7
図書室の扉にもたれながら、冷たくなった指先を擦りあわせた。マフラーの下で息を吐くと、ほわりと口元が温かくなる。
花鶏と愛衣が一緒にいた。
擦りあわせていた手のひらを、そっと開いて目の前に広げる。
本気で友だちを叩いたのは初めてだった。
怒ったとき、本当に手が出るものなんだなぁ。
感情が激しくざわめくと、風夏の場合、強い言葉の波が体中に押し寄せてくる。それを拾い集めて一つの言葉を作り、文章を作る。風夏の感情の吐き出し口は、いつも一編の詩だったり、短歌だったりする。
だから驚いていた。友だちを叩いてしまったことに。それも、感情のままに。あのときの愛衣と、同じだ。
「おい」
横から声を掛けられて「ひゃっ」と変な声が出た。
「可愛くねぇ声」
鞄を背負った悠馬が、むすくれた顔をして
「可愛くなくて悪うござんした」
三年間も悠馬と一緒にいるが、文芸部の中でも二番目にわからない人物だ。一番はもちろん、前部長の宮沢詩織先輩だ。
「入らないのか」
「入りたくない」
「ならちょうどいい」悠馬がくいっと指を動かした。「ちょっと付き合え」
§
「それ、どうしたの」
背中から悠馬に問いかける。悠馬の顔には引っ掻いたような傷や青痣があった。珍しい。喧嘩でもしたのかからかってやろうか。
「おまえの連れに思いっきり」
「は? 花鶏?」
「他に誰がいるんだよ」
あいつにもうちっと手加減ってものを躾けといてくれ、と気怠げに悠馬がぼやく。
「人は動物じゃない」
「……悪い」
訂正して「じゃ、覚えさせてくれ」と言った。こうしてすぐに非を認めるところもあるから、この男はよくわからん。こだわりが強いってやつか。風夏は腕組みをして悠馬の背中を見ていた。
連れてこられたのは、図書室から一番遠い階段の踊り場だった。この階段は美術室にしか繋がってない。確かに密会するには打って付けだ。
「んで、話ってなによ」
いらいらをぶつけるように聞くと、悠馬はわかってるくせに、と言った。
「やっぱり愛衣ちゃんとのこと?」
「それしかない」
当たり前のように言って、悠馬は器用に手すりに腰掛けた。普段は制服が汚れるとか、衛生的に嫌だとか言うのに、珍しい。
「愛衣に手を上げるなよな」
「おあいにく、アタシは出来た人間じゃないからね」
「おー、花鶏と同じだな」
「……癪に障る言い方だなぁ」
「癪に障るように言ってるからな」
棒読みなのが丸見えだ。さも興味がなさそうに悠馬は言ってのける。その余裕がさらに風夏のを煽っていく。
「出来てないのはそっちだって同じでしょ」
「人間そんなもんだ」
「逃げないでよね」
「逃げてねぇよ」
「てか、悠馬が愛衣ちゃんをそこまで大事にしてる理由を教えてよ。そうじゃなきゃ、私はまた愛衣ちゃんに手を出すかもしれないよ? それで愛衣ちゃんに嫌われることになっても、私は構わないけど」
これは事実だ。友情が断ち切られること覚悟で言っている。本当は怖いけど。それでも自分を貫き通したいとは思っているのだ。
「やだね」
そう言った悠馬の顔は歪んでいた。
「そうやって自分はまっすぐ問題と向き合ってますっていう態度、ほんとに気にくわねぇ。改まって言われるとさらに怖気が走るからやめてくれ。前にも言ったかもしれんけど、これ以上俺の中を覗いてくんな。入ってくんな」
そうやって悠馬は、また自分の周りに鉄線を張る。
「悠馬が嫌がることはしないよ。だから教えてよ、その、嫌なこと」
「やめてくれッ」
声のトーンを優しくしただけで、悠馬は声を荒げた。
「そんなふうに優しく話しかけんな。むずむずする。母親みたいで気味悪い。何様のつもりだよ」
悠馬の表情が前髪で隠れて見えない。でもなにかに苛立っているようにつま先をとんとんと階段に打ち付けていた。
「ごめん」
「…………だったらもうしてくんな」
悠馬の声が廊下に響く。その残滓を聞いていたら、風夏はなにも言い返せなくなる。こうやって優しく話しかけて気味悪いとか、拒絶されるとか、思ってもみなかったのだ。これが心を開く手っ取り早い方法だと思っていた。
でも、悠馬には通用しなかった。
「…………そうやって軽々飛び越えてくるのは、愛衣だけでいいんだよ」
また、愛衣ちゃんか。
風夏は確信した。悠馬の心は、愛衣しか受け付けないのだ。
風夏の胸がすうっと涼しくなっていく。空っぽになっていくみたいだ。溜まっていたなにかが抜け落ちていく。
例えばそれは、失恋した時みたいな、告白して相手に好きな人ないし気になっている人がいると、唐突に告げられた時みたいな、そんな喪失感だった。おまえとはわかり合えない。遠回しにそう言われているようにも感じた。
こういうとき、花鶏はどうするだろう。花鶏だったらなんて返すんだろう。風夏には、これ以上どう進めればいいのかがわからない。今、花鶏が傍にいてくれたら、と考えてしまった。
ふと、悠馬が口を開いた。
「愛衣は、弱くない」
「知ってる」
「知ってるのか」
「見てりゃわかることよ」
「そうか。俺は知らなかった」
「……え?」
今、悠馬はなんて言った?
「愛衣が弱くないってこと、知らなかった。近くに居すぎて見ようともしなかった。知らないうちに、愛衣は変わっていた。どんどん強くなっていって。変わってないのも、変わることを恐れていたのも、全部俺の方だったんだ」
ほんと馬鹿げてるよなぁ、俺。と自嘲気味な笑い声が続く。
愛衣から聞いたことがある。愛衣と悠馬は、生まれる前からお母さん同士が仲良しで、同じ病院で、隣の病室で、生まれた日にちも一日違いだと。家は近くないけれど、同じ保育園で、同じ小学校。その延長で同じ中学に進学した。違うクラスになったことの方が、片手で数えるくらいしかない、と。灯台もと暗し。そんな諺が浮かんだ。
それだけ長い歳月を共に過ごしていても、お互いに知りたくないし、知られたくないこともあるらしい。
「あの距離がよかったんだ。互いになにも知らない。知らなくていい。愛衣は俺の気持ちを聞かない。俺も真意は聞かない。全ては愛衣が望むままに」
「
「そういうもんだ」
「そんなに苦しんでるのに?」
「これは想定外。今のこの距離は、失敗だ」
「なんだそれ」
失敗って。そう簡単に決めるなよ。
悠馬はもっと、現実的に物事を
「悠馬も失敗することってあるんだ」
「当たり前だろ?」
「人間だから?」
「すぐにそういうやつ、嫌いだ」
「あ、そう」
「失敗しなきゃ苦しめない」
「苦しんでなにになるよ?」
「次回作のネタとか」
「趣味悪っ」
「それでいいんだよ」
風夏は壁に背中を預けながら、階段の上で同じようにしている悠馬を見上げた。風が窓の隙間から吹き込んでくる。冷たい。全てを冷やしていく。冷たくなった指先を擦り合わせて、はーっ、と息を吐いた。白いはずの息の煙は、微かに青みがかって見えた。
寒色。冷たい印象の色。青はその代表格。だから、冬の景色は青色から白色にかけての淡い色がやたらと目につく。空気自体も薄くなったみたいに、息をする度に冷たくて痛くなる。だから嫌いだ。
「冬は……冬の青色は嫌いだ。私からみんな奪っていく」
「そうか」興味なさそうに悠馬は呟いた。「同じ理由で、俺は夏の青色が嫌いだ」
見上げると悠馬は窓の向こうの空を見ていた。
きっと風夏と悠馬が見ている空の色は違うのだろう。風夏はあの日、兄が亡くなった日の空の色。うっすらとした淡い色。仄かに光が薄く散っていて、彩度も明度も圧倒的に低い、でも確かな青色。悠馬が見ている青色は、知らない。でもそれが、悠馬から“なにか”を奪った青色だ。
「そう」
「………聞かないんだな」
「聞くなっていったの、そっちでしょ。なに? やっぱり聞いてもらいたいの?」
「いや」悠馬は微かに笑っていた。「有り難い」
これが悠馬との距離の取り方なのなら、風夏はそれに従うまでだ。彼がいつか言ったみたいに、風夏たちは所詮、中学の部活仲間。刹那的な時間の中で全てを知ろうとするには、距離の取り方が難しい。一人一人違うわけだ。だからこそ今回の風夏は、愛衣と悠馬、それぞれとの距離の取り方を間違えたのだ。
「約束のことも聞かないでおくよ。探ったりして、ごめん」
「そうやって非を認めて謝罪するとこ、嫌いじゃないぜ」
「………悠馬、さっきは私のこと気にくわねぇって言ってたくせに」
「人間って、多面的だろ?」
「言いたいことはわかった」
「そういうとこだよ」
だから部長、と悠馬は階段の上から風夏を見下ろした。逆光で表情がよく見えなかったけれど、笑っているようだった。
「愛衣のことよろしく頼むわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます