4章
1
翌朝、愛衣はいつもの通りに登校した。
教室に入ると、土川隆史と目が合いそうになって慌てて逸らす。
昨日のことを考えただけでも身体の芯が冷たくなっていく。性的に見られると言うことを体験した後は、どうしても自分の身体が汚らわしく見えて仕方なかった。
胸と太股、それから腕がひりひりする。石けんで擦りすぎて赤く腫れていた。これくらいがちょうどいい。胸なんて切り落としてしまいたいとさえ思った。
隣に誰かが立った。麻美だった。
「何見てるの?」
「何もみてないわ。ボーっとしてただけ」
「あの男の人のことでも考えていたんでしょ」
「……なにか広まっているのはあなたが話したの?」
麻美はけろっとした表情で「だってアイちゃん、何も言わなかったもん」と言ってのけた。「何も言わないってことは、図星ってことでしょ?」
何も悪いことはしていないという態度に愛衣は眉を寄せる。
「だからって好き勝手に話していいってことにはならないわ。一体何を考えているの?」
呆れを通り越してもう絶望しかない。麻美は考えることを知らないみたいで、常に自分の意見を正当化していないと生きていけないみたいだった。愛衣の言葉を無視して麻美は自分の話を続けた。
「あと、彼氏ができたら真っ先に報告するって約束してたのに、麻美に内緒にしてたんだーって思って」
勘違いもいいところ。そう叫んでしまいたかった。約束なんてした覚えはない。胸がむかむかしてきて、脂っこいものなんて食べてないはずなのに胸やけがした。窓枠に置いた手が、サッシに食い込む。
「あの人は彼氏じゃないわ」
「え? 違うの?」
ぎゅっと唇を噛んだ。何を今更聞くのだろうか。そんなに恋愛ネタがほしいのだろうか。麻美はへらりとまた笑った。
「えー、でもアイちゃんそうやって誤魔化してるんでしょ。だってアイちゃん隠すのヘタだもんね」
笑顔がうっとおしいと思ったのは初めてじゃない。
愛衣は一度、麻美と遊びに行く約束をしたことがある。けれど猫の桃子が具合が悪くなって急遽行けなくなったのだ。他の兄弟に任せてもよかったが、愛衣が責任を持って面倒を見るという約束で桃子を育てているし、何より桃子のほうが大事だった。
そのことを麻美に伝えると、彼女はさも当たり前のように「じゃあお見舞いに行くよ」と言ってきたのだ。まだ病院にも連れて行っていない状態で、何が原因かもわからないのに、お見舞いとか有り得なかった。それに桃子も具合が悪くて不機嫌だ。愛衣でさえも近寄らせてもらえない。
「アイちゃんのネコちゃん見たいな~」
単なる愛玩動物としてしか見ていないように聞こえた。
「ごめんなさい、まだ何が原因かわからないし、お医者さんにも見せてないから合わせることはできないわ」
すると電話の向こうからこう返ってきた。
「アイちゃんさー、ネコちゃん理由にして私と出かけるのイヤって言ってるでしょ。やっぱり家の用事が一番断りやすいもんねー。でもネコちゃんは断る理由にしては、ちょっとキツイよ?」
イライラした。早く電話を切りたくて受話器を持った手が震えていたのは、今思い出しても気分が悪くなる。
麻美の言い方に疑問はない。決めてかかっているのだ。何の確証もなく自分だけの判断で。それかとても恐ろしかった。
「とにかく、あの人は私の彼氏じゃないわ」
まるで自分こそが愛衣のことを一番よく知っているとでも言っているようだ。愛衣自身がいうことさえも否定されている気分。なにを言っても信じてくれない。
「えー、じゃあアイちゃんの何なの?」
「兄さんの友人よ。同じ弓道部の人」
麻美の目が輝いた。
「え、ちょっと待って。弓道やってるのあの人? 超かっこいいー」
言葉の一つ一つが気にかかる。大切にしているものを汚されていくみたいだ。雪彦の横顔が浮かぶ。それから大樹の顔も。前に保健室の山崎先生から「言葉は呪いみたいなものよ」と言われたのを思い出した。ここまで苦しいとは思わなかった。
「やっぱり高校生はかっこいいよねー それに弓道やってるってめっちゃ素敵じゃない! あとイケメンだよねー 私、写真撮っちゃった」
ガンッと頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。同時に愛衣の心が煮え手繰り始める。写真に撮った? よくそんなことができるものだ。思わず悲鳴を上げそうになって咄嗟に口を手で塞ぐ。麻美の考え方や言動は、愛衣には到底理解しがたいものだった。
「それ、犯罪でしょ」
「え? そうなの?」
けろりとして首をかしげる麻美に愛衣はもう我慢がならなかった。甘い砂糖のような声を、バッサリと切りつけるように口に出した。
「兄さんの彼氏よ」
一瞬、静まった。麻美の表情が固まっていく。
「え、今なんて?」
「だから、兄さんの彼氏って言ったの」
「アイちゃん麻美のことからかってるの? 彼女の間違いでしょ?」
「麻美さんって、耳悪かったかしら? 何度も言わせないでちょうだい」
言葉が次々に口からこぼれ出てくる。愛衣は後悔していなかった。そんなことでいじめに発展することも知っていた。一人でいる時間が増える。それはそれで愛衣にとって好都合だった。
「え……ホモ?」
愛衣は何も言わなかった。雪彦から聞いて知っていたが、ホモだったりレズだったりというのは差別用語だ。しかしそっちの方が浸透しているのは事実だった。
「ホモとご飯食べてたの?」
「……兄さんたちのことを軽々しく差別用語で呼ばないで」
愛衣がきっと睨む。麻美はあり得ないという目で愛衣を上から下へと見ていた。いっそこの場で彼女を窓から投げ落としてしまおうか。
「え~、一之瀬さん、気持ち悪くない?」
サッシを掴んだ手が痛い。相手に媚びて、自分に都合が悪くなったら離れていく。今まで馴れ馴れしく、自分こそ一番の親友という風に接していたのが、もう一転している。
「えぇ。それよりもあなたの方が気持ち悪いわ」
声が震えているのが分かった。怒りで震えて、声を出すたびにきりきりと痛む。ここまで他人に怒りを覚えたことはなかった。自分の言葉に棘があるのがわかる。気味悪がっている麻美の横をすり抜け、自分の席に着いた。授業開始のチャイムが鳴り響く。喧騒が一気に引いていく。数学の教師が入ってきて、教科書とノートを開くよう指示する。愛衣はセーラー服の胸ポケットに手を当てた。赤珊瑚の万年筆が入っている。
(兄さんと雪彦さんのこと、言ってしまった……)
心臓がどくどくと音を立てていた。まだ咽喉が痛い。感情に任せて口に出してしまった。冷静に考えてみれば、これでは愛衣が大樹と雪彦の関係を公表しまったのも同然だ。しまったと思っても、もう遅い。
(どうしよう……兄さんや雪彦さんに許してもらっていないのに……)
机の下で両手を固く握りしめる。
愛衣は当事者じゃない。現在当事者なのは大樹と雪彦のほうだ。大樹は元々ノーマルだったからどう表現したらいいのかわからない。けれど今、雪彦と同じ立場であることは間違いない。
当事者じゃない愛衣はどうしても二人と同じ少数派側になれない。状況を知っていたとしても、差別をいくら反対していたとしても、愛衣の意見は、所詮は多数派側の意見に過ぎない。
(兄さんと雪彦さんに何かあったら……私のせいだ……)
夕飯の後、ココアを飲みながら愛衣はテーブルで一息吐いた。こうしていると、なんとなく大人っぽくて嫌になる。早く大人になりたいと思う反面、こんなに辛いのなら大人になりたくないとも考えてしまう。
雪彦が言っていたとおりだ。知らなくてもいいことがあった。マグカップを両手で包み込む。学校であったこと、兄に話すべきだろうか。
こういうときの判断は、後に大きく関わってきたりする。慎重に。と唱えてまた、はぁ、とため息を吐いた。
「家の中でまで、慎重にならなきゃいけないなんてねぇ」
家とはなにか。家族とはなにか。そう聞かれて返ってくる答えは様々だろう。愛衣の場合、少なくとも安らげる場所だ。多少の秘密はあったとしても、疑念も詮索もない安寧の象徴だった。だからこそ、こんなふうに気を張ることになるとは、思ってもみなかった。
もんもんとしていても仕方ない。愛衣はココアを飲み干した。
「兄さん、話したいことがあるんだけど」
恐る恐る、兄の部屋のドアを開ける。返事の代わりに猫の叫び声が出てきた。その直後「いってぇ!」と引っ掻かれた兄の悲鳴。また吹雪の機嫌を損ねたようだ。
もう十年以上も大樹と吹雪は一緒にいるが、この主従関係は絶対だった。完全に大樹は吹雪に下僕扱いされている。
今日はブラッシングのやり方が気に入らなかったのか、唸りながらベッドから降りた。ロシアンブルーの青灰色を見せつけるように愛衣の前を通り、本棚にひょいっと飛び乗った。
「今度は何をしたの?」
「それがわかったら機嫌なんか損ねない」
「それもそうね」
絆創膏と消毒液を出してきて、大樹は引っ掻かれた部分の手当を始めた。
「で、話って何だ?」
ちゃんと聞いていた。羽織ったフリースの前を意味もなく指で引っ掻いた。
「高校入試のことならやめておけよ。英語はともかく数学は……」
「違うの」
兄の言葉を遮ると、肩が くんっ と強張った。もう一度「違うの」と告げる。弱々しい声に、なんだか情けなくなる。
「雪彦さん、の、こと」
「雪彦?」
そこで大樹は、初めて愛衣が真剣な話をしようとしていることに気づいたようだ。ベッドの隅にあったクッションを引き寄せ、おいで、と手招きする。猫の匂いと柔軟性の匂いがするクッションに顔を埋める。うーっ、と唸ると「吹雪みたい」と頭の上から振ってきた。
「あのね、兄さん」
「うん」
「兄さんと雪彦さんのこと、クラスの子に、思わず話しちゃった」
「そっか」
大樹はさして気にしていないみたいな声だった。
「思わずってことは、意図して話していないってことなんだろ」
「うーん」
「なんだ違うのか?」
「そうだけど」
見透かされているみたいで、クッションから顔を上げられない。ごろん、とベッドに転がってばたばたさせる。
「前、私、雪彦さんと出かけたの知ってるでしょ? それ、クラスの子に見られていたみたいで……私の、その、彼氏だって、噂、されて……それで私、自棄になっちゃって……私じゃなくて兄さんと付き合ってるって、言っちゃった。そしたらさ……気持ち悪い、って」
吐き出してるうちに、胸のあたりがきゅうっと締め付けられる。胸の内は軽くなっていくけれど、心は重くなっていく。
「そっか」
さっきと同じ言葉だ。でも悲しみがこもった低い声だった。それが一層胸の内を締め付けた。クッションから目だけを覗かせると、大樹と目が合った。大樹の顔色をずっと見ながら生きてきた愛衣ならわかる。大樹は悲しいとき、左目がわずかに引きつるのだ。
「ごめんなさい」
再びクッションに顔を突っ込む。
「私、わたしはっ」
目頭が熱くなる。声も震えだして、喉咽がきっと痛くなってきた。
「兄さんや、雪彦さんと、おんなじ立場じゃないからっ、ひっく、兄さんや、雪彦さんみたいにっ、上手く説明、でき、なくって」
その後は言葉にならなかった。微かに、ゆっくり吐き出される息に乗せて、掠れた声で泣く。しゃくりあげながら、背中を丸めて。そっと、頭に大きな手のひらが置かれる。ぐぅん、と大きな波が胸に押し寄せる。
「ごめんなさい」
「なんで愛衣が謝るんだ」
「だって、私が、もっと、ちゃんとっ、うまく立ち回れていればっ、あの日……雪彦さんと、出かけなければっ……写真だって、取られなかったもん」
「写真?」
今日学校で起きたことを簡潔に話す。大きく息を吐く音が聞こえた途端、びくっと肩と心臓が跳ねた。
実際に隆史から見せられたときには、もう愛衣が止められないところまで、事態は広がっていた。のろのろ顔を上げて、両手で目を擦る。
「写真、撮られて、彼氏だって噂されて、なんか、悔しかった。違うって、声を上げて言いたかった。だって、本当のことだもん。兄さんと雪彦さんが付き合っているのは、本当のことだもん。違う形で、そんなふうに広められるの、本当のことが、なかったことにされそうで……怖いの」
クッションを涙を塗らしながら、愛衣はもう一度「怖い」と口に出してみた。そう、怖いんだ。なにかが大きく変わりそうで。
「ごめんな、愛衣」愛衣の頭をがしがしと、大きな手のひらがなで回した。「俺たちのせいで、辛い思いをしたなぁ」
「兄さんが謝ることじゃない」
「でもそれは……その、友だち?」
「もう友だちじゃない」
「……そのクラスメイトが言ったことは、本来なら俺たちに向けられているものだ」
シーツをぎゅっと握りしめる。大樹は優しい。苦しいくらいに優しすぎる。余裕ぶっていて、こういうときの大樹は嫌いだ。
「兄さんは気持ち悪いって思われたいの?」
「そういうわけじゃない。誰だってそんなことを言われたら嫌なのは、愛衣だって知っているだろ。確かに、そう言われても仕方ないけれど、それも覚悟の上で雪彦と付き合ったんだ」
「矛盾してる」
ぼふっとクッションを叩く。
「覚悟して付き合っているなら、堂々としていればいいじゃない。はっきりしていればいいじゃない。どうして何も言わないの? 気持ち悪いって、兄さん自身も思っているからっ、そんなっ!」
急に、頬を両手で挟まれる。「はい、そこまで」と大樹はまた余裕そうに笑った。
「愛衣、気持ちっていうのは一つの感情だけで動いているものじゃないだろう。確かに、多少は思っていた部分もあったし、気持ち悪いって言われるのも、嫌だ。でも、雪彦が好きなのも確実で、そんな思いが寄せ集まって、今の状態がある」
親指で愛衣の目に溜まった涙を拭う。
「それに、俺だけで決めたことじゃない。雪彦が、言わなくていいって言ったんだ」
「雪彦さんが?」
「そう。付き合うってことは、一人の問題じゃない」
パジャマの袖で涙を拭う。なんだか言いくるめられてた気分だ。泣きすぎて、目が痛い。頬もひりひりしていて顔が熱い。ハンカチを出してきて、大樹が顔を拭ってくれた。
「愛衣が言いたいことは、ちゃんと伝わってきたから。な?」
「うん」
「他に言い残したことは?」
最後にぐいっと涙の残りを拭う。
「コーヒーが飲みたい。ブラックで」
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