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五限目の始業の本鈴が鳴っても、愛衣は戻ってこなかった。空の席を、悠馬は一番後ろの席から眺めていた。ちょうど対角線上の席にある空席は、端を取られたオセロみたいに虚しかった。
愛衣だけでなく、土川隆史の席も空いていることが引っかかっていた。彼は合唱コンクールの時に愛衣と一悶着あったと花鶏から聞いた。それから愛衣が彼と関わることはなかった。それでも。
息をついて頬杖をつく。視線の先に廊下の窓から白んだ空が見えた。それに訳もなくむかついた。
悩ましいな。
夢野久作の『瓶詰地獄』で実の妹に性欲を抱いて煩悩する太郎みたいじゃないか。解放されるためには、と考えると、悠馬の悩ましさには必然と愛衣が関わってくる。
幼なじみ。旧友。腐れ縁。言い方はいろいろあるけれど、悠馬からしたらどれもしっくりとこない。それが尚のこと訳わからなくさせていた。
「国枝くん」
魔女先生……
「次から読んでくださいな」
祈夜に言われ、机に広げた教科書に目を落とす。
山本詠美の『ひよこの目』。転校生の幹夫の目に、主人公の亜紀は懐かしい気持ちにさせられる。その目は死を見つめていた。そしてその通りに、幹夫は父親の自殺の道連れとして死んでしまうのだ。
父親の道連れ、という設定に悠馬は深く息を吐き出した。
大人たちは、と悠馬は反芻する。大人たちは本当によく「死」を模した作品を扱う。ニュースでは毎日のように死亡事故や殺人事件が取り上げられる。ドラマでは手軽に自殺や殺人を見ることができる。
子どもの俺たちは、単語を言うことすらもできないようにされたってのに。
この話のように、大人の都合で命を落とす子どもだっているってのに。
先生が黒板にチョークを走らせる音が、自分の鼓動と重なって大きく聞こえた。
授業が終わると、悠馬は魔女先生に声を掛けられた。
「国枝くん、一之瀬さん知らない?」
知らないと答えると、彼女はあらまぁ、と頬に手をやった。
「国枝くんも知らないとなると……うーん、また部室にいるのかしら」
「そうじゃないですか? というより、何で俺に聞いたんです」
「なんとなく。なにかあったのかなーっていう私の勘よ。それに一之瀬さん、私の授業は一回も休んだことないからね」
「生徒のこと、よく見てるんですね」
「あらやだ、先生ですもの」
悠馬の背中をばんと叩く。不意打ちだったけど、猫パンチよりも威力がなかった。それから紅茶色のスカートを揺らして、祈夜は職員室に続く階段を降りていった。
魔女先生なら、わかるのかな。この胸の気持ち。もやもやしてる原因が。根拠はない。あるとしたら、先生が魔女だから。
悠馬は胸のあたりをぐっと鷲掴んだ。
§
悠馬は図書室に本を返しに行くついでに文芸部に寄った。図書室の中は暖房がついていて、教室よりもほどよく温かい。教室の暖房器具はストーブで、どうしても暖まる範囲が狭くなるから仕方ない。
相変わらずロッキングチェアには図書室の主である音莉が座っていて、今日は古典の教科書を開いていた。
「勉強か?」
「魔女先生からの宿題です」
ぺらぺらとプリントの束を見せる。プリントと言っても、古文の口語訳をしてこいと言うことだろうか、音莉の文字で訳が書いてあった。
他の教師の課題はやらないくせに。それでも音莉の成績は良い。毎回テストでは一桁の順位だというくらいだ。
「悠馬先輩、ちょっとお時間良いですか?」
「なに?」
「愛衣ちゃん先輩のことです」
愛衣の名前を出されて心臓が跳ねた。じっと睨みつけると「いやですよ~ そんな怖い顔しちゃ」と彼女は猫なで声を出す。
悠馬は音莉が苦手だ。悠馬から見ても愛くるしい顔の下で、なにを考えているか読めないのだ。
昨年の春、音莉は悠馬が愛衣のことを特別視していると指摘があった。まだ入部して一ヶ月の少女に。それ以来、音莉から愛衣の名前を出される度に、悠馬はなにを追求されるのかと、身構えてしまう癖がついてしまっていた。
一方の音莉は、悠馬の苦悩さえも見抜いているみたいに口元に手をやって、によによとほくそ笑んでいた。
「何が言いたい」
苛立ちを声に含めると音莉はくつくつと笑いながら目を細めた。チェシャ猫みたいな笑い方だ。
「おい、音莉ッ」
「苦しいんでしょ。音莉にはわかります」
「何が、」と言いかけて口を噤んだ。見透かしたまなざしが、まっすぐに悠馬を見ていた。苛立ちがさらに募る。
「恋、してるんでしょ。愛衣ちゃん先輩に」
「ちがうっ!」
喉から出た大声が音莉を遮る。
「……違う」
今度はずっと掠れた声が出た。
腹部が熱い。心臓が痛い。喉が引き攣る。肩が強張っている。さっきから脈がどくどくと音を立てている。血液が熱く速く、血管の中を走っているのを感じる。身体中が変になっていく。
頼むから、名前をつけないでくれ。
これは俺の感情だ。自分自身が名前をつけないといけないものなのだ。外野が勝手に名前をつけてくれるな。大量の既製品みたいに、それで正解だと勘違いしそうになる。流されそうになる。自分で見極めたいんだ。だから、名前をつけないでくれ。
「……悠馬先輩は知ってるんだと思いました」
静かに音莉が言った。
「なにを、」と問えば
「恋の苦しさを」と簡素に答えた。
「……知るわけ……知るわけないだろうっ」
わなわなと身体が震えている。そこから絞り出すと、雑巾に残っていた水滴みたいに情けなく声がこぼれ落ちた。
意味もなくふるふると首を左右に振る悠馬を、音莉は表情を殺して見上げていた。その顔は、さっきまでにぃっと薄気味悪く笑っていた人物と同じに見えなかった。
「そうそう、さっき文乃ちゃんが言ってましたよ」
声色を変えて、さも興味がなさそうに音莉は言った。
「愛衣ちゃん先輩、サッカー部の先輩に犯されそうになってたって」
え?
「ほら、今慌てました」
音莉が指を差してくすくすと笑い出す。体温がまた上昇した。顔までが熱くなる。
「文乃ちゃんに感謝しなきゃですね。愛衣ちゃん先輩の処女は守られました。でも残念。守ったのは先輩じゃありませんから」
音莉がまたなにか言っている。でも聞こえない。
音莉はなんて言った?
愛衣が、処女がなんだって?
誰に犯されそうになったって?
国語の授業中の違和感の原因がわかった。理解して、どうしようもなく身体が疼いた。
「同じクラスなのに、気づきもしなかったんですか?」
音莉が問う。違う、気づいてないわけがない。
「好きなら、取られる前に守らなきゃですよ?」
うるさい、今言うな。
「ね、悠馬先輩? 愛衣ちゃん先輩のこと、好きなんでしょ?」
「うるせぇッ!」
音莉の声を、身体の熱を、頭の中の白を、全部をかき消すように叫んだ。
§
すーっと足の筋を辿って寒気が身体の中に上ってくる。でも夜鷹は部室となっている空間に入ろうとはせず、書架の間に突っ立っていた。
今、音莉はなんて言った? 愛衣ちゃん先輩が、誰かに犯されそうになったって言わなかった?
反射的にぎゅっと身体を抱きしめる。
音莉と悠馬が話しているのを聞いてしまった。それに内容が内容で、とても夜鷹ではポーカーフェイスを貫けない。
胃の中のものが食道を逆流してくる感覚がして、口元を押さえる。戻しそうになって、静かに図書室を出た。
給食だったものを便器の中にはき出すと、強い胃液の匂いに顔をしかめた。これだけはどうしても慣れない。慣れちゃいけない。
「……戻しちゃって、ごめんなさい」
口元をハンカチで拭いながら小さく呟く。給食を作ってくれた人に本当に申し訳なく思ってしまって、両目が潤んできた。
今日の給食には大量の埃が入っていた。それがまだ喉につっかえているみたいで、いがいがしている。でも、戻してしまったのはそれだけではない。
個室の扉に背中を預けて、薄暗い天井を見上げる。蛍光灯がちかちかと点滅していた。
「……愛衣ちゃん先輩……」
どうして聞いちゃったんだろう。どうしてあの時間に図書室に行ったんだろう。どうしようもないことで自分を責めるのは、夜鷹の悪い癖だ。でも。
「…………犯されそう、か」
文章の世界でしか聞いたことがない言葉に、夜鷹の身体が嫌悪の反応を示す。寒気が背筋をなぞって、ぐわん、と胃がまた大きく動き出す。夜鷹の意志に逆らって、大量の胃液がまた逆流してきた。
逆流してくる間に息ができなくて呼吸が乱れる。大きく息を吸う度に、酸の匂いにまた嘔吐いた。口の端から、拭い切れなかった胃液が垂れて熱かった。
はーっ、と息を吐き出す。
「……きっと、怖かっただろうな」
多分、今の夜鷹の現状よりも怖かったんじゃないかな。身体のあちこちが痛み出す。でも痛みだけだ。彼女が感じたのは恐怖だ。それも自分の中に、他の誰かが入り込んでくるのだ。共有、と言えば聞こえはいい。でもそれは、入り込む側の所有欲を満たす、単なる行為に過ぎないんじゃないかな。
身体を清らかなままで保つことなんて、簡単なことだと思っていた。性行為をしなければ良いだけの話だと。でも違った。実は結構難しいことだった。
夜鷹はこれまでに性欲というものを感じたことがない。そんな暇がないくらいに、虐めの被害をどうやって抑えるかで頭がいっぱいだからだ。誰かを好きになっても、その恋が叶うなんて端から思っていない。思っちゃいけない。
自分はこんなに醜いから。
寒くなってきて腕を擦る。この制服とシャツの下の痣のことを思う。夜鷹の痣は、身体の成長とともに広がっていく。背丈も、きっともっと伸びる。それに伴って痣の範囲も広がる。
こんなに醜い容姿の自分が、愛衣の隣に堂々と立てるわけがない。一緒に居られるだけで、満たされている。
これ以上の幸せを、どうして望むことができようか。
「でも……」
でも。
その先の言葉が見つからないまま、チャイムが鳴った。
§
ほらやっぱり。
音莉はロッキングチェアの上で膝を抱えて悠馬を見た。
初めて悠馬に会ったときから自分と同類のような気はしていた。何度となく仕掛けてはみたものの、なかなか本性を見せてくれなかった。けれどようやく化けの皮が剥がれたってところか。
違うって言ったところで、本当に違うことになるわけがない。それは音莉もよく知っている。
好きだと認めてしまえば、楽になるのに。
兄に恋している音莉にはできないことを、悠馬はできるのに。むしろ手放そうとしているなんて。
「どうしてそこまで否定するんです? そんなに血相変えて、怒鳴り散らして」
気になって聞くと、悠馬の紅潮した頬が引き攣った。
「じゃあ聞くが、どうしてそこまで知りたがる? 他人のことに首を突っ込む? そこまで知って何をする?」
何をする、か。音莉は瞬きをする。
何ができるわけでもない。話を聞くことしかできない。それでなにも解決はしない。ただ悩みが少しすっきりするだけ。
「なにもしません」
しないんじゃない。なにもできないの間違いだ。
「そういうの、嫌いだ」
「
「あぁ、
悠馬は続けた。
「ただ話を聞いて、それがお前の決めたことなら何も言わないけど、って言うのだったら、最初からなにも聞いてくるな」
話したって中途半端に理解されるのだったら、最初から話さなければいい。踏み込まれないように、毅然として壁を張っていればいい。
テーブルの上に散っていた光が、雲で陰る。図書室の中が少しだけ暗くなり、温度が下がった。
「で、音莉はちゃんと質問に答えました。悠馬先輩は音莉の質問に答えてくださらないのですか?」
悠馬の顔にさらに陰る。薄い唇を噛み、伏せた両目を音莉から逸らした。手の甲を爪で引っ掻いている。それから掠れる声で「約束をした」と言った。
「約束、ですか」
その約束が縛っているのか。
「一方的な約束。でも……」
それ以上は言わなかった。聞くな、とも言われているような気もした。
約束。
大切な言葉だ。でもそれ以上に、卑怯な言葉だ。
「今聞いたこと、お口ミッフィーにしておきます」
唇の前で両の人差し指でバッテンを作ると「なんだそれ」と覇気のない声がした。
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