5

「さぁみんな。とうとうこの日が来ました!」

 十一月の寒空の中。合唱コンクール本番を迎えた三年D組の生徒たちは、会場である公会堂に併設された森林公園に集まっていた。広大な敷地のあちこちで、昼食を終えた三年生がクラスごとに最終練習を行っていた。愛衣たちも最後の調整を終えたところだった。

「最後の歌も完ペキだったよ! これなら金賞間違いなしっ!」

「これが終わったらテストもあるし、本格的な受験シーズンに突入するけれど、ここで団結力を高めよう!」

 委員長の菜摘と指揮者の隆史から、一言ずつ声が上がる。愛衣も円陣に加わってそれを聞いていた。意図的なのか偶然なのか、男女交互に並んだ円陣。何人か飛ばした先に、悠馬が靴の先でざりざりと砂を蹴っ飛ばしていた。

「でも油断は禁物だよ」と菜摘が釘を刺す。

「そうだ。練習の時に思い知ったとおり、ほかのクラスもハイレベルだ。全力を出して金賞を取るぞ!」

 隆史が肩を組むと、クラス全員がそれに倣った。

「D組金賞! いくぞ!」

「おーっ!」


 本番直前。舞台袖は朝焼け前のように薄暗い。その中で前のクラスの発表曲に耳を傾ける。周囲を見渡すと、女子たちは「わー、緊張してきたー」と震える子もいれば「大丈夫大丈夫」と暗示をかける子もいた。

 演奏が終わる。一拍置いて拍手が上がる。

 進行役の生徒会役員に誘導されてステージに向かう。隣に立つ菜摘が「がんばろうね」と囁いた。照明は眩しく、観客なんて見えなかった。


  §


 結果、愛衣のクラスは銀賞だった。それでも担任や一部の女子に泣き出す子も出てきた。特に深い思い入れもない、あまり協調性もないクラスにしてはいい結果だ。席に深く座ったまま、愛衣は結果を聞き流していた。

 表彰式を終えて、会場から出る。ずっと座っていたせいか、身体がぎしぎしして節々が痛い。腕を組んで背伸びをする。手を組んで背伸びをする。冬の気配が混じった空気は冷たくて、暖房が効いた会場の中にいた愛衣の身体中を冷やしていく。

「一之瀬さんっ」

 腕時計で時間を確認していると、隆史に呼び止められた。指揮をしている時と、少しだけおどおどしているみたいに見えた。

「ちょっと、時間ある?」

「少しだけなら。何か用?」

 スカートの中で風が渦巻いた。鞄と手で裾を押さえる。

「あー……ここじゃ、ちょっと……」

 隆史の視線が泳いでいた。少し遠くに複数の男子たちが、こっちをちらちらと見ているのが見えた。すぐに感づいてしまったけれど、ここは大人しく隆史の後に付いていくことにした。

 連れてこられたのは、公園の奥にある東屋みたいなところだった。足元にたくさん枯葉が落ちて、踏むたびにカサカサと乾いた音を立てている。あんなに晴れているのに、ここは少し薄暗かった。

「一之瀬さん、好きです。俺と付き合ってください」

 なにを言われるか想像はしていた。肩にかけた鞄の取っ手をぎゅっと握りしめ、頭一つ分高い隆史の顔を見上げる。正面に向かい合った隆史の頬が、紅葉色になっていた。そんな彼を見てもなにも思わなかった。自分は薄情だろうか。

「ごめんなさい。すぐには、返事はできない」

 それしか思いつかなかった。こんなにストレートな告白を受けたのは初めてだったけれど、だといってときめきがあるわけでもなかった。

「そっか」と呟いて愛衣から目をそらした。気まずそうに首の後ろを擦る。

「ちょっと、考えさせて。少なくとも、テストが終わってからじゃ、いけない?」

 テストと聞いた隆史は嫌そうに眉を寄せていた。「やっぱりテストが先かー」と空を仰ぐ。ここまでへこまれると、なんだか申し訳なくなってくる。でも罪悪感と付き合うとは話が別だ。深呼吸をして頭をすっきりさせる。この後に控えている期末テストの結果次第で、志望校を決める。重要なテストだった。

「ちゃんと、考えるから」

 そう伝えると隆史はくすぐったそうに微笑んで「サンキュ」と頬を掻いた。返事を強要させられると思っていたが、案外ちゃんと考えていてくれたらしい。強張っていた肩の力が、するりと抜けた。

 それは隆史も同じだったようで「はぁ~」と大きく息を吐いていた。

「よかった……表彰式の時、ステージで言わなくて」

 一気に口の中が乾いて、気持ちが冷めていくのが手に取るようにわかった。全身に寒気を覚えたのは、きっと風が吹いて寒くなっただけじゃない。

「どうしたの一之瀬さん?」

 顔を覗き込もうとした隆史から、咄嗟に離れる。脚の下で枯葉がガサリと大きな音を立てた。笑い話でこの場を和ませているつもりかもしれない。制服のリボンをぎゅっと掴み、さっきよりも低い声が口から滑り出た。

「ごめんなさい」

 声が震えていた。

「私、そういうサプライズみたいなこと……ダメなの」

 一度、ぎゅっと目を閉じてから隆史を見る。彼は瞬きをしながら、きょとんと首を傾げている。なにを言われたのかわからないと、顔に書いてあった。

「え? なんで? 女子ってそういうの嬉しいもんでしょ?」

 足首からぞわりと鳥肌が立った。全身に広がる前に食い止めようと脚の指をきゅっと丸める。

 サプライズの類が嫌いだった。自分だけが知らされていない、という状況が怖く思えてしまうのだ。ステージで告白すると言うことは、全校生徒、教師、見に来ていた親たちにも堂々と交際宣言をすることになる。

 口元を手で覆い隠す。自分が知らないことを、大声で他の人に言われるのが怖い。そこから始まる噂だったり、くっついてくる尾ひれだったりも、愛衣を縛る鎖に見えてくる。

 痛みが残る喉咽から声を絞り出す。

「ごめんなさいっ、本当に無理なの。土川くんのことが好きだったとしても、今ので好きじゃなくなった。だからっ」

 一旦、声を整えて呼吸をする。

「だから……今ここでお付き合いをお断りする」

「なんで?」

 落ち葉を踏んで隆史が近づく。その歩幅分、愛衣は後ずさる。もう一度、隆史が「なんで?」と問う。問いただされているみたいで、ゆるゆると愛衣は首を横に振った。木の葉の陰が落ちて、隆史の顔も暗くなる。

「サプライズが嫌ならやらない。他に嫌なことがあるなら、言って。一之瀬さんにはしないから」

 愛衣の脳裏に兄たちのことが浮かんだ。

 大樹は雪彦と付き合っている。付き合っているけれど、それだけだ。ちょっとくっついたり、じゃれたり、時々弓道のことを真剣な表情で討議したりしている。一緒にいる。ただそれだけなのだ。

「私、付き合うってどういうことなのか、わからない。なにをするの? 土川くんは……土川くんは、私と何がしたいの?」

 隆史は少しだけ頬を赤らめている。「なにって……」と口を濁すが、思い切ったように口を開いた。

「一緒に帰ったり、デートとか、キス、とか……その先だってしたいっ」

 唇を強く噛みすぎて、血の味が口の中に広がった。

 以前、悠馬から借りた本で読んだことがある。行為の描写があまりにも生々しくて、途中で気持ち悪くなって、全部読むことなく返したのだった。

 それを、求められている。

 かさり、と風に舞う木の葉の音がやけに大きく聞こえた。

「やだ」声が出ていた。「そういうことしたくないって言ったら、しないでくれる?」

「どうして?」

 隆史はまた問うてくる。まるで否定されると思っていなかったみたいに目を丸くしている。

「女の子なら、そういうことしたいんじゃないの?」

「私はしたくない。ぜったいいや、きもちわるいっ」

「一之瀬だって女だろ? 今は嫌でも、嫌じゃなくなるときが来るって」

 隆史が一気に距離を詰めて、愛衣の手首をぐっと握った。彼の手のひらは、すごく熱っぽかった。

「恋愛の詰まるところっていったら、結局はそこだろ。だってああいうことしないと、ッ子どもができないんだから」

 あ、と愛衣は悟った。さっきからずっとつきまとっていたもの。この人は愛衣を『女』としか見ていない。『一之瀬愛衣』と見ていないんだ。

「やだっ、ぜったいいやッ!」

 声を出すとお腹の辺りが鈍く痛み出した。現実は時々、どうしようもなく周囲を壊し出す。

「やだっ、土川くんだけじゃない、男の人の最終的な目的がそれなら、私は誰とも付き合わないっ!」

「一之瀬っ」

「やだっ!」

 手を振り払う。握られた手首から隆史の湿った体温を消すように、袖口で擦った。

「そんなこと……私とじゃなくていいでしょ。他の女の子とすればいいっ、あなたとやりたいって思ってる女の子としなさいよっ!」

 叩きつけるように叫び、固まっていた脚を無理やり動かしてその場を走り去る。

 走っているうちに、胃からなにかがせり上がってくるのを感じた。お腹を押さえて、その場にしゃがみ込む。

 大人になったら、と考えてみる。大人になったら、彼が言っていたみたいに平気になる? そんなはずがない。あんな湿った気持ち悪い温度に、この身体を預けられるわけがない。

 震えを押さえ込むように両腕で身体を強く抱きしめる。目尻から熱い雫が零れた。

 変わりたくない。変わらないで。どうか、どうか変わらないで。未来の私。


  §


 土川隆史が振られた。そんな噂を聞いたのは、合唱コンクールが終わった翌週の月曜日だった。

「よーっす、悠馬ー」

 靴を履き替えていると、職員室から出てきた花鶏に声をかけられた。

「お前んとこのクラスの土川、愛衣に降られたらしいな」

「へー」と声を出したがなんら興味もない。なるほど、それで愛衣につきまとっていたわけか。今までの行動が納得いった。

「こっぴどくされたらしい」

「ふーん。あいつらしい。って、んなことなんで花鶏が知ってんだよ」

「噂は噂。どんなところにもきこえてくるもんだ。おしゃべり鳥の女子たち、声が大きいから」

「なるほど。部長か」

 トレードマークのポニーテールが頭によぎった。

 花鶏と別れて教室に入る。女子たちが騒いでいて悠馬は辟易した。合唱ではおしとやかに声を小さくしてたのが、化けの皮が剥がれてぎゃあぎゃあと騒ぎ出したか。

 遅れて登校してきた愛衣を見つけるや否や、クラスの女子たちが群がっていった。愛衣は眉を寄せて自分の机に鞄を置くと、ゆったりとした足取りで教室を出て行ってしまった。

「よかったな、悠馬」

 後ろから男子たちに声をかけられる。「なにが」と返せば彼らは品のない笑みを浮かべてこう言った。

「一之瀬がつっちーをフッたって話」

「なんで俺が良かった、になるんだよ?」

「だって悠馬、一之瀬のこと好きだろ」

 あぁ、こいつらもか。

『愛衣ちゃんがお嫁に来てくれれば……』

 悠馬の頭の中に、母と姉の口癖が浮かんで重なった。背中の毛がざわっと逆立つ。こいつらも、俺のことをなにも聞かずに周りに流されて同調するのか。

「一之瀬さんってさー、隆史のことヒドいこと言ってフッたんでしょ?」

 後ろからそんな声が聞こえた。派手なグループの女子一人が言い始めたのだ。

「自分は誰とも付き合わないとか言ったらしいよ」

「なにそれー」

「自分がモテるってこと自覚してるんだ」

「成績も良いからって調子乗ってるー」

「知ってる? ああいう女、アクジョって言うんだって」

 ぷつん、となにかが切れた音がした、

「言葉の意味も知らないで、よく言うよ」

 思ったより大きな声が出た。

 女子も男子も黙って悠馬の方を向いた。誰に対して言ったのか、悠馬自身がわかっていなかった。自分に向けて言ったのかもしれない。

「なに国枝? 幼なじみだからあんな女の肩持つの?」

 一番最初に声をあげていた女子の声がうわずる。

「変な言いがかりつけるのやめろよ。嫌いなものを嫌いって言ってなにが悪い。それに悪女ってのは、おまえらみたいに陰でこそこそ悪口言う狡猾な女とか、やたら愛想が良い正義ぶったことをのたまう女のことを言うんだよ。言葉の意味を理解してから悪口言えよな」

 一気に喋ったからか喉が渇いた。

「なに正義ぶってんの? 気持ちわるっ」

 女子のグループはすぐにばらけた。

 氷を入れてきんきんに冷えたコーラで潤したい気分だ。炭酸みたいに、ぜんぶ弾けて消えてなくなってしまえ。みんなの気持ちも、悠馬の気持ちも、全部。


  §


 愛衣の知らないうちに、土川隆史がこっぴどくフラれた話が広まっていた。教室に入った途端「なんで土川のことフッたの?」とクラスの女子たちに質問攻めに遭った。愛衣が誰とも付き合わない、と言ったことに尾ひれが付いて、愛衣が純潔だから性欲には堕ちない、という話になっていた。

 隆史は男子にも女子にも人気がある、クラスの大切なムードメーカーでもあるのだ。隆史と仲の良い女子が「一之瀬さんって、純粋に見えるけどそういうこと考えるなんてヒワイだ」と大人ぶった口調で言い始めた。

 じっとりした目で教室を見回す。そもそも発端は隆史が言い出したことで、愛衣は不可抗力だ。

 この一連を、風夏だけに話した。

 図書室の片隅は、密談するのにはちょうどいい。

「気にしちゃダメよ、愛衣ちゃん。だってイヤだったから断ったんでしょ。正当防衛じゃない」

「気にしないでって言われても」

「ま、ぼかされたとはいえ、いきなりそんなこと言われたら、ねぇ……」

「付き合う先に、そういうことが待っているのは、いやだ。みんな、あんなことするの?」

 図書室の窓に面した席に、隣り合って座った風夏は、小春日和にうたた寝するように目を閉じた。

「うーん……する人もいれば、しない人もいるんじゃない? 本能らしいよ」

「子孫繁栄ってやつ?」

「そうそう」

「そんなことするように見えない人も?」

 例えば、兄たちも?

「見えないところでしてるんだよ。秘密にするから、小説とか、映画とかでその秘密を暴きたくなるんだろうね」

「しばらく、恋愛小説は読みたくない」

 ため息を吐くと、頭を撫でられた。目の前にとんっ、と紙袋が置かれる。

「そんな愛衣ちゃんに、魔女先生からお薬の処方です」

「魔女先生から?」

 紙袋を開けると、甘いクリームの匂いがした。苺と生クリームがたっぷり入ったワッフルが二つ。女の子にとっておやつは一番よく効くお薬なのです、と風夏が胸を張る。

 そっと手にとって、大きくかぶりつく。口の端にクリームが付いたのを、風夏の指が拭った。

「どうよ、お薬の味は」

「甘い」

 苺の甘酸っぱさとクリームの甘さ。一切大人びていない、お子様の味だった。

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