6
目が覚めると、花鶏の頬がじんじんと痛みを感じ始める。昨日、悠馬に付けられた青痣だろう。ふかふかの柔らかい毛布で擦れるだけでもけっこう痛む。
「…………いて、」
手の甲で痛む部分を撫でた。
ガーゼを貼った手が痛い。指も痛い。左手の爪が割れていた。おかげで昨日はヴァイオリンが持てなかったし、ピアノも弾けなかった。文香が手当てをしてくれたが、彼女にも心配させてしまった。
覚えておいた方がいい、と海外の友人たちに闘い方をいくつか教えてもらっていた。中国拳法とコサック戦術、
身体を起こしてカーテンを開ける。まだほの暗く、空気までが藍色だった。部屋の中でも息が白くなった。
図書室に一番乗りをするには、花鶏の場合、朝の六時には起きなければならない。そこまでして一番乗りをしたかったのは、普通なら学校に持ち込み禁止のものを持ってこようとしたから。
教科書が入っている鞄とは別に、大きめの帆布バッグを持って家を出た。行ってきますは、いらない。家が広すぎるのもあるし、言ってもぜったい聞こえないし、花鶏の声なんて届かないから。
十二月の六時は、ちょうど朝焼けが見える頃だ。藍色の空がある部分を境目にして、淡い黄色に染まる。そこから下にかけて、淡桃、淡紅、橙、と目を焼かれるくらいに鮮やかなグラデーションが見えた。
住宅街の隙間から見ると一枚の
朝焼けの付箋。実用性はない。
なんて風情を
橋の手すりに置いた手の甲が、ひりっと痛んだ。昨日、悠馬に引っ掻かれた痕がまだ残っていた。痛みはすごい。すぐに現実に引き戻してくれる。
手を痛めないように。楽器を持てなくなるから。
そう言われ続けてきた花鶏にとって、あれが一番大きな喧嘩になった。だからか少し、すっきりした気分でもある。でも少しだ。残りは複雑なもので花鶏の心は埋め尽くされていた。
愛衣が抱えていたもの。
悠馬が抱えているもの。
それが明らかになったけれど、花鶏にはなんとも言い難く感じる。あの時、悠馬の口から聞いたときは正直に馬鹿馬鹿しいと思ったし、腹も立った。中学三年生にもなって、そんな
でも整理して考えてみると、なるほど、これは難しい。
花鶏は川の水面に映る自分の姿を眺める。
悠馬は現実的な考えを持っていると思っていた。
彼の作品も現実世界が舞台であることが多いし、やけに陰鬱でリアリティのある話ばかり書く。それも中学生を主人公にしていることが多いから、同年代が読んだら人間不信を起こしかねない。信じている世界が一転される。国枝悠馬はそんな話を書くやつだ。
そんなやつが、約束なんて曖昧なものをずっと守っていたのか。惚れた弱みってやつか。これ本人に言ったらまた喧嘩になるんだろうな、とか考えながら歩みを進める。
悠馬、これからどうするんだろう。
鮮やかに変わっていく空を眺めながら、息をひとつ吐いた。
朝の学校は静かだった。まだ人数も少ないこの時間帯は、教室の中もひっそりとしている。花鶏は教室じゃなくて、既に鍵が開いている図書室に向かった。
帆布の鞄から持ってきたものを出す。大小一つずつの、切り子細工が入ったガラスの花瓶。それと、黄色の花がついたミモザの枝を数本と、枝切り鋏。昨日、イタリアにいる恋人から送られてきたものだった。
花のついた枝をいい具合に切って花瓶に挿す。静謐で落ち着く空気に、微かにミモザが香った。
小さめの花瓶を窓辺に置く。これで少し、みんなの気持ちが晴れやかになればいいのだけれど。
次に大きめの花瓶を抱えて、水を入れて戻ってくると、窓際の席に愛衣の姿があった。
§
文芸部の窓に面したカウンター席に、花瓶が一つ置いてあった。花が挿してある。枝に連なった金色の丸い花だ。ふわふわした花びらが可愛らしさを表している。
「花?」
「ミモザアカシア」と背後で声がした。一つ花瓶を持った花鶏が書架の間から出てきた。
「どうしたの、これ」
入ってきた花鶏の顔を見て、愛衣は花瓶に向けた指を、そのまま花鶏の方に向けた。
「……どうしたの、それ」
花鶏の顔にガーゼが貼ってあった。他にも目の下に目立つ痣があった。花鶏がこうした傷を付けてくるのは見たことがなかった。
「悠馬とやった」
「悠馬と?」
「そう、悠馬と」
オウム返しにされる。花鶏はこちらから聞かないと具体的には教えてくれない。でも愛衣は聞かなかった。悠馬と花鶏が喧嘩する理由が、一つしか思いつかなかったから。
「ごめん」
「別に、愛衣が謝ることじゃねーよ」
あいつが悪いんだ、と悪態を吐いた。
「花鶏はどうして悠馬のことが嫌いなの?」
愛衣はそれがずっと気になっていた。悠馬は幼なじみだし、花鶏は部活の大事な仲間だ。好き嫌いはあるとしても、できることなら仲良くしてほしかった。
「嫌いだから」
「安直」
「なんとでも言え」
「嫌いだから嫌い?」
「そう」
「そっか」
嫌いだから嫌い。好き嫌いに理由を探してしまう愛衣には、そう言ってのける花鶏がなんだか羨ましかった。
「悠馬、手加減できなかったでしょ」
悠馬は知的な見た目によらず強い。実際、合気道を習っていたのは愛衣も知ってる。相手の動きや反動を利用して流れるように反撃する。そのスタイルは板についていて、小学生のときには学校で三人組の上級生を相手に返り討ちにしたことだってある。
「俺もそうだから」
「そうなの?」
「金持ちのボンボンだから、相手のことなんか考えらんねーんだよ」
聞けば、いくつかの国の護身術を身につけているという。その気になれば殺しも可能だと、花鶏は不敵に笑ってみせた。
「花鶏って」
「なんだよ」
「もし国や時代が違っていたら、貴族だったけど家が没落して、生き延びるために砂漠の盗賊になっていたりしてたかもね。たくさんナイフを持ってて、一つだけ虹色の水晶で出来た飾りのナイフがあるの」
「……すーぐそうやっていろいろと思いつくよな、愛衣って」
呆れた花鶏だけれど、少し考えるそぶりをしてまた笑って見せた。
「じゃあ悠馬はどこか別の星の王様だったりしてな。頭が切れる王様で、でも武術や剣術に長けていて独裁君主。でも革命が起きて、死んだことになってるけど実は亡命して生き延びてるってか」
「盗賊と王様、どっちが強いのかしら」
「どっちもどっちだ」
「手を組んだら最強ね」
「文字が違う。“最凶”だ」
花鶏と話すのは楽しい。悠馬とはまた違った知識を持っている。それを話すときの花鶏も楽しそうだし、普段とは違った表情をする。花鶏は場面に応じていくつもの表情を持っているのだ。
「もらった」
「なにが?」
「花」
「誰に?」
「彼女」
ぶっきらぼうに単語で答えるせいで、危うく聞き逃すところだった。
「彼女いたの?」
当の本人は「いる」と短く答え、一枚板のテーブルの中央に同じようにミモザアカシアを挿した花瓶をそっと置いた。優しい手つきだった。
「初めて聞いた」
「だって聞かれてないから」
それはそうだけど。花鶏も隠しているつもりは毛頭なかったのだろう。聞かれたから答えただけ。必要以上に干渉しない。そんな雰囲気が花鶏にはあった。
いつもの席に座って、花鶏は鞄から分厚い本と原稿用紙を出す。本にはページのあちらこちらに付箋がたくさん貼り付けてあって、メモもしてある。愛衣も荷物を置いて文庫本を読み始める。
愛衣の背中に「そんなに驚くことじゃないだろ」とまた声がかかる。花鶏を見ると気まずそうに顔をしかめていた。
「付き合う年齢が周りより早かった。それだけのことだ。おまえの兄と、なにも大差はないと思うけど」
花鶏の今の言葉で、納得している自分がいた。確かに驚いた。またあの感覚だ。そっか、と納得できてしまった。
「付き合うとか、付き合わないとか、私にはまだわからない。すごいね」
「すごくない」
「大人だ」
「大人じゃない。コーヒーも飲めない」
「キス、したの?」
「した」
「
「するわけないだろ」
顔色一つ変えなかった。やっぱり大人だ。
ミモザアカシアが可愛らしく首を傾げている。その花びらを指先で撫でる。細かな花びらが指先に震えた。冬の日差しに金色が一層際立つ。
「かわいい花だね」
「花があるのは良い。癒やされるし、穏やかになる」
花鶏って、花好きだったっけ。金色の花と花鶏を見比べた。フロストガラスの花瓶や、挿した花の本数や、色合いのバランスも絶妙だ。自分にもできそう、と思ってしまうほどシンプルな反面、花鶏にしかできないとも感じた。
「よく花を飾るの?」
花鶏は首を左右に振った。
「色の調和は難しい。一つの色でも間違えれば不協和音になる。小細工しようとすれば、返って調和は崩れてあからさまになる。苦手だ」
不協和音、という単語が引っかかった。芳しい香りが打ち消した。
「調和は音楽にも例えられる。けれどそれは半強制的なもので、決して美しい物じゃない。人間でも言えることだ。だから仲違いが起こる」
「なにが言いたいの?」
花鶏の表情が崩れた。してやったり、とでも言うように目を細め唇に弧を描く。「わかってるくせに」とその唇が発した。
彼は風夏のことを言っているのだ。早く仲直りしろ、と。
ぐっと指に力がこもる。ページがくしゃっと音を立てた。あれだけ酷くぶつかって、今更なにを話せというのか。もう以前みたいに仲良くなれないかもしれないのに。
「怖いか」
鋭い一言で当てられて、心臓が跳ねた。一気に喉咽が締め付けられて、心臓を中心にじわじわと痛みが広がっていく。
「正直に思っていることをぶつけてこいよ。それで友だちを
「でも、」
「それで傷つけたくないって思っているのなら筋違いだ。誰だって傷つけたくないし、厚意だって思ってやったことが
思わず身を硬くすると、肩がぴんと張った。つい先日、そんなことがあったばかりだと言うことを思い出した。
「愛衣は優しいんだ。誰も傷つけないようにしている。それだけ大事に思っているってことだ。その分強いことも知っている。知りたくて、近づいて、傷ついて、傷つける」
ふと、花鶏が顔を上げた。
「『セロ弾きのゴーシュ』知ってるだろ?」
「宮沢賢治の?」
「ゴーシュのところにカッコウが来る場面でさ、カッコウがこんなこと言うんだよ。『なぜ、やめたんですか。ぼくらならどんないくじないやつでも、のどから血が出るまでは叫ぶんですよ』って」
その場面は愛衣も知っている。最初に読んだときは、どうして血が出るまで叫ぶんだろう、痛いだろうに、と不思議に思った記憶がある。瞼を閉じると、カッコウが鳴き叫ぶ様子が簡単に想像できた。その口の端から赤い雫が滴る。それでも痛みを我慢して、喉咽を痛めながら叫び続ける。そうまでして、彼らは何を叫ぶんだろう。
この台詞好きだ、と花鶏が静かに言った。どこか暖かい音を含んだ声で、慈しむようにもう一度、愛誦してみせた。
「どれだけ傷ついても、本当に望むなら叫ばなきゃいけない」
「花鶏も、なにか手に入れたいものがあったの?」
花鶏が席を立った。花瓶からミモザアカシアを一枝抜き取る。甘い香りがふわっと漂った。
「不安なのは風夏も同じだ。ミモザアカシアの花言葉、知ってるか?」
すっと花鶏の手が伸びて、愛衣の髪にミモザアカシアを挿した。甘い香りと共に、花鶏はその言葉を告げた。
「『真の友情』」
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