5
やっぱり、悠馬についてきてもらったほうがよかったかな。
家路を歩きながら愛衣は腫れているだろう瞼を擦った。一人で帰りたいと言いながら、急に寂しくなっている
頬が痛い。風夏に叩かれた方だ。触れてみるとまだ熱く感じる。
どうして、あんなこと言っちゃったんだろう。
風夏が心配してくれていることは、知っていたのに。つい自分のことを優先してしまった。椅子を投げたときと同じだ。やっぱり自分は、壊すことしか出来ないのか。
壊すことしか出来ないのなら、あそこにいたらいけないだろうか。
そんなことも、考えてしまう。
そんなことしか、考えられなくなる。
家に着くと、桜子が家の前でうろうろしていた。しきりに玄関の向こう側を気にしていたが、愛衣を見つけるなり吠えながら駆け寄ってきた。
「桜子、アンタのご主人はどうしたの?」
頭を撫でてやると、くぅ~ と締まりのない声で頬を舐め、甘えてくる。
いつもなら嵐志と一緒に散歩に出かけているか、リビングでくつろいでいるはずの桜子が、外に追い出されている。
愛衣は玄関を
なにか、家の中で起きている?
「……桜子、ハウス」
庭にある桜子の小屋に向かって指を差すと、桜子は愛衣を見上げて一吠えして、小屋に戻っていった。
スカートの裾を払って、「ただいま……」と小声で玄関を開けた。
「話にならん!」
第一声が伯父の声だっただけに、愛衣は飛び上がった。こっそりと靴を脱いでなにか話が行われているであろうリビングに忍び足で向かった。
「……ただい、ま、」
リビングの光景を目の当たりにした愛衣は、なにが起こっているのかわからなかった。
大樹が伯父に向かって土下座をしていた。
それだけだ。それだけなのだ。でも愛衣は、少し混乱していた。いつも堂々としている大樹が、誰かに、それも低脳な伯父にこうしてしっかり頭を下げるところを見たことがなかった。
「お願いします。この家から出て行ってください」
はっきりと、大樹がそう言った。嘘じゃない、と愛衣は確信した。大樹が行動を起こし始めた。
大樹も伯父も、愛衣が帰ってきたことには気づいていなかった。愛衣も、話しかけられる雰囲気でもなかった。
「ここは俺と、愛衣と、嵐志と、結衣の家です。あなたたちの家ではありません」
「でも今は私の家でもある。君たちは子どもだ」
「住んでいるのは俺たちです。これからもそうです」
「邪魔者は排除したいってとこか」
皮肉に満ちた伯父の言葉を、大樹はいとも簡単に「そうです」と一蹴して見せた。一瞬にして伯父の顔が赤くなり、愛衣は扉の陰に隠れた。
「親戚にそんな口の利き方するか! 相変わらず礼儀がなっとらんな!」
「それは伯父さんだって同じですよ。礼儀がなってない人には、礼儀がなってない対応をしたまでです」
それに、と大樹が顔を上げた。
「伯父さんはすでに母さんとは縁を切ってますよね? それならなんで今更、俺たちに執着するんですか。俺たちは赤の他人同然なのに」
大方の想像はつきますけど、と大樹は添えた。
「俺からは以上です。これ以上滞在されるようでしたら、いくら母方の親戚筋とはいえ、不当占拠として警察に出てきてもらいます」
警察、と聞いて伯父が怯んだ。
「今の家主は俺です。今後の一切合切は俺が決めます。この家を俺たちが出たとしても、妹たちはどこへもやりません。俺たちは四人で生きていきます」
愛衣はそっとその場を離れた。廊下を静かに歩き、階段を上がり、自分の部屋に静かに入った。
ベッドの上で、桃子と吹雪が丸くなっていた。その隣で梅吉が毛繕いをしていた。当たり前のような、そうでないような光景だ。
そういえば、玄関に嵐志と結衣の靴がなかった。あらかじめ大樹が外で遊んでくるようにとか言って、避難させたのか。
ふぅ、と息を吐きながら愛衣はベッドの脇に膝をついた。自分はどうしてこうも、誰かの陰に引きこもって泣いてるんだろう。どうしてこうも、弱いんだろう。
布団に顔を埋めると猫の匂いがした。
大樹みたいに強くなりたい、と何度願ったことか。何度行動を起こしたことか。けれど、どこか大事なとこが抜けて、その全てが空回りする。今のところ、全部。
桃子の白い背中を撫でると、こそこそと起き出した。くあっ、と大きなあくびをしたと思ったら、愛衣の顔を見るなり頬を舐めてくる。
「まってまって、くすぐったい……」
桃子を抱き上げると、みゃっ、と可愛らしく鳴く。ぺろぺろと唇を舐めてくる。
「こーら。私のファーストキスは高いんだから。勝手に奪っちゃダーメ」
顔を離しても、やだ、というみたいに鼻を押さえつけられる。可愛い猫パンチ。
「もう、」
ほんとは衛生上よろしくないのだけれど。
「愛衣、今いい?」
ノックの音がする。続いて大樹の声が聞こえてきた。
「伯父さんたち、明日には帰るって」
「……そう」
それ以上、愛衣はなにも言わなかった。
§
部屋の灯をつける。鞄を床に置いたまま、悠馬はベッドに倒れ込んだ。
身体のあちこちが痛む。花鶏と派手にやったのが原因なのだが、妙にすっきりとしたところもあった。喧嘩はほどほどに。その意味がよくわかる。この痛みは、なにかを忘れるのに打って付け。癖になりそうだ。
あの後、花鶏とガチの喧嘩になった。殴って殴られて、蹴って蹴られてを繰り返す。どっちも一歩も引かなかった結果、夜鷹と文乃が連れてきた魔女先生の仲裁が入って
「こーら。国枝くん、瀬呂くん。そんなことするために図書室を貸しているわけじゃないことを忘れないの!」
いつも穏やかな魔女先生が、ぷりぷりとわかりやすく怒っていた。別に怖くもなんともなかったけれど、喧嘩の罰として提示された学校の一角にあるハーブ畑の雑草取りは、結構腰に来た。
ベッドに寝転がったまま、机の引き出しに手を伸ばす。それだけで腕が痛い。一番上の引き出しを探って、黒の携帯電話を出した。仰向けになって連絡先の画面を開く。
ぱっと光った画面の中から、ある名前にカーソルを合わせた。
宮沢詩織。
通話のボタンを押して、息を詰めて耳に当てた。無機質なコールに心臓が音を立て始める。七コール目で、繋がった。
『国枝悠馬か』
詩織先輩は、まるで悠馬から掛かってくるのがわかっていたみたいな口ぶりで電話口に出た。きゅっと喉咽が閉まる音がした。
「……お久しぶりです、詩織先輩」
『元気か?』
「はい」
『声が変だな』
「花鶏と喧嘩した後なので』
『そうか』
「聞きたいことがあって、電話しました」
詩織の話を遮る。悠馬は詩織にバレないように深く息を吸い込んで吐き出してから、声を強めて単刀直入に切り出した。
「愛衣になにを言ったんです?」
詩織は途端に静かになった。詩織の息づかいの向こうから、ゆったりとしたジャズらしい音楽が微かに聞こえてくる。カフェにでもいるのかもしれない。
『なにを、って……なにを?』
問いを問いで帰さないでもらいたい。悠馬だって詩織のことは尊敬している。でもこうした大人ぶったところが嫌いだった。余裕そうで、高尚そうで、なにもかも見透かしている。そんなのは無性に壊したくなってくる。
「……愛衣が弱いことを知らない先輩じゃないですよね? どうしてみんな愛衣を傷つけるんです? あいつは充分に頑張ってるのに。それに、愛衣が先輩に憧れているのを知っていて!」
声が次第に大きくなっていく。
どうして、愛衣を攫ってくれなかったんです? 貴方なら、出来たはずだ。
心臓がどくどくと音を立てている。さっきからずっとだ。これが見当違いの発言だってことは自分でも理解している。でも、言わないと気が済まなかった。
『国枝悠馬……おまえ、勘違いしてないか?』
詩織の声は対岸の火事でも見ているように落ち着いていた。そんな声で淡々と悠馬の言葉を指摘していく。
『いいか。憧れと恋愛は全く別のものだ。一之瀬愛衣は俺に憧れている、だから俺に恋しているとは限らない』
「でもっ」
『一之瀬愛衣に聞いたのか? 彼女が俺のことが好きだって言う証言は?』
なにも言い返せない。聞いたところで愛衣が答えるはずがないのは、わかりきっていたことだ。
携帯を耳に当てながら、ころん、と横にうずくまる。制服のシャツが身体を締め付ける。鼻の奥がつんとしてきて、閉じた瞳が潤んでいくのが微かにわかった。
「遅すぎたな、国枝悠馬」
静かに詩織が告げた。
遅すぎた? なんのことだ。
「な、んで……そんなこと……」
出てきたのは、掠れた声だった。
「おまえが諦めたからだ。諦めていないのなら、どうして今まで手を出さなかった? 陰から守り続けた?」
「それは、あいつが……愛衣が、変わらないでって……」
「いや、違うな。おまえも怖いからだろう、変わることが」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。心の奥底を見破られた音だ。
詩織の言いたいことがわからないほど、悠馬は馬鹿ではない。
愛衣が、周囲が変わることを恐れた。それを知った悠馬も、周囲が変わることを恐れた。自分だけは変わらないように努めた。それが徒になって、悠馬だけを縛っている。そう、詩織は言いたいのだ。
変わることが怖かったのは、俺も同じ……俺の方が、変わることが怖い……?
眩しい光を覗いたときのように、目の前がちかちかと点滅し始める。なにかが血管の中を駆け巡っている感覚がして、偏頭痛を起こす。混乱し始めた脳が、シャットダウンを始めようとする合図だ。
現実を、見ないようにするために。
それを制するように、詩織の声が邪魔をする。
「蛹が蝶になるように、おまえたちはいずれ変わる。羽化しなければならない。変わらないものなんて、ない」
いい加減目を覚ませ、ガキが。
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