3章
1
合唱コンクールを経て団結したと思われていたクラスは、途端に受験戦争に突入した。期末テストを終えると、多少は落ち着いたものの、クラス内でのピリピリした空気は依然として無くならなかった。
そんな中でも、一之瀬家は何事もなく冬支度を始めていた。変わったことといえば、長男の
『入室禁止』と大きく書かれた紙切れが大樹の部屋の扉に貼ってある。通りかかった嵐志がじっと眺めた。
「あーあ、せっかくの日曜日だっていうのになぁ」
大樹が風邪を引いた一方で、嵐志はケロッとしていた。誰と遊びに行こうかとぶつぶつ呟いている。
「宿題はやったの?」
すぐさま嵐志は耳を塞いだ。「げっ、やなこと言うなよ姉者~」とムンクの叫びみたいに見えて、可笑しくてつい笑ってしまった。
昼食の片付けをして、兄に持って行くお粥を作る。卵と
「あとで駅前行ってくるから」
「また本屋?」
「そう。嵐志も一緒にどう?」
ソファーにごろんと横になった嵐志は「荷物持ちにさせる気だぁ」とぼやいて首を振った。その片手には固定電話の
嵐志にお粥を持って行かせ、猫たちにもご飯を持っていく。今日も相変わらず、桃子はきれいに平らげてくれる。吹雪は即座に食べ終えて、優雅に毛繕いをしていた。
シンクに食器を置くと、玄関のチャイムが鳴った。桜子が吠えていない。ということは知人だ。嵐志の友だちが遊びに来たのか。でも当の本人は別の友だちを口説き中だ。再びチャイムが鳴る。ロングスカートの裾を整えながら、玄関に向かった。
「はい……あっ」
「こんにちは、愛衣くん」
「雪彦さんっ」
あ、と愛衣は声を漏らした。デートだ。まだ経験したことがない愛衣にも雰囲気でわかった。
「大樹、いる?」
「はい。胃腸風邪で寝込んでますけど」
「え?」と眉間に皺を寄せた。あれ? と愛衣も首を傾げる。
背後で にぁ~ と吹雪が鳴いた。上がってもらえ、と言っているみたいだ。
靴をそろえて家の中に上がると、雪彦は貼り紙を見て「なにこれ」と可笑しそうに小さく笑った。
「結衣たちに移さないように、です」
他の家ではやらないのかな、と考えながらコーヒーを淹れる準備をする。嵐志がぱたぱたとリビングから飛び出してきた。
「姉者ーっ! 今から
パチンッ、とハイタッチを交わすと、嵐志はそのまま玄関へ向かっていった。「なぁーんだ! 雪彦兄者が来るんだったら早く言えよなー」とぼやきながら靴を履き「行ってきまーす!」と出て行った。
雪彦は吹雪の腹を撫でながら「ふーん。で、今日の約束をすっぽかしたわけか」と呟いた。「何度連絡を取ってみても反応がないから来てみたら、まさかの胃腸風邪だったとはね」
「え、さっきまで兄さん起きてましたけど?」
「え?」
コーヒーを淹れたマグカップに口を付け、雪彦が首を傾げる。愛衣はもう一度「あ、」と声を上げた。そういえば、大樹が携帯を使っているのを、嵐志が取り上げていたのだ。
嵐志の部屋に行くと、案の定、電気スタンドの隣に、大樹の携帯がちょんと置いてあった。ご丁寧に『熱が下がるまで使用禁止』と貼り紙までしてあった。着信を教えるオレンジ色のランプが点滅していた。雪彦と顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。
「ばかだなぁ」
笑いながら雪彦は携帯を取った。
§
落ち着いた喫茶店に入って、二人揃って一息つく。コーヒーの香りは嫌いじゃない。カップに注がれるときの、あの鼻につく匂いを吸い込む。愛衣はコーヒーと苺タルト、雪彦は紅茶とクリームブリュレを注文する。
「たくさん買ったね」
四人掛けのテーブル。愛衣の隣に置かれた二つの紙袋を雪彦はしげしげと眺めた。
「お小遣いとか、どうしてるの?」
「もらってないですよ」
お小遣い、という懐かしい単語に愛衣は密かな笑みを零した。
「お金の管理は兄さんがやってます。本のお金は、毎月買いに行くたびにもらっているんです」
氷が少し溶けた水を飲む。思い出したことと一緒に、深く飲み込んだ。
コーヒーと紅茶が運ばれてくる。愛衣の前に紅茶、雪彦の前にコーヒーが置かれた。あれ、と顔を見合わせて互いに苦笑した。
「見た目で判断しないでほしいね」
「仕方ないですよ」と愛衣も肩をすくめてカップを取り替えた。
雪彦が受け取ったティーカップの柄は、女性もののデザインだった。淡いオレンジ色のカップに花があしらわれ、とっても小さい。大して愛衣の受け取ったコーヒーカップはシンプルなデザインだった。
男はコーヒー、女は紅茶。そんな決めつけみたいなものを垣間見た気がして、愛衣は砂糖も入れずに口を付けた。気にしすぎ、とコーヒーの苦みが言った。焦げた豆の味は、大人の味。だから年上の雪彦の方に置かれたのかもしれない。
白いカップ。ソーサー。目の前にはオシャレな苺タルト。家ではマグカップを使っている分、持つ手にも力が入った。一方、雪彦は慣れた手つきで器用にカップを持ち上げる。
「大人だ」
「まだ子どもだよ」
「大人ぶってるだけですか」
「そう」
紅茶にミルクを注いで、雪彦はくらりとカップの中身を回す。
「みんなそうだよ」
「え?」
「みんな、大人ぶっているだけ。年齢も性別も関係ないんだ」
「そうなんですか」
「そうだよ」
雪彦と話していると、猫みたいに思えてくる。考えているようで、実はどこか抜けているところがあったりする。ぼんやりしていると思えば、急に抽象的なことを言い出す。
雪彦のクリームブリュレのカラメルを、コーヒースプーンでおもむろに叩き割る。
「あ」
「アメリです」
「アメリ?」
「二〇〇一年にフランスで公開された映画です。主人公のアメリは、クリームブリュレのカラメルを叩いて割って、閉じこもっていた自分の殻を破るんです」
前に、文芸部で魔女先生に薦められて、DVDを見せてもらったことがある。
カラメルを割っただけで、自分の殻は簡単に破れない。要するに気分の問題なのだ。
「俺のなのに」
「私も子どもですから」
「愛衣くんって本当に中学生?」
「はい。ご覧の通りの中学三年生です」
周りより走るのが速くて、数学が苦手。コーヒーに砂糖とミルクも入れるし、弟と言い合いもする。人のクリームブリュレのカラメルを無断で割ったりする子どもなのだ。読書と書くことが趣味の、どこにでもいる中学生。制服を乱すことなく着こなして、セーラー襟とスカートの下に、ちょっとした秘密を隠している。
「愛衣くんって、好きな人いるの?」
コーヒーカップを危うく落としそうになった。テスト前に起こった出来事が、芽を出すように開いていく。あ、と雪彦が声を上げ、それからにぃっと口の端が弧を描いた。
「なにかあった顔してる」
ゆっくりと、口の中のコーヒーを飲み下す。砂糖を入れたから甘くなっている。見透かされた。カップをソーサーに戻し、両手で顔を覆った。思い出しただけでもせり上がってきそうだ。
「兄さんには言わないでくれます?」
「言わないよ」
「ほんとですか?」
「神に誓って」
愛衣は肩を落として、先日の合唱コンクールで起きた事の
雪彦はふーん、とすました猫みたいに目を細めて考え込んでいる。そこまで驚きもせず、話を聞き終わると背もたれに深く身体を預けた。
「それは……どっちもどっちだね」
愛衣は憮然として「そうですか?」と唇を尖らせた。雪彦なら、愛衣の言いたいことがわかってくれるのかと思っていた。雪彦はんー、と腕を組む。
「本能と理性。
「そうですけど……」
「でも愛衣くんの選択は間違っちゃいないよ。子孫繁栄に乗じない選択。俺だってそうだ。同性同士で付き合えば、行為はできても子孫は残せない。それこそ、クリームブリュレのカラメルを割る行為だ」
まだ残っているカラメルの表面を、スプーンの背で叩く。一回目でヒビが入り、二回目で割れ、三回目でクリームの中に沈む。
膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。愛衣は気になったことを口にした。
「同性でも……できるんですね」
ふと寒気がして肩の辺りが震え、強張った。気まずそうに目を伏せて雪彦は「形だけだ」と言った。
「お互いに愛し合っているか、確かめるにはいいかもしれない。でも、同性でも異性でも、結局は本人がどう思うかだよ。愛衣くんみたいに気持ち悪いって思う人も当然いる」
ごめん、と雪彦が謝った。
「この話はやめよう。食事のときにする話じゃなかったね」
「いえ、私の方こそ、変なこと聞いてすみません」
急に頬が熱くなってきた。好奇心でいろいろ聞くものじゃない。それはわかっていることなのに、時々忘れてしまう。知りたいと思ってしまう。悪い癖だ。
雪彦がクリームブリュレを一口、分けてくれた。中にラズベリーが入っていて、ほどよく酸っぱかった。
「さっきの話、サキさんの方がよく知ってるかな」
雪彦が言った名前に、愛衣は声を上げた。文化祭で会った人だ。愛衣にトランスジェンダーを教えてくれた人。長い睫毛に、蝶々のような指先を思い出す。
「
そう言って雪彦は、紙ナプキンに大学名と、サキの連絡先であろう番号を書いて愛衣に渡した。受け取って、大事に折りたたんで財布にしまった。特別なチケットをもらったみたいで、胸が微かにときめいて、財布を胸に当てた。
「サキさん、一緒に文化祭回ったんだよね」
「そうです」
「うるさかったでしょ」
「そんなことなかったですよ」
「そう?」
頷きながらフォークで苺タルトを切り分ける。
「私、自分が姉だからですかね。お姉ちゃんができたみたいで、楽しかったんです」
兄とはまた違う距離感。ちょっと大人の女性が見る世界が羨ましかった。苺タルトを口に運びながら、ぽっかり寂しい気分になったりする。
「サキさんも喜ぶ。あの人、妹さんいるけど、あまり理解してもらえなかったって、愚痴ってたからさ」
実際に受け入れられない人もいる。愛衣たちの外側の人たちだ。いろんなひとがいていい。みんな違ってみんないい。金子みすゞもそう言っている。けれど、現実はそうはいかない。少しでも同調しないモノが現れると、残酷な好奇心で突っ込んでくる。
甘いようで甘くない。砂糖をたくさん入れた、冷めたコーヒーのような味をしている。白いカップに半分くらい残ったコーヒーを、飲み干した。
§
代金は雪彦が支払ってしまった。
「もうちょっと財布を出すのが早かったら……」
「愛衣くんは、もう少し甘えることを覚えた方がいいと思う」
「子どもでいろってこと」
雪彦はなにも言わず、ただ微笑んだ。結衣がよくやるように、頬を膨らませてみると頭を撫でられた。
昔から甘えろ、頼れ、という言葉が嫌いだった。なんというか自分が情けなく見えるというか、申し訳ない気分になるのだ。その度に、胃の辺りがぎゅっと縮こまる。
ニューヨークの摩天楼みたいな色合いの雪彦は、どこからどう見てもスタイリッシュな大人だ。それに比べると、愛衣のドライグリーンのロングスカートは野暮ったく見えてくる。枯れかけた葉っみたいな色。ちょんとスカートをつまむ。
前を歩いていた雪彦が、愛衣の手から紙袋を取り上げた。「あ!」と大声を上げても、雪彦はまったく動じない。代わりに周囲の人たちが愛衣の声に驚いたくらいだ。
「そう、子どものままでいなさい」
聞かれていたみたいだ。両の頬がばっと暑くなる。サイドの髪で紅くなっているであろう頬を隠した。
「子どものままで。なにも知らずに。そのままでいた方が、いい。無理に背伸びをしなくても、いずれ大人になるんだから」
振り返らずに雪彦が言った。少し重たくて、陰が落ちたような声だった。改札に向かう雪彦の後ろを、影を踏むようにてんてんと付いていった。
電車に乗って、空いている席に並んで座る。ちょうど夕陽が指して、雪彦の横顔を甘い蜂蜜色が照らした。
「雪彦さん、さっき、好きな人いるかってききましたよね」
「聞いたね」
「あれ、答えましたけど、いないわけではないんです」
心当たりに近い人はいた。でも、それは恋ではないと自分で気づいてしまった。
「私がまだ中学一年のころの、文芸部の部長……
宮沢詩織は変わった先輩だった。廃部寸前の文芸部に入部して、その全てを変えてしまった。図書室の一角を部室にしたのも、一枚板のテーブルや、ロッキングチェアを運び込んだのも詩織だった。自分で作った部室で読書をして、小説を書いていた。
「……宮沢詩織って、あの『月に祈りを』を書いた宮沢詩織?」
一拍置いて、雪彦は愛衣の顔をまじまじと見つめてきた。
「ご存じでしたか」
卒業してからは高校一年の時に書いた『月に祈りを』という作品で文学賞を受賞して、高校生活と作家活動を両立していると、愛衣は風の噂で聞いた。今、どこにいるのかはわからない。卒業の時に、詩織は使っていた万年筆を愛衣に譲ってくれた。まだ一度も使ったことはなく、お守りとして制服の胸ポケットに忍ばせていた。
「でも、詩織先輩は違いました。ただの、憧れでした」
ときめいたのは、詩織ではなくて、彼が書く文章だった。それは恋じゃない。
「詩織先輩に、書くことは根暗なことじゃないって教えて頂きました。それまではただ読むだけだった小説を書いてみたいって思うようになったんです」
「恩人です」
そう、詩織先輩は恩人という言葉がしっくりくる。
電車が停まり、乗降口から小さな女の子と男の子、その母親の女性が乗ってきて、愛衣と雪彦の真向かいに座った。母親を挟んで子どもたちは座り、今日の夕食について無邪気に話している。
「一作目の『月に祈りを』は俺も読んだよ」
愛衣の話を黙って聞いていた雪彦は、懐かしそうに瞼を閉じた。
「あの話の中にさ、ゲイの男の子が出てきたよね」
詩織の一作目は、壊れかけた家族の再構築を描いた作品だった。主人公ではないけれど確かにゲイの人物がいた。
「彼らみたいに、俺たちも幸せになっていいのかな」
「それは、私が決めることじゃないです」
そっと、肩が触れあった。くすぐったい温度に愛衣は目を閉じた。
「雪彦さんと兄さんが決めることです。私は、雪彦さんと兄さんが幸せになれるように、願うだけです」
今、愛衣ができることは願うことだけ。愛の形を本の中でしか知らない。だから少ししか想像できない。でも、どんな形であれ二人が幸せになればいい。
開いたドアから、金木犀の匂いがした。
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