けもありませんよ。手品じゃないんですから」

 疑わしげに手元を見つめる彼にむかって、三玲はあの微笑みで語りかけた。

 そして、できあがった花束を惜しげもなく解き、再びテーブルの上に広げる。ああっ、と彼の惜しむ声が聞こえた気がした。

「さて、次は君の番です。まず、中心になる花を選んで……」

 三玲に促され、彼は覚悟を決めたように、花材を手にとった。言われるままに、それを一本ずつ束ねていく。

「そうです、いいですね。左手の指は、束ねる紐をイメージしてください。ギュッと掌全体で握ってはいけません。二本の指が優しく縛る感じで……新しい花を足すときは、人差し指と中指を入れ替えながら……」

 三玲の指導は、私に対するよりずっと親切で丁寧で優しかった。当たり前だが。

「横や後ろに花を追加したい時は、いきなり束ねず、まず加えたい側を手前に回すんです。そして花はいつも、右手で手前に足す。そうすれば自然と螺旋状に仕上がりますから」

 最初は腰の引けていた男子高校生も、花束が形になるにしたがって、多少の自信と余裕が生まれてきたようだった。

 訳もわからず、無我夢中で束ねるだけだったのが、次第に花を選んだり場所を改めたりし始めている。

「サンダーは心持ち長めに、かすみの枝で周囲を支えて……形になってきたじゃないですか。これなら、花言葉などに頼らずとも、君の気持ちが伝えられる花束になりますよ」

「そういえば、確認していませんでしたけど、ぼくの選んだ花に悪い意味の花言葉って含まれていませんか? 大丈夫ですか?」

 彼の質問に、三玲はなぜか不意に、チラッと私を見た。

 やがて、おもむろに説明を始める。

「花言葉は、あまり気にしすぎない方が良いです。というのは、花言葉は、花に特定の意味をもたせる起源に諸説ある西欧の風習……という事になっていますけど、現代で一番普及しているのはおそらく日本です」

「へぇ、なんか意外ですね」

「そもそも流通する花卉かきの種類が多様でないと、成立しない文化ですから。そして本来は、あまり良い意味の言葉ばかりではないんですよ。世の東西を問わず、美しい花を贈りながら密かに相手を揶揄する、なんて遊びが女性は好きなんでしょうね」

 確かに、あり得るかも。

 三玲の辛辣な女性評に私は内心で苦笑した。

「もっとも、悪い意味ばかり広まったら生産者も花屋も困ります。だから組合はやっきになって綺麗な言葉ばかり普及させようとしていますし、新品種の花言葉は大概種苗メーカーが決めています」

「案外、現実的なんですね、花言葉って」

「他にも、伝統的な花言葉の理解には宗教の知識が必要だったり、表向きの意味とは正反対の暗喩が含まれていたり……なかなか一筋縄ではいかないんですよ」

 そこまで解説されて、私はようやく、三玲の視線の意味がわかった。

「なので、あまり意識せずとも構わないと思います。まぁ、赤バラや黄バラくらい有名な場合は別ですが。他にもモミや松、竹などを使う際には、別の理由で植物のもつ意味合いを気にしますけど」

 松? ……松の花言葉なんてあるの!?

 私は突然、おもいもかけないタイミングで、松の話題が出てきて息を呑んだ。

「松や竹みたいな、日本の植物にもあるの? 花言葉って」

「花言葉とはちょっと違います。でも日本古来の植物には、やはり特定のイメージを抱きませんか。竹や千両は誰にでもお正月を想起させるし、桜は散ってこそだから、使いどころを選びますよね。ススキからは否応なしに秋を感じるでしょう」

「じゃ、たとえば松は?」

「常緑の松は長寿の象徴で、おめでたい植物の代表です。クリスマスにモミが用いられるのと同様の理屈です」

 常緑、長寿、おめでたい。

 私は告げられた単語を脳裏に刻み込んだ。

 そりゃ、私だって松がどのような場で使われるかくらい知っている。けれど、松という植物の選択自体が、意図のあるメッセージかも、と考えたことはなかった。

 でも、あの枯れ木に抱きついたような松からは、おめでたい印象は受けないけれど。

「だからドイツのクリスマスでは、松も大いに飾られます。お正月の印象が強すぎて、日本人は違和感を抱くようですが」

 そんな余談を三玲が語っている間に、男子高校生の花束は完成に近づいていた。

「なんか最後が上手く出来ないんですけど。脇が空いてしまうし、先端がちぐはぐで」

「凹凸感はむしろ大切にしてください。……うん、周囲がそれだけ広がればもう大丈夫です。今回はカスパを使いますから。スパイラルに束ねる花束は一八〇度展開が理想ですけれど、初めてならこれでも充分以上です」

「でも、妙に花が偏っていませんか? それに形が歪んで、さっきお花屋さんが束ねた時のようには全然丸くなってないし」

「だからこそいいんじゃないですか。君のこの花束の方が、先程のよりずっと個性的で美しいです。格好よくて、とても君らしい」

 けれど、三玲が言葉を尽くして褒めても、彼は半信半疑だった。

「そうよ。私がもらうならこの花束の方がいいわ。ずっと味があるもの。三玲の花束は確かに綺麗にまとまっていたけど、無個性で面白みがなかったから」

「……それが、自分の仕事ですから」

「個性的とか、味があるとかって、便利な言葉なんですね」

 苦笑いする男子高校生の脇で、三玲は一瞬どこか憮然とした表情を浮かべた。

 しかし事実、多少不格好でも、彼の作った花束の方がずっと女心に訴えると私は思った。お洒落なブランドの既製品と、多少目の不揃いな手編みのセーター。どちらにより愛を感じるかである。

 だがすぐに、三玲は何事もなかったかのように彼から花束を受けとり、最後に少しだけ手直しをした。

 長かったオキシペタルムを一本、ごく自然な手つきで根本に移す。

 ……すごい。

 私は彼に聞こえないよう、内心で小さな声をあげた。さり気ない、ほんの僅かな修正だったが、それだけで印象から稚拙さが消え去り、花は決定的に花束らしくなった。

「束ね終わったら、握った指の上で縛ります。昔はラフィアか麻紐などの植物素材が常識だったんですが、最近は花屋でも普通に輪ゴムで止めていますから、今日はそれで」

 仕上げ方法について説明しながら、三玲は彼に太めの輪ゴムを差しだした。

 そう、端は太い茎にひっかけて、と逐一指示しながらサポートする。

 そして、最後に真っ白なカスパに茎を通して、花束は見事に完成した。

「やった、本当にできた!」

 嘘みたい……あんな難しい花材を、まったくの素人に最後まで束ねさせちゃったんだ。

 男子高校生は自分でも予想外、とばかりに喜んでいたが、私も正直、驚きだった。

 丁寧で親切な指導。的確で最小限の手直し。

 そして同時に、微かに頬が膨らむのが自分でもわかった。

 それにしたって、私に花束の手ほどきをした時とは、あまりにも態度と教え方が違うじゃない。もしかして、やっぱりそっち系の趣味があるわけ?

 無論判っている。私は客ではない。技術を身体で覚えるべき花屋見習いだ。

 それでも、ここまで露骨に扱いが違って、拗ねたくならなかったら女じゃない。

「上からさらにセロファンでラッピングしてもよいのですが、足下にコットンをあててホイルで包むだけに済ませて、このまま渡した方が風情があって良いと思います」

「はい! 講習会が終わったら帰りにすぐに渡しますから、言われたとおり……ヤバイ、もう午後の授業始まる」

 男子高校生は壁の時計を見あげた。

「本当にありがとうございました。あの、今日のお代は」

「前回同様、三千円で結構です。そのかわり、事の顛末を報告に来てくださいね」

 三玲の告げた金額は、私にも判る、かなりのディスカウントだった。

 大あわてで財布を取りだす男子高校生にむかって、言い添える。

「なにしろ、ウチには他人の恋愛話に興味津々のおばさんが一人、居ますので」

 余計なお世話だ。おばさんで悪かったな。

「わかりました。必ず報告に来ます。……それじゃ、失礼します」

 そう言い残すと、男子高校生はできあがった花束を抱え、早足で店を出て行く。

 その後ろ姿を見送る三玲は、とても満足そうだった。



「バカじゃないの」

 数日後。

 夕方、店内には二人のお客さんがいた。珍しくどちらも若い。もっとも、共に花を買う気はさらさらないのだから、客とは呼べないかも知れないが。

「普通気づくでしょ。あれだけ露骨ならさぁ」

 コーヒーカップを手に、これみよがしに楽しげに嘲笑うのは霞ちゃんだ。

 相手は、ぐったりとテーブルに顔を伏せたまま、ピクリとも動かない。

 あの、男子高校生だった。

「空気を読むのが苦手にしてもさ、あるよね、物事には限度って。れっきとした彼氏が居るのに、公衆の面前で他の男から花束渡されても迷惑なだけに決まってるじゃない」

「まぁ、そうきつい言い方しないで……しかし、すごい偶然だね。知り合いだったんだ」

 三玲が、取りなすかのように声をかける。

「鶴岡に引っ越す前、家が近くで小学校が同じだったから……せっかく、庄内で一番の高校に進んだんでしょ。なのに、肝心の人として終わってたらダメじゃん」

「でも霞ちゃん、恋愛は大切だと思うわよ。誰かを好きになる、っていうのはそんなに」

「そりゃ恋をするのは結構ですよ。あのはな垂れ理芳りほうにもついに発情期が、と思えば感慨深いです。でも、彼氏持ちの女子に入れあげて一方的に迫って迷惑かける、なんてつまりは相手の本当の姿、なにも見えていなかったって証拠ですよね。笑えませんよ。自分の感情に酔ってるだけじゃないですか。そんなの、恋愛でもなんでもありません」

 なだめる私の言葉を遮って、霞ちゃんはそれからしばらくの間、問題の彼女との関係について勢いよくまくし立てた。

「だから理芳ってダメなんだよね。昔っから、表向きのイメージに流されやすくてさ。花屋の店員さんは植物の好きな心優しい人、なんて安易に思いこんじゃうタイプだから。……まぁ、やんわりと話を逸らすだけだったあの子も罪作りだけど。案外、理芳に言い寄られて内心では悪い気がしてなかったんじゃない。さっさと彼氏作るような子って、早熟な分、男心を弄ぶのが」

「俺のことはともかく、木下さんについては言うな!」

 霞ちゃんの矛先が、相手の女の子に及ぶなり、男子高校生は突然ガバッと起きあがった。

「だいたい、木下さんがそんな、弄ぶとか、早熟とか」

「だって結果的に弄ばれてたでしょ。相手が自分に気があるって感づいていながら、彼氏の存在を最後まで黙ってたんだから。節度のある子なら、早い段位でそれとなく伝えるって。それに早熟に決まってるじゃない。あの子、高校に上がるなり速攻彼氏作ったんだよ。それも大学生の。いつもデートは車だよ」

「だ、だからって、それだけで」

「このあたりで、カップルが行く場所なんてカラオケかラブホが相場なんだから。まさか小柄で田舎っぽい子は純情だとでも信じてるわけ? 車があればバレずらいし、ああ見えてあの子だってとっくの昔に」

「霞ちゃん、そこまで」

 それ以上はさすがに品がないよ、と三玲は霞ちゃんの肩をポン、と叩く。

 売り言葉に買い言葉で応じていた霞ちゃんは、はっと我に返るとそれきり黙りこんだ。うっすらと頬を染めて俯き、スミマセン、と呟く。

「同じ学校に通って毎日顔をあわせていたのなら、雰囲気とか、うわさ話で気がつくかもしれないけど。予備校の講習会で会うだけじゃ、誤解しても無理はないんじゃないかな。世間の抱く花屋のイメージはともかく、外見の印象には誰だって影響されるから」

 それから三玲は、なぐさめるように男子高校生にむかって語りかけた。

 私も頷いて、ようやく顔を起こした彼にコーヒーカップを差しだす。

「ごめんなさい。私も気づくべきだったわ。告白する雰囲気にならないのは、そういう可能性もあるって」

「いえ。ぼくが一方的に熱をあげるだけで、まったく彼女の立場を考えていなかったのは、新野さんの指摘どおりですから」

 男子高校生は軽く首を横に振ると、ありがとうございます、とコーヒーを受けとった。

 意気消沈は相変わらずだが、霞ちゃんに容赦なく指摘されかえって踏ん切りがついたのか、再び顔を伏せることはなかった。

「結局、花言葉とか調べてもらっても無駄でしたね。すみません」

「そんなの気にしないで。私も色々勉強になったから」

「でも店長さんは、花言葉は、って……あの時点でもう気づいてらしたんですよね」

「結末まで判っていたわけじゃないですよ」

 三玲は小さく手を振った。

「女心に鈍感なのは、自分も同じです。ただ、告白の雰囲気作りに花言葉は関係ないだろうな、とは予想がつきましたけど」

「どうしてですか?」

「以前も説明したとおり、一つの花には複数の花言葉があるから、など理由は幾つもありますが……瞳子さん、彼から注文を受けて、ネットで花言葉を調べましたよね」

 当然のように問われ、私は渋々頷いた。

「そうよ。だってまだ新米の花屋店員だもの。仕方がないでしょ」

「決定的なのはつまり、瞳子さんくらいお洒落で流行に敏感な女性でも、ろくに花言葉なんて知らない、という事実です。なら、田舎の女子高校生では尚更でしょう。だったら、まず無関係です」

 三玲の説明は簡潔で明瞭だった。二人の高校生は、感心したように頷く。

「いわれてみれば、ぼくも花言葉なんてこれまで意識したことなかったです」

「ちょっと。私、自分がお洒落で流行に強いだなんて自惚れてないけど」

「流行に疎い大手広告代理店社員なんてあり得ません。お洒落でない人が、そんなにも見事に限られた服を着回せる筈がないでしょう」

「……悪かったわね。いつも見たような服ばかり着ていて」

 どうして、そういう所は目ざといのかしら。

 三玲の指摘に、私はうっすらと赤面した。

 仮住まいの荷物を増やしたくなくて、服など最小限で暮らしているのは事実だ。だが、それをこの男に指摘されるとは思っても居なかった。結構、頑張っていたのだ。

「だいたい、なんで私が広告代理店に勤めていたなんて知っているのよ」

「そりゃ、一月も一緒に働いていれば世間話の端々からそれくらいは。……あの、一応褒めているつもりなんですけど」

 私が不機嫌に言い返すと、三玲はかすかに狼狽えた。女心に疎いのは本当らしい。限られた数種の服を、小物とメイクでごまかして着回していると見抜く眼力はあるくせに。

 そうして、私と三玲が微妙な空気を醸しながら向きあっていると、不意に男子高校生の笑い声が聞こえた。

「すみません……今回はありがとうございました」

 彼は私達にむかっておもむろに頭を下げる。

「花言葉の件、よくわかりました。何事も、イメージだけで判断しちゃだめですね。お花屋さんについても。女性についても」

 先程まで暗かった顔が、いつの間にか吹っ切れた表情になっていた。

 私たちの今のやり取りで妙に悟った風なのが、少し腹立たしい。

「本当にお世話になりました。結果は残念でしたけど、初めて自分で束ねた花束を渡して……それでダメだったので、諦めもつきます」

 続いて霞ちゃんへと向き直ると、やはり小さく頭を下げる。

「新野さんも。なんか、久しぶりなのに妙な気を遣わせちゃってゴメン」

「別に。私はなにもしていないでしょ。そりゃ、もっと早く知っていれば少しは協力とか、あの子は避けたらって助言くらいは……だけど、予備校の講習会なんて行ってたんだ。まさか受験する気なの?」

「農家の跡取りに学歴なんかいらないって、両親は反対しているけどね。でも大学にでも行かなきゃ、一生庄内で過ごすことになっちゃうし。むしろ新野さんこそ、どうしてわざわざ鶴岡からこの店に?」

 田舎らしい、幼い頃から見知ったの二人の、親しさとぎこちなさが絶妙にブレンドされた会話に、私と三玲は互いの顔を見合わせ、そっと肩の力を抜いた。店員が二人、つまらない事でいがみあっていても始まらない。

「それは、高校がこっちだから」

「なんだね。……でも、今日は休みだけど?」

 不思議そうに首をかしげる彼の前で、霞ちゃんは言葉に詰まって黙りこんだ。

「そう頻繁に寄ってくれるわけじゃないけど、霞ちゃんは間違いなく常連だよね」

「……そんな感じかも」

 ん?

 私が横から言葉を挟むと、霞ちゃんの反応は何故か鈍かった。

 ぎこちなくなった会話を救おうとしてか、明るく三玲が声をかける。

「君も、ええと理芳君でしたっけ? よかったらまたいらしてください」

脇田わきたです。脇田理芳といいます。……はい。お言葉に甘えて、ぜひ。今回、花束を作らせてもらって、とても勉強になりました」

 改めて礼を口にしたあと、脇田君は、三玲に訊ねた。

「この前は聞けませんでしたけど、ディスプレイに並んでいるアレンジ、どれも店長さんが生けられたんですよね? 次の機会には、それについても教えてください」

「それじゃ君、もしかして花を生けるのに興味があるのかな?」

 脇田君が熱心に訊ねると、嬉しそうに三玲が顔を綻ばせる。

 だが、とっさに返事に詰まった脇田君の脇で、霞ちゃんがそっけなく答えた。

「そういうのとはちょっと違うんじゃない。……だってそいつの家、花農家だから」

 霞ちゃんの説明に、脇田君が頷く。

「はい。実はそうなんです」

「なるほど。じゃ、将来は生産者になるんだ」

「畑を継ぐと決めたわけじゃないですけどね。ウチで育てた花がどんな風に飾られるのかは、昔から興味があったから」

 三玲は少しだけ残念そうだった。だが、庄内地方は花卉栽培も盛んだから、生産者の息子がいても確かに不思議ではない。

 一方で私は納得していた。ごく普通そうな田舎の男子高校生が、なぜ、告白の雰囲気作りに花束を、などと考えたのか。その動機がようやく理解できて。

「なら、この店で勉強すればいいじゃない。切り花の扱われる現場を。……そのかわり今度からは、もしあったら出荷できない花を持ってきてよ。格安で、できれば無料で」

 私が経営上の下心から熱心にそう勧めると、脇田君は戸惑ったように私を見た。

「それは構いませんけど……お姉さんはアルバイトなんですよね? なのにどうして」

「その人はアルバイト兼この店のオーナー」

 霞ちゃんが端的に説明すると、脇田君は驚いたように一瞬目を見開いたが、なぜかすぐさま納得した。

「じゃ、今度オヤジに頼んでみます。……多少、形の悪い残り物でもいいですか」

「いいですね。市場の評価は低くても、花形は不揃いな方がむしろ実際は生けやすいんですよ。本当に持ってきてくれるなら歓迎します。もちろん、代金は払いますから」

「いえ、検品で最後までハネられたのは売り物にならない花なので」

 どうせ処分するものですから、と言いながら、脇田君は立ちあがった。

 どうやら、失恋の痛手が完全には癒えずとも、少しは気晴らしができたようだ。来店前より、雰囲気が明るくなっていた。

「それじゃ、今日はこれで失礼します。お世話になったあげく話まで聞いていただき、本当にありがとうございました」

「報告に来い、ってせっついたのはこっちだもの。気にしないで。またぜひ顔を出してね。さっきの、花材を持ってこい、なんてあくまで冗談だから」

「ほぼほぼ本気にみえましたよ。あの瞬間だけ、経営者の眼差しになっていました」

 私が微笑みかけると、脇田君は屈託のない笑顔をうかべる。

 そして、霞ちゃんに向かって小さく手を挙げると、店を出て行った。

「どうするの? たぶん本当にまた来るよ、理芳なら。社交辞令とか考えずに」

 その姿が見えなくなると、霞ちゃんはどこか疲れたように前髪をかきあげた。

「そりゃ、もちろん歓迎するわよ」

 私は、笑って答えた。

「でも、きっと次からは花は買わないよ。贈る相手がいなくなったんだから。私が言うのもアレだけど、これ以上、茶飲み話を楽しむだけの常連を増やしてどうするわけ?」

 霞ちゃんの指摘は正しい。だが、今回に限っては私にも目論見があった。

「だったら、働いてもらうまでよ」

「えっ?」

「勉強しに来る、って本人も言っていたんだし。三玲の下働きなら、花農家の跡取りとして大いに得るものがあるでしょ」

「……なるほど、そういう魂胆でしたか」

 私の狙いを知り呆気にとられる霞ちゃんにかわって、三玲が納得したように頷く。

「相手がお小遣いの少ない高校生なら、格安で花を持ってこさせて、無料ただでこきつかう。一粒で二度美味しい、まったくもって瞳子さんらしいやり口です」

「人聞きの悪い言い方しないでよ。それじゃ、まるで女郎屋のやり手婆みたいじゃない」

「自覚、なかったんですか?」

 これみよがしに驚く三玲の臑を、私は結構力をこめて蹴った。これでも店の看板である。顔は傷つけられない。

 顔をしかめ、無言で呻く三玲を放置して、私は霞ちゃんに向き直った。

「もちろん、よくお店に来ているんだから、霞ちゃんも経験してみる? お花屋さんの店員。幼い頃、憧れたことなかった?」

「すみません、ウチの学校、アルバイトは届け出制なんで」

「大丈夫。無給ならアルバイトじゃないから。単なる社会勉強だもの」

 私と霞ちゃんは、お互い視線を逸らさずにニコニコと笑いあった。

 この子も意外といい根性しているのよね。

 でも、言われてみれば本当にどうして、この店に入り浸っているのかしら。

 先ほど脇田君がその不自然さを指摘していたが、霞ちゃんがこの店を訪れる理由は私にも謎だった。休日に、わざわざ鶴岡から訪ねてくるのは何故なのだろう。

 彼女がこの店で花を買ったことは、私が来て以来一度もない。高校生だから、他の常連客のように毎回、顔を出す度に花を買うのは無理にしても、そもそも関心がないのなら、なんのために来ているのかわからない。

 最初はお小遣いが少ないからだと思いこんでいたが、そんな単純な理由ではないようだ。

 にもかかわらず、三玲は彼女を常に大切な常連客として扱い、霞ちゃんもそれを当然のように受け入れている。

 年下の隠し彼女でも、ギリギリ許容範囲だけど……そういう気配はないのよね。

「瞳子さん。今日はそのくらいで」

 やがて、復活した三玲が苦笑いを浮かべながら、私と霞ちゃんの間に割ってはいる。

「脇田君の件は承知しました。もし彼が希望するなら、面倒は自分が見ます。確かに、将来花卉生産者になるなら花屋での経験は無駄にはならない筈ですから」

「彼が戦力として使えるようだったら、私だって考えるわよ、バイト料」

 私は軽く肩をすくめると、それで、脇田君に関する話はようやく終わりになった。

 霞ちゃんは、何事もなかったかのように自分でおかわりのコーヒーをいれ始める。

 この子は謎だ。確かに。

 でも、それ以上に、

 私は店の奥に戻り、中断していた作業を再開する三玲の姿をこっそりと眺めた。

 脇田君が花束を作り終えた瞬間に浮かべた、心底嬉しそうな、あの笑顔。

 あれは決して、作り笑顔ではなかったし、単純に、その出来を喜んでいるだけでもなかった。

 おそらく、店主が客に自分で花束を作るよう要求する花屋なんて、他にはないだろう。

 生きた植物こそがなにより大切で、あれほど切り花を、アレンジを嫌っていたあの人が、おそらくはプラントハンターを引退すると同時に、花屋を始めた経緯といい、

 ……『注文の多い花屋』、か。

 父は何故、人生の最終盤になってそれまでの主義主張を違えたのか。

 父とこの店の謎は、結局、すべてこの男にたどり着くのかも知れない。

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