3
学校に行く気が起きなかった。でも、ここで無理にでも行かないと、親になんて言われるかわかったものじゃない。
外に出た悠馬は、エスニック調のマフラーを巻き直した。寒空のパレットには泥のような雲が広がっていた。
家の近所にある公園から遊具が一つ、消えていた。
遊具が一つ消えた公園は、簡素な滑り台だけがやけに目立っていた。変な感じだ。どこか間が抜けていた。
ちょっとしたことで物事は変わる。それは人も風景も同じで、気づいた瞬間の切なさも同じみたいだった。
学校に、クラスに行きたくなかった。
行ったら愛衣と顔を合わせてしまうから。
どんな顔をしていいのかわからないから。
マフラーの中で大きく息を吐く。口の周りがやんわりと温かくなった。
§
大きく背伸びをして眠気を吹き飛ばす。
月曜日の朝は伸びきったゴムみたいだ。また一週間が始まることへの気怠さが空気全体に広まっているみたい。
それでも今日の天気は晴れ。すんすん、と鼻を動かすと風の匂いと太陽の匂いがした。絶好の体育日よりだ。でも音莉は体育は大っ嫌いだった。
下駄箱で靴を履き替えていると、緊張した面持ちのクラス委員長の
「星野さん、おはよー」
彼女の挨拶も音莉には耳障りな音にしか聞こえない。ふいっと顔を背けると、凪沙は肩を落として横をすり抜けていった。
「音莉、挨拶ぐらいしようよ」
後ろからぼんやりした声がかかる。朽葉色のマフラーで顔が半分埋もれた夜鷹が立っていた。
「挨拶したくないものはしたくないんです」
「でもさ、一応片平さんも挨拶してくれてるんだから」
「挨拶を返すか返さないかは私が決めることですー」
「お行儀悪いよ」
「どう言われようと音莉の勝手ですもん」
音莉は大げさに肩をすくめてみせる。夜鷹とかち合うと話が終わらない。平行線になるばかりだ。
「音莉のことより自分のこと心配したらどうですか?」
そう言うと夜鷹は乾いた笑い方をした。全く夜鷹は別クラスの音莉のことも心配するのだから。
「あ、悠馬先輩だ」
夜鷹が顔を向けた方を見ると、三年生の下駄箱の間から悠馬が出てくるのが見えた。いつもきちんと整えられているはずの髪に、寝癖がついている。
「おはようございまーす」
「ん、あぁ、倉敷と星野か」
文芸部の先輩が名前呼びする中で、悠馬だけ相変わらず名字でしか呼んでくれない。
「ほら、夜鷹くん。悠馬先輩だって挨拶しませんでしたよ!」
「でもちゃんとこっち見て認識してくれた! 音莉と一緒じゃないよ」
「おい、なにを張り合ってるんだお前ら」
音莉と夜鷹の間に悠馬の呆れた声が割って入った。そのとき、音莉には悠馬の顔色が少し悪いように見えた。少し血の気が引いて、風邪の時みたいに不健康な色をしている。
「おや? 悠馬先輩、ちょーっと寝不足ですか? 隈がついてますよ?」
指で突っついて指摘してみると悠馬は肩をびくりと強張らせた。音莉も夜鷹も驚きのあまりに目を見開く。いつも堂々としていて、陰で『鬼の副部長』と呼ばれているほど恐れられている悠馬が、明らかに動揺していた。
「……悠馬先輩?」
夜鷹が声をかけると、わずかに悠馬の頭が揺れた。
「えっと、大丈夫ですか?」
夜鷹が聞くと、悠馬は意識を取り戻すように軽く首を左右に振って「なんでもない」と疲れた声で言うと、そのまま歩いて行ってしまった。
「今日の悠馬先輩、なんか変な感じがする……」
悠馬が歩いて行った方を見ながら、夜鷹が寂しそうに眉を寄せた。その隣で音莉も肩をすくめた。
あらら。また夜鷹くん、人の心配している。
けれど正直、音莉も悠馬の様子も気になるところだ。なんとなくだが、音莉には心当たりがあった。
「あれは……」
夜鷹がきょとんとした表情で「音莉、なんか言った?」と首を傾げる。
「なーんにも言ってませーん」
§
三年D組の教室は、確か詩織先輩が三年の時のクラスだった。砂のようにまばらに散る空を、愛衣はぼんやり眺めていた。先輩もここからの風景を見ていたのだろうか、どんな風に見えていたのだろう。
手にした『月に祈りを』のページをめくる。詩織先輩はなにを思ってこの話を書いたのだろう。
雪彦と話してから、詩織のことが懐かしく思い出され、それに浸っていた。
「ねぇ、アイちゃん」
馴れ馴れしく甘ったるい声が背中にかかった。せっかく懐古に浸っていたのが、一瞬にして台無しになった。今日はなにを聞かされるのか。嫌々と首を横に振った。胃の奥が警告するようにチクチク痛んだ。
「なに?」
無理やり落ち着いた声を出す。麻美がにこにことした笑顔で立っていた。
「日曜日、男の人と駅前にいたよね? あの人彼氏でしょ。アイちゃん、彼氏なんか興味ないって、土川くんのこともフッてたくせに~」
喉の奥がきゅっと縮こまって声が出なかった。麻美の顔を直視できなかった。男の人=彼氏という方程式は、どんな式から出てきたのだろう。
肯定か否定か。彼女はそれを求めていない。回答は既に麻美の頭の中にできあがっているのだから。だって、彼女は疑問文で聞いてこなかった。
愛衣は麻美を横目でちらりと見て席に戻った。どうしたらいいかを考える。雪彦のことをどう説明したらいいのだろう。そもそも話すようなことなのか。これは愛衣のプライベートで、愛衣自身が話したくないなら話さないでいいことだ。上履きの中で爪先を丸める。考えすぎて、頬が熱くなってきた。
上手く立ち回らなければ。
給食の時間が終わる。もうすっかり愛衣のことがクラスに浸透していた。高校受験のモードに入るのは遅かったのに、浮ついたことには敏感ですぐに馴染む。
少しの間も図書室に居たくて教室を出た。廊下の大きな窓から空を見上げる。風が強くなって木の葉が舞っている。冬の匂いがする風が入ってくる。すっと鼻を通っていく冷たい空気が、冬だと教えてくれる。
「一之瀬さん」
後ろから愛衣を呼び止めたのは、土川隆史だった。彼は愛衣に追いつくように大股で歩いてくると合唱コンクールの時と同じように「ちょっといい?」と言った。
もう、なにもないとわかっていてもつい身構えてしまう。「ここがいい」と伝えると、彼は了承してくれた。
「彼氏のこと、いつから?」
「はい?」
「いつから、彼氏いたの?」
厄介な相手に知られてしまった。
「まさかとは思うけど、土川くんはアレ、信じてるの?」
「違うの?」
「違うよ」
「じゃあ、その人は誰?」
なんでそんなことを聞くの。ぐっと背筋を伸ばして足に力を込めた。ふくらはぎが痛くなってくる。
「兄さんの、友人」
「兄の友だちと二人っきりで出かけるか? 絶対なにかあるだろ」
「なにかって何よ」
「例えば……下心とか」
「土川くんじゃあるまいし、バカじゃないの?」
自分でも辛辣だなと思う。
別のクラスの男子たちとすれ違う。なんだなんだ? 寄り戻すのか土川~? そう冷やかして去って行った。
「ま、あんなイケメンが相手とか、俺には太刀打ちできないもんな……」
「なんで顔知ってるの?」
「知ってるのって、これだよ」
隆史はおもむろに、制服の内ポケットから携帯を出して画面を愛衣の目の前に突きつけた。どれだけ校則を破ってる人がいるんだろう、と考えるよりも先にその画面に愛衣は両目を開いた。
カフェの店内で笑い合う、愛衣と雪彦の写真だった。
やっぱり、この男と付き合っているのか。 大きく目を見開いた愛衣の顔を見て、隆史は確信した。それと同時に得体の知れない怒りがこみ上げてきた。
俺の告白は断ったくせに。一度は考えると言ったのに、途端に手のひらを返した。
質が悪い。そうやって今付き合っている男も振るんだろ。自分は敷居が高い女だって。女子たちが悪女っていうのも少しはわかる。「ねぇ一之瀬さん、この写真ばらまかれたくない?」
愛衣の視線が隆史の顔を直視した。
「ばらまかれたくないなら俺に乗り換えてよ」
「仮に、この人と付き合っているとしても私は土川くんと付き合わない」
愛衣は毅然と宣言した。
どこまでも拒絶するのなら、こっちにも考えがある。彼女は処女だ。どこまでも純潔だ。その純粋さを武器にしてるのなら奪えばいい。彼女の心も体もめちゃくちゃにして、こっち側に堕とせばいい。
愛衣の手首を掴んで引っ張る。愛衣の表情がさっと青くなり、肩が大きく跳ねた。あぁ、その表情、たまらない。
「離して、離してったら!」
連れ込まれたのは音楽室。ピアノの奥に引っ張られる。悲しいことに愛衣の力では抵抗できなかった。
「付き合わないって言ったの、聞こえなかった?」
「そうだね、俺たちは付き合わない。彼氏、いるもんね」
だから違う。雪彦が付き合っているのは愛衣じゃなくて。口に出せないもどかしさに歯ぎしりする。
けれど隆史はそんなことどうでもいいようにうっすらと気味の悪い笑みを浮かべていた。“クラスの人気者”にふさわしくない笑みに、愛衣の背筋がぞっと粟立つ。
「でも、付き合ってなくてもセックスはできる」
壁際に追い詰められる。言葉がダイレクトに響き、現実的に想像させて身体を硬直させた。恐怖のあまりに膝が震えた。壁の冷たい温度が制服越しに流れ込んできて、思わずその場にしゃがみ込む。
ダメ。立ってなきゃ。こんなことに膝を屈しちゃダメ。自分に言い聞かせても身体は動いてくれなかった。
予鈴が聞こえた。あと五分で昼休みが終わる。
「次の授業はサボろっか。その間にイイコト教えてあげる」
隆史の左手が胸の輪郭をなぞった。
「え、でかっ」
胸の膨らみを鷲掴みにされて、痛みに思わず息がこぼれた。右手がスカートの中に滑り込むように入ってきて、太股の内側を撫でられる。他人に触らせたことがない部分に、気味悪さが増して身体が拒否して跳ねた。
やめて、と微かに彼女が吐息混じりに呟いた。
「やめていいの? 身体こんなに反応してるのに?」
「やだ、気持ち悪い」
聞き飽きた台詞だった。女子はみんな最初はそう言う。でも最終的に気持ちいいって言う。隆史はそれを知ってる。だから、そのきもちわるさは少しの辛抱だ。
制服の中に隠していたモノが、暴かれようとしている。でももうどうしようもなく、愛衣はただ身体に起こる反応に耐えるしかできなかった。
兄さん、雪彦さん、助けて。
§
予鈴が鳴った。でも文乃は走る足を止めない。あと五分で音楽室に忘れたアルトリコーダーを取って、教室まで戻れるか。
階段を二段飛ばしに駆け上がり、三階の廊下をダッシュする。文乃にとってこれくらいどうってことない。身体能力は今年の一年生の中でもトップクラスなのだ。
角を曲がって音楽室の扉に手を掛ける。勢いよくスライドさせると、爆発でも起きたみたいな音が響いた。
「おっと失礼ーっと」
室内には誰もいないけど、壁に掛けられた音楽家の肖像画たちに、ということで一応謝罪。
自分の席の机の中からアルトリコーダーを取って戻ろうとしたときだった。ピアノの向こう側に、なにかあった。誰かがいた。男女の密かな吐息みたいなのが聞こえた。
うわ、と文乃は声を抑える。授業サボってこういうことする人ってほんとにいるんだ。
「予鈴鳴ってるっすよー 事を致すなら、こんなほこりっぽいとこじゃなくて保健室をオススメするっす」
「……文乃ちゃん……?」
女子の方が口を開いた。聞き覚えのある先輩の声に、そのまま出て行こうとした文乃の足が止まる。
「……愛衣ちゃん先輩っすか……?」
男子生徒に壁際に追いやられ身体を触られていたのは、いつも毅然としている愛衣だった。
あ、ダメだ。
切り替わる。
もう片方の人格が、出てきてしまう。
「俺んとこの先輩になにしてんすか」
肌がざわめいたと思ったら、一気に口が悪くなる。男子生徒の鳩尾につま先をめり込ませ、その隙間から愛衣の手を掴んで引っ張り上げた。引っ張った愛衣は手応えがなく、ものすごく軽く感じた。
「大丈夫っすか、先輩」
愛衣は怯えた表情を隠さずに首を左右にゆっくりと振った。
「………行きましょ。こんなクズ、ほっとくっす」
愛衣の背中に手を回して、庇うように歩きながら二人で音楽室を出た。一端思い立って、男子生徒のところに行って、その股間に一発蹴りを入れ、再び愛衣の元に戻る。
「ざまぁっすよ」
本鈴が鳴った。残念、授業には間に合わなかった。
ごめんね、と涙混じりに愛衣が呟いた。
「へーきっすよ」
もう片方の人格はまだいた。一人称が「俺」の文乃は、愛衣を女の子として認識して優しく扱った。愛衣の背に手を回して歩幅を合わせた。
図書室の奥では、ロッキングチェアの上で音莉が膝を抱えて寝息を立てていた。空いていたら愛衣に座らせようと思っていたけれど、そう簡単にその席が空くことはないか。
代わりに窓辺の席に座らせて、隣に文乃も座る。
「悠馬先輩はなにしてるんすかね。同じクラスなんしょ?」
悠馬の名前を出した途端、俯いていた愛衣は「悠馬はダメッ」と叫んだ。こんなに取り乱した愛衣の姿を、文乃は初めて見た。
「ダメ……悠馬は、ダメなの」
もう一度、消えそうな声で言った。
「なんでっすか」
「……幼なじみだから」
「幼なじみだと、ダメなんすか?」
「うん……ダメ。勘違いされる。それに悠馬はきっと、それを望んでない」
そんなことないと思うんだけど。
悠馬が本心を探らせないから確信はない。でも、他の誰よりも愛衣のことを注視しているようにも見える。誰も気づいていない、見えないところから愛衣を守っているような。文乃にはそんなふうに感じていた。
「そっすかー 案外難しいもんなんすね、幼なじみって。俺にはわかんないっす」
思ったことは口に出さず、ただ共感したフリをしてみせた。
一人称が「私」の方の人格なら、と考える。あっちの方なら、もっと上手に先輩の苦しいことに寄り添えたのかな。
もう片方に切り替わるまで、文乃は口を開かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます