§



 九月の始業式はまだ夏の気配が残っていて、体育館も蒸すように暑かった。

 その日、下校時間になるとすぐに、愛衣の机の周りに女子たちが群がった。

「一之瀬さん、大丈夫?」

「お母さん、事故に遭ったってほんと?」

 おしゃべりな女子たちの声が、教室中に鳥の鳴き声みたいに響いていた。

 今、その話するかよ。

 悠馬は辟易した表情を浮かべた。

 男子たちとなにして遊ぶかを取り決めていた。サッカー、野球、バスケ、ドッジボール。正直もう飽きたけど、家にいてピアノやら書道やらの習い事に行かされるよりはマシだった。

 愛衣の方を盗み見る。後ろ姿でも動揺しているのがわかる。かちんと固まったまま席に座って動かない。

 今年の夏休み、愛衣のお母さんが交通事故に遭った。

 大人たちが話しているのを聞いた限りでは、容態は悪く、まだ目を覚まさない、とか。残念ながら悠馬はそれ以上のことは知らない。子どもには教えてくれないのだ。心配しなくていいって言って。

「家に帰ってもお母さんいないんだ~」

「寂しいでしょ?」

「ううん、寂しくないよ。お兄ちゃんたち、いるから」

 女子たちの質問に、愛衣は淡々と答える。

 強いな、と悠馬はその様子を見ていた。けれど肩が震えているのを見てしまって、慌てて目を伏せた。見てはいけないものを見てしまった気がする。

「え~ うっそだぁ」

 クラスで一番おしゃべりな女子が大袈裟に声を上げた。

「だってお母さんと一緒にいられないんだよ? そんなの寂しいに決まってるじゃん。愛衣ちゃんかわいそう」

 愛衣の肩が大きく跳ねた。

 お構いなしに周りの女子たちも口を開く。

「愛衣ちゃんかわいそう」

「だから、若葉わかばたちがいっしょにいてあげる」

「そうだね、紗代さよもいっしょにいてあげる」

「お兄ちゃんにいじめられたりするでしょ、私もお兄ちゃんとよくケンカするから、よくわかるよ、愛衣ちゃんのキモチ」

「一之瀬さん、今日お家に遊びに行ってもいい? いっしょに遊んであげる」

 悠馬の中に腹立たしいものがこみ上げてきた。わかってしまった。これは同情だ。善意の押し売りだ。かわいそう。いっしょにいてあげる。自分は誰にでも親切にする、ちゃんとみんなのこと心配してますよ、っていう、優越感。かわいそうって思ってなかったら、女子たちは物静かな愛衣に話しかけることもしなかっただろう。

 愛衣は「ありがと」と小さく言ったが、声だけじゃ、愛衣が今どんな顔をしているのかわからない。

「おーい、悠馬くん」

 小さな声で呼ばれた気がして、顔を巡らす。教室のドアのところで、愛衣の兄、大樹が立っていた。ついっ、ついっ、と愛衣を指している。呼びに来たのか。

「おい、愛衣!」

 そこまで大きな声を出したわけでもないのに、教室中が一斉に悠馬の方を向いた。

「大樹さんが呼んでる」

 愛衣はさっと大樹を見つけると、あ、と声を上げてランドセルを背負った。

「ご、ごめん若葉ちゃんたち……ッ、今日はお母さんの病院に行くの……誘ってくれて、ありがとっ」

 そう告げて愛衣は逃げるように大樹の元に走って行く。すぐに大樹の後ろに隠れてしまった。

「なにあれ、カンジわるっ」

 そう、女子の一人が言った。


 

 それから一週間が過ぎた日のことだった。

 図書室から昇降口に行くには、一階の教室の前を全部通らないといけない。

 本で重たくなったランドセルを背負い、たらたらと廊下を歩く。

 ふと、自分の暮らすの前に差し掛かったとき、教室に誰かいるのが見えた。見慣れた髪飾りが見えて、悠馬は足を止めた。愛衣だった。

 教室の入り口を開くと、がらがらと重たい音がした。愛衣は自分の机に俯せになっていた。二つに結った髪が、腕と机の間から零れていた。

「愛衣」

 入り口から呼びかけると、愛衣がそろりと顔を上げた。悠馬は息を飲んだ。彼女は、泣いていた。少し薄暗い教室の中で、愛衣の頬にへばりついた涙が光って見えた。

「なにしてんだ」

 そっと教室に足を踏み入れる。いつもの教室なのに、迷宮の入り口に立たされたみたいな感じがして、一瞬躊躇ってしまった。

 愛衣はぼんやりと悠馬を見上げていたが、ふと目を伏せて「私、かわいそうじゃない」と涙声で言った。

 どきりとした。そんな悠馬の心情を無視して、愛衣は机の上でぎゅっと両手を握った。

「みんな言う。お母さんが眠ってから、みんなが愛衣のこと、かわいそうかわいそうって言う。愛衣はかわいそうじゃないのにっ」

 そう言う間にも、愛衣の大きな目から大粒の雫が零れていく。ポケットを探るが、気が利かないことに、悠馬はハンカチを持っていなかった。

「なにか、」

 悠馬は机の横に立つ。

「なにか、俺にできることはある?」

 なんでもやってやる。難しいことでも、愛衣が泣くのをやめるなら、なんだってやってやろうじゃないか。かわいそうって言った奴らをぶっ飛ばすことだって、なんだって。決意を込めた小さな両手でランドセルの肩紐をぎゅっと強く握りしめた。

 けれど、愛衣は小さく唇を震わせた。

「変わらないで、」と。

「え、」

「おねがい、ゆーまだけは、変わらないで」


 

  §


 目の前で泣いている愛衣の手が、熱い。熱でもあるんじゃないかってくらいだ。

 手を握るでもなく、繋ぐでもなく、ただ触れているだけ。これ以上、悠馬は愛衣に踏み込んではいけない。二人の関係はこれ以上、変わってはいけない。悠馬は自分をそう律していた。

 変わりたくない。

 そんな愛衣の願いは、そのまま悠馬の願いになった。

 変わらないで。

 あの頃のままでいて。

 例え、なにも考えていない子どもの戯言だとしても、それは悠馬の中で根付いて、芽吹いて、成長して大きな木を育て上げた。枝葉は、悠馬自身の感情を養分として伸び続け、悠馬に暗い陰を落としていた。

 死にたいなんて言わないで。いなくならないで。

 俺は、愛衣がいなくなったら、どうしていいのかわからないんだ。愛衣がいなくなったら、悠馬が約束を守る意味がなくなってしまう。生きる希望がないのなら、俺のために生きてよ。

 ―――なんてこと、言えるわけがない。

 言ったら愛衣を縛ることになる。それだけはしたくない。

 愛衣が望んでいるのなら、望みの通りにしてやればいいじゃないか。それがおまえの望みでもあるんだろ?

 心の奥でもう一人の自分がそう言っていた。愛衣が望んでるんだ。叶えてやれよ、と。

 違う、と叩きつぶす。そんなこと俺自身だって望んでいない。

「ねぇ……愛衣……死にたい、なん、て……言わない、で」

 途切れ途切れに口にすると胸がぐっと重苦しくなった。心臓の皮が破れてなにかが溢れ出しそうだ。でも、これが今の悠馬の望んでいることなんだ。誰にも口出しさせない。それが自分の本心だとしても、だ。

「ゆーま、」

 愛衣の、舌足らずなものの言い方に、思わず懐かしさがこみ上げる。

「なに?」

「私……かわりたくない、かわらなきゃいけないって、思ってるのに……私、それから逃げてる………最悪だ」

 知ってるよ。

 声に出さず、ただ耳を貸すだけにした。

 だから、だから抱きしめることもできないんじゃないか。本当は俺だって、抱きしめて、思いっきり腕の中で泣かせてやりたい、大丈夫だって言ってやりたいんだ。

 一つ、内側に芽生えた感情の名前に、悠馬は憤った。

 やっぱりこれか。

 これしかないのか。

 観念して、瞼を閉じる。気持ちにけじめをつけなくちゃいけない。この気持ちが何なのか、知りたくなかった。知らなきゃよかった。こんな思いをするならば、愛衣と出会わなければよかった。

 誰か、と胸の内で叫ぶ。

 誰か……早く愛衣を攫っていってくれよ。

 そうじゃないと、俺は……

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