注文の多い花屋
早狩武志
プロローグ
「そういえばあいつ、花屋を開いたんだって」
「えっ?」
その知らせを耳にした時、なぜだか、私はとても動揺した。
日曜日の午後。実家のダイニングテーブル。向かいには一人の中年男性が座っていた。
そのおじさんは母の学生時代の知人であり、同時に父の古い友人でもあった。そして私に、とうの昔に家を去った父について語る、今では唯一の存在だ。
この人との会話で登場するあいつ、とは決まって父のことである。
「しかもあと三年で定年だというのに、大学まで辞めたらしい」
「お花屋さん……園芸店じゃなくて、ですか?」
父についてなど知りたくない、聞きたくもない。近況を語られる度に、私はくり返し断言していた。にもかかわらず、何故かこの時、私は問いかえしていた。
そんな、だってあの人は、
いつものように、母が席を外している絶妙なタイミングだった。この人が、父を話に出すのは常に二人きりの場でだけだ。
「でも確か切り花とか、ずいぶん軽蔑して……幼い頃の記憶だから自信はありませんけど。べつに今更、どうでもいいですし」
「ああ、そうだよ。だから俺も驚いたんだ。いったい奴になにが、ってな。……なんだ、瞳子ちゃんも覚えているんじゃないか、あいつの趣味を」
つい会話に応じてしまった私に、おじさんは嬉しそうに微笑んだ。
「これまでの絵はがきだって、大切にとってあるんだろ」
まったく。
もう十年近く、父についての話題は常に聞き流してきたというのに。
「そうでもなきゃ、俺の話をあれだけ頑固に無視するはずがないもんな」
「なんの話です? 関係ありません。もう、あの人とは他人ですから」
「そりゃ、芹沢さんとはな。寂しいが離婚とはそういうもんだ。しかし瞳子ちゃんがあいつの娘である事実は永遠に変えようがない」
父と母が離婚して後、このおじさんは定期的に我が家へと姿を現すようになった。
当時小学生だった私は、おじさんが母との再婚を狙っているのかと、しばらく疑ったものだ。だが中学に上がる頃、若くて美人の奥さんをあっさりと捕まえ、下種な勘ぐりはとんだ的外れだったと判明する。
だとすれば、わざわざ口実を設けてまで我が家に立ち寄る理由は何か。
答えは、一つしかあり得ない。
「ま、負けず嫌いで意地っ張りはあいつも同じだからなぁ。瞳子ちゃんがこんな立派になっているとはあいつも」「おじさん」
私は語気荒く、その台詞を遮った。
「私のその、余計な事は絶対に言わないでくださいね。約束が守れないなら」
私の成長を確認し父へ伝えるためだ、と遅まきながら気づいたあの日、私は固く誓わせていた。
私の近況については、誰にも一切語らないと。
そう釘を刺してから後は、おじさんの訪れる頻度は年に数度に減った。が、それでも今日まで絶える事はなかった。
「はいはい、判ってるって。これまでだって何も話してないよ。というか、そもそもあいつが耳を貸さないからな。断固として」
はぁ、と疲れたようにため息をつくと、おじさんは私の顔を物憂げに見あげた。
「俺は身勝手を通した立場だから、瞳子の許しがない限り何も聞かない、だとさ。未だにそう言ってるよ。そういう所は本当に、二人ともよく似ているよなぁ」
「……知りません」
私は内心かなり複雑だった。学校や職場で、他人から頑固だと評された経験が一度ならずあったからだ。それが、父と似ているから、と指摘されても嬉しくはない。
「しかし、だからこそまさかあいつがなぁ。引退後に、よりによって花屋を始めるとは。一体どういう風の吹き回しだか」
そしてそんな父が、長年の意見を翻して生花店をひらいた。おじさんならずとも、確かに不思議だ。謎だ。
あの人が花屋、ねぇ。
「もっとも直接、店を切り盛りしているわけじゃないそうだから、資金を用立てて、誰かに店を任せている、って事なんだろうが」
おじさんが再び、不思議そうに首をひねる。私は衝動的に訊ねそうになるのをどうにかしてこらえた。
それは、いったいどんな生花店なんですか?
だって、幼い頃の僅かな記憶の中で、あの人はいつだって、
植物について語るときだけ、饒舌で。
「もっとも、奴のことだ。どうせ普通の花屋じゃないんだろうよ」
私の内心を見透かしたかのように、おじさんが呟く。やがて母が料理の皿を手に台所から戻ってきて、テーブルに置く。それを合図に、話は終わりになった。
植物学者であり園芸家でもあった父が、あれほど疎んでいた生花店を開業するとは、はたしてどんな心境の変化が理由だろうか。
観賞用の植物を商う、という点で花屋と園芸店は類似であり、程度の差はあれ大概の店は両者を兼ねている。しかし同じく植物を愛していても、鑑賞のためにその生命を手折って是とするフラワーデザイナーや華道家と、愛おしみ育むのが基本の園芸家とは、性質が正反対る存在だ、というのが年長組の私へ大まじめに語った父の主張だった。そして花屋は、明らかに華道家の側の存在だ。
その主旨にはうなずけない事もない。極端だけれど。
ならば園芸家としての父は、その後考えを改めたのだろうか。
積極的に知りたいわけではない。知る必要もない。いくらそう自分に言い聞かせても、心に生じた興味はどうしても消えなかった。私が父に対して関心を抱いたのは、実に十数年ぶりの出来事だった。
だが、
その疑問は結局、永遠に解かれることなく終わった。
そんな会話を交わしてから一年と少し後、次に我が家を訪れたおじさんが携えてきたのは、些か性急で唐突な便りだった。
父の訃報。
その知らせには、遺産についての詳細が記された分厚い一束の書類と、
ひどくそっけない木箱に入った骨壺と、
いったんなんだろう、これは。
どうして、何故? 一体なんのために……
ひどく古びた、大ぶりな松の盆栽が一緒だった。
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