第1話


 はかなく舞い散る桜の花弁に己を重ね、ものの哀れに想いを巡らす季節。

 四月。

 私、芹沢瞳子せりざわとうこは仕事を辞めた。


「生きとし生けるものには、必ずや一度は決断の時が訪れる」

 今でもはっきり覚えている。幼い頃、父は時折膝に私をのせ、熱心に語った。

「我々は決して、その選択を間違えてはいけない」

 それは確かに一考すべき意見だが、三歳児に説くのが相応しい人生訓ではないだろう。短絡的すぎる。ましてやその主張の後に続くのが、好気性細菌と嫌気性細菌がたどった数奇な運命のドラマや、被子植物と裸子植物の骨肉の争いの逸話となればなおさらだ。私の人生にはおそらく、哺乳類の未来を選択する瞬間など永遠に巡ってこない。

 そんな父の面影は、それら幾つかの印象的な台詞と比べると驚くほどに曖昧だった。

 小学校入学と同時に、父は家を出て行った。もしかしたらかなり事前にそう決めていたのかもしれない。なぜなら、母は離婚と同時に教師へと復職したから。

 そしてそれ以来、私は父の姿を一度も目にしていない。母は『あたしに遠慮しないで会ってきたら』と幾度となく勧めてくれたが、私は頑なに面会を拒んでいた。

 父は私たち母子ではなく、植物を選んだのだから、と。

 大学教授の父は、植物学者であると同時にプラントハンターでもあったらしい。年に一度か二度、世界中の僻地から私宛に絵はがきが届いた。絵はがきの受取拒否は難しい、様々な意味で。短い文面には決まってその時興味を惹かれている植物について記されていた。自分の近況と私については一切触れていなかった。埋もれた原種の遺伝情報の価値など知りたくもない。父のせいで私は今でも某プロ野球球団が大嫌いだ。

 そうして私は母子家庭でつつがなく育ち、高校の頃にふと写真に興味を抱き、大学では時代を一回りして新たなブームとなっていた銀塩写真にバイト料の大半をつぎ込んだあげく、大手広告代理店へと就職した。

 写真で一生食べていく自信はなかったし、無責任に夢を語る同級生も好きになれなかった。けれど、せめて自分が憧れたものの周辺で暮らしたかったのだ。

 人気業種だから、もちろん就活は熾烈を極めた。数百倍の難関を乗り越えられたのは無論、針葉樹の実生の過酷な運命に関するエピソードを子守歌がわりに育ったからではない。

 ただ、

 そうまでして入った会社で、上司の机に辞表を差しだした瞬間、

 父のあの一言を、まったく回想しなかったといったら嘘になる。



 山形県を貫く最上川河口の古都、酒田。その中心部にたたずむ、古き良き昭和の面影を色濃く残した小さな百貨店。

 その正面入り口前の歩道には、なぜか巨大な獅子頭の像があった。

 うーん、意気込みは伝わってくるけど、どこか微妙に残念な感じが……

 威嚇するような視線を横手に感じながら、大通りの角を曲がる。通行速度を抑制するために所々湾曲した一方通行の車道の両側には、商店街のアーケードが続いている。

 通りの様子を一目見るなり、私は立ち止まった。

 これはまた……

 最初に感じたのは戸惑いだった。やがてそれはすぐ呆れにかわった。

 もちろん知識では十二分に承知していた。東京への一極集中に伴う地方経済の空洞化。少子高齢化による活気の喪失は地方都市ほど顕著であり、ここ山形県庄内地方も例外ではないと。シャッター通り、と俗称される閑古鳥の鳴いた商店街なら、以前担当した北関東の都市で経験済みである。当然予想はしていた。麻布や下北沢のような、活気あふれた商店街を期待していたわけでは、決してない。

 しかし、何でも物事には限度、というものがあるんじゃないかしら。

 静かだ。

 単なる町村レベルの市街ならともかく、ここ酒田は鶴岡と並んで庄内地方を代表する中核都市である。その中心部にある、江戸時代から続く由緒ある商店街には、見渡す限り動く存在が何一つなかった。

「絵はがき、いけるかしら」

 私は呟いた。頭の中で、どこにカメラを構えるか想像したりする。北欧など人口の少ない都市で売られている定番のジョーク絵はがきに、ただの真っ黒な紙に『night of Oslo』とだけ白く抜かれたものがある。酒田でならその商店街版が作れるかもしれない。

 なにしろ、彼方まで続く長いアーケードの下には猫一匹歩いていないのだから。

 目の前の光景は、そんな妄想を抱かずにはいられないほど、衝撃的だった。

「もしくは……どうすれば」

 そしてなにより、

 そんなふうに、明らかに末期的な状況を示しているにもかかわらず、未だ少なくない数の商店が営業を続けている、というのがよりインパクト大だった。

「まだ店主さんたちにはやる気がある……往生際が悪い……」

 その惨状を賛辞する単語を探しながら、私はゆっくりとアーケードを歩きだした。広告代理店時代の目線で商店街を検分する。

 やっぱり、結構な数の店が今でも生きているよね。でも完璧に絶息寸前。これを延命させるには……

 もちろん、すでに商売を諦めシャッターを下ろしている店舗の方が割合では多い。しかし、この状況下で営業を継続している店が三、四割でも残っているのは奇跡的だった。

 プロデュースするにしても、この商店街からお金を引っ張れる訳がないし……狙うとしたら官公庁かしら。平日の午後とはいえ、ここまで人通りの少ない街の再生に、税金を投入してもらえるかは微妙だけど。

 ……って、もう関係ないんだっけ。

 すでに退職しているのに、つい大真面目に営業トークを捜してしまう自分に苦笑する。そんなこんなを考えながら商店街の端に着くと、私は反対側をとって返した。念のために、スマホで現在地を確認する。

「まったく、どうしてこんな」

 無人の商店街を一人、パンプスのヒールを鳴らしながら歩きつつ、私は独りごちた。

 出身は東京だし、勤めていた大学は鶴岡である。この街には地縁・血縁共に存在せず、店は孤立無援での船出だった筈だ。

 もっとも、雇った店長が酒田の出身なのかもしれない。そうなんだろう、きっと。でなければまったく意味が理解できない。

 新たに花屋を開くにあたって、この静まりかえった商店街を選んだ、父の真意が。



 意外と地味な……けれど、綺麗な店ね。

 それが第一印象だった。

「ごめんください」

 それは間口の狭い――東京でなら充分な広さだが――昭和の香りの漂う店舗だった。寂れたアーケードから、さらに一本脇の路地の角にその店はあった。

 扉の脇には大きな古い壺が置かれ、無造作に草花が投げ入れてある。その中心には背の高い枝が数本、すくっと立っていた。種類はわからないが、浅黄色の柔らかそうな葉は綺麗だった。枝振りも洒落ていた。

 ここかしら。きっとここよね。

 店の前に立った瞬間、ブルッと身体が震えた。まるで武者震いのように。気がつけば手の平が汗ばんでいた。ワンピースの裾でこっそりぬぐう。半日、悩んで選んだ一着だった。

 緊張なんてしていない、と虚勢をはるつもりはない。実際、ガチガチに緊張していた。手足がロボットのように動いているのが、自分でもわかる。自ら進んで父に関わるのはアレいらい、これがまったくの初めてだった。

 私はくり返し自分に言い聞かせた。

 大丈夫、心配はいらない。もうこの世の何処にも、あの人は居ないんだから。

 呪文のように呟き続けると、どうにか動悸が収まってくる。私は意を決してガラス戸に手をかけた。ゆっくりと開く。

「すみません」

 恐る恐る声をかけながら、鈍い音を響かせる扉の隙間から中を覗きこむ。

 返事がないので、そのまま一歩足を踏み入れた。すると、

 えっ?

 ここって、お花屋さんっていうより……なんだかおとぎ話の森の中みたい。

 それは私が真っ先に抱いた感想だった。張りつめていた気持ちが、少しだけ緩む。

 壁の白い店内は緑と花にあふれていた。香りと気配に圧倒される。その様相は、よくある生花店とはずいぶん異なっていた。

 ユリの大輪が鮮やかなモダンな壺から、小花が可憐にあしらわれた伊万里の小鉢まで、大小様々なアレンジが店内には並んでいた。窓辺のテーブルや壁際の狭い棚に作品が点在する様は、洒落たギャラリーのようだ。

 それらには一つ残らず、独特の個性と主張が存在していた。自分はこんな植物だよ、という彼らの叫び声のようなものが。

 アンティークなキャンデラブラを彩る花々には古き良きヨーロッパの気配が漂っていたし、真っ白な流木に挟まれて立った細い野菊はどことなく生け花を連想させた。そして、葉裏を見せつけて盛られた熱帯のヤシからは、濃厚な現代アートの香りがした。

 へぇ。植物って、こんなにも多彩な飾り方があるんだ。

 それは新鮮な驚きだった。

「あの」

 えっ?

 横から消え入りそうな声をかけられ、ハッと我に返る。ずいぶん長い間、植物たちに魅入られていたようだ。

 そしてその呼び声で、他にも店内に人が居たのだと気づく。恐る恐る訊ねてきたのは、椅子に腰掛けた制服姿の女子高生だった。

「えっと、その……お客さんですか? それとも、もしかして」

「あ、あの、私は」

 彼女の声に正気を取り戻した私は、ふとあることに気づく。

 この店、とっても綺麗だけど……もしかして、何か間違えた? ここって本当に花屋?

 並んだアレンジは美しかったが、どれも持ち運びは大変そうだ。一方、手ごろなサイズのブーケや、飾り箱に花を詰め込んだありきたりの商品は見あたらなかった。

 加えて、店の入り口脇には丸テーブルが二つ並んでいた。中央には可愛らしいシュガーポット。シンプルな木製椅子がその周囲を囲み、腰掛けた制服姿の女子高生は、カップを手になぜか驚いたように目を見開いている。

 なにより決定的だったのは、普通の花屋で見かけるあのガラスの檻が見あたらない事だ。

 どうしよう。

「お客さんっていうか」「……いらっしゃいませ」

 声をかけてきた女子高生に、曖昧な愛想笑いを返していると、店の奥からハスキーな、良く通る声が聞こえてくる。

 続いて、衝立の向こうから一人の店員があらわれた。

 その人は私を見て、ほんの一瞬、戸惑うように固まったあと、穏やかに笑った。

「申し訳ありません。作業をしていて、お客様に気づかず失礼いたしました」

「い、いえ。私もたった今、お邪魔させていただいたところですから」

 彼女はシミ一つ無い真っ白なシャツと、折り目のはっきりした細いパンツの上に、生成の綿の黒エプロン姿だった。足下は細身の革靴。長い黒髪は後ろで一本に縛られている。そしてほぼノーメイクにもかかわらず、きりっと整った中性的な容姿。比較的長身の私より、背はさらに高い。

 美人だ。そしてどこから眺めても、お洒落なカフェのウェイトレスである。

 やっぱり、店を間違えちゃったんだ。

「それに、どうやら店を……ええと」

 答えながら、私はふと思いついて、傍らの空いていたテーブルにバッグを置いた。

 酒田について以来歩き通しで、結構疲れていた。間違えて喫茶店に入ってしまったのなら、しばらく休むのもいいかもしれない。

「そうだ、ブレンドをお願いできますか」

 私が注文をすると、なぜか、隣のテーブルで女子高生がプッ、と小さく吹き出す。

 そして店員の表情が僅かに変わった。頬を歪めてクスッと微笑む。ちょっと残念な娘を見るような眼差しで。

「もしかして、観光でいらした方ですか?」

 ちょっと、なによそれ。あり得ないなぁ。

 それは断じて接客業の従業員がお客にむけてよい類の微笑みではなく、私は内心軽い憤りを感じたのだが、

 あり得ないのは、実際、私の方だった。



「お花屋さん、ですか?」

 店、間違えていなかったんだ。

 顔から火が出る、という表現が比喩でよかった、と思った。でなかったら、今頃燃えていた、きっと、大切なものが。

「はい。店構えがこうですから、誤解されても仕方がないんですけど」

 私の前で、煎茶を手に彼女は頷く。

 事実を告げられ狼狽える私を、彼女は強引に椅子に座らせた。そして生憎コーヒーは切らしていまして、と言い訳しながら慣れた所作で日本茶を煎れる。出された年代物らしい湯飲みはすっきりと手に馴染み、適温のお茶は美味しかった。

「それに実際、こうしてお客様にお茶を出せるようにもしていますしね」

 私は改めて店内を見回した。

 壁や窓際のアレンジについ目を奪われていたが、店の奥の棚には大きなガラスのシリンダーが整然と並び、多様な切り花が種類ごとに分けられていた。

 そして、店の中央には大きな一枚板のテーブルがあった。カウンターのように錯覚していたが、これは作業台なのだろう。

 こうして座れるテーブルがあるなど、決してよくある生花店っぽくはないけれど……でも、ここが何のお店かと問われたら、やっぱりお花屋さんだろう。

「それは、どうして?」

「なにしろ、この有り様ですから」

 私が訊ねると、人通りが皆無な店の前を指さして、彼女は苦笑いをうかべた。

「少しでも店に立ち寄っていただく機会を増やしませんと。営業努力のようなものです」

「そういえば、以前東京で喫茶店を兼ねているお花屋さんに入ったことがあります」

「もっとも、花屋がその手の兼業をすると、どっちつかずで大概店を潰しますけどね」

 そうですか、と私は曖昧に頷いた。この街で新たに商売を始めるなんて、そもそも兼業しなくても危ないんじゃ、と正直な感想を口にするのは躊躇われた。

「というわけで、このお茶はサービスです。お店に立ち寄られた方への。ですから遠慮なさらずにごゆっくりどうぞ」

 気軽にお茶を振る舞い、それを売上げにつなげているなら意外と商売上手かもしれない。内心で感心しながら、私はさりげなく質問を口にした。

「いつも、こうして花でお店を綺麗に飾っているんですか?」

「一応、どれも商品ですよ。庄内は車社会ですから。気に入ったアレンジはそのままお持ち帰りいただければと。皆さま、家も東京よりは広いですし」

 ただ趣味で飾っているわけではないんです、と彼女は力説した。

「もっとも、こうして店に並べてもなかなか売れないのは事実ですが。奥で好きな花を選んでいただいて、ご希望に沿ったアレンジをお作りする場合が多いです」

 私は店の奥をもう一度眺めた。

「足下まで全てが見えると、お花にはまた違った魅力がありますね」

「それは花、というより植物すべてにおいていえることです」

 私の指摘に、彼女は頷いた。少し嬉しそうだった。

 丹念に替えているのだろう、シリンダーの澄んだ水の中で切り花はどれも輝いていた。

「花と茎と葉、根だって。いずれも植物の美しさに差はありません」

「でも、よく普通のお花屋さんで見かける大きなショーケースはないんですか?」

「キーパーですね。たしかにウチには置いていません」

 店内は植物に溢れている。にもかかわらず、ここは生花店じゃないと判断した最大の理由はそれだった。

「店内の陳列を兼ねるキーパーや保管用のストッカーは、花の鮮度を保つには確かに優れた機械です。低温で保存すれば切り花の開花期間は劇的に伸びますから」

 彼女はそういうと立ちあがり、店の奥のシリンダーから向日葵を一本、引き抜いた。

「しかし、優れた機械であるからこその問題も存在します」

「なんですか? ずっと綺麗に咲いてくれるなら、良いことだと思いますけど」

「ええ。古いお花でも綺麗に咲かせ続けてくれる、という意味でお店にとっては一〇〇%、メリットばかりの機械です。たとえばこの向日葵、通常は一週間で散りますが、キーパーに入れればもう一週間は保つでしょう。しかし、開花して二週間後の花でも売れる装置、と考えるとお客さんにとってはどうでしょう」

 なるほど。

 私は納得した。

「切り花には、鑑賞期限とか記してありませんものね」

「そういうことです」

 私の指摘に、新鮮な向日葵を手にした彼女は、嬉しそうににっこりと笑った。

「低温で延命した花は、一見綺麗ですが常温に戻した途端、短時間で萎れます。切り花は高価なのに保たない、とよく誤解されるのはそのためですね。ですのでウチでは、仕入れ後不自然に冷やさず、できるだけ早く売るよう努力しています。最近、キーパーを置かない花屋は東京でも増えているようですよ」

 確かに、それは誠実な営業方針かも、でも。

 私は入店直後の大ポカの動揺がようやく収まり、少しは店内の状況を冷静に観察できるようになっていた。

 いまの私にとって重要なのは、花屋として姿勢ではなくて……この人、もしかしたら、

「あの、ここが花屋なら、店長さんをお願いできますか?」

「はい? 店長というか……今のところは自分が一人で切り盛りしていますが」

 やっぱり!

「あっ、あなたが」

 私は椅子から腰を浮かすなり、そう小さく叫んだきり絶句した。

 あの、クソ親父!

 園芸家の誇りとか、生命あるものを手折る罪深さとか、青臭い理想論を散々子供に吹き込んでおきながら、いきなり主旨替えをして花屋を開いたのは、若い女を囲うため!?

「あの、どうしました?」

「この店の、だって……ええと、オーナーは、つまりその、あなたを」

 整理のつかない感情に翻弄され、私がしどろもどろになったその時、

「ククッ」

 突然、脇から今度ははっきりとした笑い声が聞こえた。

「誤解だって」

 制服姿の彼女は、右手を胸元にあてて笑いをこらえながら、首を細かく左右に振る。

「な、なにが」

「だって、店長って男の人だから」

 彼女はそう言ったきり、これ以上は無理、とばかりにテーブルに突っ伏す。そしてヒクヒクと震えるように声もなく笑い続けた。

 ……男?

 予想だにしなかった彼女の指摘に、私は遠慮も忘れて目の前の顔をマジマジと眺めた。

 え、うそ、ありえなくない?

 これが、男?

かすみさんも、失礼な」

 そんな、でも、確かにそう言われてみれば、

 声はハスキーだし、シャツもよく見ればメンズっぽいし、胸ないし。

「本気で女性に間違えられた経験は、これまでそう多くはないんですが」

 彼は、私が動揺している理由を察して軽く苦笑した。おそらく本人にも、自覚があるのだろう。つまり、幾度かは間違えられた過去がある、という意味だから。

「ですが確かに、自分がこの店の店長で、男です。紛らわしくて申し訳ないのですけど」

「いえ、そういうわけでは、べつに」

 どうやら少々気分を害した様子の彼に、私は小さく手を振った。

「少しびっくりしただけで、なんていうか、そういう雰囲気を感じなかったし」

 その手の人たちのお店なら、仕事のつきあいで何度か入ったことがあったし、そっち系の知り合いだって幾人かはいる。

 しかし、彼にはそういう気配が皆無だった。だから、つい誤解してしまったのだ。

「ごく、自然で馴染んでいたから」

「そりゃ感じない筈です。自分は別に、女装しているわけじゃありませんからね」

 だが私の言い訳に、彼の苦笑はより深くなる。口調も少し変わった。どうやらなんのフォローにもなっていなかったらしい。

「店に出るときは、清潔感のある格好を心がけていただけなんですよ。これでも」

「店長さぁ、やっぱり髪の毛切れば? せっかく綺麗なのにもったいないけど」

「そうですね。もういっそスキンヘッドにでもしましょうか」

 ……今度は尼さんと誤解されたりして。

 目の前の、男としては欠点ともいえるほど整った目鼻立ちを眺めながら、私はぼんやりと考えた。もちろん現実逃避だ。

「それで、ご用件は? ウチを喫茶店と勘違いしたのは入ってから後のようですし。フラワーショップ深尾ふかおに用があっていらしたのでしょう」

 いけない。

 私を見つめるその静かな、だが力強い眼差しに気づき、我に返る。

「それは……花を用意していただきたくて」

 結果、動揺した私は、とっさにそれまで考えてもいなかった台詞を口にしていた。

「観光でいらした方が? どのような花をですか? 花束とか?」

「ええ。つまりその、お墓参り用の仏花を」

 場を取り繕うための苦しい言い訳だったが、しかしいずれ仏花が必要なのも本当だ。

 その花を用立てるとしたら、やはり父の遺したこの店が相応しいだろう。

「一対、お願いできますか? 出来合いがあるならそれでも」

「そうですか」

 けれど、私のそんな注文に、なぜだか彼はひどく淡泊だった。

「ですが、申し訳ありません。残念ながらウチは、仏花はやっていないんです」

 穏やかに微笑みながら、しかし当然のようにあっさりと私の注文を断る。

 え?

 花屋なのに、仏花はない?

 私は告げられた返答の意味がすぐには理解できずに、目を白黒させた。

 だって、ありえないでしょ。お仏壇やお墓の花を扱わない花屋なんて。

「おねえさん。この店で花を買うのは大変だよぉ」

 戸惑う私に、先ほどの女子高生が再び親しげに声をかけてくる。

「なにしろここは、最近酒田じゃ評判の『注文の多い花屋』だからさぁ」

「失敬な。ウチは平凡な花屋です。客を身ぐるみ剥いだりしていません」

「平凡? ようやく注文が入ったかとおもえば、道端に生えていそうな雑草をアレンジして怒られたりしてるのに? 第一、普通の花屋はお客さんにアレコレ注文つけないって」

 どうにか爆笑状態から復活したらしい彼女は、彼と親しげに言葉を交わす。おそらくは、この店の常連なのだろう。

「お任せで花が欲しいなら店まで花瓶もってこいとか、あり得ないでしょ」

「あれは! ……少なくとも、どんな花器に生けるのか判らなければ、ふさわしい花を見繕うなど不可能だからです」

「だから、そういうレベルでのちゃんとした花なんて誰も求めてないんだって。お客の懐具合にあわせて、適当に儲かる花を売りつければ済む話じゃない」

「そんな真似をしたら、もう二度と来てくれないかもしません。小売業は、顧客満足度が一番大切なんだそうです。アレンジを飾る場所が確認できない以上、せめて花器に合う花を選んで差し上げるべきです」

「花瓶もって出直してこい、って追い払われて、満足するお客さんっているのかなぁ」

 なるほど。

 さも可笑しそうに首をひねる彼女に、私はなんとなく状況を悟った。

「あの、そんなに凄い花でなくていいんです。簡単なブーケのようなもので」

 どうやらここは、ちょっと困った方向に頑張っちゃってる、こだわりの店らしい。

 まぁ、あの人が始めるには、らしいったららしいけど。

「仏様の花は菊がメインで、とかありませんから。奥に並んでいる可愛い花で、チャチャッと花束みたいにしてもらえれば」

 話を急ごうと、軽い気持ちでそう告げると、

 あれ、ひょっとしてヤバかったかな、今の。

 その一言で、店内の空気が一変したのは私にもわかった。

「チャチャッと作る、ブーケのような、花束みたいな仏花、ですか」

 ハァ、とため息をついて女子高生が小さく肩をすくめる。ピキッと、彼のこめかみに何かが走るのが見えた気がした。

「申し訳ありません。自分はいかんせん不器用でして。お恥ずかしい限りですが」

 口調と表情はあくまで変わらず丁寧に。けれど、妙に寒々しい気配をまとって、彼は私に真正面から向き直った。

「そもそも仏花というのは……いえ、そういったご用でしたら、仏花の得意なお花屋さんを紹介しますので。そちらへどうぞ」

 そして、

「あなたにお作りできる仏花は、残念ながら当店にはございません」

 それから有無を言わさずに、彼は私を店から追い出した。



「お姉さん、お姉さん」

 なんだって、こんな、

 店を出たあと、あまりといえばあんまりな、想定外の成りゆきに、私はアーケードの片隅でしばらく呆然としていた。

 ひとまずは、単なる客として偵察、の予定だったけど。

 それなのに、

「待って」

 すると、遠くから声と共に駆けよってくる人影があった。先程の女子高生だ。

「よかった、間に合って」

 彼女は膝に手をあてて荒い息をつくと、私の顔を見あげた。

「さっきのアレ、少しだけ説明しておいた方が良いかな、と思って、それで」

「わざわざ? ……ありがとう。でも気にしていなかったのに。チャッチャッと、なんてお願いした私が悪かったんだから」

 私は自嘲した。

 作り手側の気持ち。理解しているつもりだったのに、いつの間にか忘れていたなんて。

 あの頼み方は、確かに私が間違っていた。

「彼が気を悪くしたのも、無理ないわ」

「気づいてたの? なら安心だけど、でも……だからって、諦めないでね」

 彼女は心配そうに、私を見つめる。

 この子はどうしてわざわざここまでしてくれるんだろう。あの店の常連みたいだけど、もしかして彼にアレなのかな? ちょうど年上が格好よく見える歳頃だし。

「あれで悪気はないから、っていうか、どうせ今頃どっぷり自己嫌悪に浸ってるだろうし。見た目よりずっと打たれ弱いから、あの人」

 そのくせ、次もやっぱり素直に仏花を作ってはくれないだろうけど、と彼女は笑うと、グルグルと勢いよく腕をまわした。

「しばらくは出禁だろうけど、めげずに通って。そうすれば絶対に大丈夫だから」

 へ? 出禁?

「じゃ、またお店で……当分は酒田に居るんでしょ」

 そして、大きく手を振ると、現れた時同様に、今度は勢いよく走り去っていく。

 揺れる制服の短いスカートを見送りながら、私は声もなく立ちつくした。

 出禁? このご時世に?

 銀座の名門クラブだって、払いさえ確かなら今どきは滅多に……それが、こんなド田舎の花屋の分際で、客を出禁、って。

 私は、相変わらず人の気配のない商店街の片隅で、ギュッと強く掌を握りしめた。緊張から汗ばんでいた手が、小さく小刻みに震えだすのが、自分でも判る。

 その理由は簡単だった。



 なんて店なんだろう、まったく。

 昼間の一件について本格的に怒りがこみ上げてきたのは、小さな飲み屋で地酒を一杯ひっかけて、ホテルに戻ってからだった。

 むかつく、あり得ないでしょ。

 そりゃ、私の言い方が間違っていたけど。あれは最低だったけど。だからって、仮にも客にむかって、あんな対応。

 持参にしたスウェットに着替え、ベッドに座りこむと、枕を勢いよく殴りつける。

 花屋の分際で出禁ってなに、出禁って。だいたい仏花を作り置きしてない時点で、生花店としてなってないでしょ。

 そして私は、窓際のテーブルに置いた松の鉢をチラッと眺めた。

 今日、店を偵察して、問題がなさそうなら次回にはこの鉢について相談するつもりだった。でも店も店長も問題はありまくりだ。当分、私が面倒を見続けるしかないだろう。

 ここへはかなり苦労して携えてきた、よじれた皮が長い枯れ木にへばりついた奇っ怪な松の鉢は、あの人の遺骨や遺言状と共におじさんの手で届けられた遺品だ。

 ただ、添えられていた文章の真意は、まったく理解できなかった。

 絵はがきと同じ筆跡からして、父の肉筆なのは間違いなさそうだけれど。

 こんな鉢、理由もなく大事にしてくれ、ろって頼まれても困るのよね。



「店長はいるかしら」

 翌日、私は再び店に乗りこんだ。

 昨日の旅行者然とした生成のワンピースとは違う、ブランド物のスーツに身を固めて。社会人になって以来すっかりなじんだ、ここぞという時の戦闘服だ。

「仏花を一対、求めに寄られたにしてはずいぶんと物々しい雰囲気ですね」

 午前中だからか、昨日の女子高生の姿はなかった。かわりに、やはり常連らしい老婦人が二人、椅子に座って煎茶を楽しんでいる。

 彼は二人の話し相手をしつつ、シリンダーの水替えをしていた。手にしたガラス器を置くと、苦笑しながら私へと向き直る。

「ご用件を承りましょう」

「この店のオーナー、先日亡くなったわよね」

 私は単刀直入に切り出した。

深尾昌伸ふかおまさのぶ、で間違いないかしら」

「はい。よくご存じですね。もしかして」「私はその深尾の娘です」

 彼の返答を遮って、すばやく、きっぱりと断言する。

 深尾、という名字を口にする瞬間、少しだけ苦みを感じた。

「離婚した母の元にいるので、今の名字は違いますが。そして、これがあの人の死後、私のもとに届いた書類です」

 私は傍らで息をのみ、声もなく固まっている老婦人二人にかまわず、水戸黄門の印籠のように書類の束を彼につきつけた。

「確認してください。この店の権利書類、一式です。あの人の遺言だそうです。私にこの店を譲る、というのは」

 一体どういうつもりで、こんな店を私に遺そうと考えたのか。もはやそれを問いただすことは不可能だが。

 おじさんを介して、書類を私に届けてきた相手は弁護士だった。だから、法的に有効な遺言状にそう記されていたのは間違いない。

「だから……案外、驚いていませんね」

 何故だろう。私は眉をひそめた。驚愕する傍らの二人とは対照的に、彼の態度は予想外に冷静だった。

「いえ、驚いていますよ充分」

 ガーベラの束を手に、とてもそうは見えない表情で彼は私にむかって頷く。

「昌伸先生が、いずれこの店を自分の娘に、とのご意向だとは察していましたが、まさかその相手が貴女だったとは……そもそも、ずっと先の話のつもりでしたし」

「じゃ、あなたがあの深尾さんのお嬢さん? まぁ!」

 だが、態度に変化のない彼とは対照的に、二人の老婦人は状況を理解するなり勢いよく立ちあがった。

「言われてみれば、確かに目元とかよく似てらっしゃるわ。……この度は謹んでお悔やみ申し上げます。本当に残念だわ。貴女のお父上はとても植物にお詳しくて、この店に来るのは最近、私達の何よりの楽しみだったから」

「私たち、お父様にはとてもお世話になったの。長年、植物学の教授でいらしただけあって、庭木の手入れから新鮮なゴボウの選び方まで、植物に関することなら何でも丁寧に教えてくださったのよ。いつもお優しくて親切な、素晴らしい方でいらしたわよね」

「あ、はい。それは……ありがとうございます。生前、父がお世話に……いえ、私はお恥ずかしい話ですが父とはあまり……」

 私は慌てて、生前の父親と親しかったらしい彼女らと挨拶を交わした。

 ふーん。

 二人とも、歳の割にはあか抜けていてお洒落だ。かつ品が良い。あの偏屈な男が外では社交的で、意外と女性受けが良い、とは知っていた。だが、それを実感しても、あまり嬉しくはない。

「父はその、家を離れても追いたい目標があったわけで、それを娘だからという理由で私が邪魔するわけには」

「あら、邪魔だなんて。男の人は幾つになっても娘が可愛いみたいよ。ウチのなんか……でもそうね、深尾さんはちょっと違うタイプだったかしら」

「でも昔はどうあれ、今はこうして酒田までお店を継ぎにいらしてくださったんでしょ? 深尾さんもきっと喜んでるわよ」

「……あの、私は」

 そして日本中、いや世界のどこでも、歳を経たご婦人の強引さは変わらないのだろう。

「ククッ」

 これでお店も安心ねと手を取りあって喜ぶ二人に、私は気圧されて黙りこんだ。だが、背後から聞こえてきた忍び笑いに我に返る。

「いや悪気はないんですよ。ただ、昌伸先生のお嬢さんらしいなって」

 私が無言で睨みつけると、彼は手を振って愛想笑いを浮かべた。

「あの方も、そういうタイプでしたからね」

 そういうタイプって、どういうタイプよ。

 なんと言い返したものか、言葉を探している間に、彼は手際よく花を二組用意し終える。私との会話に充分満足した二人は、渡された花束を手にご機嫌で店を出て行った。

「手慣れているのね。ご婦人方の扱いに」

「そういう商売ですので」

 私の嫌みを、軽く肩をすくめて受け流すと、彼は表情を改めた。

 どうぞ、と私に椅子を勧め、自分もテーブルの反対側に座りこむ。

「さて、それでは一体どのようなお話しでしょうか。お嬢様」

「まず、お嬢様はやめてください。お互い、そんなに歳は違わないでしょ」

「昌伸先生のお嬢様、という意味だったんですけどね。でなければ」

 彼はそこで言葉を切った。

 私なんかの話を聞くいわれはない、か。

 口に出すのを躊躇ったその続きは容易に想像がついた。が、怯むわけにはいかない。

「こちらの用件は簡単です。まず、あの人の思惑は見当もつきませんが、これもなにかの縁なのでしょう。私はひとまず遺言に従ってみようと思います」

 言外に、いずれ店は潰すかもしれない、と匂わせながら、私は空いたテーブルに、先ほどの書類を広げた。

「もっとも、店を継いだからといって、いきなり何かを変えるつもりはありません。生花店などまったく門外漢ですし。基本、これまで同様に続けていただければ結構です。ただ、若干の指示はさせていただきます」

 私は広げた書類の何枚かを彼へと差しだした。それは私が新たに用意した契約書や、細々とした内容を記載したまとめ書きだった。

「待遇等も継続したいのですが、条件が不明なので空白にしてあります。以前の契約書を……ここまでの話に、質問はありますか?」

「そうですねぇ」

 彼は書類に視線を落としながら、かすれた声で呟いた。先ほどまでとは、様子が随分と違う。愛想がよければ女性かと見間違うほどだが、こうして慇懃な態度になるとむかつく優男にしか見えない。整った容姿がよりいっそう、小憎らしさを倍増させている。

 おそらく、こちらが地の姿なのだろう。

「幾つもありますが……率直にお尋ねしますけど、店に関する指示、とは具体的には?」

「別に難しいお願いをするつもりはありません。今のところはただ一つです」

 そこからきたか。

 私は最上級の笑みを浮かべつつ告げた。

「お客様はみな等しく、大切にしていただきたい……先日のような、理不尽な販売拒否は止めてください、それだけです」

「なるほど、仰りたいことは判りました」

 彼は小さく頷くと、手にしていた書類を何気なくテーブルの上に投げ出した。

「でしたら、お断りします」

 柔らかくかつ冷たい微笑みをうかべながら、彼はきっぱりと断言する。

 ……なっ!

 その明確な拒絶に、私は絶句した。

「まず、幾つかの点で誤解があります。昌伸先生は確かに書類上は店のオーナーでしたが、必ずしも単なる経営者と被雇用者ではありませんでした。共同でこの店を運営していた、というのが実際のところです」

 ルージュもなしに美しく輝く唇から、彼は淡々と告げる。

「これは先生が亡くなられたから言っているわけではありません。調べていただければはっきりするはずです。店を始めるにあたっては、資金をあの方が、労働力を自分が提供する約束になっていました」

「労働力を提供、というのは」

「店の状況にあわせ安月給、場合によっては無給で働いてきた、という意味ですかね」

 彼は口調を崩し、少しバツが悪そうに顔をしかめた。

「もっとも、開店してからしばらくの間、店に寝泊まりして部屋代を浮かしていた時期もありますし、まったく対等だったと主張するつもりはありませんが」

 そうして自嘲気味に笑うと、意外な愛嬌があった。

「現実問題として、まっとうな条件で人が雇えるほど儲かってはいませんよ、この店は。自分が最低賃金以下の条件で働いてきたから、なんとか続いているんです」

「……でしょうね」

 私は店内を見回した。昨日はゆっくり眺める余裕がなかったが、よく見ればいろいろ突っ込みどころがある店だ、ここは。

 テーブル脇のシリンダーに入った枝や葉とか、窓際の鉢の小花とか。それらはどれも空き地や河原で普通に見かける植物だった。

「安月給で働くだけでなく、経費節減のために自分で獲ってきてもいますよね」

「雑草も、太田からの取り寄せると高いですから」

 バラやトルコギキョウなどに混じって、お洒落に、可愛らしくアレンジしてあるから気づきづらいが、店内の何割かは、そんな人件費以外原価のからない植物が占めている。もっとも都会でなら、どれもいい値で売れるのかもしれない。見事に飾られたそれらは、入店時にお洒落な喫茶店と勘違いしてしまった原因の一つでもあった。

「そういう状況でしたから、オーナーとしての一方的な指示など、昌伸先生は一度も口になさりませんでした。自分たちは互いに相談しながら、この店を続けていたんです」

 彼は淋しそうな眼差しで、昔を懐かしむように呟く。

 この人はおそらく、嘘は言ってない。事実、そうだったんだろうな。

 彼の言い分に反論しようと思えばいくらでもできた。でも、改めてもう一度、店内を見回せばそんな気はおきなかった。

 確かに、明らかに生花店として普通でないこの店は、彼の語ったような経緯でもなければ生まれそうになかったから。

「でも、それなら昨日、私の注文を受けなかった理由は?」

 しかし、だからといって昨日の彼の狼藉を、無条件で認めることは絶対にできない。

 私はスーツの襟元を軽く緩めると、小賢しい駆け引きを放棄して、率直に訊ねた。

「もちろん、頼み方が悪かったのは謝ります。アレは私が間違っていたわ。でも不愉快な物言いをされるたびに客を追い返していたら、それは花屋として以前に、客商売としてダメでしょ」

「自分も、昨日の対応については反省しましたよ。一晩中」

 私が問いつめると、彼はわずかに視線を窓の外へと逸らした。

「でも、注文を断ったのは決して感情的になったからじゃありません」

「だったらどうして?」

「理由は三つあります。一つは、以前からウチでは普通の仏花は扱っていないんです。これは常連さんに確認してもらってもいい」

「本当に? だって仏花って、通年通して需要の安定した花屋の主力商品でしょ」

「だからですよ。理念的な理由もありますが……権利書を一通り確認しているなら、ウチの成り立ちもご承知ですよね」

 彼は視線を戻し、私を見た。

「この店は、商店街活性化企画の一環として行政から補助をうけています。単年限定契約のかわりに、家賃はほぼタダです。だから開店時に、既存の花屋の売り上げを横取りするような商売は止めようと、昌伸先生と話し合って決めました」

「仏壇かお墓が増えないかぎり仏花の需要は変わらない。だから扱わない、ってこと?」

「そうです。よその客を奪わなきゃ経営が成り立たないなら、新しく花屋を始める意味がない。昌伸先生が退職金をつぎ込み、自分が無給で働く必要なんてないんです」

「なら、そうまでして生花店を開く理由……これまで存在しなかった花需要を生み出したいから、とか?」

 私が少し考えて訊ねると、彼は嬉しそうに頷いた。

「さすがに、昌伸先生のお嬢さんですね」

 お嬢さんはやめて、ってさっき言ったのに。

 だが、彼の言い分も少しは理解できた。

 理想主義がすぎるとは思うが、現実問題として、人間関係の濃密な地方都市で新規出店するならは既存店への配慮は必要だろう。有無をいわさず資金力で押し切れる大規模チェーン店でないかぎり。

 しかし、

「仏花を扱わない理由は判ったけど、だからって、近所で評判になるほど客からの注文を断って、それで店が成り立つと本気で考えているわけ?」

「昨日、霞さんから何か聞いて仰っているのなら、おそらくそれは誤解ですよ。注文を断るなんて真似は滅多にしていません。仏花だって、常連さんに頼まれれば作っています」

 彼は笑った。

「そもそもあの注文では……昨日のアレは注文主が貴女だったからです。特別です」

 特別、だなんて。

 突然、どこか甘さを含んだ声で告げられ、そういう意味ではないと百も承知なのに、つい動揺してしまう。これだから優男ってのはタチが悪い。

 だが、

「あの注文って、どういう意味よ。それが残りの理由? ちゃんと説明して」

「……それくらい判らないオーナーの下では働きたくありませんね」

 えっ?

「そもそも、先ほどの指示に関してですが、勘違いしないでください。一般的にオーナーの立場が強いのは、従業員がその職を失いたくない、と望んでいるからですよ」

 彼はそれまでの穏やかな口調から一転して、冷たい声で告げた。

「自分は、そこまでの執着はありません」

「……父が、もう居ないから?」

「ご明察。そして、貴女は生花店に関しては素人で、自分と同条件で働く経験者などまず現れないでしょう。つまり、この店が続くか否かの決定権は自分にあります」

「私が、花屋をたたむといったら? なんの思い入れもないんだし、こんな店」

「もし店を続けたくなったら、次は自分一人でこの場所を借りますよ。すでに実績がありますからね。今度は昌伸先生のお力添えがなくても、認めて貰えるでしょう」

 なるほどね。

 私は感情的に言い返しそうになるのを、唇を噛みしめてこらえた。

「とはいえ、手続きが面倒なのも事実です。だから貴女にこの店を続ける意思があり、昨日の注文のなにが問題かを気づけるのなら、変わらずこの店で働き続けてもいい」

 この、偉そうに。何様のつもりよ!

「承知しました」

 私は最上級のクライアントに対するかのように、にっこりと微笑んだ。

 腹立たしい時ほど笑え。昔の上司にたたき込まれた、広告屋としての鉄則だ。

「先程も言ったとおり、あの人の店に執着などは皆無ですけど、かといって物知らず呼ばわりは不本意です。あなたがなぜ仏花を作らないのか、突き止めて見せましょう」

「やっぱり先生のお嬢さんですね。負けず嫌いだ。よく似ている」

 そんな私を眺めて、彼は楽しそうにクスッと笑う。なにもかも予想通りとばかりに。

 その余裕が憎たらしくて、私は書類をカバンに押しこむと、足音高く店を後にした。



 この街へは、気軽な旅行気分で来た。

 その気になれば、夕方からでも東京へと帰れる距離の街である。だからホテルを吟味などせず、予約サイトのお勧めに素直に従った。今となっては、それを少し後悔している。こんなに長期滞在する羽目になるのなら、リーズナブルなビジネスホテルにしておけばよかった。観光気分でホテルの施設や料理を楽しむ心の余裕など、どこにもないのだから。

「何がいけなかった、っていうのよ」

 ベッドに寝転がり、天井を眺める。

 さほど長い会話ではなかった。一言一句完璧に記憶してはいないが、告げた意思ははっきりと覚えている。彼からの返答も。

 その内容についてネットを検索して一日。図書館で、花屋について調べて一日。

 仏花の注文を拒否された原因捜しは、あっという間に手詰まりになった。

 それから、はや一週間がたつ。

「チャチャッとなんて言った意趣返し……はあり得ないのよね」

 ベッドの中で、私はもう幾度目か判らない、脳内での一人ディスカッションを繰り返した。人当たりはいいくせに神経質と、扱いの面倒そうな男だが、どこか育ちの良さが漂っている。そもそも答えが存在しない、なんて底意地の悪い真似はしないだろう。

 正解は必ず存在する。私の手の届く範囲に。

「花屋で仏花を注文して断られる理由、か」

 あの男も認めたように、仏花は花屋の主力商品である。母の日やクリスマスなど、花の売れるイベントは他にもあるが、お盆とお彼岸の需要も加えれば、一般的な生花店の売り上げの半分は仏花らしい。地方都市ならば、その比率はさらに高まるだろう。

 調べて知ったことだが、そもそも、この国の生花店は神社仏閣の門前で花木を商う香具師やしが発祥だそうだ。つまり仏花は伝統的にも生花店が扱うべき商品である。

 それを、あの店は売らないという。

 既存店との競合を避ける、という理念と処世術が根底にあるとしても、あまりにも極端すぎる対応だ。

「売上げが少数なので、利益にならないから扱ってない……ううん、数が出ないのは他のアレンジだって同じだろうし。作り置きしないなら、仏花用とアレンジ用の花材を区別する必要はないんだし」

 昔は、ソテツの葉やリアトリス、金盞花きんせんかなど定番の花材があったらしい。だが今では大概の花屋が、店にある植物は構わず何でも仏花に用いている。私の注文だって、花の種類は問わずに、だった。

「そもそも、私の注文だけは受けられない、って明言しているんだから……きっと、何か気に障る真似でもしたんだろうけど」

 私はため息をつきつつ、身をよじってベッドの脇へと視線を向けた。

 よじれた樹皮が曲がりくねった枯れ木に張り付いた、一本の松。

 松としては極小サイズだが、盆栽としてはかなり大型で、部屋備え付けの机の上は全て占領されている。そして、周囲への存在感は半端なかった。これを列車で酒田へと持ちこむのはかなりの難儀だった。

 そもそもは、父に遺されたこの松の正体を訊ねに来ただけ、だったのに。

 初日の印象が強烈すぎて、つい新オーナーだと肩肘張って乗りこんでしまったが、あの店に未練があるわけではない。唯一の店員が辞めたいというなら、潰しても構わないのだ。その後、だれがどこでどんな商売を始めようと、私の知ったことではない。

 そもそも彼が、この松の由来を承知しているとは限らないのだし。

 それなのに。

「仏様への花束を作ってくれない理由、かぁ」

 負けず嫌いで意地っ張り、だっけ。おじさんの指摘した父との共通点が、今更ながら蘇る。どうしても答えにたどり着かないと納得ができない理由は、きっとそれだ。

 たとえ結果として店をたたむにしても、このまま引き下がるわけには絶対にいかない。

 でも、これだけ調べて判らないなら、あとは誰かに尋ねるしかないけれど。

 花屋について一番詳しいのはやっぱり花屋だろう。しかし、市内の同業者に問い合わせるのは間抜けだ。いっそ一旦東京に引き上げて、出直すのが最善かもしれない。

 だが、私の注文を拒否する理由が、花屋一般の問題でなかったらそれも無意味だ。

 こんな時、気の利いたアドバイスをくれそうな……あの頃はよかったなぁ。

 ベッドに寝転がったまま思案する。代理店に勤めていた時なら、相談相手には不自由しなかった。だが、理由も告げず一方的に辞めておいて、臆面もなく尋ねることは出来ない。

 今更ながら、上司や先輩には恵まれていたのだなぁ、と実感する。多少は例外もあったけれど。

 他にあてになりそうなのは……

 そうだ、あの時の!

 ようやく相談相手の心当たりが思い浮かび、私は勢いよくベッドから起きあがった。

 店の事情に詳しそうな、あの子なら。

 大急ぎでパジャマを脱ぎすて、昨日、洗ったばかりの着替え一式を手にとる。

「これで、花を束ねるのが下手だから、なんて情けない理由だったら許さないからね」

 そして私は、おもむろに着替え始めた。



「もしかして、この前お店に来た? ……よく、通っている学校がわかりましたね」

 互いを発見したのは、彼女の方が早かった。

 彼女は一緒に歩いていた友達に一言告げると、校門から少し離れた場所で待っていた私のもとへと駆けよってくる。

「どうにか、その制服を覚えていたから」

 私は微笑んで、彼女の胸元を指さした。商店街にある洋品屋の店頭には、市内の中高、全ての制服が並んでいた。さすが地方都市だ。

 もっとも、顔を見分けられるかは正直、自信なかった。可愛かったのは間違いないのだが、美人は大概没個性だ。彼女が気づいてくれて本当によかった。あの日と同じワンピースを着てきた甲斐があった。

「どうしたんですか? まだ帰ってなかったなんて。一週間も見て回る場所なんてありませんよね、この街に」

「あら、当分居るんでしょ、って言ったのはあなたじゃない」

 あの男には霞、と呼ばれていたっけ。

 手にしたカバンのタグに、名字が記されていたのでチェックする。

 新野にいの。新野霞ちゃんか。

「予想していたんでしょ? こうなるって」

「まさか。だって次の日に出禁は解かれたんですよね。……聞きましたよ。お姉さんがあの店の新しいオーナーだなんて、さすがにびっくりです」

 どうやら私については、しっかり伝わっているらしい。

「このままだと、彼に認めてもらえそうにはないけどね」

 私は苦笑しつつ、ちょっと時間いい? と霞ちゃんを誘った。

 彼とあの店について理解するには、常連に頼るのが一番の近道に違いない。



「校則とか平気? 帰りに喫茶店に寄って」

「大丈夫です。っていうか、そんな心配を本当にする人、初めて見ました」

 霞ちゃんは呆れると、堂々とアイスカフェオレを注文した。私も同じものを頼む。

「むしろ、お姉さんこそいいんですか? ずっと酒田に……東京でお仕事、していらっしゃるんですよね? それとも芸能人やモデルみたいな、時間に都合のつくそっち系?」

「誰がよ。それとお姉さんはやめてくれる?」

 とびきり可愛い子にからかわれるのは、なんとなく面白くない。お姉さん、とことさら年齢差を強調されるのも悔しいし。

「芹沢瞳子よ。芹沢でも瞳子でも、好きな方で呼んでくれていいから」

 私は前置きなしに、話を切り出した。

「それより、新野さん? はやっぱりあの店の常連さんなのよね」

「じゃ瞳子さん、で。あたしの事も霞でいいですよ。あのお店ではそう呼ばれていますから。……ええ。たぶん、そんな感じです」

 霞ちゃんは曖昧に頷いた。

「なら、教えて欲しいことがあるんだけど」

「なにをですか? 個人情報についてはちょっと、そう簡単には」

 困ったように、顔を伏せる。

「昔、彼女は居ないんですか、って訊ねたお客さんに、俺の恋人は花たちです、だなんて嘯いていましたけど、それも本当かどうか」

「誰も興味ないわよ、そんなこと! 別にメアドとか知りたいわけじゃないから。教えて欲しいのは店長の人柄とか、店の特徴とか」

「例の課題の回答じゃなくて?」

 悪戯っぽく、チラッと舌先を見せて霞ちゃんは笑った。

「この街に留まってる、ってことはまだ諦めてないんですよね?」

「そこまで聞いているわけ? ……訊ねないわよ、答えなんて」

 私はハァ、とため息をつくと、椅子の背もたれに寄りかかった。

「確かにヒントは捜しているけどね。意味ないでしょ。カンニングなんかしても」

「ですよね」

 これは正解に意味があるテストではないのだ。誰かに回答そのものを教えて貰うわけにはいかない。むしろ、聞いたら負けだ。

「もっとも、あたしも理由なんか見当がつきませんけど」

 霞ちゃんは嬉しそうに少し表情をゆるめた。

「けれど、でしたら何が知りたいんです?」

「とりあえず、あのいけ好かない男の鼻を明かせる情報だったら、どんなものでも」

「……本音が漏れてますよ、瞳子さん」

 霞ちゃんは笑うと、小さく肩をすくめた。

「店長って女顔ですけど、滅茶苦茶イケメンですよね。あれで無加工だそうですよ。唇が荒れやすいからリップだけは塗ってるって」

 確かに、あの顔には驚いた。けど、

「開店当初はウチの男子が何人か、店長目当てに通っていました。正体も知らずに」

「ふーん。そりゃご愁傷様に……って、だからだれもそんな話きいてないってば!」

「でも安心してください。隣に並ぶのはちょっと女として避けたくなるタイプだから、意外とモテないみたいです。観賞用、ってのがウチの女子の一般的な評価かなぁ」

「なにを安心するのよ。だから、知りたいのはそういうエピソードじゃなくてね」

「お花屋さんとしてなら、何かと型破りだって事くらいです。自分はフローリストじゃなくてフラワーデザイナーだ、って公言しているのが理由なんでしょうけど」

 その二つの定義の違いはよく知らないが、ニュアンスはなんとなく理解できた。

 店内の雰囲気がどこか花屋っぽくないのも、恐らくはそのあたりが理由なのだろう。

「前オーナーとはかなり以前からの関係で、いつだったか、あの人を慕ってこの街に来たって言ってました。……というわけで、庄内出身じゃないので、その正体や経歴については誰も知らないんです」

 相手が地元民なら、幾らでもうわさ話が集まるんですけどね。

 霞ちゃんは悔しそうにそう呟いた。

「だから、めぼしい情報を掴んだら、逆にこっちが教えてほしいくらいで」

「本当に知らないの? それ以外になにも?」

「えっと、個人的には他にもまぁ多少は。でも、瞳子さんの参考にはならないと思うから」

 実質初対面なんだから、仕方がないか。

 語る態度に違和感を感じた私の追求に、霞ちゃんは曖昧に笑う。全てを教えてもらえないのは残念だったが、黙っていることは素直に認めているわけで、不愉快ではなかった。

「じゃ、お店については? 『注文の多い花屋』って、本当にそう呼ばれているの?」

 店長についてそれ以上問いつめても無駄だろうと判断し、私は話題を変えた。

「彼、日頃は注文を断ったりしてないって断言していたけど」

「数少ない常連にそう渾名されているのは本当ですよ。確かに、注文を問答無用で断るのは珍しいですけど」

 私が訊ねると、霞ちゃんは頷いた。

「あの店で花を買うのは面倒で……たとえば、花瓶に生ける花束を頼むとして」

 霞ちゃんは身を乗りだし、身振り手振りを加えて力説する。

「その時、気に入ったこの花とこの花をメインに、ってお願いすると『お客様、それはお勧めしません。他の組み合わせの方が』ってあっさり拒否ったりするんですよ」

「どうして?」

「一方は三、四日で枯れるけど、もう一方は二週間は咲く。自分で束ねなおせる人以外にその組み合わせの花束は売れない、って」

「……親切、なのかしらそれって」

「他にも沢山ありますよ、似たような逸話は。お客さんは構わないって言ってるんだから、気にせず売ればいいのに。だからいつまでたっても流行らないんですよね。せっかく、生ける花はとっても綺麗で格好良いのに」

 なので『注文の多い花屋』なんて渾名になったんです、と霞ちゃんは笑った。

「でも、人の好き嫌いとか、お花と関係のない理由では注文を断らないと思うから。瞳子さんの場合も事情があるんですよ、きっと」

「どうかしら。私以外からの注文だったら仏花を作る、って明言していたけどね」

 私は反論したけれど、内心では認めていた。霞ちゃんの推測はおそらく正しい。

 だとしたら、やっぱりあの時の注文が……なにが、理由なんだろう。

 考えこんだ私が黙りこむと、霞ちゃんは身を乗りだして興味津々に訊ねてくる。

「で、それを知りたい瞳子さんっていったいどこから何のために来たんですか? あの店の新オーナー、っていつのまに……」

「あー、えーと、それはいろいろあるんだけど……また、今度ね」

「えーっ、それってアリですかぁ? あたしはちゃんと質問に答えて大切なヒントまであげたのにぃ。自分の事情は秘密、だなんて」

 脳裏で、あの日の会話を再現する私の前で、霞ちゃんは唇を尖らせる。もっとも、口調と態度ほどには気分を害していないようだ。

「また、って約束を破って黙って酒田から帰ったら、絶対に許しませんからねぇ」

 私はハイハイ、と頷いた。もう一度、喫茶店で一杯奢れば済むなら安い条件だ。

 それから、霞ちゃんは一方的にとりとめもない雑談を始める。

 もっとも、私の判断はいささか早計だった。霞ちゃんはその後、カフェオレをおかわりしたあげく、ケーキにパフェまで追加した。



 仏花。お供えの花。

 墓地用と仏壇用は名称としてはあまり区別されない。一対で飾られる場合が多い。

 古くは輪菊がメイン花材に選ばれたが、現在では多種多様な花が用いられている。

 生花店では、そのまま花立てに飾れるよう、あらかじめデザインされた状態で束ねて売られている場合がほとんどである。


 花束。

 草花を複数束ねた物。


 ブーケ。

 フランス語で、花束。


 つまりは……そういうこと、なのかしら。

 深夜。

 私はベッドに寝転がったまま、ようやくある一つの結論にたどり着いた。

 荒唐無稽で、正解の自信はまったくない。

 ただ、延々と考えた挙げ句、どうしても他に可能性が見いだせない。ならば、それに賭けるしかなかった。



 再訪時にそれはようやく見つかった。小さな看板だった。気づくわけがない、と思う。

 『フラワーショップ深尾』とシンプルに刻まれたおそらく欅の一枚板は、店の入り口脇、今日は柳の枝が盛大に盛られた壺の後ろにひっそりと下げられていた。

「まるで隠しているみたいね、この看板を」

「隠しているんですよ」

 店の前で呟くと、背後から返答がある。

 私はびっくりしてふり向いた。

「昌伸先生、前オーナーの希望です。俺の名前は目立たせたくないと。自分の意見をはっきり示すことは少ないかわりに、一度口にしたら譲らない方でしたからね。……お昼くらい食べに出てもいいじゃないですか。どうせ滅多にお客さんは来ないんですから」

 店の鍵をあけながら、彼はバツが悪そうに言い添える。

「そりゃ仕方がないと思うけど、なんで私に会うなり言い訳をするの?」

「認める認めないは別して、書類上、現オーナーはあなたですよね」

 どうやら、店を閉じて外出していたのが後ろめたかったようだ。理由は理解できたが、こんな時だけオーナー扱いされても困る。

「で、答えは見つかりましたか?」

「その前に確認させて」

 店に入り、エプロンを身につけるなり訊ねてくる彼に、私はふり向いた。

「もし、この質問に私が正解したら、あなたは店長を辞めないのよね」

「ええ、それで結構ですよ。でも……まさかこのお店、本当に続けるんですか?」

 彼は意外そうに、首をひねる。

「てっきり、遺産の整理をしに酒田にいらしたとばかり……最初にちゃんと教えましたよね。赤字ですよって、この店」

 自分がろくに給料を貰っていないから、続いているだけで、と彼は苦笑した。

「でも、たとえ家賃は払っていなくても、さすがに保証金は納めています。つまり、潰せば百万は戻ってきますが」

「お金の問題じゃないの」

 勢い込んでそう口にしてから、え? と自分でびっくりした。

 そもそもなんのために、私はここまで来たんだっけ。

「とにかく、約束して。これから先もこの店で働き続けるって」

「わかりました。約束します。……未来永劫、とまでは誓えませんが」

「さすがにそこまでの忠節は求めていないわよ。じゃ、答えるけど」

 返事を確認すると、私は小さく息をのんだ。

 大丈夫、絶対に。自分に言い聞かせる。

 この答え、間違ってはいない筈だ。というか、他に可能性は残っていない。

「あの時、私はあなたに注文したわ。花束やブーケみたいに仏花を作って、と」

 彼があくまで誠実に私の注文に応じようとしたと仮定して、帰納的に考えるならば、

「けれど、それは不可能だった。だからあなたは注文を断った」

 それは十日がかりで、ようやくたどり着いた推論だった。

「なぜならば、仏花は花束やブーケではなく、あくまでアレンジ――器に生ける花だから。たとえそれが花屋では束ねて売られていたとしても」

 私が渾身の答えを告げると、彼は心底嬉しそうに、そっと微笑んだ。

 おもわず見惚れそうなほど優雅に、美しく。

「花立てに飾る花を、花束のようには作れない。……どう?」

「はい。正解です」

 予想外の反応に、私は微かによろめいた。

 うっ……

 なによそれ、ちょっと反則じゃない?

「もっとも、それは答えの一つにすぎません。今回に限り、注文をお断りした理由がもう一つ残っているんですが……確かにそのとおりです。仏花を花束に分類するのは間違っている、というのが自分の見解です」

 彼は頷くと、やおら店の奥へとふり向いた。

「そう結論づけるには、まず、花束やブーケの定義が必要ですが……そもそも英語やフランス語のブーケ、ドイツ語のシュトラウス、日本語の花束はそれぞれ微妙に言葉のニュアンスが異なります」

 彼は、花の入ったシリンダーを幾つか、店中央の巨大なテーブル上に並べた。まるでカクテルを作り始めるバーテンダーのように。

 それから私の正面に立つと、流れるような手つきで数本の花を抜きとる。

「詳しく説明するとマニアックすぎるので、大雑把にまとめますが、シュトラウスはテクニックとしての意味合いが強いのに対して、ブーケは用途に重きが置かれています。そして花束はデザイン重視、でしょうか」

 右手で抜きとった花を、彼は何気ない手つきで左手に握った。それから次々に、新たな花を引き抜いては、その上に加えていく。

 それらはどれも一見、華やかさに欠けた目立たない花ばかりだった。私には名前の判らない、マイナーな花だ。

 それなのに、

「そして一方で、花器装飾における仏花の定義も実は難解です。……花屋用語としてならば、単純かつ簡単なんですがね」

 ……すごい。なに、なんなのよ、これ。

 いかにも地味な花たちは、一度彼の手に握られた途端、瞬く間に変貌を遂げていった。

「しかし仏花を供花の花、として捉えた場合、その源流をいわゆる生け花の立花、立て花に求めるのはごく自然な解釈だと思います。たとえ花屋でアルバイトが機械的に束ねた花であってもです。デザイン様式はもはや見る影もなく変貌していますが、パラレルを基本にまとめる技法は明らかに立花の、というか古典花の流れの末にあるものですし」

 なんなのよ……花を扱うのが得意、ってレベルじゃないわよ、この男。

 私は、彼の手の中でできあがっていく花の塊から、どうしても視線が外せなかった。

 凄い……怖いくらい。ゾクッとくる。

 そしてこの感覚は、確かに昔、覚えがある。たとえば、自分が尊敬する写真家の展覧会とか。

「では、この両方の定義は一致するのでしょうか。……しませんよね、どう考えても」

「え、えーと、その」

 彼は突然、私に同意を求めた。

 期待に満ちた目で見つめられても、返事などできなかった。彼の手にした花にすっかり魅入られていた私は、告げられた台詞なんてろくに頭の中に残っていなかったからだ。

「用途からいえば、花束もブーケも、束ねて作られた可搬性重視のアレンジ、という意味で用いられるのは希です。シュトラウスであればこの用途を大いに含むんですが」

「……はぁ」

「かろうじてテクニック面でなら、花束といえなくもありません。パラレルにステム、つまり茎を平行に束ねるブーケが一般化したのはここ二十年程度でしょうか。アトランタでのビクトリーブーケが有名ですけど」

 彼の手の中の作業は最終段階に至っていた。右手の細い指先が細かく動いて、左手で握った花のアウトラインを丹念に修正していく。

 束ねられた花や葉に微妙な凹凸をつけ、左右非対称の流れるようなシルエットが崩壊する寸前まで、それは続けられた。

「最近はチェーン店でも、ポージィをパラレルで作るのがごく当たり前になりました」

「以前はどうだったんですか?」

「八十年代までは、花束といえばスパイラル、つまりステムを螺旋状に束ねるのが常識でした。今でも、大きな花束ではまずそうですよ。つまりパラレルに束ねた花束というのはごく近年の流行で、まだ一般的とはいえません。仏花をそれに含めるのは不可能ではありませんが、かなり強引な解釈です」

 最後に彼は、麻ひもをとりだし片側を口でくわえ、その束を素早く結わえた。そして、どうです、とばかりに差しだしてくる。

 危ない……上手すぎる。

 それが、私の第一印象だった。受けとった花を、マジマジと見つめる。

 広告代理店時代は、仕事の都合で花束を注文した。都内でも屈指の高級店で、幾度も。

 しかし、手の中のこれは、

 地味で、穏やかな印象の植物ばかりにもかかわらず……単なる花屋の花束とは、明らかに数段、レベルが違う花束だ。

 植物たちが、主張している。言語化の不可能な、けれど確実に存在する何かを。

「……綺麗ね」

「一応、フラワーデザイナーの端くれですからね。これでも」

 私の短い賛辞に対して、誇ることもなく、当然のように彼は頷く。

「これ、なんていう花たちなの? あまり見ない気がするけど」

「それほど珍しい花材は使っていませんよ。アストランティア、ミシマサイコ、オキシペタルム、アルケミラモリスにセルリア、葉はミスカンサスにアスパラのプロモーサスナナス……どれもあの人が好きだった植物です。季節柄、ステルンクーゲルが入れられないのは残念ですけど」

 名前をあげられても、私にはどれがどれだか、一つも判らなかった。

 私が眺め続けていると、彼はすぐに、対になるもう一つを束ね始める。

「でも、先程から長々と語りましたけど、仏花が花束やブーケと同一視できない理由なんて、実際に作れば簡単に実感してもらえると思いますよ」

「作れば、って私が?」

「ええ。次の機会には、ぜひ」

「それは無理よ。こんなの、私はだってほら、素人だし」

「技術なんかいいんですよ。仏花、とは要するに、故人を偲び供養する花です。ならば一番大切なのは気持ちに決まっています。見知らぬ誰かが束ねた華麗な花より、親しい人からの素朴な花の方が、故人も喜ぶはずです」

 テクニック的なことなら、いくらでも自分がアドバイスしますから、と彼は笑った。

「それが、ウチに仏花を置かないもう一つの理由でもあります。故人を想う人が、好きな花を自由に挿すべきなんですよ、仏様に捧げる花なんて。そうすれば、後から枯れた花だけ抜いて挿しかえることも容易ですしね」

 それは『注文の多い花屋』の由来として聞かされたエピソードを肯定する言い分だった。しかし、もはや窘めようとは思わなかった。

「あと、作れば判るのは、技術的な違いについてもです。パラレルに束ねて構成する一方見のアレンジの場合、手の感覚的には束ねるというより、積み重ねる、ってイメージの方が近いんです」

 対の花は、先ほどよりさらに仕上がりが早かった。それは必ずしも、一つめの花と瓜二つの出来、ではなかった。けれど、

「つまり仏花はまったく違うんですよ、束ねる指や腕の感覚が、いわゆる花束とは」

 彼の手の中にある束は確かに、私の手にしている花と対になるべき姿をしていた。

「だから自分は仏花を、決して花束やブーケと同じようには作れないんです」

 そして、完成したそれを、私へと差しだしてくる。私はそれを受け取りながら、改めて、彼の顔をまじまじと見つめた。

「もっとも、それをその場で素直に説明しなかったのは、ちょっとしたアレってことで」

「そのアレ、がなにより肝心じゃないかしら。お店としては」

「言ったじゃないですか。一般のお客様相手にそんな真似は決してしませんよ。ただ昌伸先生のお嬢さんになら、って」

 もっとも、あの時は単に不愉快だったからで、決して試すつもりなどなかったんですけどね、と彼は苦笑いした。

 彼の釈明に、あることに思い至って、私は訊ねた。

「それじゃ私のこと、やっぱり最初から気づいていたの?」

「はい。昌伸先生のお部屋にありましたからね、小さな写真が」

 こっそりと、でも大切そうに飾ってありました、と彼は頷いた。

「小学校に入る頃のかな。でも全然変わっていらっしゃらないから、一目でわかりました。美人は得ですね」

 どこから写真を、と一瞬憤った私は、続いた彼の言葉に声を失って黙りこんだ。

 どうして、別れ際の写真をそんな大切に。現在の私の写真の一枚くらい、どうとでも手に入っただろうに。

 おじさんに頼んだっていいし、請われれば母だって写真の一枚くらい送ったに違いない。別れた後、母には浮いた話など一度もなかった。何かが相容れず、共には暮らせずとも、決して父を憎んでなどいなかったのだろう。

 確かに……絶対に近況を伝えたりしないで、とおじさんには頼んだけれど。

 なぜ私がそんなお願いをしたか、最後まで理解できずに死んだのだろうか、あの人は。

「なので、花束みたいに、なんて余計な注釈さえなければ作っても良かったんですけど」

「本当に? さっき語っていた店の方針は?」

「自分より、先生と親しかった人はそう多くありませんよ」

 なるほど。

 私はもう一度、手にした花を眺めた。

 彼が束ねた植物からは、確かに深い自然の息づかいのようなものが感じられた。

 園芸家を名乗っていたあの人は、この花が供えられたら間違いなく喜ぶだろう。

芦立三玲あしだてみれいです。できれば三玲、の方で」

「えっ?」

「新オーナーになるんですよね。でしたら店長の名前くらい、覚えておいてください」

 少しバツが悪そうに、視線を逸らしつつそう名乗った彼は、どこか子供っぽかった。

 その表情に妙な安堵を覚える。花を扱う腕前はとびきりだ。けれどそれ以外では、案外歳相応の男かもしれない。

「待遇はこれまで通りで……お金は儲かったとき適当にもらえればいいですから」

「ちょっと待って。雇った以上ちゃんと払うわよ、給料くらい」

「先に、店の資金繰りを心配してください」

 それから私達は少しの間、彼の今後の待遇について押し問答した。

 だが、それもすぐに終わった。他に、優先すべきことがあったからだ。

「じゃ、詳しいことは今度ね。とりあえず、せっかく作ってもらったんだから、今日は」

「それはもちろん、構わないんですけどね」

 私がそう告げると、彼、三玲はなぜか悪戯っぽく微笑んだ。

 なっ、なによ。

 一瞬ドキッとする。そんなふうに笑まれると、今更ながらその女顔は凶悪だった。

「先ほど、今回に限って注文を断ったもう一つの理由があるって、覚えています?」

「もちろん。でもまだ他に何かあるの?」

「ええ。……花を注文して、一体どうするつもりなのかなって。位牌についてはご存じないようですし。旅先で仏花など買っても邪魔なだけですよね。だとしたら……もしかして、昌伸先生のご遺骨、お持ちになられているんじゃないんですか?」

 ……どうして判ったの?

 彼の指摘に、私はそれきり固まった。

 この街を訪れた発端は、送りつけられた松の謎を解くため、だった。

 ただ、その松は骨壺と一緒に届けられた。梱包を再利用して運ぶには、骨壺が一緒の方が都合よかった。あの人の遺骨まで酒田に持ってきた理由は、ただそれだけで……

 頭の中を、幾つもの言い訳がタイムラインのように流れる。私はただパクパクと、陸に打ちあげられた鯉のように、無言で口を開いたり閉じたりした。

「もしご遺骨をお持ちなら、自分も線香の一本くらいはあげさせてください。それがこの花をお譲りする条件です。何も言わず、黙って花だけ買っていくなんて姑息じゃないですか。……先生を再び庄内へとお連れくださったのは、とても感謝していますけど」

 私の姿を見て、さも満足そうに頷きながら、三玲はさっさとエプロンを脱いだ。

「じゃ、行きましょうか」

 当然のように、店のドアに『配達中』のプレートを下げると、私へとふり向く。

 ……ちくしょう、絶対に負けないんだから。

 私は黙って、彼に続いて店を出た。

 これから先、オーナー権限で当分は無給にしてやろうと、その時にはもう決めていた。

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