6
日付を超えても、愛衣は眠ることができなかった。水を飲みに降りてきた愛衣に、部屋から出てきた大樹が「起きてたのか」と声をかけてきた。
「眠れなくて。兄さんも?」
「ちょっとな」
いつでもどこでも夜は安眠する大樹が珍しい。大樹は水をいっぱいぐっと飲み干して、なにか決心したみたいに口を開いた。
「今日、雪彦の家に行ってきた」
「え?」
雪彦の家の事なんて聞いたことなかったから、愛衣はただ驚いた。しかも大樹が言うには、ここ最近雪彦は学校に来ていないらしい。部活でも姿がないという。
愛衣の頭に嫌な予感が過ぎる。大樹の隣に座って、おずおずと口を開いた。
「兄さん……もしかして、雪彦さんも……?」
虐められていた?
「虐めくらいで雪彦は弓道を休んだりしないよ。そうだな。虐めだったらまだ楽だったのかもしれない」
声にならずとも大樹は愛衣の言いたいことを汲み取ってくれた。けれどすぐに声が暗く落ちる。
「楽って」
「虐待だ」大樹が苦しそうに顔を歪めた。「……雪彦、虐待されてる」
「え、」
「それも、逆レイプ」
愛衣の目の前が真っ暗になった。
親が不在がちだったとしても、周りとのライフスタイルが異なっていたとしても、兄妹がいて、尊重し合えて、愛されている。自分がどれだけ恵まれた家庭に生まれたのかを、実感してしまった。そして『恵まれた』部分に嫌悪した。これじゃ、何も言えない。ただ憐れんでいるようにしか聞こえない。
虐待の事実を伝えられていない愛衣は、まだ深いところまで信頼されていないのかもしれない。自分の身体を抱きしめた。震えているのは寒いからだけじゃない。「幸せだ」と答えた雪彦の声が、愛衣の身体を縛り上げていた。
「どうして……」
「愛衣?」
「どうして、どうしてっ、雪彦さんが傷つかなきゃいけないの?」
「愛衣っ」
「兄さんと付き合っているから? 男同士だから? そんなの雪彦さんの自由なのに、なんで、好きになることを他の人に否定されなくちゃいけないのっ? 雪彦さんはっ、兄さんと幸せになっちゃいけないっていうのっ?」
「愛衣!」
肩を大きく揺さぶられた。大樹の声で引き戻される。はっと我に返ると、大樹の顔が視界に入った。そっと人差し指が唇に当てられる。
「混乱するのもわかるけど、もう少し声を抑えて」
「……ごめんなさい」
促されて椅子に座る。
「愛衣。虐待とかネグレクトとかってのは俺たちが経験したことないものだ。だから、落ち着いて聞いて」
愛衣の手に大樹の手が重なる。すごく、熱かった。
「雪彦が抱えているものを受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいる。未だに病気だって言ったり、偏見されたりする。それが、たまたま雪彦の親だったんだ」
見たこともない雪彦の親に対して、得体の知れない感情が吹き出してきた。
苦しい。悔しい。悲しい。虚しい。
それらがどろどろと体内で渦巻いている。
収まったと思ったら、次に ざわり と出てきたのは兄への怒りだった。
「兄さんは、それで片付けるの?」
「そういうわけじゃない」
「そう言ってるようなものじゃないっ」
熱い手を振り払う。
「偏見してるのがたまたま雪彦さんの親だったって、そんなの言い訳にしかならないわっ、家族なのに、そんな、性暴力なんて……傷つけるなんてっ……それなのに兄さんは他の家のことだからって、何もしないでいるの?」
「違う」
「違わない!」
言われてないから、聞かされてないから。そんな言い訳通用しない。親だから、家族だから多少の暴力も許される、そんなの免罪符にもならない。
「もう寝るっ、おやすみっ」
いたたまれなくなって早足で部屋に戻る。布団を被ると、一気に暗闇が襲ってきた。少し遅れて、後悔する。
そうだ。大樹も知らなかったんだ。ショックが大きいのは、大樹の方なのに。
「私……兄さんに、酷いこと言っちゃった……」
目から熱い雫がこぼれた。
§
ベッドの中で丸くなった。どうも起きる気になれない。もうすぐ期末試験で、早い者はもう入試が始まっている。数学が壊滅的にできない大樹も、今回だけは赤点でもいいかと思えてしまうのだから恋愛というものはバカにできない。
雪彦は虐待を受けていた。
その事実が切なく大樹の胸を縛り付ける。痣を見たとき、雪彦は大樹だけには知られたくないと言った。
様子を見に影崎家を訪れたのは間違いじゃなかった。いや、この問題に正解も間違いもありやしないのだ。
「……兄さんはそれで片付けるの?」
愛衣に話すとそう返ってきた。愛衣はまず見てもいない雪彦の両親に腹を立て、それからその怒りの矛先を大樹に向けた。
「兄さんは他の家のことだからって、何もしないでいるのっ?」
頭の中で、その言葉が繰り返される。
こういうとき、兄弟の一番上は大変だ。下の兄弟の世話焼きなら喜んでやるけれど、自分の問題になるとどう解決していいのかわからない。頼るものがない。それもこんなに大きな問題を。
「雪彦は、今までずっとこんな気持ちを一人で……」
そう考えると、やっぱり後悔しかやってこない。無力だ。自分は誰も助けられない。やっと大切に思える相手とで会えたっていうのに。
「だーいーきっ、あーけーて」
部屋の外から声がした。大樹のことを大樹と呼ぶのは、この家に一人しかいない。
「入っていいよ、父さん」
扉を入ってくるなり、恭平はドアの梁にゴンッ、と頭をぶつけた。背が高いのは見栄えもするしいいけれど、悪いところだってあると教えてくれる。
「ごめん、大樹。早朝に
仕事か。そうだろうとは思っていた。
「大丈夫だよ、父さん。仕事頑張って」
「ありがとう。大樹がいるから、俺も安心して家を空けられるよ。といっても、伯父さんのことは心配だけど」
大樹は苦笑いをしてみせる。父さんにも心配事なんてあるんだ。普段から子どもみたいに無邪気で、脳天気に見えるのに。
「それじゃ、準備するから。大樹が起きる頃には、もういないかもだけど」
「大丈夫だって」
そう言って、大樹の胸に引っかかるものを感じた。
今しかないよ。次、いつ帰ってくるのかわからない仕事なんだから。
胸の内が囁いている。
甘えるなら、今しかないよ。
「父さん、」
胸の声に押されて、大樹は父の背中に声をかける。
「どうした?」
大樹はなにも言えなかった。なんでもないと言えという気持ちと、素直に甘えろという声が混ざり合って、なんて言っていいのかわからなくなっていた。
「どうしたー? そんな変な顔してー」
大きな手が大樹の両頬を包み込む。その温かさと大きさに、途端に泣き出しそうになる。顔を見られたくなくて、恭平の胸に飛び込んだ。背の高い大樹が唯一、胸に飛び込める相手だ。
「父さん、ごめん……ちょっと、聞いて」
「いいぞいいぞ、大丈夫だから。座ろうか」
ベッドに二人腰掛ける。それでも恭平は大樹の両手を握ってくれた。それだけで、とても安心できた。
「父さん、俺、どうしたらいいのかわからない。家のことも、雪彦のことも」
話し出したら、案外すらすらと言葉が出てきた。それでもつっかえるところはつっかえる。
「雪彦、さ……虐待されてたんだ。それも性的なこともされてたみたいで……俺、なにもできなかった」
恭平はなにも言わずに聞いてくれた。
「俺、知らなかったんだ。だってアイツ、なにも言わないから。話さないってことはさ、踏み込んでほしくないってことでしょ? それなら……今この状況になっているのは誰のせいなの?」
誰のせいでもない。そんなこと大樹だって重々わかっている。でも問いかけずにはいられないのだ。原因を作り、誰かに擦り付けたい。そしたら、その誰かをぶん殴ることだってできるから。
「俺、なにもできなかった」
父の手を握り返す。暖かさは失われない。大樹に話す勇気と、大丈夫だっていう安心感をくれる。それが嬉しかった。
「知ったときには最悪な状況になっていて、雪彦は酷く傷ついていた。俺は怖くて、アイツに触れるのだって
思わず、胸にため込んだ声が零れた。もう止められない。聞いてもらいたい。受け止めてもらいたい。息が荒くなって、呼吸するのさえ難しい。恭平の手が背中をさすってくれる。その優しさがほしいよ、父さん。
「父さん、俺……」
きっとみっともない顔をしてるんだろう。それでも息を乱しながら、大樹は父の顔をぐっと見上げた。
「俺……怖いよ。どうして、どうして世界は雪彦に……俺たちに優しくないの?」
いくら大人ぶったとしても、大樹は所詮高校生。恭平の前では、まだまだ子どものままなのだ。
「……そっか」
恭平はそう言っただけで、大樹の肩に手を回したまま抱き寄せてくれた。「……そっか」ともう一度、呟いていた。
大きな腕の中で、大樹は目が潤んでいくのを感じた。そして、ついに雫が一つ零れた。それを皮切りに、大樹は身体を震わせて、大声を上げて泣き出した。最初、それが自分の泣き声だとわからなかった。
恭平はなにも言わず、大樹の顔を胸に埋めさせ、ぎゅうっと強く、自分の身体の一部のように大事に抱きしめてくれた。
この人が父親でよかった。心の底から、そう思えた。
安心したのか、大樹はそのままずっと泣き続けていた。
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