どうしたらいいんだろう。

 なにが間違っていたのだろう。

 大樹はどうしているだろう。一番辛いのは兄のはずなのに。

 とろとろと窓から差す冬の陽だまりが愛衣の頭を優しく撫でた。そっと、その隙間に細い指の感触が加わる。夜鷹の手のひらが撫でていたのだ。

「大丈夫ですか?」

 答えることもできず、ただ首を横に振った。

 今日の授業はまったく身に入らなかった。

 放課後に図書室のお気に入りの席でじっと俯せになる。机からニスの匂いがした。後ろで悠馬が、詩織先輩と会って話したことを説明してくれていた。その断片が耳にも聞こえてくる。その度に身を固くして縮こまった。

「なるほど。それであんなに落ち込んでいると」

「詩織先輩に言われちゃったのなら、そりゃあ落ち込みますね~」

 隣に誰か座る気配がした。「愛衣ちゃん、大丈夫?」風夏だ。こんな時も彼女は元気づけるように笑っていた。天真爛漫てんしんらんまん具現化ぐげんかしたような笑みを直視できない。

 やめて。そんな顔を私に向けないで。

「詩織先輩も悪気があって言ったわけじゃないんでしょ? そんなに気にすることないって」

 どうしてだろう。風夏から発せられた言葉の数々が、泥のように身体に溜まっていく。

 やめて、そんな言葉、今は向けないで。

 開いた鞄の口の原稿用紙が目に留まった。一体何のために書くのか。詩織先輩の声が蘇り、気がついたらそれを手に取っていた。

「愛ちゃん先輩?」

 ざしゅっ、と甲高い音を立てて原稿用紙の束が勢いよく破れた。妙な不協和音を立てて続けざまに愛衣の手が原稿用紙を破る。

「ダメです愛ちゃん先輩ッ」

 夜鷹の手が手首を掴んだ。

「せっかく生み出した物語を、そんなふうに殺しちゃダメです! もうすぐ完成、でしたよね? だったら殺しちゃダメです」

 夜鷹は優しすぎる。自分が書いた作品も、一つの生き物のように扱う。だから書くと決めた話は最後まで書ききるし、物語に出てくる人物一人ひとりに対して生きているみたいに振る舞う。生きているのだ、夜鷹の世界では。書くことを通して彼は紙上の人物と対話している。だからこそ、書くことを途中でやめることを、夜鷹は「殺す」と言うのだ。

 手から細かくなった紙切れがはらはらとこぼれ落ちる。これも、夜鷹にはどう見えているのだろうか。

 掴まれていた手を振り解くと「愛衣ちゃん」と風夏が肩を掴んだ。

「夜鷹の言うとおりだよ。いくらむしゃくしゃしてるからって、物に当たっちゃダメ」

 じゃぁ、と言いかけて口を噤んだ。首の辺りがちくちくしている。言葉を飲み込む度に胸が締め付けられるみたいに痛んで、お腹がだるくなってくる。吐き気を我慢している時みたいだ。

「だって、私、もうなにもできない」

「逃げるの?」

「兄さんのことも、雪彦さんのことも、上手く立ち回れているって思ってた。でもそんなことなかった。むしろみんなに気を遣われていて、すぐにボロが出ちゃう。書くこともできなくなった私には、もうなにもできない」

「愛衣ちゃん……」

 風夏を遮るように「大丈夫だから」と言い放つ。すると彼女はきっと愛衣を見据えた。

「大丈夫じゃないよ」

「大丈夫だって言ってるでしょ」

「今の愛衣ちゃんの状態見て、大丈夫じゃない」

 噛みつくような風夏の勢いに押されて、思わず一歩後ずさる。腰が椅子に当たって、ずった音が聞こえた。

「あぁ、もううるさいなぁ。迷惑掛けないようにするから、もう放っておいてよ」

「愛衣ちゃんは放っておいて欲しいんじゃない。自分が放り出したいだけだ」

 彼女の言うことは正しい。いつだって正しく胸を指す。愛衣の肩を掴んで風夏が堂々と前に立つ。

「嫌なら嫌ってはっきり言えばいいじゃない。嫌な状況から逃げ出したいにもかかわらず、なにもしないで嘆くのは、問題を放棄したことと同じだよ。それを選択しておいて、現状がさらに悪くなってからなにもできなかったと嘆くのは、筋違いだ」

 風夏の腕を振りほどく。簡単に、あっけなく振り払われた手を、風夏は虚しく見つめてから下ろした。

「どうしようもないときがあるの。自分の無力さを突きつけられて、現実をまざまざと見せつけられて、それでも反発していたらなにもかもを奪われた。足掻あがいて掴んだ真実が、これ以上周りを傷つけるなら……もういい」

 この言葉を口にするのは、初めてかもしれない。ずっと嫌いだった言葉は、こうもあっさりと出てきてしまうんだ。

「それならいっそもう、死んじゃいたい」

 図書室の中がしん、と静まりかえる。空気が一変した。風夏の目の色が変わったのを見て、しまった、と後から思い返しても、もう遅い。

 風夏はぎゅっと唇を噛み、手のひらで愛衣の頬を打った。バシッ、と鈍い音がして遅れて頬が熱くひりついた。目を見開いた悠馬と花鶏が、同時に風夏を制するようになを叫んだ。

「そういうの、大っ嫌い」

 風夏の声色が変わる。低く、底冷えのする声だ。愛衣も身震いした。

「そんなことしたら周りが調子乗るだけだ。どんどん固められていく。もっと身動きが取れなくなる。その前に、愛衣ちゃんが正しいって思ったことをやればいいだけの話じゃないっ、なにをそんなに臆病になってるの? 自分が思うことをしなきゃ、後悔するよ!」

 ちくりと胸を針で突っつかれたみたいに痛んだ。

 臆病? 後悔? そんなのとっくにたくさんしてる。

 手が痛いと思ったら、爪が食い込むぐらいぎゅっと握りしめていた。気づかなかったくせに、そんな軽いこと言わないで。

「考えれば道は開ける? じゃあ考え疲れたときは? なにもかも雁字搦がんじがらめで動けなくなったら? なにが正しいのかわからない、その中で動けですって? もうやだ。私が動いたから兄さんも雪彦さんも傷つけた。なにもできないのならもうなにもしたくない!」

「そんなの単なるままだ、愛衣ちゃんは、自分が望んでいる結果をただじっとまっているだけだ。求めるなら、掴みに行かなきゃダメだ」

「今の今まで動いてきた、でもっ、その度に壊れていく。もう壊れるのはいや!」

「変わらないものなんかない! 今まで通りじゃ上手くいかないことだってある! もう、愛衣ちゃんのことわからないよ!」

「風ちゃんにわかってもらえたなんて思わない、そんなふうに思うなら、わかってもらえなくたっていい!」

 自分の中に、こんな荒々しい感情がまだ眠っていたことに驚いた。勢いに任せて吐き出した感情が、図書室の中に感染していくのがわかる。まるで時間が止まったみたいに静かで、でも確かだった。

 肩で息をする。喉が痛い。きりきりと締め上げられる。

 このまま、と思う。このまま愛衣から声を取り上げて、しゃべれなくしてほしい。そうじゃないと、また余計なことを言っちゃいそうだから。傷つけることを言っちゃいそうだから。

「…………もういい」

 静かな声だった。

 風夏はそれだけ言うと、くるりと踵を返して図書室から出て行った。夏の日差しに似た鮮烈な光を愛衣に浴びせて、夏の風ようにその場から姿を消したのだ。

 違う、と唇が震えた。

 望んでいたのはこんな形じゃない。

 手が離れてから、気づくものがある。まさにそれだった。

 違う、ともう一度、届かない声が零れた。


  §


 後ろで扉がぴしゃりと閉まる音がした。その途端、悠馬を縛っていた鎖がぱちんと音を立てて解けた。

「愛衣っ」

 駆け寄って支えたはずの彼女は、すぐに腕の間から崩れ落ちる。あ、と悠馬が声を上げる間もなく、彼女はへたりと床に蹲ってしまった。

「ちがう……」

 愛衣の少し高くてかすれた声が響く。

「ちがう……私、こんなことのぞんでないっ」 

「…………わかってる」

 正しいと信じた場所はここじゃない。でも走ることはおろか立ち上がる力も、彼女にはもうない。

「どうしてこうなったの? 誰が悪かったの? なにが間違ってたの?」

「誰も悪くない」

 悠馬が静かにさとす。

「だから、愛衣も悪くないんだ」

 涙の数だけ強くなれるって人は言うけど、それは逆だ。今まで何回も聞いてきたけど、これまでたくさん泣いてきた愛衣は、ますます弱くなっていくばかりだ。

 正しさなんて存在しない。鋭い正しさは武器になるが、守る楯にはならない。別の正義を掲げれば、互いが互いの敵になる。誰かの正しさは、誰かの間違いなのだ。

 そっと指先で頬に触れる。指の背で頬を撫で、手のひらで零れた雫を拭う。やわらかい頬は熱くて、冷たくなった指先は簡単に溶けてしまいそうだ。

 悠馬の指に愛衣の指先が触れる。指先も熱かった。

「ゆーま、私、変わりたくない」

「……知ってる」

 知ってるよ。愛衣はずっと前から、そう言ってたね。

 目の前で両手で顔を覆い、声を上げてなく愛衣が、小学二年生の愛衣と重なった。


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