2

 昇降口で靴を履き替えていると、風夏に呼び止められた。短くなった愛衣の髪を見て、呆然ぼうぜんと突っ立っている。

「おはよう、風ちゃん」

「その髪……」

「切っちゃった」

 短くなった後ろ髪に触れておどけてみる。

「今、いい? 図書室で」

「いいよ」と風夏はすぐに返事をして靴を履き替える。「私も、話したいことあるし」

 並んで図書室に向かう。隣で風夏が一歩歩く度にポニーテールがゆらゆらと大きく揺れる。不機嫌な猫の尻尾みたいだ。

 風夏が先に図書室のドアを開けて、するりと入っていった。その後に愛衣が入ってゆっくりとドアを閉める。本の香りの中に、ひんやりとした生花の香りが立ち上っていた。

「これ、花鶏が持ってきたんだってね」

 どさっと、鞄を床に置いて、風夏はテーブルに置いてあったミモザアカシアの花を指で優しく撫でた。

「うん、もらったって言ってた」

「そっか。花鶏もなかなか粋なことするじゃない」

 すとん、と窓辺の席に座る。膝をくっつけながら袖口のボタンを付けたり外したりを繰り返す。髪の隙間からすぅっと冷たい空気が入り込んできて、首をすくめる。

 紙とミモザアカシアの匂いを胸一杯に吸い込み、愛衣は風夏から目をそらして目の前の外の景色を見た。うっすらと繊雲ちりぐものかかる空に、陽の光が零れている。曇りがちな日が続く十二月にしては珍しく晴れている。弱く風が吹いているのか、窓のすぐ前にある桜の小枝と、かろうじて落ちずに留まっている枯葉が、笑い合うように震えている。笑われているみたいだ。

 自分から誘ったのに、いざとなると口に出せない。未だにこうして怯えている自分が情けなくなってきた。つい先のことだけを考えて臆病になる。

 ふと、頬になにか触れた。

 風夏が指の背で愛衣の頬を突いた。彼女は指を一本ずつ増やしながら、最後には手のひらで包み込むように頬を撫でた。

「ほら、また難しい顔している」

 その表情は困っているけれど、やわらかく笑っていた。

「せっかくの美人が台無しだよ」

 愛衣の胸がぎゅん、と絞られる。途端に目霧りそうになり、唇を噛みしめる。風夏のすごいところはこういうところだ。手のひらが頬から髪へ移動する。

「髪、切っちゃったんだね」

「うん」

「お揃い……」と急にふて腐れた。「卒業式でお揃いのヘアアレンジ……」

 しばらく固まって、あ、と声を上げた。修学旅行で京都に行ったとき、お互いにかんざしを送り合ったのだ。卒業式につけようと約束したのを、今になって思い出した。

 風夏は木を削って作られた簪。枝をした一本の簪で、同じく木彫りの小鳥が留まっている。彩りに淡い翡翠ひすいの玉飾りが付いていて、見つけたとき、真っ先に風夏の顔が浮かんだ。

 一方で風夏がくれたのは、銀細工の簪だった。こちらも一本簪で大きな真珠が先端に付いている。柄には小さな猫が月を見上げるようにいくっついていて、その目は青と黄色だった。小さな蝶が二羽、チェーンで繋がれてある。大事すぎて、ずっと引き出しにしまったままだ。

「楽しみにしてたのに」と風夏は頬を膨らませる。

「ごめん、すっかり忘れてた」

 風夏はぷいっとそっぽを向いたが、やがて「いいよ」と呟いた。彼女の耳の辺りが赤くなっていた。

「人間だもの、忘れて当然だよ。忘却することで前に進めるんだから」

 彼女の十八番おはこの言葉だ。それは風夏の優しさと甘さが言わせている。結論は変化する。忘れることもまた天命てんめい。未来は定まらず、変化の可能性がいくらでもある。そう言いたいのだ。でも長ったらしく言いたくないのか、いつも変に簡単な言い回しを作り出す。正しいかどうかは関係ない。彼女の見える世界で、通用すれば良いのだから。

 チャイムが鳴って、ホームルームが始まる。二人は動かなかった。

 唇をもごもごと噛んでいた風夏が「ごめん」と唐突に口に出した。

「変な意地張って、ごめん。愛衣ちゃんのこと、わかってなかった」

 彼女の声が沈んでいて、顔を見ることができなかった。理解することが難しい、愛衣だって風夏のことがわからなかったのだから。

「私ね、きっと、愛衣ちゃんのこと信じてなかった。ううん、信じてたんだろうけれど、愛衣ちゃんはこういう人だって思い込んでいたんだ。わかったつもりになっていた」

 足をぶらぶらさせながら、もっとよく聞こうと彼女の方に肩を寄せる。

「愛衣ちゃんは強いって、こんなことで負けないって思い込んでたんだ。だから、今回も大丈夫って。私、違ってた。ただの優しい女の子だ、人は弱いってことを知っている、優しい女の子だったんだ。その優しさを、私は逃げだって言った。上辺だけ、わかった気になっていたんだ」

 心の中に色とりどりのシャボン玉が漂っていて、一つ一つが割れていく。その中に閉じ込められていた想いが、優しく心に降りかかる。

「風ちゃん」

「うん?」

「私の方こそ、風ちゃんのこと、信じてなかった。頼るのが、怖かった。自分の力で解決できない、頼りないって思われるのが怖かった」

 顔を上げると風夏と目が合った。思わずその目から逃げそうになって、ぐっと堪えた。

「風ちゃんは、才能があるから」

「へ?」

「多くの言葉の中から、的確な言葉を選んでいる。それは風ちゃんの望むことで、その中に風ちゃんが入ってる。風ちゃんが、その言葉に命を吹き込むの。私は、そうやって自分を投げ出せない」

 今の今まで助けを求めることができなかった。本当は大樹たちのことを隠したかったのかもしれない。怖かったのだ。自分が肯定していても、周りはどうかわからない。だから、愛衣は話すことができなかったのだ。

「雪彦さんのこと、言えないなぁ」

 苦笑すると、風夏は不思議そうに首を傾げた。

 雪彦と話したことを話すと、風夏はぱちぱちと瞬きした。それから少しだけ身体を揺らしながら「うーん」と唸った。

「なんか、思っていたよりも深刻?」

「うん、けっこう深刻」

 ポニーテールの毛先がふるふると揺れる。テーブルの下で足をぶらぶらさせているせいだ。座高が高いこの椅子に座ると、愛衣も風夏も足が届かない。大きく足をスイングさせて、風夏の爪先が壁を とんっ と蹴った。

「はーぁ、そーりゃ愛衣ちゃんが話してくれないわけだぁ」

 背もたれに どんっ と背を預けて風夏は天井を仰いだ。

「だって、お兄さんのことも、その恋人のことも、弟くんや妹ちゃん、あとこの場所を愛衣ちゃんは守ろうとしていたんでしょ? 独りで。守ることはいいことだよ。力がある人にしかできない。でも、愛衣ちゃんの手には大きすぎたみたいだね。全部を守りたいがために、愛衣ちゃん自身の想いが、殺されちゃったんだ」

 かみ砕くように風夏は続ける。

「誰か、助けてほしい」

 心の中を見透かすように言い当てられる。心臓がどくん、と大きく脈を打って、血が一気に身体中を駆け巡る。足首からぞわりと鳥肌が立って、首元から一気に熱が広がった。身体中に起こった反応を押さえ込むように、愛衣はお腹の上で両手を強く握りしめた。

「愛衣ちゃん、よく我慢してきたね。今まで、気づかなくて、ううん、理解したつもりになってて、ごめん」

 風夏が身体ごと愛衣に向き合う。愛衣もそれに倣った。しっかりと風夏と向き合うと、互いに自然と笑みがこぼれた。風夏の目の下に紅葉が散り、八重歯がちらりと唇からのぞいた。彼女は「ドラキュラとか吸血鬼とか言われるからキライ」と言うけれど、チャームポイントだと思う。

「よくよく考えれば、愛衣ちゃんはちゃんとシグナルを出していたんだ。少し遠回りだっただけで、なかなか表に出てこなかったんだ」

 まるで、愛衣ちゃんが書く長編小説だ、と風夏は言った。

「長い時間を掛けて生まれた物語。その言葉のやわらかさ、私好きだよ」

 愛衣の頬が熱くなるのを感じた。

「風ちゃんの言葉も、好きだよ」

 愛衣も風夏に返す。時間がかかってもいい。思ったことを、確かに伝えるんだ。

「短い詩や歌は、乱雑に見えてちゃんと安定している。削り出された風ちゃんの文章はいつだって正しい。対峙して、見つめて、未来が変わる可能性も、一つの言葉にひっくるめて。そして風ちゃんはその言葉を信じている。堂々としていて、かっこいいよ」

 言い終わる前に、とん、と風夏が肩をぶつけてきた。照れたときの彼女の癖だ。愛衣もぶつかり返す。

 ぶつかり合いっこをくりかえして、頭を寄せて二人で笑った。誰もいない図書室の書架に、風のようにさざめく少女たちの声が木霊する。

「同じく書くもの同士なのに、こんなに違うんだね、私たち」

「そうよ、風ちゃん。これからもどんどん違うことが出てくるわ」

「あはは、その時はまたこうしてケンカするのかなぁ」

「もう平手打ちを喰らうのは、御免被りたいものね」

「あはは、あれは、ついその……ごめんなさい」

 しゅんと頭を垂れた風夏の頬を撫でた。

「いいって。許すよ。その当てつけで髪を切ったってことにしておいて」

「そ、それはヒキョーってやつですよ!」

「平手の代償は大きいってことがわかってくれた?」

 なんでもないやりとりが、妙に胸につっかえて声色に涙が混じった。窓の外に顔を向けた。

「風ちゃん」

「ん?」

「遠回しな言い方して、ごめん」

「そこは、ごめんじゃないでしょ?」

 ぷにっと頬を指される。そうだった。彼女に遠回しな言葉は通用しない。上辺だけの言葉だけじゃなくて、回りくどい言い方でもなくて、その中にある真実を信じよう。

「気がついてくれて、ありがと」


  §


 愛衣と風夏が教室に戻ったのは、二限が終わった頃だった。風夏が手を振っているのが見えた。愛衣も手を振り返してから、教室に入った。

 短くなった愛衣の髪を見て、その日のうちにクラスメイトのくちにかかった。特に、麻美が中心になっているようだった。口さがないのは、傍にいる人が変わっても相変わらずだ。

「一之瀬ちゃん、髪切ったんだね」

 教室移動のとき、優香が声をかけてきた。

「長い髪も似合ってたのに」

「短いの、変?」と髪をつまむ。

「ううん、そんなことないよ。なんかこう、すっきりしたみたい」

 身振り手振りで一生懸命伝えようとしているのがわかる。思わず笑うと、優香も苦笑してみせた。

「ごめんね、私、一之瀬ちゃんみたいに賢くないし、語彙力ないから、ちゃんと言えない」

 なんだ、そんなこと。つい先ほど語彙力がありすぎても困ると痛感したばかりなのに。

「いいよ。ストレートで。早河さんに悪気がないの、ちゃんと伝わっているから」

 優香は「そうかな」と不満げだったが、やがて照れたように頬を掻いた。それから唐突にこう言った。

「一之瀬ちゃんはいい人だね」

「どこが?」

「クラスで言われているような子じゃないもん。お高く留まっているわけでもないし、見下してもない。すぐ手を出す人でもないし、むしろ相手のことちゃんと考えてあげられる人だよ。まさに『百聞は一見に如かず』だね」

 気持ちよくつらつら並べる優香に、頬に熱がこもった。愛衣の沈黙を別の意味で受け取ったのか「ことわざ、違ってた?」とまた頬を掻いた。

「合ってるよ」

 風夏とは違う正しさで、物事を見る優香。もっと早くから優香と友だちになっていれば、どうなっていただろう。見えない未来に思いを馳せた。


 クラスとは対照的に、文芸部は蜂の巣を突いたように大騒ぎだった。

 愛衣の短くなった髪を見て、文乃と音莉が「愛衣ちゃん先輩が反抗期だーっ!」と叫んでからが大変だった。鐘花は「あ、フラれたんですね~ ご愁傷様です~」とさらりと言うと、夜鷹が「誰ですか! 誰に失恋したんですか!?」と詰め寄られる。その上、風夏が簪の話を持ち出して「私との約束なんてどうでもよかったのね……」と演技し出す始末だ。

 後から来た花鶏に助けを求めるも「なんだ、早くも出家するつもりか」とからかわれただけだった。

「もうっ、しらないっ!」

 そっぽを向いただけで、やれ反抗期だの、照れ隠しだのとうるさいものだから、全員にデコピンをお見舞いしてやった。それでも収集がつかなかったが、掃除当番を終えてきた副部長・悠馬の「やかましいっ!」の一括で旗を巻いた。

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