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 彼岸花の季節もそろそろ終わる時期だな。

 霊園の一角に座り込んだ風夏ふうかは、自分の家の墓石の脇に咲く数本の彼岸花をぼーっと眺めていた。先月来たときはまだ赤々と咲いていたのに、すっかり茎に力がなく、腰をかがめたおばあちゃんみたいになっている。

「うー……さすがに寒くなってきた……それじゃ、行くね」

 墓石にそう話しかけて、お供えした缶コーヒーを鞄にしまう。ホットを買ったのに冷たくなっていた。

「また来月に来るよ、兄さん」

 墓石に刻まれているのは風夏の兄、静夏しずかの名前だった。今日は兄の月命日で、風夏は欠かさずに通っていた。


 雨宮あまみや静夏しずかは九つも上で、元から心臓が弱かった。そのため何度も入退院を繰り返して、十五歳の十二月に亡くなった。

 それでも風夏にとってみればずっと大人の兄だった。肩車は何回もしてもらっていて、今でもあの視界が高くなる感覚は忘れていない。

 古典が好きな兄だった。だからお見舞いに古典文学を持って行くと、大人びた顔立ちが一気に子どもっぽく笑うのだ。

 静夏は病床で風夏に『竹取物語』や『とりかへばや物語』を呼んで聞かせた。静夏の話す古語はなめらかで、すぐに風夏の耳になじんだ。風夏が百人一首をすべてそらんじることができるのは、単に静夏のおかげだろう。

 高校の受験では、古典文学の授業を行っている京都の高校に進学を希望していた。けれど、その前に命を散らすこととなった。

 年が過ぎるたび、家族や親戚は静夏のことを忘れていくような気がしていた。それが風夏は寂しかった。だから自分だけは兄がいた記憶を忘れないように、月命日には必ず墓参りをする。

 兄のためだけに。


 さすがに生足は寒かったか、と風夏はタイツを履いてない膝を擦り合わせた。日中の気温が高いのが徒となった今回の服装は、赤チェックのミニスカートに薄手のセーター一枚。上着はなし。

「くっそー失敗したぁ! そういえば天気予報のお兄さん、夕方から寒くなりますって言ってたっけ? コート持ってこればよかったタイツ履いてこればよかったぁ!」

 無理に空元気で叫ぶと虚しくお腹が鳴った。桶と柄杓ひしゃくを施設に返却してから駅の方に歩き出す。

 空を見上げると、黄色と桃色と朱色の鮮やかな夕焼けが広がっていた。東の方からは濃い藍色がベールを掛けるように迫っている。色とりどりの空の中に、一番星の金星がちかちかと光っていた。

「……『日くるれば 山のはづる 夕づつの 星とは見れど はるけきやなぞ』」

 壬生忠岑みぶのただみねが詠んだ和歌をふと呟く。

 日が暮れて山のはしから現れる宵の明星。その「星」ではないけれど、あなたが「欲し」いと見ても、その存在が遙かに遠いのは何故だろうか。

 会いたい人が遠くにいる。そんな和歌だ。

 風夏はじっと金星をにらみつけた。会えないとわかりきっているのに、それでも会いたいと思ってしまうのは、いけないことなのかな。

 風もないのに彼岸花が揺れた。  


  §


 図書館にいると時間が流れるのが速い。悠馬は夢野久作の『瓶詰地獄』を閉じて、窓から指す西陽の明るさに気づいた。

「…………おかしいな、勉強しに来たはずなのに……」

 そうぼやく悠馬の前には、メアリー婦人の『フランケンシュタイン』とチェーホフの『桜の園』『宮沢賢治名作集』に、さだまさしの『精霊流し』が積まれていた。それらを全部書架に戻し、『瓶詰地獄』だけを貸し出ししてもらって図書館を出た。

 丘の上にある図書館からの帰りは、自転車を走らせると勢いをつけて疾走する。頬に冷たい風が当たり、マフラーが首の後ろでばたばたと暴れた。

 もうすぐ行われるテスト後の三者面談で、志望校が確定する。そのことを意識すると、どうしても昨日の家でのやりとりが思い出された。


「愛衣ちゃん、合歓ねむ校か椿原に行くみたいだね」

 昨夜、またもノックなしで顔を覗かせた姉の悠希がそんなことを言ってきた。

「……それがなんだって言うんだよ」

「だって、合歓校も椿原つばきはらも共学だもん。よかったじゃん悠馬、一緒の高校行けるかもね」

 行けるかもね、じゃなくて、行ってほしい、の間違いじゃないのか。氷の入ったコーラのグラスがたっぷりと汗を流していた。それを一気に飲み干すと炭酸が喉を痛めつける。

白桜はくおうかもしれないと思ったけど、女子校は合わないと思うんだ。ほら、愛衣ちゃんってちょっと繊細なとこあるし、女子たちの間でいじめられないか心配なんだよね」

 気分はすっかり愛衣の義姉みたいなことを言う。いらいらした。

「人の進路に口出しすんな」

「人じゃないよ、悠馬の進路を一緒に考えてあげてるんじゃない」

「愛衣を人質に取ってんじゃねーよ。俺は愛衣のお守りじゃないんだからさ。それにいつ一緒に考えてって頼んだ? 勝手に押しつけてるだけだろうが」

「人質って、そんな言い方……」

「そんな言い方してるのはどっちだ!」

 バンッ、と拳で机を叩いた。その音を聞いて母親が一階から駆けつけてきて、とりあえず騒ぎは収束した。


 信号が黄色から赤へと変わり、ブレーキをかける。ギッ、と音を立てて自転車が軋んだ。もうすぐ五年になる、悠馬の愛車の青い自転車のブレーキには赤錆が浮いていた。

 あの家に帰りたくないなぁ。

 最寄り駅の隣に立つ自販機に五百円玉を落とす。ホットの飲み物が多く並ぶ中、コーラのボタンを押そうとして思いとどまる。少し迷ってから隣のサイダーのボタンを押した。

「ゆーうーまーっ!」

 甲高い声にキャップを開ける手を止めた。自転車にまたがったまま振り向くと、癖のあるポニーテールを揺らして、風夏が駅構内から走って出てくるところだった。

「やっほー元気ー?」

「一昨日に部活で会っただろう」

「んー、やっぱり悠馬はつれなーいっ!」

「つれなくて結構」

 そう言いながら風夏も自販機でホットのレモンティー缶を買った。

「よくこんな寒いのにサイダー飲めるね」

「部長こそ、そんな甘ったるいのよく飲めるな」

 風が吹いて、金木犀の匂いがあたりを包んだ。甘い洋酒のような匂いが少し寂しくて悠馬は苦手だった。

「あ、愛衣ちゃんだ」

 風夏が声を上げる。見ると駅の出入り口から愛衣が出てくるところだった。秋っぽいドライグリーンのロングスカート姿の愛衣は、学校で見るよりもずっと綺麗に見えた。

「おーい、愛衣ちゃ……ん?」

 呼びかける風夏の語尾が疑問系になって、声が小さくなった。

 悠馬も言葉を失った。

 愛衣の隣に背の高い男性が並んでいた。横顔だったけど、整った顔立ちをしているのがわかった。目元に泣きぼくろがあるのが見えた。二人は親しげに話しながら愛衣の家の方に歩き出していく。

 二人の姿が曲がり角の向こうに消えるまで、悠馬も風夏も一言も話さなかった。

「悠馬」

「なに?」

「あれ誰?」

「俺が聞きたい」

 声がかすれていた。同時に胸の奥をちくりと抓まれたような痛みがして、その痛みの断片が体中に走った。

 自販機の裏に茂っていた金木犀の香りがとろりと悠馬を呑み込んだ。


  §


 地面に接着剤でくっつけられたみたいに足が動かなかった。それは悠馬も同じようで、愛衣たちが去って行った方をじっと見つめていた。けれど急に怒ったみたいな声で「帰る」と言い放って、悠馬は自転車を漕いでいってしまった。

 

 自転車のカゴの中で、飲みそこなった紅茶の黄色い缶がくらくらと揺れている。それを見ながら自転車を走らせる。途中、自動車とぶつかりそうになった。

 青信号が点滅して、赤信号に変わる。

 さっき見た光景を、風夏は頭の中で繰り返して再生した。ドライグリーンのロングスカートは、去年一緒に出かけたときに着ていたものだ。だからさっきの女の子は愛衣で間違いない。制服じゃなくても普段一緒にいる風夏が見間違えるわけがない。

 それじゃ、あの男の人は誰なんだろう。

 考えて思い当たる筋を、風夏は一つしか知らなかった。

 愛衣の、付き合ってる人、なんだろうか。

 この前の合唱コンクールで、愛衣は同じクラスの土川つちかわ隆史たかしに告白された。そこで体験した生々しいやりとりに、愛衣はしばらく恋愛は嫌だと言っていたのに。

 そもそも愛衣の方から恋愛話をされたことだってなかった。愛衣は小説を書くことに没頭するタイプだし、クラスメイトたちとも関係を築くことを極力控えていたようにも見える。

 信号機が赤から青に変わって、再び自転車をこぎ始める。金木犀の匂いが風に乗って漂っている中を自転車で突っ切った。 

「……愛衣ちゃんには愛衣ちゃんなりの生き方があるってか」

 なんて大げさな言い方をしてみるけど、風夏はどうも納得いかなかった。嘘をつかれたわけでもない。愛衣が悪いわけでもない。でも、なんか。うまく自分でも表せないことがもどかしい。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか家に着いていた。

「たっだいまーっと」

 スニーカーを脱ぎ捨てて、いそいそとリビングに向かって、最近出したばかりのこたつに足を突っ込んだ。

「ふぃ~、あったか~」

 キッチンで夕食の片付けをしていた母が「おじさんみたいな声だして」とぼやいた。

「ごはんは?」

「今から食べる」

「じゃあ、片付けの時にお米五合の準備お願いね」

 こたつでテレビのチャンネルをころころと変えながら「はーい」と威勢の良い返事をする。

 母は更年期にさしかかってきたのか、最近は体調がよくない。長年勤めてきた事務のパートも、朝になると「行きたくない」と子どもみたいに駄々をこねることが増えた。父はホテルマンをしており、夜勤が続くとそんなに一緒にいられない。だから、もう兄がいないこの雨宮家で母が唯一頼れるのが風夏だけなのだ。

 風夏は好きなことをさせてくれる母が好きだったし、風夏の体調が悪いとき、母がそばにいてくれたことが何よりも嬉しかった。

 ダイニングテーブルに並べられた小皿が今日の夕食だった。豚肉のネギ塩和えと大根と柚子の浅漬け、厚揚げの生姜醤油掛け、それと白米と味噌汁。味噌汁には風夏の好きなタマネギがたっぷり入っている。

 今日も待たずに一人で食べたんだ、お母さん。

 お風呂に入ったらすぐに寝てしまう母は、風夏を待たずして夕食を取る。一人での食事は寂しいことくらい知っているのに、母はもうそんな体力もないくらい疲れているのだ。

 途端に申し訳なくなって、大根と柚子の浅漬けを一つ、つまんで口に運んだ。

 甘くて、冷たかった。


  §


 今日の入浴剤はひのきの香りがした。湯船に浸かると一気に花鶏の体中が火照っていく。姉兄はほとんどをシャワーで済ませるが、花鶏は極力湯船には浸かろうと決めていた。

 そっと緑色に変色したお湯を手のひらで掬い上げる。お湯がこぼれる指はだいぶ強張っていた。

 バスタブの縁で鍵盤をイメージして、右手の五指を踊らせる。フランツ・リスト『ラ・カンパネラ』の指使い。

 元々ヴァイオリン協奏曲をリストがピアノ用に編曲したもので、リストの中で有名な曲とともに最高難易度を誇る。

 音大付属の高等学校に進学するともなれば、家柄について言われることは免れないだろう。それならそれで、実力を今のうちに身につけておかなければならない。花鶏の専攻はヴァイオリンだが、ピアノは音楽の基礎中の基礎。避けて通れない。これは、瀬呂の名を持っている以上の、花鶏の意地だ。

 家柄なんて気にする必要はない、と風夏は言うだろう。幼稚園の頃から一緒だった腐れ縁の幼なじみは、なぜか花鶏のことについても絶対の自信を持っていた。

 とんっ、と指を叩くたび、バスタブに張り付いていた雫が跳ねる。いつの間にか鼻歌まで歌っていて、気づけば大きくなっていた。

 檜の香りだけがそれを聞いていた。


 部屋に戻った直後に、オルゴール調の『別れの曲』が、普段は使わない携帯から流れ出す。着信相手を確認して顔をしかめた。風夏からだ。しばらく携帯画面を眺めてから通話ボタンを押した。

「……なに? こんな夜更けに」

『夜更けにって、まだ十時前でしょ!』

「もう十時前なんだよ。んで、何の用?」

『いやー、用なんてないよー なにしてるかなーって』

「嘘こけ。なにがあった? なにもないって恋人じゃねーんだぞ俺ら」

 そう言うと風夏は黙った。

 いつも相談事があるとき、風夏は最初に茶化してくる。やがて電話の向こうでぼそぼそと風夏の声がしおれた。

「なに? 聞こえないんだけど」

『今日、愛衣ちゃんが駅で、男の人と歩いてた……』

 彼女が言いたいことはだいたいわかった。

「あ、そう」

『なんつー興味のなさ』

「だって興味ないから」

『ヒドくない?』

「酷くない」

 耳に携帯を当てながら花鶏は窓の外に目をやった。話題に興味がないわけではない。こうでもしないと、風夏はもっと気を重くするからだ。

『見間違い、じゃないんだ』

「確信あるんだな」

『ある』

「もし、」と花鶏は聞いた。「もし愛衣が、その人と付き合うってなったら、おまえどうする?」

『それは……』

 風夏は口を噤んだ。ちゃぷん、と電話の向こうで波立つ音が聞こえた。

「おまえ、風呂かよ」

『ん? そーだよー 今日の入浴剤はサクラ~ 花鶏はー?』

「檜」

『うわ、豪華だなー』

 声に元気が戻ったが一瞬だけだった。すぐに風夏は黙っていたが、『愛衣ちゃんのこと』とまた口を開いた。

『もし愛衣ちゃんがいいって言うのなら、応援するよ。でも、そのせいで部活に来るのが少なくなるのはやだなぁって』

「俺たちもうすぐ卒業するのに?」

『まだ三ヶ月以上はある』

「そんなに執着してたっけ?」

『今気づいた』

「そうか」

 軽い嫉妬みたいだった。

『変かな』

「変じゃねーよ」

 友達ならそんなもんだろ。

『そっか』

 なんか納得したみたいに吐息と一緒にそう言った。ぱしゃん、とまた波だった音が聞こえる。

『ありがと』

「どういたしまして」

 そう言うと風夏の方から通話を切った。

 風夏と愛衣は仲がいい。それこそ休みの日も一緒に出かけるくらいだ。それは普通のことなのだろうけど、なんというか、気軽に友達と出かけるなんてことが少なくなっていた花鶏には、若干うらやましくもあった。同じ文芸部の悠馬と出かけることも少ない。

 どうあったってこのままじゃいられない。

 変わることは止められないんだから。

 机の上の教科書の間に挟んだ、イタリア語で書かれた高校のパンフレットをじっと眺めた。

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