7章

「愛衣」

 呼びかける声。まどろみの中、優しく名前を呼ばれて眠りの底から浮上する。目を開くと恭平がいた。ぼんやりとした目で見返す。まだ朝の五時前だろう。恭平がこうして訪れるということは、当直の日。つまり仕事に戻らなければならない時だ。

「おとうさん……もう行っちゃうの?」

「あぁ」と恭平が声を漏らす。「ごめんな。愛衣が大変なときに傍にいてやることができなくて」

 枕に頭を置いたまま、愛衣はふるふると首を横に振った。

「だいじょうぶ。兄さんがいるわ。嵐志と結衣も」

 恭平の大きな手のひらが頭をやさしくなでる。大丈夫と言ったけれど今回に限って、行かないでほしい、なんて思ってしまった。それを隠すために布団から体を起こして言葉を重ねる。

「桃子もいるわ。吹雪も、桜子も、梅吉さんだって……一人じゃないよ。だから安心して」

 どうして止めないの? 頭の中でもう一人の愛衣が声を上げている。お父さん行っちゃうよ? 行ってほしくないんでしょ?

 そんなことをしても無駄だってわかっている。お父さんはこれから仕事なの。日本の海を守っているの。それがどれだけ大変なことなのか、聞かなくてもわかる。前に恭平はこう言っていた。「父さんの仕事は、小さな戦争だ」って。でも……

 愛衣はベッドにへたりと座り込んだまま恭平に抱きついた。行ってほしくない。

「愛衣は隠すのが下手だなぁ」と恭平も抱きしめ返してくれた。

恭平が着ている青いウィンドブレーカー。当直の日に必ず着ていくものだ。潮の匂いが染みついている。愛衣は海は好きだ。でもこのウィンドブレーカーについている潮の匂いは好きじゃない。愛衣たちから恭平を奪う匂い。

「お父さん。私、学校でやったこと、後悔していない」

「うん」と小さく恭平が言った。

「兄さんが、雪彦さんと付き合って……恋人になってよかったと思っているの。だって、そのおかげで出会えた人もいるし、知らなかったことを知ることができたの」

恭平は適度に相槌をして静かに聞いてくれた。腕を緩めて恭平と顔を見合わせる。

「だから、だからね……今度は私が教えるの。居てもいいんだって。居なきゃダメなんだって」

「うん。そうだね。人は他人に肯定してもらって生きているわけじゃない」

 でも……と恭平は唇を噛んだ。「雪彦くんのことは、力になれなかった。大人として情けないな」

 恭平も雪彦のことをちゃんと考えてくれていたのだ。虐待のことは大樹から聞いたという。けれど「大人として」という言葉に愛衣は引っかかった。大人だからどうにかできるということではない気がする。

「大樹には話したことだけど、もし、彼の身に何かあったら遠慮なくこの家に住んでもらうといい」

 はっと愛衣は顔を上げた。

「何かあることがないように、祈っているけれどな。幸い、嵐志も結衣も、彼を好いているようだし、大樹も同じようなことを言っていた。このまま放っておけないって」

 愛衣は布団を見つめた。そこまでの行動する勇気は愛衣にはなかった。

「愛衣」恭平がゆっくりと髪を撫でる。「人には得意なことと、そうじゃないことがある。愛衣は、愛衣ができるところで伝えていけばいい」

 前に「無理をするな」と恭平は言っていた。愛衣はその言葉の意味をようやく理解した。あれは「なにもするな」という意味じゃない。自分ができることを最大限に使えという意味だったのだ。愛衣は恭平の言葉に強く頷いた。

「わかった。今度こそ、大丈夫」


  §


 父が仕事に出て行ったその朝、伯父は酷く不機嫌だった。ダイニングにどかっと座ると「飯」とだけ告げて新聞を広げる。伯母が小間使いのようにくるくると動き回っているのが、愛衣は気持ち悪かった。典型的な亭主関白。現実で見るとは思わなかった。

 少し軟らかいごはん。固めの目玉焼き。全部伯父の好みだ。彼らが来てからというものの、全部の食事が伯父の好みに沿っている。

 目玉焼きを飲み込んで、愛衣はぐっと伯父の顔を見た。

「伯父さんたちは、いつまでこの家にいるんですか?」

 正面に座る大樹が視線で窘める。

「愛衣ちゃん、どうしてそんなこと言うの? お父さん出て行っちゃったから?」

「お父さんは関係ないでしょ」

 ぴしゃりと言いつけると、伯母は布巾で涙を拭う仕草をした。その所作の一つ一つが気にくわない。こんな人が母の親戚とは思いたくなかった。そっと伯父の反応も覗う。昨日みたいに爆発されたら、と考えたがその時はその時だ。

「私たちはもう平気です。学校にも行けます。ご迷惑をおかけしました。もう結構ですので、長野の方にお帰りになってくださいと行ってるんです」

「愛衣、やめなさい」

 大樹が言うと同時に伯父がじろっと愛衣を見た。その視線をきっと受け止める。何か反論があるかと身構えていたが、彼は「そうだな」と息を吐いた。あまりにもやんわりとした物言いに、思わず「え」と声を漏らしてしまった。

「伯父さん、」と大樹も視線をやり、嵐志と結衣も息を潜めて様子をじっと見ていた。

 伯父は全員を見回してから「考えていたことがある」と切り出した。

「君たちを連れて、長野に帰る」

「え?」

「この家にいるのは悪影響だ。父親は帰ってくるとはいえ、一週間もしないうちに出て行ったじゃないか。ちゃんとした親がいないから、こんな風に育ってしまったんだな。私も反省している」

 伯父は既に決定事項だとでも言うみたいに淡々としていた。ちゃんとした親がいないから? ちゃんとした親ってなに? ちゃんとしていないといけないの? ちゃんとするって、どういうこと? 一瞬にして頭の中が混乱し始める。

「伯父さん、ちょっと待ってください」

 大樹が声を上げた。

「俺も愛衣も受験生ですよ? 愛衣はもう願書も出してしまったし、俺だって年を越したらすぐにセンター試験があります。嵐志だって中学に上がりますし」

「ちょうどいいじゃないか。卒業するまではこっちで過ごして、それから長野に来るって手もあるぞ。愛衣の分は取り消してもらうように頼んでみるとしよう。大樹は、望むなら一人暮らしをするのもいい」

 伯父は不遜な笑みを浮かべて大樹と愛衣、それから嵐志に目配せをすると「学校の友だちも、躾がなってないらしいじゃないか」と付け足した。

 愛衣だけじゃなく、大樹と嵐志の表情がさっと変わった。きっとそれぞれ思い浮かべる友だちがいる。特に大樹の顔色が悪くなった。誰を思っているのか、愛衣にはすぐにわかった。愛衣も風夏や悠馬を始め、文芸部の面々が脳裏に浮かんだ。

「でもっ」

 愛衣が口を開いた瞬間、ものすごい速さでフォークが飛んだ。かしゃーんっ、と音を立てた後、嵐志が席を立った。

「冗談じゃねーよ! なに本人のいないところで勝手に話を進めてんだ! よく言う“大人の事情”ってやつか? ふざけんなっ!」

「嵐志やめなさい」

「ヤダね!」と大樹の声を一蹴する。「大人の言い分で振り回されてたまるかってーの。結衣、行こーぜ」

「え、あ、でもごはんっ……」

 律儀に全部食べようとしていた結衣の腕を掴んで、嵐志は荒々しくダイニングを出て行った。静かになった食卓に、ふんっ、と伯父の鼻息が響いた。あらあらもったいない、と伯母が結衣たちの残した分を片付けた。

「私も……」

 愛衣も席を立った。

「私も絶対行かないから」

 涙声になっているのを悟られないように、顔を俯けてダイニングを出た。


 逃げるように家を出る。乱暴にかかとを踏みつぶしたまま、運動靴の靴紐が解ける。そのままま百メートル近く、一気に走った。背負った鞄が背中で暴れ、ばっさばっさと中の教科書やノートが悲鳴を上げる。息が切れ、立ち止まったところで深呼吸をすると、心臓がぐっと痛んだ。

 そのとき乱暴に肩を掴まれる。

「待てよ愛衣! さっきのあれは何だ」

 極力感情を抑えていたが、ダイレクトに怒りが伝わってきた。それはそうか。また伯父を刺激する発言をしたから。でも、と愛衣は向き直る。どうしてその怒りが私に向けられなければいけないんだ。

「どうして兄さんはそんなに冷静でいられるの?」

「伯父さんたちが居てくれる厚意を、あんなふうに言ってはいけない」

「厚意? あれが?」

 腕を振り払って大樹を見上げた。

「私たちのためだって言って家の中をぐちゃぐちゃにされるのが? 悲劇のお姫さまみたいに家の中に閉じ込められる様子が? 兄さんのためだって言って、雪彦さんを殴ったことが、全部厚意だって言うのっ?」

 吐き出した。全部吐き出してやった。与える側が善意だと思っていても、受け取る側が悪意だと取ってしまえば、それは本質的に悪意になる。虐めと同じだ。虐められている側が「これは虐めじゃない」と言えば、虐めじゃなくなる。単なるお遊びになる。それと同じことなのに、どうしてわからない?

 しかし大樹は別のことに驚いていた。彼の目に動揺が走っている。

「雪彦が、なんだって……?」

 北風がひゅうと強く吹いた。どうして、と掠れた声が風に飛ばされる。愛衣の喉咽が乾いていく。そんな、まさか。

「知らなかったの?」

「知らなかったさ!」

 大樹の大声に反射的に身を竦める。

「殴られたって、誰にっ」

 問いはするが兄もバカじゃない。既に見当はついていた。自分の半身をちぎり取られたみたいに、大樹は片手で顔を覆った。理解した、とでもいうように大樹ははっと瞬きをする。

「だから、さっきあんなこと言ったのか」

「そうよ。私は伯父さんたちを害と見なしたの」

「だとしてもあれはダメだ。言い方ってものがある。機会を待つんだ」

 愛衣は自分の感情が冷めていくのがわかった。どうして? 恋人が殴られたのに、どうしてそんなことにこだわるの? 愛衣には理解できなかった。このどろどろとした胸の中の渦巻きは、何なんだろう。

 自分の気持ちを優先したい愛衣と、態度を窘める大樹。いつまで経っても平行線だ。どうしてもわかってくれない大樹に、愛衣は拳で彼の胸を叩いた。

「兄さんなんかにわかんないよ」

 大樹はなにも言わなかった。ただ、愛衣の頭に手を置いた。その手をたたき落とすと、乾いた音が大きく響いた。大樹は伏し目がちに愛衣を見下ろしていた。

「俺の、示し方が悪かったのかな……」

 愛衣はいたたまれなくなって、大樹の頬を叩いた。

「そんなこと関係ないっ! だって兄さんはっ、」

 その続きが言えなかった。歯ぎしりに口の中が痛くなる。くるりと兄に背中を向けて、再び走り出す。

 曲がり角に入ると、大樹の気配が消えた。それでも愛衣は走る足を止めなかった。心臓が身体の中で、暴れている。


  §


 足の裏が痛い。それはそうだ。さっきからずっと足音を立てて歩いているのだから。身体の中で風が暴れている。

 長野に行くって? 転校だって? これだから大人って嫌いなんだ。嵐志たちの気持ちなんか知らないで、友だちの価値を勝手に決める。

「嵐志お兄ちゃんっ、まってぇ」

 か細い声がランドセルのかたかたという音に紛れて聞こえてきた。結衣が躓きそうになりながら、走ってくるのが見える。小さな膝小僧が少し擦り剥いて、血が滲んでいた。

「お兄ちゃん、早いよぉ」

「ごめん……転んだ?」

「へーきっ」

「絆創膏ある?」

「もってない」

 追いついて息を整える結衣の膝についた砂を払って、ランドセルから絆創膏を出して渡す。ミントグリーンに四つ葉がプリントされた絆創膏をじっと見つめながら、結衣はおずおずと口を開いた。

「お兄ちゃん、結衣たち、ばらばらになるの?」

「なるかッ!」

 さっきのことを思い出して、また身体中が燃えるようにかっと熱くなった。

「俺たちはばらばらになんかならねぇ! それだけは絶対だから!」

 むにむにと両手で頬を揉むと、結衣はえへへ、と緩んだ笑みを浮かべた。やがて、友だちを見つけて結衣は走って行く。

 その後ろ姿を、嵐志は真剣な目で眺めていた。

 なんとか、しなきゃ。


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