5

 コートを片手に部室に向かう途中、花鶏は夜鷹を見かけて足を止めた。夜鷹の顔は蒼白で、少しだけやつれたように見えた。額には汗が玉になって浮いている。

「おい、どうした夜鷹。部活は?」

 声を掛けると夜鷹は花鶏に気づいて、軽く会釈をした。

「顔色悪いぞ、風邪か?」

 しかし、本人は「そうですか?」とへらりと笑うだけだった。

 部室に連れて行こうとすると「嫌です」と花鶏の手を払った。もう一度、震える声で夜鷹ははっきり「部室に、行きたくないです……」と言った。


 部室に行きたくないとだだをこねる夜鷹を、花鶏は自宅に連れて帰った。目の前に館のような瀬呂家に対して萎縮しながら、夜鷹は丁寧に玄関で靴をそろえていた。

「おかえりなさい、花鶏さん。あら、そちらのお客様は……」

 文香が洗濯物が入った籠を持って、二回から降りてきた。今日は長い黒髪を後ろでポニーテールにしていた。

「ただ今戻りました。ちょっと体調が悪いとのことで」

 説明する花鶏の隣で、すっかり緊張した夜鷹が文香に対して勢いよく頭を下げる。その反動で少しだけよろめいた。

「挨拶は後でいいから。ほら、そこの階段、早く上がれ」

「大丈夫ですか?」と問いかける文香に温かい紅茶を用意するようにお願いして、夜鷹の手を引っ張る。

「おまえ、今日ほんと大丈夫か?」

「……はい、大丈夫です」

 そう言ってはいるが、夜鷹は三階にある自室までたどり着くまでに、五回も階段につまずき、三回柱にぶつかった。

 花鶏の部屋に入った夜鷹は、物珍しそうに見渡していた。特に本棚に興味を示したようで、洋書の豪奢な背表紙に見惚れていた。

 夜鷹を連れてきたのは初めてだと思い出した。

「また今日はいったいどうしたってんだ? 予想外の虐めにでも遭ったのか?」

 そう訪ねると夜鷹の肩がびくりと跳ねた。

 花鶏は鞄をベッドに放り投げて、クローゼットを開いた。適当に見繕って、臙脂えんじ色のシャツと白のジーンズを夜鷹に投げた。

「へっ、先輩、これ……」

「着替えればいい。体格に差はないだろう」

「えっ、ダメですって! こんな高価な生地のシャツ……」

「制服より着心地はいいと思うが?」

「なおさらいいです! それに、なんか、いい匂いしますし……」

「文香さんが選んだ柔軟剤だ。後で聞いてみろ、銘柄教えてくれるぞ」

「だからダメですって! 僕が着るには不釣り合いです!」

「着ないのなら俺が着替えさせることになるが? それでもいいって言うのならそのまま抵抗していればいい」

 ここまで言うと夜鷹はようやく口を噤んで、しぶしぶ着替え始めた。

 それにしても、と花鶏も着替えながら夜鷹の方を見た。夜鷹の身体に巻かれた包帯の面積が広い。目が合うと、反抗を示しているのだろうか、「むーっ!」と夜鷹は頬を膨らませた。残念ながら全く怖くない。

「先輩、」と夜鷹が口を開いた。

「なに?」

 ちら、と花鶏を見たがすぐに視線を逸らした。聞きたいことがあるのなら躊躇わずに言えばいいものを、口に出しながら何を迷っているのか。花鶏がため息をつこうとしたとき、夜鷹がつっかえるように口を開いた。

「恋とか、えっと、恋愛とか、す、るのに……その、セックス、って、しなきゃ、いけない、ん、で、しょうか……?」

 変なところに読点を入れるものだから、理解するまでに数秒かかった。

まさか夜鷹の口からそんな単語が出てくるとは思ってもみなかった花鶏は、シャツを脱ぎかけたまま動きを止めた。夜鷹を見ると、耳まで苹果みたいに真っ赤にしてそっぽを向いていた。一瞬だけ花鶏を見たが、すぐにまた逸らす。

 それでも夜鷹のそれが本気の質問だとわかった。どうでもいい質問だったり、唐突にぽろりと出た質問だったら、すぐさま「忘れてくださいッ」と否定する。それがないということは、夜鷹なりに考えて聞いた問いなのだろう。

 そこまですぐに考えついたのに、現状は「……いきなりどうした?」と返すのが精一杯だった。


 夜鷹がつっかえながら話した内容は、なかなかにセンセーショナルなものだった。いろんな情報が錯綜して、雲を掴んでいるような実感しかわいてこない。着替えた夜鷹はベッドに腰掛けて枕を抱きかかえてぎゅっと足をちぢ込ませている。

「はー、盗み聞だ」

「たまたまですってば!」

 また頬を膨らませるのをよそに、花鶏は椅子に座って足を組み。窓の外に目をやった。

「それでセックスがどうのって言ったのか」

「花鶏先輩、直球に言うのやめてください。また戻しそうです」

 悪い、と謝罪する。

「別に、しなきゃいけないわけじゃない。人間の生殖行為なわけだけど……愛衣みたいに気持ち悪いって思ってる人だっている。お前みたいに単語を聞いただけで吐きそうになる奴もいるわけだ」

「そう、ですよね」

「簡単にできないからこそ、マウントを取りたがる奴もいるのも、現実だけどな」

「一種のステータスってやつですか」

「そうそう、そんなもんだ。実際、方法がわかってしまえば誰とでもできるからな」

 え、と夜鷹が固まる。とっさに枕を抱える力が強くなって、枕が変形した。

「あぁ。だから別に恋人でなくてもできるし、同性同士でもできる。あー、ぶっちゃけ俺とお前でもできるんだぞ」

 指を差すと、びゃっ、と夜鷹が変な悲鳴を上げて飛び退いて、壁に頭をぶつけた。声にならない悲鳴を上げながら頭を抱えてうずくまると、ベッドからごろんと転げ落ちた。

「なに本気にしてんだ。例え話だっての」

「す、み、ません……」

 見てられないったらありゃしない。

 机の上で文香が持ってきてくれた紅茶が湯気を立てている。今日はカモミールとエルダーフラワーのハーブティーだ。

 黄金色の紅茶をすすって、事の発端を思い返す。 

 土川隆史とは二年の時に同じクラスだった。そこまで女に執着するようなタイプではなかったし、まず女の影がなかったような気がする。サッカー一筋の好青年。

 やっぱり愛衣に振られたことが原因か。ゆるゆると首を左右に振る。なんか足りない。それだけでは動機が弱すぎる。なにか、決定的なことがあったはず。

 あ、と声を上げる。先日の風夏の電話を思い出した。あのとき愛衣は、他の男と歩いて帰ったって言ってなかったか。

「どうしたんですか?」

 夜鷹が紅茶のカップに口をつけながら、首を傾げる。

「いや、なんでもない。って、零れてる。お前、ほんとへたっぴだな」

 口の端から零れた紅茶をハンカチで拭ってやると「すみません」と謝った後、ぐしゅんっ! とくしゃみをした。

 今、花鶏が考えていたことが事実なら。だとしたら。

「…………だっさ」

 鼻で嗤った。


  §


「本当に大丈夫っすか、先輩」

「ほんとに大丈夫だって」

 って愛衣は言ってはいるものの、全然大丈夫に見えないのですが。

 隣を歩く愛衣の足取りは重い。いつも颯爽と文乃たちの前を歩いて行く影が、今日は見当たらない。

 校庭に西日が差していた。空が黄金から茜色に染まっていくのが見えた。校門を出たところで「やっぱり家までお供します!」と文乃が言うと愛衣は笑った。でも表情がやけに苦しく見えた。

 文乃と愛衣の家は反対方向だ。でも遠回りして家に帰れなくなる距離でもない。家には友達の家に寄っていたと言って許される距離だった。

「愛衣ちゃん先輩、手、繋ぎます?」

 差し出した手にまで、愛衣は怯えた表情を見せた。眉を寄せて、ごめん、と謝る愛衣を見て、なんだか胸のあたりがきゅうっと音を立てた。いつもならこんなに警戒することなかった。

 愛衣は迷った後、おずおずと指先を手のひらに乗せた。ちょん、と乗った手は蝶の羽みたいで、すぐに壊れそうだ。その指先をやわく握り返した。

 なんというか、まだはらわた煮えくりかえっている。原因になったのは言うまでもない。音楽室での愛衣に対する行為だ。

 自分が女子と付き合うとしたら、あんな表情はさせない。というより男子でもさせない。いや、付き合わなくても友達でもあんな顔させない。その自信が文乃にはあった。そしてもう一つの人格の方も。

 金木犀の匂いがする。この匂いは文乃は苦手だった。どろどろしていて、でも惹きつける匂い。このまま辿っていったら、どこかの異界に引き込まれそうになる。

「先輩、今日のことについて聞いていいですか?」

「なぁに?」

「男子って、みんなああなるんですかね?」

 性欲っていうものがよくわからない。そもそも異性っていうのがわからない。いや、保健体育の授業で習ったことくらいなら、文乃もわかる。それより先のことだ。

 本能だ、と誰かが言っていた。それじゃ本能がないのはどうだろう。

「どうなんだろうね。兄さんは、あんなふうになってないから」

「先輩、お兄さんいるんですね」

「三つ上にね。今は高校三年生。文乃ちゃんは兄弟いるの?」

「弟が一人。私、双子なんです」

 こう言うとだいたいみんな驚かれる。

「えー、うそ。だって学校で見たことない」

 そんなテンプレートな台詞は中学に入ってから何回も聞いた。文乃はにっと笑って答えた。

「見たことなくていいんですよ。同じ中学にはいませんから」

「別の中学に通ってるの?」

「そう、すね。中学受験ってやつです」

「頭良いんだ」

「比べちゃダメっすよ。私なんかよりもずっと良いんですから」

 比べちゃダメ。そもそも比べられない。だって、半一卵性のそっくりな片割れは、もういないんだから。その言葉は金木犀の匂いと一緒に飲み込んだ。

 愛衣の家まで送り届けると、紙袋に入ったお菓子をたくさん貰った。ちょっとしたお礼、と言っていた。

 その中にエルダーフラワーのクッキーがあった。袋を破って、オレンジ色の花がくっついたクッキーを口にする。

「…………甘い」

 花の味なんかしない。

 ただ甘いだけだった。


 文乃が家に着いたのはいつもより三十分も遅い時間だった。

 文乃の家は、築五十年は軽く超えている木造建築の平屋だ。それも田舎にあるように広く、ご丁寧に石垣の塀まである。いわゆる和風の名家と呼ばれる家柄だ。

 仰々しい門をくぐれば、樹齢三百を超える松の木が出迎える。文乃の祖母は華道の家元だ。敷地に入った途端、華やかな切り花や樹木の香りがする。

 玄関のところで祖母の生徒と思われる女性たちとすれ違う。みんな清楚だけど堅苦しい着物姿だ。

「あら先生、お孫さんが帰ってらしましたよ」

 生徒の一人が奥に向かって軽く声を掛けた。すると教室になっている和室から、高価な翡翠色の着物姿の祖母か姿を現す。文乃は背筋をぴんと伸ばした。

「文乃さん、少し遅いんじゃありませんか?」

「ごめんなさいお祖母様。ちょっと友達の家に行ってました」

「わかりました。すぐに着替えていつもの部屋に行きなさい」

 それだけ言って、祖母は生徒を見送りに外に出て行った。緊張してスカートを握っていた指を、一つずつほどいた。

 文乃は祖母が苦手だ。

 この家の跡取りは男女関係なく兄弟の中で一番上と決まっている。良くも悪くも嫡子の長女として生まれてしまった文乃は、その瞬間から家元の祖母を継ぐために稽古事に従事していた。

 祖母は手厳しかった。子どもとて容赦なく、しごかれて飽きられながら、華道の修行をしていた。

 花は好きだ。でも文乃は花瓶の中で気取った美しい華じゃなくて、菫や白詰草や、向日葵みたいに、地面から直に咲く花の方が好きだった。

 離れにある自室に向かう。食事と風呂と稽古以外で、文乃がこの自室を出ることはない。引き戸を開けてベッドに鞄を放り投げる。続いて文乃もベッドにダイブする。制服が重たい。

「あー、疲れた」

 口に出せばもっと疲れる。それに今日は一段と疲れた。

「愛衣ちゃん先輩……大丈夫かなぁ」

 起きたことを思い返す。ばっちり行為をしているのを見たわけでもないが、胸の奥が燻っていた。

 のそりと起きて制服を脱ぐ。重たいスカートを下ろす。

 真っ平らな胸が下着越しに見えた。女の人がもっている柔らかさじゃない。少し強張った固さ。これを見る度に文乃は深く息をついた。

 女のまねごとをするのは、本当に疲れる。

 机の上の写真立て。中に写っている二人組がこっちを見ていた。半一卵性でそっくりな鏡あわせのように同じポーズを取っている。

 片方は姉の文乃あやの

 片方は弟の言理ことり

 まだ幼い顔立ちの二人をそれをじっと見つめる。ぱっと見ただけで二人を確実に当てるのは、親でも難しい。


 七年前。

 姉の文乃が火災で亡くなった。

 弟の言理が火災から生き残った。

 けれど、重度の火傷で全身が黒くなって見つかった弟は、何の手違いか、姉として治療されていた。意識が回復したのは一週間後で、そのときも全身を包帯で覆い、話すこともできないでいた。

 姉の文乃は亡くなった。

 でも世間では、弟の言理が亡くなっていた。 自分たちは殺されたのだ。


 写真の向こうにいる文乃に、今日あった出来事を話した。

「なぁ、文乃だったら、もっと愛衣ちゃん先輩のことを慰めてあげられた? それとも、なんにも言わない方がよかったのかな?」

 写真の中の文乃はなにも言わない。この問いを投げかけるには、六歳は幼すぎる。

 どんどん、話す内容がずれていく。文乃の知らないことが増えて、相談する内容はもっと大人びていく。

「文乃さーん」

 母屋から祖母の声が聞こえてきた。

 言理は文乃にすり替わる。

「お祖母様が呼んでる。じゃ、行ってくるね。言理」

 桜色の着物を手早く着付けて、華道の道具を抱えて自室を出た。松の匂いが、冷たい風に乗って部屋に入り込んだ。

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