8章

1

 授業が終わった後、風夏は図書室に寄らずにまっすぐ学校を出た。マフラーを首に巻きながら歩く。校門のすぐ横で文香が文庫本に目を落として、風夏を待っていた。

「文香さん!」

「あ、風夏さん。学校、お疲れ様でした」

 オフホワイトのピーコートに臙脂えんじ色のワンピース姿の文香が柔らかく微笑んだ。花鶏の兄の美鶴が狙っていると聞いたが、正直風夏はもったいないと思う。それくらい文香は美人だ。それも黒髪ロングの清楚系。

「では、行きましょうか」

 本を鞄に入れて文香が先導して歩き出した。今日は文香がおすすめのカフェを教えてくれる約束だった。


 地下鉄に乗って三十分、乗り換えて十五分、歩いて五分。文香が連れてきてくれたのは、一軒家を改造したカフェだった。目立つところに看板がなく、額に入ったプレートが漆喰しっくいへいに掛けられているだけだ。

 Gallery Cafe Daydream 

 段差を上がって文香が戸を開けて中に入る。風夏もそれに続く。

 中は白で統一されていた。壁にはクリスマスに向けての飾りがあったり、モニュメントが提げられたりしていた。その中にテーブル席が三つだけ並んでいて、それぞれ色違いのテーブルクロスが掛かっていた。

「どうです?」

「秘密基地みたいですね」

「風夏さんなら、そう言うと思いました」

 空いていた席に座る。敷いてあったクッションがほかほかしていた。店員さんが温かいおしぼりと白湯と手作りのメニューを持ってきてくれた。メニューの中から、風夏はキャラメルミルクティーとミルクティーパフェ、文香はアッサムのミルクティーと紅茶のゼリーを注文した。

「すっごくいいとこですね」

「ギャラリーカフェなので、あちらにいろいろと展示もありますよ。販売もされてるので、よかったら見に行きます?」

 ギャラリースペースには色とりどりのトンボ玉が飾ってあった。値付けされているものの中から、風夏は迷った挙げ句、赤紫色のトンボ玉がついたマクラメ編みのブレスレットを購入した。

「えへへ」

 さっそく腕に付けて浮かれていると、文香に「嬉しそうですね」と言われた。だって実際に嬉しいのだ。普段アクセサリーなんて身に付けることもないし、それがこんな素敵なものだったらなおさらだ。ちょっと、大人になった気分で、胸がときめいた。

「それにしても、学校の帰りで、ほんとによろしかったのですか? 土日でしたら、もっとゆっくり出来ましたが」

「あー……うん、そうですね……でも、文香さんに聞いてほしいことがあったので、つい……」

 言葉を濁しながらも、慎重に選ぶ。学校で起こったことを、どうしても聞いてほしかった。

「そうでしたか。では、風夏さんの気のすむまで、お話を聞きましょうか」

 話し出すまでが長かった。時間が掛かったのは確かだ。話していいと言われると、話したかったはずなのに、本当にこれは話していい内容なのか、って考えてしまう。それは話し始めを遅くさせる。

「私、友だちのこと、叩いちゃったんです」

 思い切って、口を開いた。

「その子が、死んじゃいたいって言ったのが、どうしても許せなくて。でも、愛衣ちゃんも本気でそう思ってるわけじゃないってこともわかってて。冗談でも、軽々しく生死を口にするの、苦手なんです」

 ブレスレットのトンボ玉を指でいじる。

「私、小さい頃に兄が亡くなっていて、それもあって、そうやってなにも考えずに死にたいって言う人、ダメなんです」

「風夏さんのお兄様が亡くなっているのは、存じております」

「花鶏から?」

「はい。花鶏さんも、お世話になったと言っておりました」

「愛衣ちゃんのことは、ちゃんと本人と話して謝ります。これで友だちじゃなくなるかもしれない。そうなることが、少し、怖い」

 いや、だいぶ怖い。

 こんなふうに仲違いをして、離れていくとしたら。そう考えると、なにも告げずにいなくなった兄を連想してしまう。今まで愛衣にもらったものが、全部消えていくような気がしてならない。それが怖いのだ。

「だとしても」文香がそっと口を開いた。「それは、風夏さんが選んだ結果です。それでご友人が離れることも、風夏さんが嘆くことも、また一つの結果かと、私は思います」

 文香の言葉の一つ一つが風夏の心を刺す。でもそれが同情じゃないこともわかる。それが心地よかった。考えられる結果を淡々と、伝えているに過ぎない。新たな道を、文香は提示しない。それが有り難かった。そうじゃないと、風夏の決心が揺らぐから。

「……そうですね。それが結果なら、私は黙って飲み込むまでです。苦痛も一つの試練って、兄さんが言ってました」

 紅茶とデザートが運ばれてくる。ふんわりと甘い匂いが漂って頬が緩んだ。

「いただきましょうか」

「はいっ」

 カップにミルクを注いで、紅茶を注ぐ。煙が広がるように混ざり合う。キャラメルミルクティーはこっくりと甘くて、とろっとしていて優しく口に残った。ミルクティーのパフェも、そんなに甘くなくて後味がすっきりしていた。

 文香もグラスにたっぷり盛られた紅茶のゼリーを幸せそうに頬張っていた。

「おいしいです」

「それはよかったです」

 ミルクティーのアイスとカラメルクッキーの相性が良い。これは冬でも、いくらでも食べられる。

「私、兄に言われたんです。優しい子になりなさいって。人の痛みを自分の痛みとして嘆くことのできる子になりなさいって。でも、私は実際に優しくないし、すぐに手は出るし、人の痛みには鈍感で友だちを傷つけてばかりだし……」

 だから時々思うのだ。

「あたし……兄が言ってたような、そういう人になれるのかなーって」

「『雨ニモ負ケズ』ですね」と、文香が窓の外を眺めながらぽつりと言った。

「宮沢賢治、ですか」

「はい」

 宮沢賢治は風夏も知っている。授業でもたびたび名前が挙がる日本文学の作家だ。図書室にも彼の作品が並んでいる。風夏にはすっかり馴染みの文豪だった。

 宮沢賢治は、風夏も兄の静夏も好きでよく読んでいた。なにが好きかというと、その素朴でいて独特な言葉遣いだ。魔法の呪文を唱えているみたいにころころと変わる言葉は、日本語を超えて別の国の言葉みたいに聞こえた。

「宮沢賢治は、病床でも農夫さんたちの相談を受けていたと言われています。実際、賢治はそういうことを望んでいたのでしょう。それでも亡くなる直前、賢治はこの詩を書きました」

 どういう意味か、わかりますか?

「……理想がまた出来たってことですか?」

 床に伏せながら手帳にこの詩を記す賢治の姿が簡単に想像できた。けれどその思いまでは想像できない。

 紅茶を一口含んで、文香はほぅ、と息を吐いた。

「そうですね……それともまだ、彼の理想には届いてなかったのかもしれませんね」

「理想……」

 風夏も木枯らしが吹く外の景色に視線を移した。迷子みたいな顔をした風夏がガラスに映っていた。

「理想って……重たいですね」

 理想だけじゃない。願いも、祈りも。現実が重たくのしかかって理想を潰すんじゃない。逆だ。理想がのしかかって現実を潰すのだ。期待が大きすぎて潰れていく人がたまにいるけれど、それと同じだ。

「……そうですね」

 ミルクティーのアイスがとろりと溶けた。


  §


 うねるような風の音が、どこか遠くから迫ってくる。風だ。暴風。冬の嵐だ。低気圧でここのところずっと雨が降り続いていた。雨音に混じって恐ろしいくらい甲高い風の音が窓越しに聞こえてくる。

 のろのろとベッドから下りてキッチンに向かう。階段の一角で でろーん と腹ばいになっている吹雪を踏みそうになった。

 大樹がリビングのソファーで寝転がっていた。四人掛けのソファーも、百八十センチを超える長身の大樹が寝転がるには小さくみえた。ヘッドフォンで耳を塞いで、何か音楽でも聴いているようだった。

 構って構って、と桜子が大樹の腹にダイブしている。桜子は今年で七歳になる。実に元気な柴犬の女の子。いや、もう立派な大人の女性か。桜子がダイブした拍子に大樹の手から音楽プレイヤーが転がり落ちる。

 冷たい紅茶を一気飲みすると、目が覚めてきた。最近はずっとこんな調子だ。早めに布団に入ると、どうしても日付が超える頃に目が覚めてしまう。そうしてまた本を読み始めると、三時くらいまで読み込んで、寝るのが遅くなる。でも今日は夕ご飯の後にすぐ眠ってしまった。お風呂にも入っていない。

「愛衣」

 大樹は目元を隠していた腕を上げて、風呂場に向かう愛衣に気怠げに声を掛けた。

「なに?」

「明日、雪彦を連れてくる」

 瞬間、愛衣はキッチンから弾かれたように振り返る。

「連れてくるって、」

「この家で一緒に暮らす」

 大樹は落ち着き払っていた。

「アイツのためにどうすればいいか、ずっと考えていた。これからどんなことになるか、わからない。けど……」

「けど?」

「これ以上見ていられない」

 自分で自分に言い聞かせるように、大樹は静かに言った。

「同性を好きになることは道を外れてなんかいない。正しくさせなきゃいけないなんて言うのは、親のエゴだ。大事なのは親との絆なんかじゃない」

 くぅーん。

 桜子がくりっとした大きな黒い目で愛衣を見上げた。なに話してるの? 鼻先で愛衣の手を興味深げに突っついた。

「もっと……もっと早く気づけたんだ。雪彦が着替えをするところ、誰も見たことがないんだ。アイツはいつも、誰よりも早く道場に来て、誰よりも遅くまで練習して帰るから」

 淡々と話してから「こんなの、ただの言い訳だ」と付け足した。

 ずっと弓道に費やしてきた、と雪彦は言った。愛衣はその時から聞きたかったことを口にした。

「ね、兄さん。雪彦さんが弓道をする理由って何だろうね」

 大樹は呼吸を整えるように荒く息を吐いてすぐに答えた。

「“神に捧げる弓”だ」

「神に?」

「元々、弓道ってのは神事だったんだ」

破魔矢はまやみたいな?」

「そう、いや、破魔矢とはちょっと違うか。巫女が踊る舞みたいなものだ。一つの演舞みたいに」

 ふと、思い出したように大樹が問いを掛けてきた。

「愛衣は、空手とか柔道とか、合気道に剣道。これらと弓道の違いってわかるか?」

 そんなの急に質問されても困る。愛衣は武道の経験もなければ、大樹の試合を遠目で見たことがあるくらいだ。

 空手や柔道は道具を持っていない。でも剣道は竹刀がある。違いは道具の有無ではなさそうだ。袴もそうだ。合気道も袴を履く。悔しいけれど、愛衣にはお手上げだ。

「降参です兄さん、お手上げ」

 大樹はすんなり答えを教えてくれた。

「白い足袋たびを履いているか、履いていないか」

「足袋?」

「そう。あとの武道はみんな裸足だ」

 よくよく考えてみると、そうかもしれない。組み手をする空手や柔道や合気道は裸足はだしだ。剣道もそうだ。けれど白い足袋を履いていることが“神に捧げる弓”と、どう関係しているのだろう。

「足袋を履くことで戦闘意識がないことを示すんだ。他の武道は一対一にお互いが向き合って戦う。剣道もそうだろう。つまり、弓道は戦に使わない、演舞するためにあるものだろいう証が、白い足袋に表れている」

「でも、弓は狩猟民族の時からのものでしょ? 昔の武具とかも弓を使っていた」

 歴史の教科書で弓を使って戦をする絵を何度も見てきた。

「戦で使う弓と、弓道で使う弓を一緒にするな。とても神聖なものだから。血で汚したらいけない。雪彦は、そのあたりをものすごく意識していた」

 大樹は一度、高校一年の頃に雪彦に勝負を持ちかけたときにあっさり断られたという。その時に「君は何のために弓を引くの?」と雪彦に言われたそうだ。

「その時に足袋の話を雪彦から聞いた。アイツの受け売りだ」

 大樹も雪彦も簡単に神に捧げるなんて言うけれど、それがどんなに曖昧なことなのか知っているのだろうか。どれだけ努力を重ねなければいけないのだろうか。そもそも、神様に捧げるまでの素晴らしい弓を引くことなんて、可能なのだろうか。

 違う。できないんじゃない。自分の目指す弓に、まだ雪彦も到達していないのだ。それを目標にして、今までの辛いことも苦しいことも全部を糧にして、雪彦は今の弓を築き上げたのだ。

「辛いことを糧にするのは、簡単なことじゃないよね。だって、それを思い出すことになるんだもん。それなのに、雪彦さんはどうして……」

 雪彦がなぜ、そこまで神への道を望んだのだろう。そんなのわかっていることじゃない。愛衣は自分に言い聞かせる。自分の存在を確かめるためだ。否定されて、精神が壊れないようにするための自己防衛。自分で自分を見失わないための、道しるべ。

「わからない」

 大樹は再び瞼を閉じた。

「でも絶対……雪彦がいなくなるのは、嫌だ」

 音楽プレイヤーに繋がっていたコードで桜子が遊ぶ。その拍子にコードが外れて、音楽が流れ出す。ピアノのクラシックだった。聞いたことあるメロディは、ショパンのノクターン。

「兄さんはどうして雪彦さんじゃないとダメなの?」

「なんだ今更」

「気になっただけ」

 よっこいせ、と起き上がり冷蔵庫からラムネの瓶を出して愛衣にも渡す。

「惚れたんだね、兄さん。そうじゃなきゃ、冬の夜にきんきんに冷えたラムネを飲むなんてしないもんね」

「うるせー」

 ぽんっと軽快な音を立てて瓶を開けると、大樹は一気にラムネをあおった。


  §


 シャワーを浴びて部屋に戻る。姿見に映る自分の姿が、なんとなしに目に留まった。

 キャミソールの裾から伸びた脚。中学三年間のうちに、背丈は五センチも伸びていた。そのほとんどが脚だった。腹部はくびれ、その上の胸は入学当初の倍に膨らんでいた。

「成長期だ」

 身体の変化は続く。髪は伸び、背も伸びる。生理が来て、身体は性に敏感になる。

 好きって何だろう、と唐突に思う。

 前に読んだ本は当てにならない。恋愛至上主義から、お昼のドラマのような泥沼。美しい純愛に、欲の混じった偽愛。好きになるのに理由なんか入らないと言う人もいれば、恋に落ちたら負けという人もいる。

 考えたらきりがない。そういえばマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』でもでも、スカーレット・オハラが言っている。「明日は今日と別の日なのだから」と。

 いつもそうだ。昔からそうだ。愛衣は傷つくことが怖くて、人と正面から向き合うことを避けている。だから風夏と喧嘩になった。あれだけ、わかり合えていると思っていたのに、喧嘩した。

 変わらなきゃ、心の方も。

 でも、何か一つ、きっかけがほしい。

 机の上のテーブルランプと、壁に付けた間接照明のぼんやりとした灯りが家具や本棚の影をくっきりと際立たせる。カーテンを閉め忘れたのに気づいて窓に近づくと、灯りに反射してぼんやりと愛衣の顔が写っていた。

 頬に張り付いた髪の一房を払いのける。

 夏頃に毛先を整えてから手を付けていない髪は、すっかり肩を覆うほどになっていた。一房つまんでじっと眺めた。抽斗ひきだひからばさみを出す。うなじの辺りで一つにまとめ、一気に鋏を入れた。

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