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もくもくとトーストを口に運び、コーラで流し込む。
家族に遭遇したくないから、朝の六時に一人で朝食を取る。一人の朝食にもすっかり慣れた。
最近、食べ物の味がしない気がする。
バターをトーストにたっぷり塗ってみても、口の中がべたべたするだけだ。その反対にコーラの味はしっかりあるのに。
最後の一口を飲み込むと、ピーッと洗濯が完了した音が聞こえた。食器をシンクに運んでから、洗濯物をカゴに入れてベランダにまで持って行く。その後は
ベランダに出ると冷たい風が悠馬の頬を撫でた。どこからかリンゴに似た匂いがしてくる。季節は十一月。そろそろマフラーとダッフルコートを出す時期になっていた。
あれから、悠希とも母とも会話していない。合唱コンクールについてあれこれ聞いてくるばかりだからだ。
元々母親はそこまで子どもたちに干渉してこない。学校イベントもそんなに参加しない。なのに、三年になってからやけに進歩状況を聞いてくる。特に二人は愛衣の様子を聞きたがった。
愛衣とは生まれた時からの幼なじみで、母親同士も仲がいい。そこでどうしても家族ぐるみの付き合いは外せない。こんなふうに聞いてくるのは、中学に上がってから愛衣とクラスが離れたせいだろう。迷惑も甚だしい。
何で息子のことじゃないことを、いちいち俺に聞いてくるんだよ。
母親と悠希が愛衣のことを気にする理由は一つ。
愛衣を悠馬のお嫁さんにしたいからだ。
小さい頃からの付き合いで、お互いのことを周囲よりも知っている。愛衣は美人だから、嫁としても義妹としても見栄えがする。母に至っては、後から入ってくる女と嫁姑関係を時間をかけて築きたくない魂胆が見え見えだった。
「愛衣ちゃんがうちにお嫁に来てくれればいいのになぁ」
それが母と姉の口癖だった。
幼なじみの宿命か。
だとしたら俺や愛衣の意見はどうなる。自分の息子の現状よりも、未来の嫁のことが大事なのか。
自分の部屋に戻って制服に着替える。肩周りが少しきつくなったような気がする。入学したばかりのころは、だぼっとしていた。それでもしっくりくるようになったのは一年の後半からだった。
成長期か。
着れていた服が着れなくなっていく。
「どんどんと変わっていく」
口に出してみると途端に実感する。戻れないことを思い出す。
「水、急にして月を流さず」
自分に言い聞かせる。前に読んだ本に書いてあった。水の勢いに水面に映った月影は流れない。簡単に言えば流れに巻き込まれるな。変わることを恐れるな。
もう一度口に出して、鞄を持って部屋を出た。
数学の授業中、隣のクラスの学級委員が呼びに来た。その途端、静かに授業をしていた生徒たちが動き出す。委員長の二村菜摘が、鍵を閉めるから早く~、と急かす。なんだか変な光景だ。
悠馬も隠して読んでいた源氏物語の“若紫”に、菫の押し花の栞を挟む。
合唱コンクールが迫ると、こうして授業中にも体育館で何分か練習する機会が増える。本番は市内にある公会堂のホールを使うことになっていて、体育館での練習は声を広域に響かせる練習も兼ねる。同時にパート同士のハーモニーを調整する。
というのは悠馬もわかってはいるものの、こんなことに熱を注ぎたくない。単に練習がかったるいだけだ。歌うことは嫌いじゃない。でもこうして強制されて歌うのは好きじゃない。同じ文字を追うなら本の方がいい。
「音量は大丈夫。でもちょっといい?」
音楽の先生がストップをかける。
内容はソプラノとアルトが少しずれているとのこと。一度、どうすればいいかクラスで話し合ってと指摘された。
「せんせー、それって女子だけで話せばいいことないー?」
男子の一人が手を上げて言ったが、音楽の先生は「男子も関係ないことよ」と返した。
男子たちは女子のせいで時間が潰れると口々に言い、女子たちはソプラノとアルトで互いが悪いと言っているのが聞こえた。
みんな身勝手だ。そんな中、愛衣は少し悲しそうに眉を寄せているのが見えた。
目が合いそうになって視線を逸らす。ふと、上段にいる土川隆が悠馬と同じ方を見ているのが垣間見えた。その先を見ると、愛衣がいた。
「はい、D組の練習はここまで。次のクラスを呼んできて」
学級委員町の二村菜摘が「呼んできます」と走って体育館を出て行った。その後を、のろのろと授業に戻りたくないと呟く生徒たちが続く。
体育館シューズを上履きと履き替えるときだった。いつも愛衣にひっついている女子生徒が、半ば走りながら体育館を飛び出していった。足音がいかにもいらいらしています、と語っていた。ふと視線を館内に戻して、納得した。愛衣が隆と話していたのが見えたのだ。
その後、愛衣と隆はそろって教室に戻ってきた。
仲、良かったっけ?
手にした“若紫”に挟んだ、菫の栞は開けなかった。
§
音楽の先生から、ソプラノとアルトにずれがあると指摘があった。前から違和感があると思っていたけれど、本番直前になってのこの指摘は、さすがに堪えるものがあった。
視線をそらして麻美を探す。麻美は既に体育館の入り口で上履きに履き替えていた。顔が不機嫌なのが遠目でもわかった。
入れ替わりに入ってきたクラスと交代して、体育館を出る。すっかり冷たくなった風が渡り廊下に入り込んでくる。
「一之瀬さんって声きれいだよね。合唱部よりも上手じゃない?」
気づかない間に隣にいたはずの麻美がいなくなって、代わりに
「そんなことないと思うけど」
「いやいや、現国の時の音読とか、俺いいなーって聞いてるし。いや、さすが文芸部」
「へぇ。ちゃんと授業聞いてるんだ」
「失礼な!」
今考えた口実なんじゃないかと思ってしまう。隆史は一年の頃から葉前は知っていたけれど、クラスも違ったからこうして話したことがない。気を許していない分、なにを話していいのかもわからない。
「あ、俺の指揮、どう?」
「どうって?」
「わかりにくいとかない?」
今回の指揮者は、いつの間にか彼に決まっていた。
「大丈夫だけど」
こうして話題を振ってくれるのは、正直助かった。一緒にいて話題がないのが、一番辛い。
そのとき複数の男子が冷やかすように隆史に喚声を浴びせていった。隆史も「うるせー」とは言ってたものの、まんざらでもないような顔をしていた。
靴を履き替えるタイミングで隆史から離れる。幸い、彼が追いかけてくることはなかった。
「つっちー、一之瀬さんとどうよ」
「どうってなんだよ」
「やー、さすが美男美女。傍から見てもお似合いだな」
「やめろって」
時々、そんな会話が聞こえてくるようになった。本人が聞こえるような距離で話すような内容じゃないと思う。図書室から借りてきたビアトリクス・ポターの『ピーターラビット』の英語版を開いた。喧噪から逃れるには、頭をいやというほど使ってシャットダウンするしかない。簡単な英語で書かれている『ピーターラビット』は、ちょうどよかった。
§
「いよいよ明日だねー、合唱コンクール」
「そうだね」
風夏の言うとおり、合唱コンクールが明日に迫った。合唱の出来はその都度異なるから明日のコンディションに賭けるしかない。
「勝負しよっか? どっちのクラスが順位が低いか」
「そこは勝つんじゃないのね?」
「だってそれじゃあフツーだもん。そんなんじゃつまんないでしょ?」
「まぁ……そうだね。あのクラスの協調性で勝つ自信ないし、勝ったら勝ったであのクオリティーだからそんなに嬉しくないかも」
「愛衣ちゃん言うねー」
「風ちゃんこそ」
風夏はいつもそうだ。普通を愛してない。部長の彼女が変わったことが好きなおかげで、文芸部に退屈がない。
体育館横を通ったとき、中からボールをつく音が聞こえてきた。
誰か残っているのかな。
愛衣と風夏がこっそり中を覗く。早河優香がバスケットゴールに向かって、レイアップシュートを決めていた。
綺麗にジャンプして、ボールをゴールに入れ込む。ボールは優香の手で踊らされてゴールに吸い込まれる。何回も、何回も、優香はレイアップシュートを続けていた。
風夏が何気なく呟く。
「
「うん、そうだね」
優香は二人に気づくことなく、シュート練習をやめることはなかった。愛衣と風夏はそっと体育館を離れた。
学校の敷地を出て風夏と別れてから、愛衣は家に向かいかけた足を、再び体育館に運んだ。
まだドリブルの音が聞こえてくる。一つだけ、でもしっかりと。
体育館の入り口に愛衣が立っても、優香は気づいてない。
「おつかれさま」
「えっ、」
声をかけると、優香は変な声を出して愛衣の方を見た。手からボールが離れて、てんっ、てんっ、と床を転がる。
「い、一之瀬ちゃん……」
優香の顔が一気に真っ赤になった。バスケットボールが愛衣の足下にまで転がってきて、拾い上げる。ゴムの匂いがいっそう強くなった。チェストパスで優香に投げると、勢いが足りなかったようで、優香に届く前に床に落ちて跳ねた。
「こんな遅くまで練習してるんだね」
「うん。っていっても、もう引退してるんだけどね。でも、体動かしてないと、なんかダメで」
「そっか」
優香と一対一で話すのはこれで二度目になる。正面から向き合うと優香は顔が小さくてショートカットがよく似合っている。前、愛衣が生理になったときにもあったみたいに人当たりがとてもいいから、男女問わず人気がある。
「でも早河さん、バスケしてるときすごく楽しそう」
「そう?」
「少なくとも合唱の練習してるときよりも楽しそうに見える」
「えぇぇ?」と優香はまた頬を赤くして、両手で頬を隠した。麻美がよくやってるけど、優香の方が可愛く見えた。教室では明るく活発な優香も、こうしてみると委員長の菜摘よりも可愛いのではないかと思う。
「明日だね、合唱コンクール」
「そうだね」
「早河さんは、勝てると思う?」
愛衣の問いに、優香はうーんとドリブルしながらくるりとその場で回って見せた。
「どうだろう。なんかクラスがギスギスしてて、早く終わってほしいとこかな」
あっさりした言い方だった。優香がそんなふうに思っていることに意外さを覚えた。もっと、気合いが入っている方だと勝手に思っていたからだ。
「1on1、やってみる?」
今度は愛衣が驚く番だった。
「でも、私、制服っ」
「いいっていいって。軽くだから」
優香がチェストパスを繰り出して、愛衣の胸にボールが飛び込んでくる。思わず受け取ってしまってから、まぁいいか、と優香にボールを返した。
制服のスカートが、ふわりと広がった。
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