4
花鶏が図書室を出ると、風夏の姿はどこにもなかった。
足の速いやつ。夏の風みたいにすぐにどこかにいなくなる。
風夏が愛衣を殴った。
風夏が人を傷つけた。
普段があんなに
何人かに居場所を聞いて回りながら、階段を降りているときだった。中庭の桜の木の下に、あのポニーテールが見えた。うずくまっているらしく、ちんまりと丸くなっていた。
連絡通路から、花鶏は上履きのまま中庭に出た。上履きの下からひんやりとした冷気が伝わってくる。さくさくと枯れ草を踏んで、風夏の元まで歩く。
「おい」
いつものように呼びかける。反応がない。
「おい、聞こえてんだろうが。風夏。あれはダメだろ」
体育座りをしてこちらに背を向けている風夏はびくりと肩を震わせた。花鶏はふうっと息を吐く。一応、自覚があるわけだ。だったらなおさら質が悪い。
「………………愛衣ちゃん、」
「ん?」
「………愛衣ちゃん、壊れそうだった」
腕の隙間からそんな声が聞こえてきた。
「私……引っ張り上げるのに失敗したのかなぁ。愛衣ちゃんの口から、死んじゃいたい、とか……聞きたくなかった」
あぁ……と花鶏は眉を寄せた。
風夏、生死に関することってあんまり得意じゃないんだよな。心臓病で兄の
花鶏も静夏とは交流があった。年が離れていても距離が近かった静夏は、本当の姉兄よりも親しみがあった。
静夏さん、生きたがってたからなぁ。
静夏は生死の境を何度も行き来していた。重篤な症状から、けろっとして元気になったりすることなんてざらにあった。だからこそ、静夏が亡くなったと聞いたときは、なにかの冗談だとさえ思ってしまったのだ。
しゃがみ込んで頭の位置を合わせる。でも風夏は未だに顔を隠したまま、うずくまっている。
「だとしても、なにもしてない相手に手を出すのはダメだろ」
「……わかってる」
「わかってない」
「わかってるッ!」
でも、と風夏が顔を上げた。ぐちゃぐちゃに頬を濡らしていた。
「で、も……ッ、でも、そうしないと、愛衣ちゃん……どっか行っちゃいそうで、」
言いたいことはわかる。愛衣の目を覚まさせたかったのだろう。
花鶏から見ても、さっきの愛衣はなんだか調子がおかしかった。原稿を破るなんて、書いた話を大事にしている愛衣がしでかすことじゃない。
「おい、風夏。おまえはどうしたい?」
「は?」
「これから愛衣とどうなりたい?」
行動を起こすにしろ、そうでないにしろ、何をしたいか明確にしなきゃ始まらない。
風夏は顔を歪めて、うー、と猫みたいに唸り始める。そんなことしても花鶏はなにもしてやれない。考えるのは風夏自身だから。
「……愛衣ちゃんと……仲直り、したい」
「ふーん」
「なにさ」
「じゃあすれば? 仲直り」
風夏は急に顔を真っ赤にして「簡単に言うなーッ!」と花鶏の頭にチョップを落としてきた。ごっ、と気持ちのいい音が脳天に響いた。
「そんなん言ったって結局俺からしてみれば他人事だし」
「他人事で片付けんな!」
「おまえからしたって、愛衣のことなんざ他人事だろうが。でも、そこに突っ込むってことは他人事だとしても関わりたいと思ったんだろ? だったら思う存分やれよ。愛衣に届くかどうか、知らんけど」
結局人が関わりたいと思うのは、そういうことなんだと思う。
それでもよければ、踏み込んでおいで。
そんなことを静夏が
そうだ。きっとそんなものなのだ。風夏が愛衣と仲直りしたいことも。花鶏が風夏を気にかけるのも。悠馬が愛衣を大事にしていることも。
「帰る」と風夏は
それでもよければ踏み込んでおいで。
昔、静夏が作った小さな詩。何故か今思い出していた。
北風に攫われるくらいに小さな声で、花鶏がその続きを唱えた。
「帰る道はないけどね」
§
「愛衣、帰ったのか」
書架の間から悠馬が見たくない顔が出てきた。花鶏だ。
「あぁ。一人がいいんだってさ」
棚に隙間なる収まる背表紙の中から、当たりも付けずに一冊引き抜く。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。花鶏も表紙を覗き込み、「あぁ、『銀河鉄道の夜』か」と呟く。うざったくて振り払うようにその場から離れた。
『銀河鉄道の夜』の序盤は、ジョバンニとカムパネルラのぎこちない関係が描かれている。仲がよかった彼らがどうして話さなくなったのか、理由は明確になってない。宮沢賢治も生前、唯一の友人である
ふと、こんなことを思ったりしてみる。
「ジョバンニとカムパネルラみたいに、あの二人も話さなくなるのかな」
「それだけは
同調するように花鶏が声を出した。
「愛衣、何て言ってた?」
「変わりたくない、って」
「へぇ」花鶏は表情も変えずにギリシャ神話の本を手に取った。
「なんだよ、その反応」
「別に。愛衣も子どもみたいなこと言うんだなって思って」
「子どもだよ」と悠馬は吐き捨てた。「まあだ十五年も生きていないんだ。全てがわかるなんて思ってないけど、知りたいことも制限されているんだから」
そう、まだまだ俺たちは子どもなんだ。少し背伸びをして、知ったかぶりをしている子どもなんだ。悠馬たちの世界は、この図書室の中にすっぽり収まってしまうほど、広くて、狭い。すぐに死にたいって言えてしまうほどに。
「すまない」と花鶏が謝った。
「考えてみれば、そうだな。この中学に入学することも決められていた。俺たちも、また」
可笑しそうに花鶏は笑う。その笑い方が、悠馬は嫌いだった。どこか諦めたような、深くて軽い、泣きそうな声で「はははっ、」と笑うのだ。気にくわない。
「部長の方は何て言ってたんだ」
「バカだから愛衣の言ってることわからないって」
「……ざけんな」
『銀河鉄道の夜』を持って席に着く。
バカだからって何だよ。今更そんな言葉で逃げるのか。愛衣と同じじゃねぇか。
「ずっと気になったんだけどさ」
「なに?」
「約束ってなんだ?」
顔を上げると花鶏がまっすぐ悠馬を見ていた。悠馬も見つめ返す。
「それを聞いて、愛衣に対する態度を変えたりはしないよな?」
「それは全部聞いた後で俺が決める。悠馬が強制させることはできないぜ」
花鶏の言葉に、ぐっと息が詰まる。花鶏の言うとおりだ。愛衣のことを悠馬一人の内に留めておくことはできない。なにが正しいのかなんてわからない中、みんながそれぞれの正しさを掲げて生きている。
「それで態度を変えたとしたら、悠馬は俺をどうする気だ?」
「ぶっ飛ばす」
「愛衣がそれを望んでいなかったら?」
「それでもぶっ飛ばす」
「物騒だな」
「どうとでも言え」
今更、この生き方を変えられるわけがないのだから。
外の日は落ちようとしていて、日が暮れようとしていた。
悠馬は、全部話した。
「馬鹿馬鹿しい」
悠馬の話をすべて聞いて、開口一番に花鶏が言った台詞が、それだった。
「……なんだと?」
「馬鹿馬鹿しいっつったんだよ。アイツに話した約束ってそれのことだろ」
ご丁寧に再度口にした。アイツというのは風夏のことだろう。
花鶏と風夏は幼なじみだ。愛衣と悠馬。風夏と花鶏。同じ関係性でも、この二人とは異なる関係。そう匂わせるような言い方に、悠馬は音を立てて立ち上がった。背後で椅子が倒れる音が大きく鳴った。
「……だからなんだよ」
花鶏は見向きもしない。
「小せぇ頃からずっとそれでやってきたんだ。そんなもんだろ、約束って」
「約束約束ってなにかと思えば……そんなちっぽけなもんに縛られてんのかよ。なぁ、やっぱり悠馬、愛衣のこと好きなんだろ」
「黙れッ!」
バンッ、と手のひらでテーブルを叩いた。
「……黙れ。おまえが決めるな」
隣に座った花鶏の不思議な色をした目は、動揺すらしていない。それどころか不敵に笑って見せた。
「おまえがいつも言うことを返してやるよ」
不意に花鶏も立ち上がり手が伸びて、悠馬の胸ぐらを掴んだ。ぐっと引っ張られると、花鶏の目がギッと睨みつけていた。
「いい加減に現実見ろや。決着つけんのに時間がかかり過ぎてんだろーが。悠馬は一生かかって一個の気持ち決めんのかよ。その間に変わっていくぜ? 俺も、風夏も、おまえも、もちろん愛衣も。なんたって全員オトシゴロだからな。それが免罪符になるわけでもねぇけど、後で喚いたって遅ぇんだぞ」
普段手を出してこない花鶏が珍しいと考えられるほど、悠馬はやけに冷静だった。ただ、初めてのことに顔が熱くなる。花鶏は低い声の調子で続ける。
「わかってほしいなら言葉にしろや。理解してほしくねぇならばっさり嫌われるか、そっちから切り捨ろや。その構ってほしいのかほしくねぇのかわかんねぇ態度いい加減改めろ。結構迷惑してんだよこっちは」
花鶏の手を掴んで服から引きはがす。そのまま手首を捻ると、痛みが走ったのか、余裕そうだった花鶏の顔が歪んだ。悠馬が掴んでいた手をほどく。手で払い除けると乾いた音が鳴る。今度は悠馬が花鶏の胸ぐらを掴んだ。
「べらべらとよくもまぁそんだけしゃべれるな。うるせぇったらありゃしねぇ。そんなに話したかったら部長と毎度同じく喧嘩でもしてれ」
「風夏がなんも考えてねぇお転婆だと思うなよ」
「愛衣だって弱いだけじゃねぇよ」
「知ってるさ。おまえが“愛衣が弱い”って決めつけてるだけじゃねぇか。愛衣はおまえの中で、さっき話したときの小学二年のままなんだろ?」
花鶏の服を掴んだ手に力がこもる。
「迷惑だと思ってんならこれ以上俺の中に踏み込んで来んな、気持ち悪ぃ」
不意に花鶏が体ごとぶつかってきた。緩んだ手から手首を引っこ抜くと、花鶏はそのまま悠馬の上に馬乗りになった。ぐっと胸元を拳で押さえられると、悠馬も身動きがとれなくなる。
「……花鶏の方から手を出すなんてな」
「はっ、悠馬こそよく“待て”ができたな」
かちん、と頭の中でグラスが割れた。悠馬の拳が花鶏の
腹筋を
花鶏の左拳が悠馬の顎を掠めた。
「意外と慣れてんだな」
「中国とロシアに知人がいる。中国拳法とコサック戦術を多少。手習いだけどな」
これは意外だった。花鶏は護身術なんて身につけていないボンボンだと思っていた。それがこれほど動けるヤツとは知らなかった。
「悠馬は合気道だっけ?」
「居合いと小手だけは、友人に少し」
「へぇ」
友人というのには抵抗があった。大樹のことだ。悠馬は合気道に加え、簡単な手習いを大樹から教わっている。
「その全部察したような目ぇ嫌いだわ」
「偶然だな、俺も嫌いだわ」
互いの拳が、空を切った。
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