携帯の画面が眩しい。

 暗い部屋の中で、ベッドにごろんと横になる。雪彦は画面を見ながら文字を打ち、消して、また打ち込んでは消して、を繰り返していた。

 大樹に別れを切り出す。もう決めたことだ意志は固まっている。もうこれ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。これは雪彦がいた種だ。悔しいけれど、その咲いた花は雪彦が刈り取らなきゃいけない。

 なんて送ればいいんだろう。ぼんやりと働かない頭をフル回転させる。

 横になった雪彦の身体は内側から熱がこみ上げている。眠気とだるさが残っている。夜通し連日で母に性をもてあそばれた代償だった。

 なにも感じなかった。行為が終わった後には罪悪感が残った。寝返りを打つのも億劫おっくうだ。立つこともしたくない。

 もう一度、携帯の画面を開いた。なにを言うか決めてないのに、いろいろ打ち込んでは、その分また消した。家に一度来た大樹は、もうなにが起こっているのか知ったかもしれない。それなら大樹がもっと踏み込んでくる前に、雪彦の方から離れるべきだ。

 雪彦は別れのメールを送って、このまま会わないでいるつもりでいた。大樹には無責任な人として見えるだろう。

 いっそのこと、もっと酷い言葉を打ち込んでやろうか。おまえへの情なんか枯れてしまった、って。心臓を突き刺してやろうか。さすがにお人好しの大樹もこれは傷つくだろう。それでいい。嫌われるように、彼の目に映れば。


 できない。

 画面をベッドに伏せて両腕で顔を覆った。喉が引き攣って声すら出ない。息が掠れて唇から出ていった。

 こんなこともできないのか。どうしても大樹を傷つけないように言葉を選び、悲しみに陰る大樹の顔を思い浮かべて、削除する。大樹とで会う前は、相手のことなど思いやりもしなかったのに。弓道の対戦相手を見捨てるようなことだって、いくらでもしてきたのに。大樹ひとり、できないなんて。

 弱くなった自分がいた。怯えている自分がいた。信じられなかった。影崎雪彦は、もっと強かったはずだ。どうして、どこで道を間違えた?

 もう、やだ。誰かを好きになって、誰かを愛したら、こんな目に遭うのなら、最初から会わなきゃよかった。合歓木高校に進学なんかしなければ。弓道なんてやらなければ。母に刺されたときに死んでいれば。いや、そもそも影崎雪彦なんて生まれていなければ。

 激しく脈を打つ心臓が、憎らしかった。

 そのとき、耳が玄関のチャイムが鳴る音を捉えた。

 宅配便だったら後で面倒なことになる。鉛のように重たい身体を無理矢理起き上がらせて、ベッドから降りた。

 玄関にたどり着くまでに、三回チャイムが鳴った。急いでいるのか、それとも苛立っているのか。裸足で歩く廊下の冷たさが足下を冷やしていく。

「わーってるから……そう何度も押すな」

 ひとりごちて玄関の戸を開く。そこに立っていた人物を見て、雪彦の心臓が止まった。もし神がいたとしたら、きっと雪彦は射殺していた。



 ―――あぁ、


身体の熱が一気に冷めた。


 ―――どうして、


 喉が震えて、目の前が潤み出す。


 ―――どうして、


「雪彦っ!」

 聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。


 ―――


  §


 玄関のチャイムを押す。三分経っても応答がない。もう一度。もう一度。それを何回も繰り返す。

 かちゃり と音がして玄関が微かに開く。そこから覗いた人物に大樹は目を見開いた。雪彦だった。やつれたようにぼんやりとしていてたが、大樹の顔を見るなりみるみるうちに悲しげな色が広がっていく。

「雪彦」

「大樹」

 擦れた声が耳をくすぐる。真顔になり、悲しそうに眉を寄せた。

「どうして、」

 小さな声に大樹は言いたかったことを口止めされたみたいな気分になる。

「こっちの台詞だ。勝手に連絡つかなくなって……」

 そこまでいって大樹は雪彦の着ているものに目が留まった。淡い青色の長袖のカットソー。少し広がった襟ぐり。そこから見える鎖骨の下。

「雪彦……その痣、何?」

 大樹の問いに、雪彦は今更気がついたみたいに息を飲み、慌てて襟を引き上げる。嫌な靄が大樹の胸に広がる。襟を引き上げる手首を掴むと、袖口がずれて腕に広がる痣が視界に入る。脳裏に『ギャクタイ』という文字が浮かぶ。

 雪彦は今まで見たことないような悲しい顔をして大樹を見つめた。青みがかった黒曜石のような目が、微かに潤む。

「とにかく、上がらせて」

 大樹は扉を押し開けて中に入った。一之瀬家よりも広い玄関で、奥に廊下が続いている。内装全面に木が張られていて柔らかい印象になっているが、大樹は違和感を感じた。人の気配がないのだ。

 雪彦は扉を閉めると、かちこちと音を立てる掛け時計を睨んだ。玄関のすぐ横に掛けられた木目調の掛け時計の振り子は、なにかを追い払うように不気味に揺れていた。

 雪彦の部屋に通してもらう。廊下と同じように木が張られた部屋には、ベッドと机、それと小さな本棚しかなかった。部屋の隅に雪彦が使っている弓が立てかけられていた。

 雪彦は扉に背を預けて大樹を見あげた。

「君にだけは知られたくなかったんだけど」

 ひんやりと冷たい言葉が頬を打つ。

「君と付き合っていることが親にばれてね。。この有様だ」

 雪彦が少しだけ袖をめくると青痣が目に入る。口調はいつもみたいに淡々と強気が含まれていたが、仕草は自分を抱きかかえるように弱々しかった。

「どうして……」

「君と付き合っているからだよ。同性と付き合うなんて人間失格だってね」

「そうじゃなくて、なんでそこで反抗しないんだって聞いてるんだ! 弓道の時みたいに、自分が信じる道を行けばいいじゃないか」

 弓道に関して雪彦は歩みを止めることはない。例え両親に反対されようが、それと同じように歩みを止めることをやめなければいい。それなのに、雪彦はあっさりと親の暴力を受け入れているではないか。

「おまえは、俺を嫌いになったのか?」

 雪彦が息を飲んだ。その様子から大樹は彼の心情を読み取る。

 いつも不思議に思っていた。テレビの画面の向こうでそれを目にする度、どうして自分の身内にそんな残酷なことができるのか。昔は嵐志ととっくみあいの喧嘩をしたこともあるけれど、兄弟喧嘩とはわけが違う。そんな生温いものではない。

「とにかく一度、しかるべきところに相談をしたほうが」

「やめて」

 雪彦が悲痛に叫び、大樹の上着を掴んだ。顔をくしゃりと歪ませ、片方の手で顔を覆い、ぽろぽろと涙が零れるように言葉を零す。

「そんなことをしたって、俺に存在意義を与えてくれるわけじゃない。俺たちみたいな少数派はたった少しの存在論に縋るしかない。俺のその“存在論”……君ならもうわかるだろう」

 四肢をもぎ取られるような痛みが走った。雪彦が弓を引き続けている理由。その根本が見えた。

「弓を引いているときだけが、俺の世界だった。それが俺が存在していい理由だった。結果を残せば親は認めてくれる。でも、同性と付き合ってるって知られてから変わった。ヒステリックに罵られて、殴られて、弓も持てなくされそうになって……弓を持てなければ、死んでるのと変わらない」

 上着を握る手が震えている。雪彦が小さく見える。小さくなって部屋で泣いていた愛衣と重なる。どうしたら雪彦の安心した顔が見られるんだ。

 抱きしめようと腕を伸ばしたけれど、できない。壊れてしまったものは二度と戻らない。それを大樹は嫌というほど思い知らされている。簡単に、言葉が出てこない。

「帰って」

 雪彦が口を開いた。縋りつくような声は行かないでと言っているようだった。

「でも……」

「お願い」

 大樹の声を遮った。幼い仕草や泣きそうな声に喉咽が締め付けられる。今の雪彦は小さい子どものように見えた。

「家に来る?」

 大樹の問いに首を左右に振りながら「困らせないで」とだけ呟いた。

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